モミジ祭の日に
高瀬 甚太
どこの世界にも嫌われ者は存在する。誰でも受け入れる立ち呑みの店「えびす亭」にしてもそうだ。これまで何度か、出入り禁止になっている豆マサという呼び名の三十代の男がいる。色黒で茶髪、痩せぎすで目つきが悪い。いつも人を疑ってかかるような物言い、いない人の悪口を言う、そんな性分だから、えびす亭の面々はもとよりマスターにも嫌われている。
その男が豆マサと呼ばれているのは、愛称としてではなく、嫌われ者の称号としての意味合いが強い。正岡剛というのが男の本名で、最初のうちはマサと呼ばれていたが、男の性格が際立って来るに従って、嫌な男と言う意味合いを込めて豆マサと呼ばれるようになった。しかし、当の本人はそのことにまったく気付いておらず、自分が嫌われ者であるという自覚さえも薄かった。
えびす亭は秋になって涼しくなると、一週間ほどだが「もみじ祭り」というイベントを行うことが慣例になっている。どのようなイベントかというと、店内をもみじで飾り、もみじにちなんだ特別メニューを提供するという単純なものだが、これが至って好評で、毎年、この時期になると、普段はあまり足を運ばないような人までもが噂を聞きつけてやって来る。何が好評かというと、もみじをあしらったメニューの数々が好評なのだ。
立ち呑みの店であるから、酒の肴は簡単に早くできるものがほとんどだが、このイベントの一週間だけは、特別に手の込んだ料理が提供される。しかもそれが立ち呑み屋のメニューだから金額的にも安い。人気を呼ばないわけがなかった。
一年に数回、出入り禁止を通達される豆マサも、この時期が近づくと、どうにかして出入りを許してもらおうと、あれこれ画策してえびす亭に近づいてくる。六月に店で大暴れして追い出され、出入り禁止になって三カ月、そろそろいいだろうと思ってえびす亭の暖簾をくぐろうとしたが、マスターがそれを許さなかった。一度、出入り禁止になると、三カ月は出入りできないというのがえびす亭の通例だったが、豆マサだけは特別だったようで三カ月を経てもマスターは豆マサの出入りを許可しようとはしなかった。
前回、豆マサは店内で大暴れした。酔っての狼藉ではない。ほとんど素面の状態で暴れているから始末に負えない。豆マサが暴れた理由をマスターははっきりとは知っていなかった。気が付いたら暴れていたのだ。そして追い出した。それだけのことだった。豆マサはしきりに言い訳をしようとしたが、店で暴れて言い訳もないものだと思ったマスターは即刻、出入り禁止にした。
もみじ祭りが始まる二日前のことである。Y新聞の遊軍記者である渡瀬川洋がえびす亭を訪れた。渡瀬川は、えびす亭の「もみじ祭り」を取材したいとマスターに申し出た。
「取材は結構です。どうせ立ち呑み店です。大したことをやるわけではありませんから」
マスターが断ると、渡瀬川は、なおも取材に固執し、
「立ち呑み店だから取材したいのです。イベントだけを取り上げるわけではありません。えびす亭そのものを取り上げたいのです」
とマスターに食い下がった。
マスターは渡瀬川の熱意に負けて、客に迷惑をかけない。記者としてではなく、客としての参加なら許可すると言い、客としての目で記事を書くことを条件に渡瀬川の取材を許可した。
えびす亭を取材したいという物好きな記者や編集員は時々いる。だが、どの記事もマスターを満足させるものではなかった。ガイドの延長であったり、ことさら庶民を強調しすぎて、立ち呑み店に集まる客を愚弄するようなものまであった。マスターはそういった取材者たちに言いたかった。安いから人が集まるのではない。店が客を迎え入れるから人が集まるのだと――。
毎年、「もみじ祭り」の時期になると、急に風が涼しくなる。今年もそうだった。つい先日まで蒸し暑い日が続いていたが、この日は打って変わって涼風が街の中を吹き抜けた。紅葉が始まるのもちょうど、この頃からだ。
「もみじ祭り」の特別メニューの中で、とりわけ好評なのが、「もみじ豆腐」。湯豆腐なのだが、この時期のみ豆腐の種類が違う。えびす亭特製の豆腐なのだ。百食限定で、売り切れれば終わりといった希少価値と、市販の豆腐と一味違った手製の感覚が受けて、客たちは挙って奪い合う。ニンジンを丁寧に下ろして豆腐に乗せる、これも風味があって人気が高く、「もみじ豆腐」のもみじの役割を果たしている。
他にも、「もみじの天ぷら」「もみじサラダ」「もみじのエビ巻」「もみじスパ」なども好評で、もみじにちなんだメニューが三〇種類近くメニュー表に並ぶ。
「もみじ祭り」の前日、豆マサがえびす亭の周りをうろついているのを、数人の客が目撃している。しかし、豆マサに親しく声をかけ、マスターにかけあってやると言う者など、誰一人としていなかった。
立ち呑み屋はえびす亭だけではない。この近辺にはたくさんの呑み屋が軒を並べ、立ち呑み店の数も他の地域より際立って多い。それなのに、なぜ、豆マサがえびす亭に固執するのか、その理由をマスターはもとより、他の客の誰も知ってはいなかった。
渡瀬川は、遊軍記者として五年を数える。気の優しい渡瀬川は、残酷な事件の記事より、街のほのぼのとしたネタ探しを得意とする記者であった。酒を呑むことがそれほど好きではなかった渡瀬川が、えびす亭を取材しようと思ったのは、一人の男と出会ったことによる。
昼間の猛暑が尾を引いていた八月の終わりのことだった。夜になっても蒸し暑さが消えなかったその夜、渡瀬川は、いつもの癖で街を放浪していた。何かを見つけようと思って放浪していたわけではない。出逢いはいつも偶然であったし、記事ネタと出会うのも同様に偶然の産物であった。
えびす亭の近くまで来た時、渡瀬川は、地べたに座り込んでカップ酒を口にしている男を見つけた。何の気なしに声をかけたのは、渡瀬川の習性のようなものだった。
「今晩は。蒸し暑いですねえ」
男の隣に腰を下ろして問いかけると、男は、酔いの回った口調で、
「夏やから暑いの当たり前や」
と言ってカップ酒を呷る。
「いつもここで呑んでいるんですか?」
「こんなところで呑みたないけど、しゃあないやんか。店へ入れてくれへんから」
「店へ入れてくれない? どこの店ですか」
「この近くにあるえびす亭や」
「客を入れないなんて――」
渡瀬川が憤慨して言うと、男は、笑って渡瀬川に言う。
「わしが悪いんや。わし、子供の頃からコンプレックスがひどくてなあ、そのせいか、嫌味しかよう言わん。えびす亭は客同士、知らないもの同士でも会話できる面白い店でなあ、知らん客と話していて、わし、よう喧嘩してしまうんや。と言っても、相手が勝手に怒り出すんやけどな。もっとも、怒らせるのはわしが悪い。嫌味を言って相手を怒らせてしまうから。それで客と大喧嘩をすることがよくあった。この間も、それで喧嘩した。もっともその時は、相手じゃなくわしが怒った。その客、この店の料理はイマイチやとか、客筋がようないと言ってえびす亭をこき下ろすんや。わし、頭へ来て、そいつを店から叩き出した。その時、つい暴れすぎて――、出入り禁止になってしもうた」
渡瀬川は、男の話に興味を持った、というよりも、えびす亭という店に興味を持った。
「私と一緒にえびす亭に入りませんか? 私が出入り禁止を許してくれるようお願いしますよ」
「ふん、誰があんたなんかに――」
男はふてくされた表情で、渡瀬川を見た。
「それがいけないんじゃないですか。人の親切は素直に受けるものですよ。ところであなたのお名前は?」
渡瀬川が尋ねると、男は、ふんどり返って、
「わしは正岡や。えびす亭では豆マサと呼ばれている」
「豆マサ? 意味は?」
「誰にでもすぐにぶつかって、仲よくやれんからそんな仇名がついたと思う」
「誰にでもぶつかる――、そうか、豆をぶつけるように誰にでもぶつかっていく、そういう意味ですね」
「どっちにしろ、ええ意味での呼び名やない。それだけは確かや。わし、嫌われているから」
「それでも、仇名があるのは大したものです。私なんか、子供の頃から今まで、仇名なんか、付けられたことがないですよ」
「それはあんたに特徴がないからや。特徴のない無個性な人間はすぐに忘れられる。寂しいもんやで」
さすがの渡瀬川も頭にきた。この豆マサという男は本当に嫌味な奴だ。言いにくいことをズバズバ言って、人を怒らせる。温厚な渡瀬川でさえそうなのだから、一杯入った酔っ払いならなおさらのことだろうと、渡瀬川は思った。
腹を立てた渡瀬川が立ち上がろうとすると、豆マサが渡瀬川の服の裾を引っ張った。
「何ですか?!」
怒気の混じった声で渡瀬川が豆マサに聞くと、豆マサは、上着の裾を引っ張ったまま、
「悪い。いや、悪かった。渡瀬川さん、わし、あんたに頼みがあるねん」
と言う。急に素直になった豆マサを見て、渡瀬川は奇異に思い尋ねた。
「頼みってなんですか?」
「えびす亭は九月の後半から一週間、もみじ祭りを開催するんや。わし、その時が、ちょうど出入り禁止になってから三か月目や。悪いけど、その時、わしの出入り禁止を解除してくれるように頼んでほしい。『もみじ祭り』の初日の日、わし、今ぐらいの時間にえびす亭の店の前に立つから――、頼むわ」
渡瀬川は、豆マサが言った、『もみじ祭り』に興味を持った。それで、豆マサに約束をした。
「わかった。でも、それまでに私に約束をしてくれ」
「何でっか?」
「なぜ、嫌われるのか、それまでにゆっくり考え見つめ直してほしい」
「それは難しい」
「なぜ、難しいのですか? 自分を見つめ直す。ただそれだけのことじゃないですか。それともそうすることが怖いのですか?」
「怖くなんかない。だけど――」
「だけどもへったくれもありません。人に頼むのでしたら、頼むだけでなく、自分も努力されたらどうですか」
豆マサはしょげたような顔をしてカップ酒に入っている残りの酒を啜るようにして、喉を鳴らして呑んだ。
渡瀬川は、その後、えびす亭に入ることはなかったが、えびす亭のことを意識して調査を開始した。また、立ち呑みという店の形態についても調査し、知識を深めた。立ち呑み文化、その中心に存在する店として、えびす亭を捕らえようと考えた渡瀬川は、立ち呑みに集まる人の生態についても研究を重ねた。
えびす亭に取材を申し込んだのは、九月の後半に行われる『もみじ祭り』が開催される少し前のことだった。難航したものの、承諾を得、渡瀬川は一人の客の視点で記事を書くことを決心した。
――その頃には、渡瀬川は豆マサのことなどすっかり忘れ去っていた。
『もみじ祭り』初日のその日、渡瀬川は、午後七時にえびす亭に入った。店内は混雑を極めていたが、重なるようにしてようやくカウンターの前に立つことができた。
『もみじ豆腐』を注文し、ビールを一本注文した。グラスにビールを注ごうと思ったら、その前に隣の客が自分のビールを渡瀬川のグラスに注いだ。
「まあ、一杯やってくれ」
「ありがとうございます。でも、私、ビールありますし――」
「気にせんと呑んでくれ。おう、もみじ豆腐が来たな。この豆腐、えびす亭の渾身の自家製や。おいしいぞ」
渡瀬川は目の前に置かれた湯豆腐を眺めて、食べるのに一瞬、躊躇した。隣の客の湯豆腐を見つめる視線が熱い――。
「もしよかったら半分食べませんか?」
渡瀬川が恐る恐る申し出ると、隣の客が笑って怒った。
「あほかいな。あんたがその湯豆腐を食べて、おいしい! と絶叫するところが見たいだけや」
片側の客も渡瀬川の箸に注目する。男の視線が集まる中、渡瀬川は緊張しながら湯豆腐に箸をつけ、口に入れた。
「うまい!」
ウソ偽りなく演技など抜きで渡瀬川が絶叫すると、両隣の客が破顔一笑して拍手した。
「どや、これがえびす亭の味や!」
両隣の男たちがまるで自分が作ったかのように自慢し、渡瀬川の背中を叩いた。
「兄ちゃん、これも食べてみ」
一人置いたところに立っていた中年男が、渡瀬川の前に『もみじサラダ』を差し出す。
「いえいえ、自分で注文しますから」
渡瀬川が断ると、隣の客が渡瀬川の肩を叩いて、
「差し出されたものは遠慮せんと食べる。それがえびす亭の流儀や」
と言い、片側の客が、
「それがこの店のエチケットや」
と言ってまた笑う。
「これもおいしいですね。私にもご馳走させてください」
渡瀬川は、マスターにビール二本と『もみじスパ』、『もみじのエビ巻』を注文し、両隣、その傍らの人にもおすそ分けする。
「兄ちゃん、名前は何て言うんや」
隣の客に聞かれた渡瀬川は、
「初めまして、渡瀬川と申します」
と挨拶すると、隣の客は、大笑いをして、みんなに向かって言う。
「みんな、この人、ワタ煎や。これからそう呼んだってな」
ワタ煎? 何をどうしたらそのような名前になるのか、渡瀬川が戸惑っていると、
「ワタ煎、まあ、一杯呑めや」
と少し離れたカウンターにいた男が渡瀬川にビールを差し出す。一体、これは何だろう。戸惑いを隠せない渡瀬川に、別の客が大声で言う。
「兄ちゃん、気にするな。今日はこの店の祭や。楽しめ! 楽しんで酒を呑め!」
その時、渡瀬川は、ふとガラス戸に視線をやってハッとした。ガラス戸の向こうに豆マサがいて、じっと渡瀬川を見ている。いつからそうやって待っていたのだろう。豆マサはすがるような視線で渡瀬川を見ていた。
「マスター、すみません。お願いがあります」
渡瀬川の声にマスターが驚いて、
「なんですか?」
と聞いた。
「豆マサの出入り禁止を解除してやっていただけませんか」
「豆マサ?」
「三カ月余り、出入り禁止になっています」
「ああ、あの男はあかん。解除しても出入りするようになったらまた問題を起こす。生来の嫌われ者やから」
マスターはあっさり切り捨てる。
「豆マサは変わりました。もう一度だけチャンスをください。豆マサは誰よりもこの店が好きなんです」
「……」
隣の客が助け舟を出した。
「マスター、今日は祭やんけ。許したれ、許したれ」
渡瀬川が深く礼をした。
「お願いします!」
「失礼ですけど、豆マサとはどんな関係ですか?」
マスターが聞いた。
「友だちです」
渡瀬川が大きな声で答えると、マスターは苦笑して、
「あんたみたいな人が豆マサと友だちとは思えへんけど、そこまで言うのだったら、今回はあんたの顔に免じて、解除しましょう」
渡瀬川は、マスターの解除の声を聴くや否や、ガラス戸を開けて、
「豆マサ! 許しが出たぞ。一緒に呑もう」
大声を上げて、豆マサを呼んだ。しかし、そこに豆マサはいなかった。待ちくたびれてあきらめたのだろうか、豆マサの姿を探したが見当たらなかった。
渡瀬川は、先日、豆マサが一人でカップ酒を呑んでいた場所に走った。暗闇の中、地べたに座り込んで、豆マサは一人で酒を呑んでいた。
「すまなかった。遅くなってしまって」
渡瀬川が謝ると、豆マサは首を振った。
「いいんだよ。もとはと言えばわしが悪いんや。あんたが謝ることはない」
「――?」
渡瀬川は我が耳を疑った。嫌味の一つや二つ、飛んでくると思ったがそうではなかった。どうしたんだ、豆マサは? そう思って豆マサを見ると、豆マサは穏やかな口調で渡瀬川に言った。
「あんたに言われて、わし、自分を見直してみた。確かにわしは嫌味が多い。嫌味だけやない。人を傷つけることを平気で喋っていた。攻撃するつもりなどまったくなかったのに、相手を怒らせて喧嘩になってしまうのは、それが原因や。あんたも、えびす亭に行ってよくわかったと思うが、あの店の客は、なぜか、他人に親切な人間が多い。わしはそれが嫌やった。嫌やと思いながら、離れてみると、それが無性に懐かしくなる。偏屈な人間のわしがそう思うんや。あんたかて、感じたやろ。今日のあんた、めっちゃ楽しそうにしていた」
もしかしたら豆マサは劇的に変化したのではないか。渡瀬側はそう思った。短期間で簡単に変化するとは思えないが、豆マサの口から出てきた言葉が渡瀬川には嬉しかった。
「私は、立ち呑みの店に行ったのは初めてのことで、人生観が変わってしまうほど感動した。親切にするのは下心があってのことやとずっと思って来た。でも、そうやない親切もあることを知った。豆マサ、あんたのおかげや。――豆マサ、大変なことを言い忘れていた。えびす亭の出入り禁止、本日、只今、解除された!」
豆マサの表情が途端に変わった。豆マサは立ち上がると、
「そんな大事なこと、なんでもっと早う言ってくれへんのや! でも、わし、嬉しい。あんたのおかげや。渡瀬川さん、早う行こう!」
「渡瀬川じゃない。わしは今日からワタ煎や」
「ワタ煎? なんやそれ」
「私にもわからん。今日、えびす亭で付けられた」
「ワタ煎、よかったなあ。無個性のお前がようやく個性を持った。ワタ煎、ええ仇名やんか」
褒めているのか、けなしているのか、わからなかったが、嫌味で言っているわけではないことがよくわかった。渡瀬川は、豆マサと肩を組んで、えびす亭に向かった。
渡瀬川はその日、豆マサと共に、えびす亭の住人と一緒に酒をしこたま呑んで「もみじ祭り」を楽しんだ。
下戸だった渡瀬川は、自分が酒を呑めないということを忘れるほど酒を呑み、家へ帰ってぶっ倒れた。その体験を渡瀬川は後日、記事にしてまとめた。
渡瀬川の記事を読んだ編集長は、読み終えた後、目を瞑り瞑想した。
怒髪天を突く雷声がこの後、墜ちる。今までの経験から、そう判断して渡瀬川は体を固くして身構えた。
「ワタ煎! お前、やっと人を感動させる記事を書けるようになったなあ……」
鬼の編集長の意外な言葉に渡瀬川は、一瞬、気が緩んで、その場に倒れそうになった。
しかし、気を取り直して、編集長に意見をした。
「編集長、ありがとうございます。でも、そのワタ煎、やめてくれませんか。私、渡瀬川ですから」
「いや、お前にはワタ煎の方が似合っている。わしが保証する。それより、ワタ煎、今晩、その店に連れて行け。これは編集長命令だ」
とんだ編集長命令もあったものだと渡瀬川は苦笑したが、編集長をえびす亭に連れて行く楽しみがひとつだけあった。それは、編集長がえびす亭でどんな仇名を付けられるか、興味があったからだ。
仕事を終えて編集長と共にえびす亭に行くと、豆マサがいた。嫌われ者の豆マサは、常連たちと少し離れた場所に立っていることが多いと聞いていたが、今日は、常連たちに囲まれた場所に立っていた。しかも普通に話をしている。
「おう、ワタ煎!」
渡瀬川が店に入ると、常連の一人から声が飛んだ。
「どないしたんや。おカメムシを連れて」
渡瀬川の後ろにいる編集長を見て、客の一人が言った。
「ワタ煎、おカメムシって誰のことや?」
編集長が渡瀬川に小声で尋ねる。自分のことを言われていることにまだ気づいていないようだ。それにしても的を射た仇名ではないか。編集長の顔は、おかめを蒸したような顔をしている。渡瀬川は思わず笑ってしまった。
豆マサは、渡瀬川を見つけると、大きな声で手を振った。
「ワタ煎、まだ生きていたんか」
豆マサの性格が改善されたかどうかは甚だ疑わしい。ただ、言葉とは裏腹に表情は明るかった。出入り禁止にならないことを願いながら、私はおカメムシと共に、豆マサと威勢よく乾杯をした。
<了>