空き巣のはじめちゃんとすき焼き

高瀬 甚太

 木内甫には、犯罪者としての顔がある。出所して一週間、木内は五年間、都島刑務所に収監されていた。その犯罪履歴は数知れない。窃盗、空き巣などの類がほとんどで、出所してもすぐに刑務所に舞い戻るほど、改悛の情が薄い。
 大阪府警捜査三課の田辺雄一刑事は、これまで木内を数度に亘って逮捕、そのたびに木内を更生に導こうと努力してきたが、未だにその努力が報われずにいた。
 木内の住居への侵入方法は、ピックと呼ばれる特殊工具を用いて、ドアの錠を開ける方法を取ることが多く、熟練した木内の技なら数秒でドアを開けて中へ侵入することができる。ドアの錠の状態によって、他にも木内は様々な方法を駆使して侵入を試みる。その技術は天才的と称賛されるほどだ。
ピックを使う以外にも木内が侵入を試みる方法がいくつかある。その一つ、「サムターン回し」という方法は、玄関ドアの外側からドリルで穴を開け、内側のドアロックを強引に回して侵入するもので、壊したドアスコープや取り外したドアノブノブの穴、ドアの壁の隙間などに特殊工具を挿し入れてドアロックを回して開ける。
 また、「こじ破り」という方法は、ドアと壁の隙間に、釘抜きのようなL字型をしたパールを押し込み、てこの原理でドア錠を破壊して侵入するもので、この方法だと手間がかからず短時間で侵入することができる。
 「ガラス破り」は、クレセントと呼ばれる窓ガラスの錠の周辺を破壊し、そこから手を忍び込ませ、クレセントを回して侵入する方法で、木内の腕だと通常のガラスだと十秒足らずで破壊することができる。
 府警本部の田辺刑事は、空き巣被害の現場を見ただけで、木内の犯行であるか否かが、瞬時に判断できた。それほど、ほとんど証拠らしい証拠を残さない木内の技術は卓越したものがあった。
 空き巣や忍び込み、居空きの3手口を「住宅対象侵入窃盗」と警察では呼称する。空き巣は、家人が不在の間に住宅屋内に侵入し、金品を盗むもので、忍び込みは、夜間など家人の就寝時に住宅屋内に侵入、金品を盗むものをいう。居空きは、家人などが食事中、あるいは昼寝をしている隙に住宅屋内に侵入、金品を盗むものをいう。木内の場合は、空き巣を常套手段としていた。

 都島刑務所を出所してきた木内を待つものなど誰もいない。所持金は、刑務所の労賃として得た十万円ほどしかなく、住むところも頼るところさえ、木内にはなかった。
 家族を持たず、両親もすでに死亡していた木内にとって、縁戚と呼ばれるものはほとんどなく、五十を過ぎて、哀れなほどに孤独だった。刑務所を出る時、木内はいつも心に誓う。今度こそ、刑務所には戻らないぞと――。しかし、その誓いも一週間と持たずに崩れてしまう。職にありつけず、金に困ると、木内には空き巣をやるしか術がなかった。
 木内には特殊な才能があり、留守の家を容易に見つけることができ、しかも、金品の在りかを瞬時に発見することができるという特性があった。そのため、住宅地を歩いていると、無意識のうちに侵入意欲が湧いてくる。この時もそうだった。一週間が過ぎて、手持ちの金が乏しくなり、無目的に歩いているうちに住宅地に来てしまった。
 木内の場合、同じ地域で数か所の家を物色し侵入するのがこれまでの手口で、この時も数軒の家に狙いを定め、早速、行動に移そうとした。
 その矢先、木内は背後から来た人物に声をかけられた。振り向くと、一人の老婆が立っていた。
 「貞夫やないかえ?」
 九十近いと思われる老婆は、しわがれた声で木内に尋ねた。
 「いえ、違いますが――」
 木内が答えると、老婆は、顔をくしゃくしゃにして、
 「貞夫、貞夫―ッ」
 と叫ぶ。木内が呆気に取られていると、老婆が木内に遮二無二しがみついてくる。
 「貞夫、もう離さへんで。どこにも行かせへんで」
 泣きじゃくりながら老婆が木内の体を強く抱きしめる。小柄でか細い老婆のどこに、こんな力があるのか――、木内は老婆に言った。
 「おれ、貞夫じゃないよ」
 木内の声が聞こえないのか、老婆はなおも貞夫、貞夫と呼び続けた。
 「おばあちゃん。おれの顔、よーく見てごらん」
 老婆の肩を軽く掴んで、木内が老婆の前に顔を突き出す。ようやく泣きやんだ老婆が木内の顔をじっと見る。じっと見て再び泣きわめいた。
 「貞夫、貞夫―」
 老婆は、木内にしがみついて離そうとしなかった。木内が困って、どうしようかと考えていると女性が一人、走り寄って来た。
 「すみません。申し訳ありません」
 三十代後半ぐらいの女性が慌てて老婆を木内から引き離した。
 「私の祖母なんですけど、ボケてしまって、同じ年頃の男性を見ると、いつもこんなふうに抱きついて泣くんです」
 老婆は、女性に引き離されてもなお、「貞夫、貞夫―」と泣きながら叫び続けた。
 「こんなこと聞いては何ですが、貞夫とおっしゃるのは?」
 木内が尋ねると、老婆を抱きかかえた女性が言う。
 「おばあちゃんの息子の名前です」
 「おばあちゃんの息子の名前が貞夫?」
 「はい。私の父でおばあちゃんの息子にあたります」
 「貞夫さんはお亡くなりになられたのですか?」
 「ええ……」
 「おばあちゃんは、よほど貞夫さんという方を大切に思っていたのでしょうね」
 女性は老婆を抱きかかえたまま、しばらく答えなかった。
 「いろいろ事情がありまして――」
 「いいえ、いいんですよ。余計なことを聞いて失礼しました」
 木内がその場を去ろうとすると、老婆がまた、木内に抱きついて来た。
 「おばあちゃん、いい加減にしなさい」
 女性が怒るのも構わず、老婆は木内に抱きついたまま、泣きつづけた。
 「よほど事情がありそうですね」
 自分に抱きついた老婆を眺めながら木内が言うと、女性が木内を見つめて尋ねた。
 「あのう、失礼ですが、今、お忙しいですか?」
 「えっ――?!」
 「もし、お時間があれば、少しだけでいいですから私どもの家へお寄りいただけないかと思って」
 「それは構いませんが、私なんか――」
 「何もお構いできませんが、ぜひ、お立ち寄りください」
 木内は、抱きついたまま離れない老婆の肩を抱くようにして、女性の後に続いた。
 中流家庭が住むような家並みがずっと続いていた。同じような家並みが続く中、女性は一軒の家の門を開け、中へ入って行った。
「どうぞ、お入りください」
 さほど大きくない門をくぐり、家の中に入ると小さな庭があった。庭には季節の花が植樹され、松の木が一本立っていた。家の中に入ったところで老婆はようやく木内から離れた。玄関口でスリッパを出され、それを履こうとすると、先に玄関に上がった老婆が、
 「貞夫、早くおいで。あんたの好きなお酒があるよ」
 と手招きをして言う。
 スリッパを履き、廊下を歩くと、入口に近い場所に応接間があった。職業柄、木内は門や玄関のドア、窓が気になる。応接間に通されて、キョロキョロと周囲を見回していると、女性が入って来た。
 「どうも、今日は申し訳ありません。あなたが家に入られたことで、ようやく祖母も落ち着きまして、今、横になって眠っています」
 「認知症が進んでおられるようですね」
 木内の言葉に、女性が少し首を振って答えた。
 「認知症もありますが、それだけじゃないんです。祖母は、父のことで未だに悔恨の情にかられて、そのことばかりを考えているようです」
 「悔恨の情?」
 「父は、三代続く老舗の料亭の板前をやっていました。寡黙ですが、腕のいい板前として、店からもお客様からも信頼されておりました。その父がある時、事件に巻き込まれ、容疑者として逮捕される事件がおきました。それは、食材の仕入れのために中央市場へ行った時のことです。仕入れを終えた父がライトバンに荷物を積み込んで駐車場を出ようとしたところへ、別のクルマが突っ込んできました。幸い、父に怪我はなかったものの、仕入れた食材は使い物にならないほど潰れてしまい、父は突っ込んで来たトラックの男を叱りました。トラックの運転手は、荷物を運ぶために急いでいたのと、一晩中走って来て、疲れていたため、事故を起こしたようです。父の怒りにトラックの運転手が逆上し、突っかかって来て喧嘩になってしまいました。
父は、突っ込んできて事故を起こし、なおかつ逆上して襲いかかって来た男を跳ねのけようとして思い切り蹴とばしました。トラックの運転手は、後頭部から地面に倒れ、頭から血を流したまま動かなくなってしまいました。過剰防衛の罪に問われた父は、警察に収監され、裁判で実刑判決を受け、服役しました。寡黙な父は、警察で多くを語らず、そのため、正当防衛であることの確証を得られないまま刑に服したのですが、服役して二年目の春、病死しました。
 祖母がおかしくなってしまったのは、父が亡くなってから後のことです。祖母は父が亡くなったと聞いても信じず、父はいつか必ず帰って来ると言って、家の前で、周辺で、ひたすら父の帰りを待つようになりました。あなたのように声をかけ、追いかけたことは一度や二度ではありません。でも、今日のように、抱きついて離れないなどということは一度もありませんでした。あなたが父に似ているというわけでもないのにどうしてだろう、私は不思議でなりませんでした。このままでは祖母はあなたから離れない、そう思った私は、あなたにうちへ来ていただくことにしました。案の定、祖母はあなたが家の中へ入るのを見て、安心して眠りました。本当にありがとうございます」
 女性はそう言って、木内に深く礼をした。
 「いえ、お礼なんてとんでもありません。たまたま私があなたのお父さんと年が似通っていたので、間違えただけだと思います。最初は戸惑いましたが、実は私、少し嬉しかったのですよ」
 「嬉しかった?」
 「私、天涯孤独の身の上でしてね。ずいぶん前から身内と呼べるものが存在していないのですよ。その私が、たとえ人間違いであったとしても、いきなり声をかけられ、抱きつかれ、泣かれた時は本当に驚いて――、でも、途中から母親に抱きつかれているような気がしましてね、嬉しかった」
 女性が木内の顔を見て聞く。
 「天涯孤独って、どういうことですか?」
 木内は自分を嘲るようにして言った。
 「すべて私が悪いのです。刑務所を行ったり来たりしているうちに、父母が亡くなって、兄弟とも縁きりになり、親戚縁者とも縁遠くなってしまいました。一週間前に出所して、職もなくこの辺りへ流れ着き、ふらふらと歩いていておばあちゃんに声をかけられました。声をかけられていなければ、私、また、犯罪を起こして刑務所に逆戻りするところでした」
 正直に言って木内は頭を下げた。声をかけられていななければ、間違いなく空き巣を働いていただろう。そして間違いなく、今回も田辺刑事の厄介になっていたに違いない。
 「祖母が声をかけなければ犯罪を起こしていたのですか?」
 「そうです。私は泥棒なのです。これまで散々、空き巣を働いて皆様に迷惑をかけてきました」
 自嘲気味に笑って立ち上がり、お暇を乞おうとすると、女性が言った。
 「良ければ、もう少し祖母の傍にいてあげていただけませんか。夜には私の夫も帰ります。できれば、お泊りいただいても結構です」
 木内は、ポカンとした顔で女性を見た。この人は何を言っているのだろう。泥棒を家に招き入れて不安ではないのか。私は信用されるような立派な人間ではない。木内がそのことを告げようとすると、女性が言った。
「もうそろそろ、祖母が起き上がって来ます。起き上がって来て、あなたを探し始めます。できればもう少しだけ、祖母のそばにいてあげてください」
「ちょっと待ってください。私、空き巣なのですよ。泥棒です。そんな男を家において不安じゃないのですか。私、犯罪者なのですよ」
 大声で叫ぶようにして言った。その時、応接室のドアがスーッと開いて、いつの間に起きてきたのか、老婆が立っていた。
 「貞夫、一緒にご飯を食べようね」
 笑顔を浮かべて老婆が言った。
 ――夕暮れの住宅街を、木内は、老婆と共に手をつないで歩いた。人と手をつないで歩くなど、木内には幼児の頃の記憶しかなかった。幼い頃、母親と手をつないで買い物に行った記憶が木内の中に鮮明に残っている。それが今、感動の記憶として、木内の中に新たな形で甦ってきた。
 老婆が鼻歌を歌っているのが聞こえる。美空ひばりの歌だろうか、港町十三番地の歌声が老婆の口から洩れてくる。穏やかな表情と軽やかな足取りは、昨日の老婆にはなかったものだ。
 「今晩は、貞夫の大好きなすき焼きだよ」
 眼を細めて老婆が言う。貞夫はすき焼きが好物だったのだろうか。すき焼きを囲んで家族で食事をしている風景が目に浮かんだ。木内には、どんなに思い出そうとしても、そんな風景など出てこない。一人で台所の片隅でインスタントラーメンを食べている、そんな風景だけが思い出された。
 公園を歩き、横丁の煙草屋で老婆はタバコを買った。
 「おじいちゃんがさあ、ハイライトが好きでね。一日に一箱吸ってしまうんだ。身体に悪いからやめなさいと、どんなに止めても聞かないのよ。だから、私よりずっと若いうちにあの世へ逝ってしまった」
 仏壇に飾るのだろう、ハイライトを大事そうにポケットに仕舞い込んで、おばあちゃんは、再び鼻歌を歌い始めた。江利チエミの「テネシーワルツ」だ。おじいちゃんとの思い出の歌なのだろうか。木内は、その歌を聞きながら、こんな牧歌的な時間を過ごしたことが、これまでの自分の人生にあっただろうか、とふと思った。
 家に戻ると、女性が待っていた。
 「ずいぶん遅かったわね。お祖母ちゃん、上機嫌だね。よかったね。晩ごはんの用意が出来ているから食べてくださいね」
 木内は老婆に聞こえないように、女性の耳元にそっと耳打ちをした。
 「私、このままそっと家を出ます。食事までお世話になるわけにはいきませんから」
 帰り支度を始めようとする木内の袖を女性が引っ張った。
 「そういうわけには行きません。主人から確保して帰さないようにしておいてくれと言われていますので」
 「確保して?」
 その言葉に木内はドキンと胸を打った。逮捕される瞬間に言う警察の言葉によく似ていたからだ。
 「主人がもうそろそろ帰って来ます。もうしばらくお待ちください。それにあなたの分まで大量にお肉を買っています。食べていただかないとこちらも困ります」
 ともかく木内は家に止まるしかなかった。荷物を置き直して食卓に座ると、すき焼きの甘い匂いが鼻を突いた。朝から何も食べていない。胃袋がグーッと大きな声を上げた。
 「貞夫、こっちにお座り」
 老婆が木内を呼ぶ。老婆の隣の椅子に腰をかけると、別の部屋にいてテレビを観ていた二人の子供が木内のそばに寄って来た。
 「おじちゃん、おばあちゃんの子供なの?」
 小学生中学年ぐらいの男の子と、低学年らしい女の子が物珍しげに寄って来て、木内に聞いた。
 「おじちゃんは――」
 子供たちに木内が説明をしようとすると、それを遮るようにして老婆が言った。
 「貞夫、お前の孫たちだよ。可愛いだろ」
 と子供たちを眺めながら木内は思った。自分も普通に生きていたら、きっとこんな子供たちに囲まれて幸せな日々を過ごしていただろうと。
 玄関のインターフォンの鳴る音がして、バタバタと女性の歩く音が聞こえた。しばらくして女性が木内のところへやって来て、
 「主人が帰って来ました。お待たせしました。今から食事にしますね」
 と言う。木内は緊張した面持ちで座り直し、この家の主人が現れるのを待った。
 そう言えば、この家の名前は――、と考えて、お互いに名乗り合わずにいたことを思い出した。玄関を何度か行き来したのに、表札の名前さえ見ていなかったことに気が付いた。
 「お久しぶりだね」
 木内の座る椅子の背後から声がした。驚いて木内は振り返り、顔を見て、アッと声を上げた。
 「田辺さん!」
 大阪府警捜査三課の田辺刑事がそこにいた。
 「なんでここに?」
 田辺刑事がなぜ、ここにいるのか、木内は、事態がまるで掌握できずにいた。
 「この家は私の家だよ。妻から電話がかかって来て、おばあちゃんが、お父さんと間違えて、見知らぬ人に抱きついて離れないので家に来ていただいています、と言うので、どんな人だと聞くと、妻がその人物について説明した。それを聞いているうちに、木内さんじゃないかと思えて、確保しておいてくれと頼んだわけだよ」
 偶然にしては出来過ぎだと思った。こんなことがあるのか、と不思議にも思った。
 「刑事さんの家だってこと知っていたら、こうまで長居はしませんでした。いろいろお世話をいただいて申し訳ありません。一週間前に出所したばかりです」
 「俺だって驚いたよ。木内さんが出所したことは聞いていたから、一度、どこかで会わなきゃと思っていたところだったからね。まさか、こういう形で会えるとは夢にも思っていなかった」
 縁だと木内は思った。田辺にはこれまでずいぶん世話になって来た。身寄りのない木内のために、差し入れをしてくれたり、更生のための世話も何度かしてくれた。しかし、それらの好意をこれまで木内はことごとく無にしてきた。生来のひねくれ根性が災いして、人の善意を素直に受け取れないところが木内にはあった。親切の裏には何かあるのだろう、魂胆があってやさしくしてくれているに違いない。だから人の好意や親切、思い遣りを素直に受け切れない。田辺の親切や好意にしてもそうだ。自分のような人間に刑事が親切にしてくれるはずがない。何か裏があるのだろう、そう思って来たから、田辺の好意から逃げてきたところがあった。今回の出所にあたっても、田辺が更生のための職や住まいを考えてくれていたことは刑務官から聞いていたが、それらを無視して刑務所を出た。それがこういう形で再会するとは――。木内は人の縁の深さに驚いた。
 「とにかく食べよう。木内さん、遠慮なく食べてください」
 田辺が勧める。木内は煮えたぎったすき焼き鍋の中に箸を差し入れ、肉を挟むと生卵を入れた皿の中にその肉を落とす。口に一切れ肉を入れると、あまりのおいしさに木内の目から涙がこぼれ出た。頬張ると、また、涙が噴き出す。温かなご飯を口に含み、一口、二口噛むと、堰を切ったように涙が溢れ出した。
 「貞夫、しっかり食べや」
 老婆が木内の肩を叩く。木内は大きく頷きながら、再びすき焼きの肉を口に入れる。涙と共に笑顔が木内の顔に溢れ出た。
 「はい、おばあちゃん」
 それを見て、田辺と田辺の妻、子供たちが笑った。刑務所の中で、夢にまで見た光景が今、広がっている。木内は、自分は今まで何をして来たのだろうかと、改めて思い直した。

 ――アル中で酒乱の父は、家族に対するDVもひどかった。木内は、自分が楯になって幼い妹を守り続けてきた。母が家を出て行方不明になり、父の暴力は一層、ひどくなった。その上、父は酒代を稼ぐために、小学生の木内に盗みを働いて金を稼ぐよう強要した。木内が断ると、父は殴る蹴るの暴力を加え、妹にまで手をかけ始めた。木内は、妹を守るために、仕方なく父に従い、盗みを働くようになった。
 常習となった木内は、空き巣を働いては父に盗んだ金を渡す。すると父は上機嫌になり、一切、暴力を働かなくなった。しかし、いつも成功するとは限らない。失敗し、警察に捕まり、補導されることも度々で、やがて、中学生の頃、そういった児童を更生させる施設に三カ月ほど入院した。妹が亡くなったのは、木内が更生施設に入っている時だった。
 退院して、妹が亡くなったことを知った木内は、アル中の父を置き去りにして家を飛び出した。肺炎になった妹を病院にもやらず放っておいた父に対する怒りは、そのまま、社会に対する木内の怒りと重なり、社会悪の存在として、木内は生きて行くようになった。
 少年院、刑務所――。そういった施設を行き来して、成長した木内は、この世の中でおいてけぼりのような存在になり、家庭も持たず、人を信じることもなく、孤独の中で五十歳になるまで生きてきた。

 「木内さんに紹介したい仕事があってね。何度か連絡を取ろうとしたのだが、こちらも忙しくてね。仕事に忙殺されている間に時間が過ぎてしまった。申し訳ない。明日にでも、一度、その仕事先へ面接に行ってもらえないだろうか」
 と、食事をしながら田辺が言った。
 「私のような人間を仕事先の方にご紹介いただいたら、田辺さんにご迷惑をおかけします」
 「木内さんも五十だ。そろそろ本気になって新しい人生にチャレンジする時だと思う。今の年から新しい仕事を覚えるのは大変だろうけれど、俺はやってみるべきだと思うよ」
 「――ありがたいことです。でも、田辺さん、どうして私のような人間にそこまで親切にしてくれるのですか?」
 「木内さんにまともな人生を歩んでほしいと思うからだよ。まだまだ人生はやり直せる。俺はそう信じている」
 二人の話を聞いていた田辺の妻が口を挟んだ。
 「木内さん、人の親切に理由は必要ないと思います。差し出がましいですが、田辺の木内さんに対する思いやりの気持ちは、警官としての自然な心の発露です。素直に受ければそれでいいと思うのですが」
 老婆が木内を見て頷いている。その老婆の顔を見て、木内は自分が恥かしくなった。
 「ありがとうございます。本当にありがたいと思っています。田辺さんのご好意に甘える形になりますが、どうぞよろしくお願いします。相手先に喜んでもらえるよう精一杯頑張りたいと思います」
 木内の言葉が終わるか終らないうちに、木内のグラスに冷たいビールがなみなみと注がれた。

 翌日、木内は、田辺と共に家を出た。老婆は、木内が仕事に出て行くと思ったようで、玄関先で田辺の妻と共に、「行ってらっしゃい」と言って手を振った。
 「おばあちゃんは大丈夫でしょうか?」
 老婆を振り返りながら木内が言うと、田辺は、
 「木内さんのおかげで、おばあちゃんは父が帰って来たものと思い込んでいる。しばらくの間は大丈夫だと思いますよ」
 と言って笑った。
 鶴見という地区にある木材工場が田辺の紹介先の仕事場だった。木材を加工してタンスなどの調度品を作ったり、加工製品を製造する会社で、この会社には前科のある人間が多く働いており、木内が入社しても特別な眼で見られたり、差別を受けることはないと、田辺は話した。
 社長に面接した木内は、これまでの履歴を包み隠さず話した。泥棒だと知った社長は、
 「じゃあきっと、手先が器用なんだ。うちの仕事には役立つと思うよ」
と言って、豪快に笑った。
 住居も同時に世話をしてくれることになり、今日からでも働きたいと申し出た木内に、社長は言った。
 「今日はゆっくりして明日から頑張ってください。田辺さん、今晩、例の店でお会いしましょうか。いい人を紹介してくれたからそのお礼に一杯やりましょう」
 田辺は恐縮しながら、木内に言った。
 「会社からは少し遠いけれど、住まいからはそう遠くない場所に、『えびす亭』という店があります。安くて居心地のいいお店です。いろんな客がいますから、きっと木内さんも歓迎してくれると思いますよ」
 人と交わることが苦手で、酒の席でもほとんど喋らない木内を歓迎してくれる店などあり得るはずがないと思ったが、木内は、社長と田辺の言葉を拝聴して、
 「よろしくお願いします」
 と短い言葉で答えた。
 その日の夜、木内は社長に教えられた住まいに行き、社長にいただいた支度金で、身の回りの生活用品を買い、食料を買い込んだ。1DKのマンションで、冷暖房の設備やガスコンロの設備、カーテンなども予め用意されていた。布団をどうにかしないといけないと思っていると、配達がやって来て、布団が届いた。社長の手配によるものだった。
 時間が来て、待ち合わせた駅に着くと、社長がすでに待っていて、しばらくして田辺刑事もやって来た。
 「いやあ、事件が起こらないかとヒヤヒヤしたよ。どうにか間に合ってよかった」
 田辺刑事はそう言いながら、木内と社長を先導した。
 駅からそう遠くない場所にその店があった。吹き溜まりのような路地に数軒の店が軒を連ねている。そのうちの一軒が「えびす亭」だった。
 「立ち呑みの店で申し訳ない。もっといいお店あると思うんだけれど、俺も社長もこの店が一番落ち着いて酒が呑めるんだ。木内さんが気に入ってくれればいいんだが」
 木内に説明しながら田辺はガラス戸を開けた。
 「ヨオッ、たーちゃん、いらっしゃい」
 店の者ではなく、客から声が飛んだ。えらく人の多い立ち呑み店である。しかも騒動しい。木内は、田辺がこの店で、「たーちゃん」と呼ばれていることに驚いた。
 「ゲロちゃん、いつも元気だね」
 社長のことを客たちがゲロちゃんと呼ぶ。木内が怪訝な顔をしていると、田辺が木内に耳打ちをした。
 「社長、初めてこの店へ来た時、ずいぶん酔っぱらっていてね、ゲロしたことがあるんだ。以来、社長はこの店ではゲロちゃんとみんなから呼ばれている」
 その時、一人の客が木内に向かって声を上げた。
 「お客さん、初めてだね。名前なんて言うの?」
 「木内甫と申します」
 「甫?」
 「そうです。通称、空き巣のはじめです」
 木内がそう答えると、店内の客たちが爆笑した。
 「お宅、空き巣をしていたの?」
 「ええ、でも、どうにか卒業できそうです」
 「たーちゃんが一緒だものね。この人、刑事だけれど人にやさしいものね。たーちゃんに監視されると悪いことなんてできないもの」
 客の男がそう言って田辺刑事を指さした。客の一人が木内に酒を注ぎながら、
 「みんな、この人の呼び名は、はじめちゃんだ。どうだ、かわいいだろ」
他の客たちがドッと笑い、
 「それはいいや。空き巣のはじめちゃん、今日からそう呼ばせていただきます」
 と、全員が声を揃えた。
 木内は小さくお辞儀をし、なみなみとビールの入ったグラスをそっと上にかざした。顔を上げられなかったのは、涙の粒が一滴、二滴、零れ落ちそうだったからだ。
 その日、木内は生まれて初めて、酒の味に酔った。
<了>

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