愛と幸福の妄想列車
高瀬甚太
仕事が一段落すると、決まって旅に出たくなる。特に気候のいい時期は心が逸る。矢も楯もたまらなくなり、列車に飛び乗って――、そんなことがこれまでも何度かあった。目的のない旅といえば聞こえはいいが、無計画な旅だから時々、とんでもない目に遭ってしまう。
二年前のことだ。長期に亘った仕事が完成し、解放感に浸った私は、所要で京都へ行き、京都駅に降り立ったところで急に旅を思いついた。どこへ行くか、何日行くのか、どこへ泊まるか、お金はあるのか――、何も考えずに乗ったのが鳥取行きの特急列車「スーパーはくと」だった。
京都駅から鳥取駅まで2時間30分。自由席に座席を取るとすぐに眠りに就いた。
旅行に必要なものは何も携帯していなかった。原稿とノートパソコンを入れたバッグ一つ、服装もブレザーにポロシャツ、秋から冬に向かう今の季節にふさわしいものとはいえなかった。
車内は七分か六分の入りで、空席が多いように感じた。途中で乗車する客が多いとは思ったが、出発時点では、私の隣は空席だった。
気が付くと40分が経過していた。隣を見るといつの間に乗車したのか、老人が座っていた。
窓の外を景色が流れて行く。山また山が飛び去るようにして流れて行く。ここはどこだろう。景色を見てもまるで見当が付かなかった。
「どこまで行かれるのですか?」
寝ているとばかり思っていた隣の老人が私に聞いた。
「鳥取へ行こうと思っています」
と答えると、老人は温かな笑みを湛えて、
「鳥取はいいところですよ」
と言った。その言葉を聞いて、この老人は鳥取へ帰郷するところなのだな、と勝手に解釈した。
仕立てのいいスーツを着た老人で、縁なしメガネがよく似合っていた。品のいい白髪交じりの口髭が老人の年齢を表し、目元に刻む皺が老人の人生を物語っているように見えた。
「鳥取は私の故郷なんです……」
老人は一人語りのように、視線を宙に向けて話し始めた。
――中学まで鳥取市内に住んでいました。家庭の事情で高校進学を断念し、単身、大阪へ出ました。その時のことを昨日のように覚えています。荷物は下着を詰め込んだボストンバッグのみ、お金は母が用立ててくれた千円札三枚、予め就職先は決めていたものの、不安で仕方がありませんでした」
独特の老人の話し口調に惹かれた私は、耳をそばだてて、じっと聞き入った。
「大阪の東淀川区の印刷工場に入社した私の仕事は、来る日も来る日もシリンダーという銅版を磨くだけの毎日でした。午前8時半に始業して、午後8時まで終日、単調なその仕事を続けて、寮に帰って風呂に入ると後は眠るだけ、そんな生活を三カ月ほど続けた時、同じ部屋に住む二歳年上の柏木総一郎という同僚に誘われました。一緒に会社を辞めて、もっと割りのいいところへ行かないか、というのです。そんなところがあるのか、と聞くと、柏木は、夜の商売に関われば学歴なんかに関係なく、もっと高い給料がもらえると言うのです。夜の商売と聞いても、ピンとこなかった私は、どんな仕事をするのかと聞きました。柏木は、アルバイトサロンのボーイだと言い、夜5時から深夜12時まで働いて、今の給料の三倍はもらえると自慢げに語りました。興味がなくもなかったのですが、私はその仕事を断り、相変わらずシリンダーを磨く仕事を続けました。
同僚は予定通り会社を退職し、寮を出る時、私に、「会社をクビになったら来いよ」と言って、連絡先を書いたメモをくれました。場所は十三でした。
半年目に社内の異動があり、私の指導にあたっていた村上儀一という三歳上の寮の先輩が主任になり、主任だった山田幸一が同じ製版課の違う部署に異動し、そこで係長になりました。最近では珍しい大異動と言われていましたが、私は相変わらずシリンダーを磨き続けていました。
変化がないと退屈なものです。一年近くになると、何となく無気力になり、よくミスを犯すようになりました。一年が過ぎたところで、私は柏木に連絡を取りました。柏木が働くアルバイトサロンに電話がつながり、「柏木さん、いらっしゃいましたらお願いします」と伝えると、「柏木?」と考えるようにして言った後、『ああ、ボーイの柏木か、ちょっと待ってろ』、と言った後、しばらくして、『もしもし』と柏木の声が聞こえました。私は、柏木に近いうちに会えませんかと打診した。柏木は少し時間を置いて『来週の月曜の夜だったらいい』と答え、『急いでいるから、また』と言って電話を切りました。
私は転職を真剣に考えていました。単調な仕事に飽きが来ていたのと、給料の低さにも我慢ができなくなっていたのです。それで同じ寮にいた柏木のことを思い出したのです。でも、そんな私の迷いに気が付いた主任の村上が、ある日、仕事を終えた後、私を食事に誘いました。
「何か、悩みあんのか?」
会社の近くにある小さなレストランの席に座った村上は、開口一番、私に聞きました。
「い、いえ、別にありません」
出来上がったばかりのハンバーグライスを前にして私は答えました。村上は、私の答えが不満だったようで、私の目をみつめて、「そうか……」とつぶやくように言いました。
昭和三十年代は高度経済成長期にあたり、三種の神器と呼ばれた洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの電化製品が普及した時代です。アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれたり、日本全体に活気がありました。幼いながら私にも、こんなことをしていていいのだろうか、という焦りにも似た気持ちがありました。
その日、村上はそれ以上のことを口にしませんでした。ハンバーグステーキを食べた私に、「おいしかったか?」と聞き、「おいしかったです」と答えると、満足した表情を浮かべ、「今度、おれ、グループサウンズの歌、聞きに行くねん」とグループサウンズの解説をしてくれました。村上は、タイガースというグループのファンでした。
月曜日、私は仕事を終えると服を着替え、十三に向かいました。柏木の働くアルバイトサロン「美代ちゃん」は、駅のすぐ近くにありました。派手なネオンに圧倒された私は、しばらく店の前で立ち尽くし、シリンダーを磨くだけの日々とは違う、変化に富んだ日常を想像して気持ちを高ぶらせていました
「おう、久しぶりやな」
真っ赤なジャンパーを着た柏木がいつの間にか私の背後に立っていました。短髪だった髪の毛もオールバックにし、わずかな間に大人になったような気がしました。
「大人っぽくなったね」
と憧れの視線を送ると、柏木は、ポケットから煙草を取り出し、口にくわえてマッチ棒で火を点けました。その動作が決まっていて、私はますます柏木の仕事に興味を持ちました。
柏木は私を近くの食堂に連れて行き、ビールを頼んだ後、
「何でも好きなものを頼めや」
と鷹揚に言いました。私が親子丼を頼むと、「それじゃ、足らんやろ」と言って、うどんを追加してくれ、自分はビールを呑むばかりで食事をしようとしませんでした。
「ところで、用は何や?」
と柏木が聞くので、
「仕事、変わりたいと思うてるんです」
と私は答えました。柏木が働いている職場で働きたいと思ってと言ったつもりでしたが、柏木はビールを一口呑んで、
「やめとけ、やめとけ」
と諭すように言います。以前は誘ってくれたのに、今はなぜ、拒否するのか、気になって柏木に聞きました。
「会社を辞めるのがどうしていけないのですか?」
柏木は、グラスをテーブルに置くと、
「おれを見てどない思う?」
と聞きます。
「恰好いいです」
と答えると、柏木は苦笑して、「見かけだけや」と答えました。
水商売の世界は、結構厳しいと柏木は答え、一見、派手にみえるけれど、そうでもないと言い、給料は確かにいいけれど、金は残らないと柏木は笑って言いました。
柏木の言っている意味が、水商売の世界を経験したことのない私にはわかりませんでしたが、彼が言下に、私を自分の店に誘いたくないのだということだけはわかりました。
食堂を出た私たち二人は、駅まで送って行くと言う柏木と共に駅に向かいました。ネオンの光が鮮やかで華やかで、私はもう一度、柏木に、何とかお願いできないか、と口に出かけましたが、その時、前方からぞろぞろと道の真ん中を歩いてくる柄の悪そうな集団に出会い、思わず緊張し、言葉を飲み込みました。
柏木は、ピタッと立ち止まると、先頭を歩く、白いスーツに身を包んだ男性に、深く一礼しました。
「頭、おはようございます」
柏木が言うと、白いスーツの男性は柏木に視線をやり、
「おう」とだけ言いました。その背後や横に付いていた強面の男たち数人は、柏木を見て、
「柏木、明日は事務所に詰めろや」
と言い、柏木は、また深く一礼をして、「へい」と返事をしました。
駅まで来たところで、柏木が私に言いました。
「おまえはおれと違う道をすすめ、ええな。わかったらもう電話をかけてくるな」
柏木が私の肩に手を置いてそう言いました。その手のぬくもりを感じながら、私は、「はい」と返事をして、柏木と別れました。
転職をあきらめた私は、再びシリンダーを磨く仕事に従事しました。二年経ってもそれは変わらず、村上は違う部署に移り、主任として活躍しているのに、私は相変わらず、来る日も来る日もシリンダーを磨くだけの日々を送っていました――。
「退屈ですか?」
老人に聞かれた私は、ハッとして、「いいえ」と慌てて答えた。
「退屈だとは思いますが、もう少しだけ聞いてください」
老人はそう言うと、ペットボトルを口にして喉を潤し、「はぁ」と小さく息を吐いた。
――転機が訪れたのは三年目の春です。会社の業績が悪化し、倒産の危機に陥った会社は、百名余いる社員のリストラにかかり、三〇名ほどがリストラの対象になりました。奇妙なことに、私の最初の上司だった山田も村上もリストラ対象者としてリストアップされたのに、私の名前はその中に入っていませんでした。その村上が私の元へやって来て、私に言いました。
「山田さんの上司の立花部長が新会社を興すらしい。おれも山田さんも誘われているんだが、おまえも来るんだったら言ってやってもいいぞ」
私は一瞬、動揺しましたが、結局、丁重に村上の誘いを断りました。理由はありません。何となく一緒に行かない方がいい、そう思ったからでした。
立花部長が興した会社は、二年後に多額の負債を抱えて倒産しました。同時にその時期、私はニュースで柏木の死を知りました。暴力団抗争で、鉄砲玉となった柏木は返り討ちに遭い、拳銃数発を胸に受けて即死だったと、ニュースは報じました。アルバイトサロンに務めていたはずの柏木がなぜ、と思いましたが、その晩、私は彼の冥福を祈って泣きました。
五年目に入ると、さすがにシリンダーから解放され、私の下に二名ほど部下が付きました。主任という肩書こそありませんでしたが、私は単調な仕事から解放された喜びに浸り、秘かに喜んでおりました。しかし、会社の倒産危機はずっと続いており、リストラはなかったものの、社内の活気は失われたままで、転職を考える者や退職する者が後を絶ちませんでした。
そんな中で私もさまざまなことを考えていました。退職して転職するか、それとも独立するか……。二十歳を超えて間もない私に何ができましょう。 転職するにしても中卒で学歴がありませんし、五年働いたとはいえ、シリンダー磨きの技術ではどこにも雇ってもらえません。独立など考えるだけ無駄でした。
寮生活が続いていました。寮に住めば食と住は多少の金額で済みますが、部屋を借りるとそういうわけには行きません。私はお金を貯めて、来たるべき時に備えなければなりませんでした。
二二歳の年、とうとう私は退職を決意しなければならなくなりました。リストラ対象に上がってしまったのです。猶予は二カ月でした。私は悩みました。田舎へ戻るか、それとも大阪で働くか、しかし、田舎へ帰ることはできませんでした。母が再婚し、義父の連れ子がいるなどして、実家には私の居場所がありませんし、母も私に帰って来いとは一言も言いませんでした。
途方に暮れた私は、ともかく寮を出なければいけないと思い、豊中市の庄内という町でアパートを借りました。四畳半一間のみのただ寝るだけの部屋でしたから家賃は安く済みました。仕事を探そうと思い、製造工場専門に面接を受けた結果、ようやく、今里にある鋳造工場で働くことが決まりました――。
面白くもなんともない話だったが、私は不思議と聞き入っていた。それにしても先ほどから窓外の景色が殆ど変わらない。山また山の繰り返しで単調な風景が続く。時計を見ると、ずいぶん経ったような気がするのにまだ1時間も経過していなかった。
老人の話はまだまだ続きそうだった。
――今里へ通い始めて、通勤するようになった私は、阪急電車で梅田へ行き、大阪駅から環状線に乗って鶴橋駅へ行き、そこから歩いて工場へ行く。時間にして1時間少しでしたが、ずっと会社の寮住まいだった私には変化があって楽しかった。始業時間は午前8時半、終業時間はだいたい7時前後、間に昼食時間が1時間ありました。また、残業で遅くなる時は、会社から夕食が出ましたし、給料も以前に比べて少しでしたがマシで、なんでもっと早く辞めなかったのかと後悔したほどでした。
二七歳になった年、見合い話が持ち上がりました。相手は、工場の近所にある乾物屋の娘で、紹介してくれたのは、昼休みによく行く喫茶店のママでした。
喫茶店のママは五十過ぎのいかにも世話好きといった印象のする女性で、私がカウンターで一人コーヒーを飲んでいるのを見て、「独身?」と聞いてきたので、「はい」と返事をしました。金属工場で働くようになってから、私は殆ど毎日のように喫茶店に顔を出していたのでママもよく覚えてくれていて、時折、話をするようになっていたので見合い話を持ちだしたのでしょう。
「いい娘おるんやけど、いっぺん会うてみいへん」
と言われたので、女性とまともに付き合ったことのなかった私は、少し、面食らいましたが、「会ってみます」と、即答しました。そろそろ結婚の必要を感じていたからです。
ママの喫茶店で休日の午後、見合いをしました。二九歳で出戻りと聞いていましたので会う前は少し心配していました。でも、私より少し遅れて入って来たその女性を見て、意外に普通なのに驚きました。顔は十人並み、スタイルもそう悪くありませんでした。年こそ二歳上でしたが、いい印象を抱きました。
見合い相手の女性、屋島栄子は、二六歳で見合い結婚をして、当初は順風満帆だったようですが、一年ほどして亭主のDVがひどくなり、三年間辛抱したが、家を出て離婚した、と私に話し、子供が一人います、と付け加えました。
バツイチはともかく、子供がいるというのはショックでした。それでも、栄子に好意を感じていた私は、しばらく栄子と付き合うことにしました。子供は三歳で可愛い盛りの女の子でした。半年付き合って、私は栄子との結婚を決めました。
会社の近くにアパートを借り、そこで親子三人で暮らすようになりました。子供はすぐに私になつき、私も子供を我が子のように可愛がりました。本当に幸せでした。
三十歳の年、二人目の子供ができましたので、少し広いところへ移りました。鋳造工場ではもうベテランの部類に入っていました。これも、シリンダー磨きの単調な仕事を何年も我慢して続けてきた成果なのでしょう。私は、鋳造工場でもみんなが驚く忍耐強さをみせ、次々と仕事を覚えて行きました――。
老人の話はなかなか終わりに近づかなかった。しかも相変わらず面白くない。だが、1時間半経つのに、風景は相変わらず変わっていない。しかも一度も停車していないのだ。どうしたんだろう。そんなことを考えていると、老人がまた、私に聞いた。
「面白くないでしょう。人の人生なんてそんなものですよ。でも、もう少しだけ聞いてください。もうすぐ終わりますから」
――平和でした。仕事も順調で、家族四人、本当に幸せに暮らしました。相変わらず貧乏でしたが、贅沢さえしなければ充分やって行くことができましたし、私はギャンブルも酒もタバコも何もやらず、ひたすら家族のためだけに働きました。
四十を少し過ぎた頃、私の母が亡くなり、義父と面識の薄い私は、いよいよ実家と縁遠くなりました。その代わり、栄子の実家と親しくなり、栄子の父母を実の両親のように思って付き合いました。
栄子は一人娘で、栄子の両親は私が四五歳の年、二人ともガンにかかり、栄子の父が亡くなった後、それを追いかけるようにして栄子の母も亡くなりました。二人が亡くなって驚いたのが遺産の多さです。
栄子の家は旧家で、家も広く、土地も100坪近くありました。何度か一緒に住んだらどうか、と言われておりましたが、気を遣って住むのもどうかと思い、ずっと断り続けてきましたが、両親のいない家をそのままにしておくわけにもいかず、栄子と話をして、住むことになりました。
栄子の母は、今里の商店街で親の代から乾物屋をやっていて、その土地と建物、そして、生命保険、両親の残した預金残高など、すべて合わせると二億を下りませんでした。
私は、栄子と話をして、両親のために最上級のお墓を建て、家のリフォームを行いました。栄子は、母に代わって乾物屋を継続して営業するようになり、私は相変わらず鋳物工場に勤めました。
定年退職まで私は鋳物工場で働きました。定年後も工場でずっと働かないかと誘われましたが、それは断りました。断って私は栄子の乾物屋を手伝いました。栄子の体調が思わしくなかったからです。
私より二歳上の栄子は、両親と同じガンで、六五歳でこの世を去りました。「ありがとう」の言葉を残して。
子供たちはそれぞれ独立し、孫も五人できています。広い家に一人で住むのは辛いから、一緒に住まないかと子供たちを誘いましたが、子供たちは子供たちで考えがあるらしく、誰もこの家には帰って来ません。
妻が亡くなって二十年。私も八十を超えました。そろそろお迎えが来る頃でしょう。この年になると、無性に田舎が恋しくなって、それで――。
長い老人の話が終わり、ホッとした私は、老人に断ってトイレに立った。客席は誰もが深い眠りに陥っているようだった。お喋りをするような人は誰もいない。トイレで用を済まし、席に戻ると老人がいなかった。入れ替わりにトイレにでも行ったのだろうと思い、私は窓外の景色に再び見入った。だが、やはり何の変化もなかった。
そのうち私は睡魔に襲われ、ウトウトと眠りに陥った。
目を覚ますと、窓外の景色が一変していた。そろそろ終着駅である鳥取駅が近づいているようだった。しかし、どこへ行ったのか、老人はまだ席に戻っていない。車掌が入って来たので確かめた。
「私の隣に座っていた客がまだ席に戻っていないのですが、私の眠っているうちに降りたのでしょうか?」
車掌は、「しばらくお待ちください」と言って手帳をチェックしていたが、顔を上げて私を見て、「その席はどなたも座っていませんが……」と言った。
「そんなはずはありませんよ。ずっと私に話を聞かせてくれていましたから」
と説明するが、車掌は、首を傾げ、
「おかしいですね。もしかしたら、どこか別の席に座っている方が、この席へ座られたのでしょうか」
と言いながら私の元を離れた。私は老人の顔をはっきりと覚えている。老人が話した内容もしっかり覚えている。それなのに――。
終点の鳥取駅で下車するまで、とうとう老人は帰って来なかった。ホームに降り立った私は、下車する人の中に老人がいないかと思って探してみた。 だが、老人を見つけることはできなかった。
ホームを歩きながら、ふと、気になって下車したばかりの「スーパーはくと」を見ると、私の座っていた席に人影が見えた。もしかしたら、と思い、近寄ると、先ほどの老人が座っていて、私に向かって手を振っているのが見えた。すでに列車は車庫に入る準備を始め、ドアが閉まり、動き出している。私は改札口に急ぎ、老人が車庫に入ろうとする電車に乗っていることを告げた。
駅員も慌ててホームに向かい、車庫へ向かう列車の運転手に停止を求めた。列車はすぐに停止した。車掌は急いで車内に入り、しばらくして怒りの表情で出てきた。
「どこにもいないじゃありませんか。人騒がせにもほどがあります」
――平謝りに謝って鳥取駅を出た私は、私が見たあの老人は何だったのだろうと考えた。ふと覗き見た他人の人生。私は、あの老人が霊界のものとはどうしても考えにくかった。淡々と喋り続けた澱みない口調には、生きているものにしか発せない幸福で平和な息吹があった。帰りの列車で、私は再びあの老人と遭遇するのだろうか。そんなことを考えながら鳥取砂丘へ向かうバスに乗った。
〈了〉