愛犬ゴンと家族の物語その一

高瀬 甚太

    一

 小さな足音が追いかけてくるような気がして、三益聡子はペダルから足を下ろして背後を振り返った。灯りの少ない道路に夜のしじまが降り注いでいる。時折、通り抜ける車のライトが道路を浮かびあがらせるが、何もない。気のせいかと思って自転車を走らせようとした時、ペダルの先に気配を感じ、聡子は小さな叫び声を上げた。つい最近、この周辺で幽霊を見たと言う話を聞いたばかりである。
 「クゥ~ン、クゥ~ン」
 泣き声を聞いて、恐々足元を見ると、小さな、本当に小さな物体がペダルの先にしがみついているのが見えた。さらによく見ると、それが生まれて間もない子犬であることがわかった。
 周囲を見回すが、人家などまるでない場所である。海沿いの道に松の木が防風林代わりに立ち並んでいる。聡子は子犬を拾い上げ掌で包んだ。それほど大きくない聡子の手に乗せられるほど、その犬は小さかった。愛らしい黒々とした目を聡子に向け、自分を包む聡子の手を小さな舌でなめ尽くす。太い足、コロコロとした体は、仕事に疲れた聡子の気分を一瞬のうちに癒してくれた。
 エプロンの前ポケットに子犬を入れると、すっぽりと収まってしまい、エプロンから時々、子犬は顔を覗かせてじっと前方を眺めていた。
 聡子は、家に近づいたところで、一度、子犬の頭をそっと撫でた。子犬はお返しとばかりに聡子の手をペロペロと舐め、エプロンのポケットから這い出そうとした。
 捨て犬であることはすぐにわかった。血統のいい犬でもない、単なる雑種である。だが、可愛い目と小さな体は、そんなことなどまるで感じさせないほど愛らしかった。
一体、どこから自分の跡をつけてきたのだろうか、見当がつかなかった。ずいぶん前から追いかけて来ていたような気がするし、なぜ、自分を追いかけてきたのかさえもわからなかった。
 家に戻ってドアを開け、聡子が「ただいま」と帰宅を告げると、下の息子の敦が飛んできた。敦を追いかけるようにして長男の忠がやってくる。二人共、聡子の帰りを待ちわびていたのだ。
敦は三歳で、忠は五歳、もう一人、聡子の母親が一緒に住んでいる。この間まで五人家族だったが、今は四人だ。聡子の夫である秀忠は半年前、突然、姿をくらまし、行方不明になっている。
 幼い子供たちの出迎えに聡子はにこやかな笑顔を浮かべながら、エプロンのポケットからゆっくり子犬を取り出すと、二人の前にポンと置いた。
 目の前に置かれた子犬を見て、二人の子供は一瞬、キョトンとした表情で眺めていたが、やがて子犬が部屋の中を駆けはじめると、敦が歓声を上げてその子犬を追い始めた。
 聡子の夫、秀忠が役所に勤務する女性と駆け落ちしたという噂を聡子はずいぶん前に耳にしている。小さな町のことだ。そんなニュースはあっという間に駆け巡る。夫に逃げられたかわいそうな女性というレッテルを貼られた聡子は、行く先々で好奇の目で見られた。
 夫の出奔と同時に、聡子はかまぼこを製造する老舗の店で働き始めた。朝早くから夕方まで、製造、販売に追われる仕事に就き、一日も休まず働く聡子を見て、健気だと思う人もおれば、夫をあきらめたのだなと思う人もいた。
 「どうしたんだい。この子犬」
 敦が追いかける子犬を見て、寝床から起き上がって来た聡子の母の市江が聞いた。
 「拾ったのよ。自転車で走っていたら、うちの後をつけて来て。可愛いから拾って連れてきたの」
 市江は動物があまり好きではなかった。
 「秀忠さんが逃げて、この子犬が代わりに帰って来たのかい。難儀なことじゃのう」
 秀忠が家を飛び出した責任を聡子にあると言って聞かない市江は、秀忠が家出をして以来、ことあるごとに聡子に嫌味を言った。秀忠の母ならともかく、実母である市江が嫌味を言う気持ちが聡子にはわからなかった。
 早朝に家を出る聡子は、午前四時に目を覚まし、子供たちと母親の朝食と昼食の支度をし、午後八時に帰宅してすぐに夕食の準備を始める。勤め始めて最初の頃は、母親が一日中家にいないことに不満を洩らし、夕食が遅くなることに文句を言っていた二人の息子も、事情がわかって来たのか、最近では口や態度に出して、文句を言わなくなっている。
 そんな二人のために、この子犬は母親の不在を癒してくれるはずだ。聡子はそう信じて疑わなかった。

    二

 聡子の住まいは平屋の小さな一軒家であった。製塩跡地に建てられた市営住宅を買い上げたもので、金額は驚くほど安かった。ただ築三十五年と古く、かなりの修理を必要としたが、それでも、三間あり、台所、風呂、トイレと揃っているので住む分には不自由しなかった。しかも小さいが庭もあり、花や木を植えることが出来、物干し台も備え付けることが出来た。
 夫である秀忠はずいぶん器用なところがあって、ブロックを使って作った塀や物干し台、風呂の作り替え、塗り替え、屋根の修理に至るまで、すべて業者に頼まず自分の手で行った。聡子は、そんな秀忠を常に自慢の種にし、気の弱いところこそあるが、ハンサムで真面目な夫の存在に満足していた。
子供にもやさしく、自分に対しても愛情あふれる態度で接してくれた夫が仕事に出かけると言って家を出たきり行方不明になったのは昭和四十三年の年が明けてまだ日の浅い時期だった。
 聡子は、夫が事故に遭ったのではと心配し、あるいは事件に巻き込まれたのではと危惧し、警察に、夫の消息を追ってもらうよう日参した。だが、警察は憶測では動いてくれない。聡子は、心当たりのある場所を必死になって探し回るが、どれだけ探し回っても何の手がかりも得られなかった。
そのうち、聡子は嫌な噂を耳にするようになった。夫が役所で働く三十過ぎの広川早苗という女性と駆け落ちをしたという噂だ。噂の出所は役所で働く笠間という男性職員で、笠間は、その一部始終を周囲の人たちにこう語っている。
 「広川が無断欠勤したので、家に電話をかけると早苗の夫が出て、『女房はいつもと同じ時間に家を出て、役所へ行きましたが』と言う。ところが早苗は一向に姿を見せない。事故にでもあったのではと心配をしたが、そういったニュースも伝わって来ない。夜になって、早苗の夫が警察に駆け込み、『女房が行方不明になった』と大騒ぎをして初めて早苗の失踪が明らかになった。駅前で客待ちをしているタクシーの運転手が、『広川さんなら、駅前までタクシーに乗せた』と警察に届け出をしたことで、事件の可能性こそ薄まったが、早苗の行方は相変わらず不明のままだった。そんな時、「三益さんのご主人が早苗と一緒に大阪行きの特急に乗るのを目撃した」という人物が現れた。誰もがまさかと思った。それほど意外な二人だった。
 三益秀忠は、温泉街のホテルの従業員で事務を担当している。実直で寡黙な人として信頼され、浮気などとは縁の遠い人物だった。それは広川早苗も同様で、彼女には七歳を筆頭に三人の子供がいたし、浮気などするようなタイプの人間ではない。その二人が間違っても駆け落ちなどするはずがない。たまたま居合わせたのだろうということになった。
 ところが、その後も三益と早苗の行方知れずの状態が続いたことから大騒動になった。間違いなく二人は駆け落ちをした。先導したのは三益だということになり、早苗の旦那が、怒り心頭で三益の家に怒鳴り込み、三益の奥さんを責め立てるなどして、狭い町はその話で持ちきりになった。今では二人の駆け落ちは周知の事実だ。子供だって知っていることだ。
 それが半年前のことだ。以来、聡子の夫、秀忠の行方は杳として知れない。
 だが、世間の人がどう言おうが、聡子だけは秀忠を信じていた。秀忠はこれまで一度たりとも浮気の影など見せていない。ましてや駆け落ちの相手と言われる広川早苗は、三人の子持ちで、身持ちの固い人間と聞いている。何かの間違いだ。聡子はそう信じて秀忠の帰りを根気よく待った。

    三

 拾ってきた子犬の名前を「ゴン」と付けた。命名者は下の息子の敦だ。上の息子の忠は、犬が苦手のようで、敦がゴンとじゃれるのをいつも遠くから眺めていた。
 生まれてそれほど日が経っていないゴンは、好奇心が旺盛なのかジッとしていない。敦と一緒に狭い部屋の中を走り回っては、そのたびに、「静かにしなさい!」と祖母の市江に怒鳴られていた。
 聡子の両の掌にすっぽり収まってしまいそうなほどに小さなゴンは、敦とじゃれながら時折、思い付いたように聡子のそばに来て、聡子の割烹着の匂いを嗅いだ。ゴンにとって、聡子の割烹着のポケットが母の胎内のようなものだったのだろう。そんなゴンの頭を聡子が撫でると、ゴンは目を細め、愛しげな眼差しで聡子を見た。
 忠は、ゴンが近づいてくると逃げた。
 「兄ちゃん、こんな小さな犬でもあかんの?」
 敦が不思議そうな顔をして忠に聞いた。
 「犬、大嫌いや。ゴン、あっちへ行け」
 二歳の頃に、親戚の叔母の家で、飼い犬に手を噛まれた経験のある忠は、それ以来、強烈な犬恐怖症に陥っている。忠だけではない。市江も同様に犬が好きではない。しかし、ゴンはそんなことなどお構いなしに、忠にじゃれ付き、市江に甘えるしぐさを見せる。
 「この犬、ほんま、どもならんわ」
 ゴンを抱き上げて市江が頬ずりをする。それを見て、聡子が驚く。
 「おばあちゃん、犬、嫌いだったん違うの?」
 抱き上げたゴンにキスをしながら市江が言う。
 「嫌いや。ゴン以外の犬は嫌いや」
 市江の皺だらけの頬をゴンがペロペロなめる。市江が相好を崩す。笑い声が起きる。市江が笑うなんていつ以来だろう。夫の秀忠が家を出て以来、家の中に笑いはなくなった。それなのに市江も敦も笑顔を隠さない。もしかしたらこの犬は、神様の使いなのかも知れない。ゴンを眺めながら聡子はそう思った。
 鶏の声が耳をつんざく。近所で飼っている鶏は朝が早い。五時を過ぎると必ず第一声を上げる。時計より正確だ。その鶏の声に呼応するように叫び声が上がった。忠の声だ。
 「どないしたん? 朝から大きな声を上げて」
 聡子が諌めると、忠は布団の中を指さして、
 「ゴンが、ゴンが」
 と呪文のように叫ぶ。
 聡子が忠の布団を開けると、ゴンが布団の中で丸くなって眠っていた。
 「ぼくが寝ている間に布団の中に入って来たんや。お母ちゃん、ゴン、何とかして」
 聡子がゴンを手に取ろうとすると、その瞬間、目を覚ましたゴンが忠に飛びつく。仰向けになった忠の顔をゴンがペロペロ舐めると、忠が「ワーッ」と絶叫して逃げる。ゴンがそれを追いかける。市江が怒鳴る。
 「朝から何をバタバタしてんのや!」
 三益家は朝から大騒ぎだ。

    四

 父親がいなくなって三益家は火の車になった。給料の入らない日が半年も続くと、どうしようもない。聡子が働き始めたが、聡子の稼ぐお金なんてたかが知れている。貯金が底をつくのも時間の問題だった。
 今まで働いたことのなかった聡子は、一日中、立ちっぱなしで仕事をするため膝と腰を悪くした。それでも仕事を休むわけにはいかなかった。一時は深い絶望感にも見舞われたが、そんな聡子を救ったのがやんちゃなゴンの存在だった。
 掌に収まりそうなほど小さいゴンは、聡子が仕事から帰ってぐったりしていると、いつもそばにやって来て、聡子の膝の上に乗って聡子を仰ぐようにして見た。聡子が頭を撫でてやると、ゴンは目を細め、ジッと座っている。
「 ゴン、お父さんはいつ帰って来てくれるやろか。お母さんはお父さんがいないと寂しいよ」
 聡子がひとり言のように言うと、ゴンは決まって聡子の掌をペロペロと舐めた。ゴン流の慰め方なのだろうか、ゴンに掌を舐められるとくすぐったくてつい笑ってしまう。笑うと、絶望感に打ちひしがれていることが馬鹿のように思え、頑張ろうという気持ちになってくる。
 忠だってそうだ。犬嫌いで、ゴンが近づくと走って逃げていたのに、三日も経てば大の仲良しになっている。ゴンは、眠るとき、誰のところにもいかず、必ず忠の布団にもぐりこむ。寝相の悪い忠が布団を蹴とばすと、ゴンは寝ている忠のお腹に頭突きをかまし、忠が起きないとみると、布団を口にくわえて忠に被せる。小さいけれど、ゴンは力が強い。
 朝は、ゴンが一番早くに起きだ。ゴンは目覚めるとすぐに忠を起こす。忠が嫌がって起きるのを渋っていると、ゴンは布団の中へ潜って、忠の尻を噛む。ゴンは忠を自分の家来のように思っている節があった。敦に対してはそうでもないのに、どうして忠にだけそうなのか。不思議だが、犬には弱い者を見つける嗅覚があるらしい。
 敦は、懸命にゴンにしつけをしようと躍起になっていた。「お座り」、「お手」とやるが、なかなか覚えようとしない。ところが、聡子が同じことをすると、従順な態度で座り、しっかりとお手をする。
 忠にはハナからしつけようなどという気がない。以前、忠がゴンに対して「お座り」を命じたところ、ゴンはなめきったような態度で寝ころがり、知らぬ顔をしてみせた。以来、忠はゴンのしつけをあきらめて放棄した。
 ゴンが三益家の一員になって以来、三益家は笑顔の絶えない家になった。父親が家を出て行方不明だというのに、この明るさはどうしたことかと、近所の人が心配をして見回りに来たが、しばらくゴンと一緒にいると、訪れた近所の人もゴンに癒され、笑いながら三益家を後にした。

    五

 同じ町内にある夫の実家へ、聡子は秀忠から連絡が来ていないかどうか確かめるために、月に一度か二度、出向いた。
 秀忠の実家には秀忠の両親が住み、秀忠の兄夫婦と子供たちが住んでいた。聡子は秀忠の実家と折り合いが悪く、普段から付き合いらしい付き合いをして来なかった。それというのも聡子が行くと、途端に両親の機嫌が悪くなり、けんもほろろの対応しかしてくれない。そのため、敷居が高くなって足が遠のき、どうしても行かなければならない時だけしか足を運ばなくなった。
 聡子の実家と秀忠の実家は昔から犬猿の仲で、今に至っても聡子の実家は秀忠の実家とまったく付き合いがない。そもそもの原因が何かということさえ、今ではもう両家の誰も知っていない。それなのに、犬猿の仲は変わることなく続いている。
 聡子と秀忠が結婚をする時、町を挙げての大騒ぎになった。当然のことのように両家は反対した。おまけに聡子の妊娠が発覚し、さらに騒ぎが大きくなった。
 実家を追い出された聡子は、秀忠を頼るが、秀忠もまた実家の怒りを買って幽閉され、家から一歩も出ることができなかった。困った聡子は、友人を頼ろうとするが、狭い田舎町である。片方の家に加担すれば、片方の家と断絶する、それを嫌がって誰も聡子を助けようとしなかった。
 出産まで半年と、日が迫っていた。焦った聡子は、秀忠の幼馴染の田中洋一郎に助けを求めた。田中は、両家との関係から、家に入れることは難しいが、牛小屋ならどうにか貸せると言って、聡子を牛小屋に案内した。
 牛小屋と聞いて、ガッカリした聡子だったが、仕方なく田中の後に従った。
 「ここはどうだ? 少し改装すれば何とか住める」
 牛小屋の中に、牛の食糧である藁を束ねて置いてある一室があった。藁を除けて改装すれば何とかいけそうだ、と聡子は思った。幸い、豆電球だが、電気もある。広さも申し分なかった。
 「ここなら、三益の家にも正田(聡子の実家)にも文句は言われない。何せ牛小屋だからな」
 そう言って田中は笑った。聡子は、田中に礼を言い、改装することの許しを得た。
 昭和二十三年当時で十万円のお金を費やして、聡子は子供を産むための部屋に改造した。その甲斐あって、聡子は無事、忠を出産することができた。
子供が誕生したことで、秀忠の実家は二人の結婚を許さざるを得なくなった。正田の家も同様であった。こうして秀忠と聡子は、生まれて間もない忠を抱いて結婚式を挙げることができた。
 両家の許しが出たことで、部屋を借りる障害はなくなった。聡子と秀忠は、忠を取り出した産婆の好意で、産婆の家の離れを借りて住むようになった。
 しかし、すべてのわだかまりが溶けて、めでたしめでたしの結婚生活ではなかった。結婚後、聡子は長い間、秀忠の実家の敷居をまたぐことを許されず、自分の実家ですらそうであった。ようやく両方の実家を行き来できるようになったのは、結婚して三年目、二人目の敦が生まれてからのことであった。
子 煩悩な秀忠は、時間を見つけては子供たちと遊びに出かけた。海に行ったり、川に出かけたり、時には山へ行くこともあった。聡子との仲は、さまざまな障害を乗り越えてきたことでその絆が深まり、人もうらやむようなオシドリ夫婦として、近所では有名になっていた。
 やさしいだけが取り柄の秀忠であったが、聡子は、そのやさしさを何よりも大切に思っていた。やさしさと思いやりがセットになって、深い愛情に変わる。聡子は幸せを感じていた。その秀忠が、自分の元を去り、行方不明になるなど、半年前には想像もできないことだった。
 何かの間違いだ。秀忠は事件に巻き込まれたに違いない――。聡子は、その思いを日に日に強くしていた。
<つづく>


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