噂の新人女優が殺害された!
高瀬 甚太
――編集長、今朝の新聞、見ました?
早朝、まだ眠りの中にいた井森は、枕元に置いていた電話の呼び出し音で目が覚めた。電話の主は江西みどりだった。みどりの甲高い声に苛立ちを覚え、
――何時だと思っているんだ!
怒鳴りつけると、みどりは憮然とした声で、
――だって先生、殺されたのは葉山洋子さんですよ。
と言って電話を切った。
これまで、井森はことあるごとに、葉山洋子が極楽出版で働いていたことを吹聴してきた。みどりも井森から何度も聞かされてきた。それで電話をしてきたのだ。
葉山洋子は、テレビドラマ『愛の非常線』のヒロインで人気を得た、今、売り出し中の女優である。清楚な雰囲気とファッションモデル顔負けのスタイル、しかも演技力に長けていることで定評のあった彼女は、この作品で一気にブレイクした。
大阪出身の彼女は、大学生の一時期、井森の仕事を手伝ったことがある。文学少女の素養を持つ彼女は、本来は女優より編集の仕事に興味を持っていた。洋子の父親が井森の学生時代の先輩であったことから、娘に仕事を手伝わせてやってくれないかと打診があり、それほど忙しくない出版社であったが、アルバイト料金が安くてよければと断って、洋子が大学生時代の一時期、ほんの短い期間だが、雇ったことがある。
しかし、洋子はすぐに映画会社にスカウトされ、脇役で出演した映画で、演技と美貌が評判になり、次の作品で主演が決まった。それが『愛の非常線』である。
井森の元に原野警部が部下を伴ってやって来たのは葉山洋子が殺害された翌日のことであった。
勢いよくドアを開けて入ってきた原野警部は、編集締め切りの真っ最中であった井森の前に立つと、一枚の用紙を取り出し、
「井森公平、葉山洋子殺人事件の重要参考人として事情聴取する」
と宣言し、驚く井森に何の説明もなく、強引に大阪府警へ連行した。
江西みどりもまた驚いた。突然、原野警部他数人が現れて、あろうことか井森を拉致して連れ去ったのである。連行されて行く井森をみどりはただ見守るほかなかった。
大阪府警で事情聴取を受けた井森は、なぜ、自分が重要参考人なのかを原野警部に尋ねた。
原野警部は、普段とは打って変わった物言いで、
「井森、葉山洋子は、昔、お前のところで働いていただろう」
と高圧的に言い放った。
「はい、確かに葉山洋子は、学生時代の一時期、私のところでほんの少しですが働いたことがあります」
井森が応えると、原野警部は、
「葉山洋子の死因を調べているうちに、彼女のバッグの中に手帳が入っていて、その手帳に、極楽出版井森公平と記されていることがわかった」
「私の名前が手帳に書かれていたからといって、どうして私が重要参考人になるのですか?」
原野警部が、机をドンッと叩いて、井森に迫った
「井森、お前、葉山洋子から連絡を受けていただろう。葉山から連絡を受け、会ったお前は、葉山を殺害した! どうだ、言い逃れ出来ないだろう」
「なんで私が葉山洋子を殺さないといけないのですか? それに葉山から連絡など一度ももらっていません」
断固とした口調で井森が答えると、
「お前、以前から自慢していたじゃないか。葉山洋子がうちで働いていた。一緒に食事をした。一緒に徹夜をした――。まるで恋人のように話しておったじゃないか!」
原野警部が再び、再び机をドンッと叩く。
「それは、原野警部に羨ましい思いをさせたかったからで、実際は、そんなに親密ではなかったんです。その証拠に、短期のバイトをやめてからは、一度も顔を出していないし、連絡もありません」
「じゃあ、なぜ、葉山の手帳のメモに『極楽出版井森公平』と書かれてある。素直に白状しろ!」
「葉山洋子の死因は何ですか?」
「毒死だ。青酸カリの中毒死だった。お前の他に、大阪で葉山が会った人物が見当たらない。絶頂期の彼女が自殺するとも思えないし――。お前だ、井森、お前が犯人だ」
「死亡推定時刻は何時になっていますか?」
「午後8時だ。死体の発見場所は、大阪城公園の園内だった」
「その時間帯なら、私は江西と一緒に食事をしていました。江西に確認してください」
「葉山洋子だけじゃなく、あの、かわい子ちゃんまで手なづけているのか! そんな女の証言があてになると思うのか」
「では、食事をした店に連絡してください。マスターが私を覚えているはずです」
井森がレストラン名と電話番号を伝えると、原野警部は部下に確認を取るよう命じた。
結果、私の疑いは晴れた。すっきりしない様子の原野警部は、私が署を出ようとすると、後を追いかけて来て、
「編集長、先ほどは申し訳なかった。ちょっとお茶でも飲まないか」
と言って、強引に府警本部から少し離れた場所にある喫茶店に井森を連れて行った。
昔ながらの小さな喫茶店であった。店の中に入ると、警察関係らしき人物が数人、お茶を飲んでいた。
「葉山洋子は、昨日の昼、マネージャーの細木と共に大阪へ来ている。テレビの収録が午後9時からということで、それまでに一通り仕事をすませ、少し時間が空いたので、マネージャーの細木には、久しぶりの大阪なので友だちに会いたい、と言って別れたらしい。収録の1時間前になっても葉山が現れないことに不審を持った細木が、携帯を鳴らして呼び出すが、一向に応答がなかったという。
そんな中、9時の収録前に、スタジオに悲報が入った。葉山洋子は、毒殺された状態で遺体となって大阪城公園で発見されたのだ。これが葉山洋子事件の一部始終だ」
「葉山洋子が誰と会う約束をしていたのか、わからないのですか?」
原野警部は、大きく首を振って答えた。
「わからない。手帳にもメモなどなかった。唯一、あんたの名前だけが書かれていた」
「マネージャーにも伝えていないのですね」
「そうだ。もし、誰か、親しい友人と会っていたのなら、葉山の死を知って名乗り出るはずだと思うが、それもない」
「葉山洋子の身辺に怪しい人物はいませんでしたか?」
超美人の葉山洋子だ。恋人の一人や二人いてもおかしくない。状況から考えて、大阪へ来て、葉山が会った人物が臭い、と井森は思った。
「近頃には珍しく品行方正な女性でな。交際している男性も見当たらないし、週刊誌に狙われるようなスキャンダルの一つもなかった」
「そうですか。それにしてもおかしいですね。彼女は必ず誰かに会っているはずです。今回の事件の鍵は、その人物が握っているでしょう」
井森が他人事のように言うのを聞いて、原野警部が、打って変わって低姿勢になった。
「そこでだ、編集長。葉山洋子については、きみも満更知らない仲じゃない。幸い、きみには警察と違った捜査方法と推理がある。この事件について、できれば内緒で助けてもらえないか」
取り調べ室での勢いなど、まるでなく、ひたすら低姿勢の原野警部を前にして、俄かに井森の好奇心が頭をもたげてきた。
「わかりました。できる範囲内で私もご協力いたします。何しろ、名警部に犯人扱いされた事件ですから、汚名を晴らす意味においても頑張ります」
井森の言葉に、原野警部が何度も頭を下げる。井森が事件を解決したら、すべて原野警部の手柄になる。それがわかっていて、捜査協力を引き受ける井森も井森だが、先ほどまで、声高々に井森を追及しておきながら、今は掌を返したように井森にすり寄って来る原野警部の態度に、内心、井森は怒りを禁じえなかった。
事務所に戻った井森を、江西みどりが出迎えた。
「編集長、どうでした?」
「大丈夫、疑いは晴れたよ」
と言って、府警本部での取り調べの一部始終をみどりに話して聞かせた。
「編集長を疑うなんて、原野警部もどうかしてるいわ。虫も殺せない弱虫なのに」
「――江西くん、今、何か言ったか?」
「いえ、編集長を疑った原野警部に腹を立てていただけです。それにしても、葉山洋子さんは、大阪へ戻って、一体、誰に会ったのでしょうね」
「両親や親族の類ではないようだ。葉山洋子の親族、知人には片っ端から連絡しているようだから」
「だとすると、亡くなる午後8時まで、葉山洋子はどこへ行ったのでしょうね。彼女は今、超人気者で、彼女を見かけたという情報が警察に届きそうなものだと思うけど」
「そうだな。いったい彼女は誰に何のために会いに行ったのだろうか。もう一つ、不思議なことは、バイトをやめて以来、一度も会っていない私の名前をメモに残していたことだ。まあ、それで私が疑われたわけだが――」
――その日の夕方、原野警部から一報が入った。葉山洋子の死因とその日の様子が一部分、判明したというのだ。
――葉山洋子がマネージャーと共に、東京から大阪へ来阪したのが殺害された当日の午前11時だ。新幹線で新大阪へ到着した葉山洋子は、マネージャーを伴ってKテレビに直行、そこで昼のワイド番組にゲストとして出演し、葉山主演のテレビドラマ『涙風吹く最果ての地で』の番宣を行った。Kテレビで昼食を取った葉山は、その後、Yテレビの3時のワイドショーに出演、同じく主演番組の番宣をし、その後、友人に会うと言って、休憩を取っている。この時、葉山は、マネージャーは帯同せず、一人で出かけている。行き先も目的地もマネージャーには話していない。
その後、Mテレビに出発するため、マネージャーはホテルニューオータニのロビーで葉山洋子を待ったが、待ち合わせの時間になっても葉山洋子は現れなかった。
マネージャーはすぐに葉山の携帯に電話を入れるが、呼び出し音はするものの一切反応せず、心配になったマネージャーは葉山洋子の行き先の当たりを付けてさまざまな場所に電話をかけたが、葉山はどこにもいなかった。心配になったマネージャーは、出演予定のMテレビに電話を入れようとしたところ、警察からテレビ局に悲報が届いた。それが事件当日の時間経過だ。
警察からの連絡で駆け付けたマネージャーは、遺体安置所に運ばれた葉山洋子の遺体と対面する。葉山洋子は、ホテルニューオータニからそう遠くない大阪城公園市民の森で変死体となって発見された。それがその日の午後8時だった。
死因が確定されたのは翌日の午前10時、歯に細工された毒性のものによって死に至ったことが判明している。大阪府警捜査一課は、葉山洋子の休憩時間の行き先について署員を増員し調査を開始した。それほど長くはない休憩時間に彼女はいったい誰に会ったのか。そして、なぜ、殺されたのか?
Yテレビは大阪ビジネスパークの中にある。Yテレビで収録を終えた後、彼女はどこへ行ったのか。Mテレビは梅田に近い茶屋町にあった。近いとはいえ、車で移動する場合、混雑を加味して、2、30分は充分にかかる可能性がある。遺体発見現場が大阪城公園市民の森であったことから、葉山は、Yテレビからそう遠くない場所に出かけたはずだ、というのが捜査一課の見解で、捜査員がただちに周辺の聞き込み調査に入った。
だが、思ったような収穫が得られなかった。有名女優である葉山洋子の目撃情報がまるで集まらなかったのだ。
原野警部は、一通り説明をして電話を切った。
「Yテレビと大阪城公園市民の森か。この周辺が怪しいな」
電話を切った井森がひとり言のように言うと、傍にいたみどりが、
「編集長、原野警部からの電話の内容を教えてくださいよ」
とごねる。井森は、みどりを苦手としている。仕事は普通にできるのだが、犯罪がらみの事件になると、途端に目の色が変わる。井森は、パート期間が過ぎた時、みどりを一度クビにしている。ずっと一人でやって来た井森であったから、女性が入ると調子が狂う。それでも多忙な時期だったから仕方がなかった。だが、繁忙期が過ぎると、途端に暇になる。みどりに、パート期間のお礼を言って給与を渡そうとしたら、みどりの表情が俄かに曇り、
「もう少しだけ、勤めさせてもらえませんか」
と退職を渋った。井森が、会社の事情を話し、申し訳ないが、と言って謝ると、
「編集長、お給料、半分で結構です。このまま、もうしばらく私を雇ってください」
と言う。
「でも、それではきみの生活が――」
と、言おうとしたが、みどりはさっさと結論を出し、そのままずっと居続けている。みどりが、極楽出版にこだわる意味が井森には理解できなかったが、みどりには、みどりならではの魂胆があるようだ。しかし、井森はまだ、そのことに気付いていなかった。
「編集長、私、とんでもないことを思い付きました!」
原野警部との電話の一部始終を話した途端、みどりが大きな声を上げた。
「葉山洋子さんは、歯に細工された毒性のもので殺害されたと言っていましたよね」
「ああ、そうだ、それがどうかしたか?」
「私、思ったんですけど、葉山さん、もしかしたらYテレビの近くにある歯科医に行ったのじゃないかしら?」
「歯科医? でも、彼女は虫歯の一本もないきれいな歯をしていたぞ」
「ええ、そうです。虫歯治療じゃなくて、ホワイトニング治療に出かけたんじゃないでしょうか」
「ホワイトニング治療?」
「歯を白くする治療です。テレビ画面に露出することの多い彼女ですから、歯の白さは普段から気にしていたと思うんです。それで、空いた時間を利用してホワイトニングに行った」
「だが、彼女は友だちに会いに行くと言っていたようだが」
「そこが引っかかっています。ホワイトニングに行くだけだったら、マネージャーに隠す必要などありませんから――」
「しかし、そのホワイトニング治療とは、いいところに気が付いたかも知れん。Yテレビ周辺の歯科医を調べてみよう」
原野警部の話では、葉山洋子を見た者が今のところ、誰一人として現れていない。タクシーを利用した形跡もない。そこから判断すると、葉山洋子はYテレビにごく近い場所にある、歯科医を利用している疑いが濃い。
このことを原野警部に連絡をするべきかどうか、迷ったが、もう少し、調べてからの方がいいのでは、と言うみどりの提案で、原野警部への連絡は控えることにした。
みどりがネットで調べた結果、Yテレビの周辺のビルに、三軒ほどの歯科医が存在した。
そのうち、誰にも会うことなく、歯科医に行くことができるのは、二軒。一軒は、人目に付く場所にあるため、消去することができた。
「編集長、私、二軒の歯科医院に行ってみます」
井森が承諾すると、みどりは足早に事務所を出て行った。
みどりもかつてホワイトニングを試みたことがある。だが、みどりは、無カタラーゼ症という症状であることがわかり、ホワイトニング治療を断念せざるを得なかった。
無カタラーゼ症とは、薬剤に含まれる過酸化物を分解する酵素を持たない人を言う。知らずに薬剤を使ってしまうと薬剤を分解出来なくなり、体内に薬剤が残留してしまう。医師はそう言ってみどりに警告した。
「また、歯が成長する過程で、エナメル質や象牙質形成不全の人も危険です。そうした人にホワイトニングを行うとホワイトニングの効果が期待出来ないばかりか、歯の神経にダメージを与えてしまいます」
みどりの脳裏に、医師の説明が印象に残っている。
歯に仕組まれた毒によって殺害されていると、聞いた時、みどりは短絡的に歯科医が絡んでいるのではと、推察した。歯に仕組むためには、歯科の治療中に行うのが妥当と誰もが考える。府警も井森も多分、考えたに違いない。だが、問題は、なぜ、歯科医が葉山洋子を殺さなければならないのか、という肝心の動機がない。
みどりは、ビジネスパークに到着すると、早速、Yテレビの近くの高層ビル内にある一軒の歯科医を訪ねた。みどりは受付の女性に、
「こちらはホワイトニングを専門にやられていますか?」
と聞いた。品のいい黒縁のメガネをかけた受付の女性は、
「私どもの歯科医でも行っていますが、専門的にやられているのは、向かいのビルの羽生歯科医院です」
と、丁寧に教えてくれた。
礼を言って、その歯科医院を離れたみどりは、対面する高層ビルの二階にある「羽生歯科医院」を訪ねた。
ここでも、みどりは念のために、
「ホワイトニング治療を専門に行われていますか?」
と聞いた。
受付の女性は、笑顔で、
「はい、行っています。ただ、診療時間は午前9時から午後1時、休憩時間をいただいて、午後は5時からになります」
とみどりに向かって丁寧に説明をした。みどりは、受付に、事件当日の営業状態を確認した。すると、受付は、
「毎週、木曜日は午後から休診ですので、その日のその時間帯はお休みをいただいています」
と言った。
時計を見ると午後4時だった。みどりは受付に、
「また出直します」
と断って、その場を離れ、井森に連絡をした。
――編集長、もし、私の推理通りであればと思い、一軒、ホワイトニング治療を専門に行っている歯科医を見つけました。場所は、Yテレビの近くにある高層ビルの二階、「羽生歯科医院」です。ここなら人にはほとんど出会わないで入ることができます。ただ、一つだけ問題があります。
――問題?
――ええ、事件当日の木曜日、羽生歯科医院は午後から休診になっていました。
――羽生歯科医院の院長について調べられるか?
――やってみますけれど、何でまた?
――葉山洋子の恋人である可能性が高い。
――恋人!?
――調べてくれ。
電話を切ったみどりは、携帯で「羽生歯科医院」を検索し、院長のプロフィールを確認した。
出身中学と高校を見て、みどりの胸がドキンと鳴った。続いてみどりは、葉山洋子の出身中学と高校を調べた。年齢はずいぶん違うが、葉山洋子と羽生歯科の院長は、同じ中学、高校の出身だった。
――単なる偶然だろうか。
みどりは、すぐに井森に連絡を取り、二人の出身中学と高校が一緒であることを告げた。
井森の連絡で羽生歯科医院へ駆け付けた原野警部は、羽生歯科医院の診察カルテの中に、葉山洋子の名前を見つけた。院長の羽生啓介は、葉山洋子が、大阪へ来るたびにホワイトニングの治療を施していたことは認めたが、殺害については頑強に否定した。
「葉山洋子は単なる患者の一人です。なぜ、私が疑われなければならないのですか」
羽生の否定は、当然のことのように思われた。羽生には、葉山洋子を殺害する動機がない。接点も、同じ中学、高校というだけで、年齢も大きく違い、ほとんど無関係なように思われた。
突破口を開いたのは、やはり井森であった。井森は、みどりに命じて、葉山洋子の実家へ向かわせ、両親に、
「羽生歯科医院を知らないか?」
と尋ねさせた。
葉山洋子の両親は、羽生と聞いて、即座に、
「お世話になっています」
と答えた。
羽生歯科医院は、元々、葉山洋子の実家のすぐ近くにあり、洋子は、芸能界に入る数年前から羽生歯科医院で歯の治療と、ホワイトニングを施してもらっていた。
ビジネスパークに転居してからも、洋子は変わらず羽生歯科医院を訪れていた。
「東京に行っても、大阪へ帰って来るたびに羽入先生のところへお寄りして、ホワイトニングを施してもらっていました。それはもう、おやさしい先生で――」
みどりは、そのことを井森に報告した。すると井森は、続いて洋子の仲の良かったクラスメイトに話を聞いてほしいと、みどりに伝えた。
「ええ、これからですかぁ」
思い切り不満をぶつけたが、井森は一向に堪える様子がなく、
「早く行きなさい。さもないと――」
と、脅しをかけた。みどりは、両親に仲の良かったクラスメイトの連絡先を聞き、早速、その友だち二人を呼び出して話を聞いた。
「羽生歯科の院長と洋子ですか? 小中の先輩ということもあって、洋子とは親しくしていました。でも、羽生院長は妻帯者ですよ。しかも真面目な先生でした。洋子とおかしくなるなんてこと、考えられません」
二人のクラスメイトは声を揃えてそう言った。
確かにそうだろうと、みどりも思った。洋子は、超の付く美人だ。妻帯者の歯科医の院長とおかしくなるはずがない――。井森にそのことを報告すると、井森の考えは違っていた。
「表面だけを見てはいけない。どんな人間にも裏表がある。羽生歯科医も同様に、人の口に上る言葉だけを信じてはいけない。もう一度、クラスメイトに当たってくれ。今度は違った意見をきみに言うはずだ」
みどりは、渋々、井森の言葉に従った。クラスメイトを呼び出して、もう一度、
「他で話を聞いたら、あなた方と違う噂を耳にしたんだけど……」
と言って聞き直すと、二人のクラスメイトは、やっぱり、といった顔をして、今度は前回と違う印象を口にした。
「亡くなった洋子に悪いから言いにくかったんだけど、洋子、高校生の頃から、あの羽生院長と関係があったのよ。奥さんも子供もいるくせに、何も知らない洋子をたぶらかせて、本当にひどい人なんだから」
井森に二人の話を報告すると、納得したように電話の向こうで頷いて、
――お疲れ様でした。後は原野警部の仕事だ。
とみどりに帰社を促した。
羽生が逮捕されたのは翌々日のことだ。案の定、この期に及んでも、羽生は自分の犯行であることを頑なに否定した。
だが、原野警部が捜査令状を羽生に提出し、羽生歯科を家宅捜索したことで、羽生は言い逃れの出来ない証拠を突きつけられた。
葉山洋子が羽生歯科医院に通うようになったのは、洋子が高校生の頃だった。歯の白さにこだわっていた洋子は、ホワイトニングの専門医である羽生歯科に通い詰めていた。
最初は、女性スタッフが担当だったが、そのうち、羽生が洋子の担当をするようになった。洋子は、羽生が小中の先輩であり、年齢も大きく離れていたこともあって、まったく警戒心を持たないまま、羽生歯科に通院し続けていた。
洋子の美貌に惹かれていた羽生は、食事に誘うなどして、洋子に警戒心を起こさせないよう気を配りながら、徐々に洋子に近付いて行った。高校生の洋子は、そんな羽生の野心に気が付くはずもなく、やさしい伯父様といった感じで接していた。
高校生最後の年の夏、洋子の両親が二人で旅行に出かけた日があった。その日、洋子はいつものように羽生歯科へ行き、ホワイトニングの治療をしてもらいながら、両親が旅行に出て、一人で留守番をすると、話のついでに漏らしてしまった。
羽生は、チャンスとばかりに洋子を食事に誘い、食事の後、ホテルのバーへ連れて行った羽生は、酒を飲ませて、そのグラスの中に睡眠薬を混入し、その日の夜、洋子を凌辱した。
羽生の卑劣な罠にはまった洋子は、どうにか羽生の魔の手から逃れたいと画策するが、羽生は、それを許さなかった。
高校を卒業し、女子大に入学する直前、街を歩いていた洋子がスカウトされ、映画の準主役に抜擢されたことは誰もが知っているシンデレラストーリーとして有名な話だ。東京に居を移した洋子は、ようやく羽生の手から逃れられたと安堵するが、羽生はそれを許さなかった。彼は、マスコミに自分との関係を暴露すると脅し、また、両親にも、自分との関係を話すと脅した。
人気女優としてさらにスポットライトを浴びるようになった洋子は、羽生との関係を断ち切りたいと切に願っていたが、安易にそれを許すような羽生ではなかった。
大阪へ帰阪するたびに、羽生は洋子を呼び寄せ、関係を強要した。今回も同様に、羽生は、Yテレビの近くにある自分の歯科医院に来るよう、洋子に厳命した。
洋子は、この日、ある決意を持って羽生歯科医院の扉を開けている。午後から休診の医院には、羽生しかいない。バッグにナイフを忍ばせて、羽生と会った洋子は、羽生が抱きついて来る、その瞬間を狙ってナイフで刺そうとした。
だが、か弱い洋子の腕では羽生にかすり傷を負わせることぐらいしか出来なかった。洋子の反逆を知った羽生は怒り心頭に達し、治療椅子に洋子を無理やり座らせると、奥歯に穴を開け、そこに青酸カリをこじ入れた。
洋子が命を失ったことを確認した羽生は、旅行用の大きなバッグの中に洋子の遺体を入れ、大阪城公園市民の森に運んで投げ捨てた。
以上が、羽生の告白と、原野警部の話を取り混ぜた事件の一部始終であった。
「羽生は今、歯科医として恥ずべき行為をしたと取調室で懺悔している。葉山のことが本当に好きだったようで、彼女の心をつなぎ止めるために必死だったようだ。それにしても、あんなに可愛い女性を殺すなんて、本当にどうかしているよ」
うんざりした調子で原野警部が話す。
「青酸カリで苦しむ彼女を眺めながら、羽生は何を考えていたんでしょうね。しかも、その遺体を、捨て場所に困って近くの市民の森に放置するなんて――」
みどりが吐き捨てるように言うのを聞きながら、井森は、
「誰だって美しい女性に心が迷うことがある。ただ、彼の場合、自分のエゴだけで洋子さんを支配しようと躍起になっていた。それでは、女性の心は動かない。殺意を持たれても当然だった」
原野警部とみどりに言う。それを聞いたみどりが、井森を茶化すようにして言った。
「編集長、ずいぶん経験がおありのような発言ですね。そんな人がおられたのですか? もしかしたら葉山さんも、本当は編集長に会って相談したかったんじゃないでしょうか。だから手帳に名前を記していた――」
井森はそれには答えず、
「さあ、仕事だ。ずいぶん寄り道して仕事が溜まっている。江西くん、今度は仕事で頑張ってもらうよ」
とみどりを叱咤する。原野警部も井森の言葉を合図に立ち上がると、
「さて、俺も失礼するか。編集長、ありがとう」
と言い置いてさっさと帰って行った。
パソコンの前で仕事に取り掛かりながら、井森は、先ほどから、自分を見るみどりの意味深な表情が気になって仕方がない。
――こいつは一体、何物だろう。
みどりを雇って半年、未だに井森は、みどりのことを何も知っていなかった。
〈了〉
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