温泉旅行恐怖の連続殺人 前編
高瀬 甚太
1
藤堂歯科医院では年に一度、慰安旅行を行うのが慣例になっている。スタッフは全員で十六名。この中には医院外の出入り業者も含まれており、藤堂歯科医院に出入りする薬を扱う問屋の営業マンが、毎年二名参加することになっていた。
この慰安旅行に、なぜか、藤堂歯科医院とはまったく無関係の極楽出版の編集長、井森公平と臨時雇いの江西みどりが含まれていた。
旅行先は国内もあるが海外の時もあった。去年はグアムに出かけている。
旅行をプランする責任者は受付担当の下條小百合、今回は白浜温泉への一泊旅行を企画した。
午前8時、天候に恵まれた快晴の朝、全員が新大阪駅中央改札口に集合し、オーシャンアローに乗りこんだ。新大阪駅から白浜駅まで約2時間余の行程になる。
オーシャンアローは、この時期6両編成で運転されている。一行はグリーン車に乗車し、井森とみどりは、最前列の席に座った。
列車は、京都を出て、新大阪駅、天王寺駅、和歌山駅、御坊駅、紀伊田辺駅と停車して白浜駅に到着する。それぞれの指定席に着席したスタッフは、読書する者、イヤホンで音楽を聴く者、眠る者、会話を楽しむ者、白浜駅に到着するまでの時間をそれぞれの趣味に合わせて過ごした。
出発後、幹事の下條小百合が全員に白浜駅到着時間を告げて、その後のスケジュールを説明した。
「白浜駅に到着後、全員バスに乗車し、白浜の名所である円月島や千畳敷、三段壁などを巡ります。その後、ホテルに到着し、食事時間まで自由に行動してください。翌日は白浜アドベンチャーワールドで過ごし、夕方の便で帰阪します」
これが下條のプランした計画だったが、このスケジュールに対して、内部から多少の不満も出た。白浜と言う比較的近場の温泉場と言うこともあり、名所旧跡についてはすでに見知ったものが多く、今さら修学旅行なみの観光はどうか、それよりも各々自由に行動したほうがよいのでは、と言う意見だ。もっともな意見ではあったが、医院全体の慰安旅行でもあり、やはりある程度の団体行動は必要ではないか、との下條の意見を院長の藤堂切人が採用し、下條のプランに従っての旅行となった。
井森が今回の旅行に特別に招待されたのは、藤堂院長のたっての依頼があったからである。
一週間前、藤堂院長宛に一通の封書が届いた。送り主の記されていない封書に、不信感を抱いた藤堂が、恐る恐る封書を開けると、朱色の文字で、
『藤堂歯科医院温泉旅行は、殺戮の旅となる。覚悟せよ!』
と書かれていた。
通常なら他愛もない悪戯と笑って破り捨てるところだが、藤堂は、温泉旅行と記してあることに不安を抱き、一時は、旅行の取りやめも真剣に考えた。だが、年に一度の慰安旅行である、しかも悪戯かも知れない脅迫状に屈して取りやめにするのは旅行を楽しみにしているスタッフに申し訳ない。苦慮した結果、警察に相談をしようかとも考えたが、脅迫状一枚に警察が動くとも思えず、さらに熟慮した後、当院を利用している患者の一人、井森公平に相談をした。藤堂は、井森に脅迫状の件を話し、危惧している旨を伝えると、好奇心旺盛な井森は興味を示し、同行を快く承諾した、というのが井森と江西みどりが参加に至った経緯である。
院内スタッフの一人、青山昭彦は今回の旅行を下條に進言した一人で、白浜行きを非常に楽しみにしていた。理由は、白浜に隣接した田辺市に青山の大学時代の友人が住んでいたからである。すでに青山は友人に連絡を取っており、食事を終えた時間帯に友人がホテルにやってくることになっていると、列車内で井森に話して聞かせた。
他にも今回の旅行を楽しみにしていた者がいた。笠井清と清水紀代子の二人だ。笠井は歯科技工士で三三歳、夏場になると必ず毎年、白浜温泉へ行き、家族で一緒に過ごすのが定番になっている。その際、貸別荘を借り、一週間程度の休日を取るのだが、秋の季節の白浜温泉はこれまで来たことがなく、非常に楽しみにしていた。
清水紀代子はスタッフの中で一番の若手で、十八歳である。見習い歯科衛生師としてこの四月、藤堂歯科医院に入ったばかりで、慰安旅行に参加するのは今回が初めてだ。宮崎県出身で、白浜温泉には馴染みのない清水は、今回の旅行をずいぶん楽しみにしていた。
参加者の中には、不参加を表明して、藤堂に説得され、渋々参加した者もいた。遠藤静子がその一人だ。彼女は、藤堂歯科医院に創設当初から勤務しているベテラン医師で、女性スタッフのリーダー的役割を担っている。
彼女は最近、長年付き合った婚約者とこの夏、別離している。それが尾を引いて仕事にも支障が出るようになった。それもあって、今回の旅行を辞退しようと考えていた。
林安代も参加をためらった一人だ。彼女の場合、普段から母の介護を行っており、今回も介護のために当初は不参加を示していたが、彼女の姉が急きょ、彼女に代わって介護することになり、一転して参加を決めた。
他にも、医院のスタッフたちとコミュニケーションが取れず、疎外感の強かった東藍子が不参加を届け出ていたが、下條の熱心な説得を受けて急きょ参加することになった。
マウスピース担当の但馬紀夫は、あまり感情の起伏を表に現さない男性で、今回も喜んでいるのか、嫌がっているのか、能面のような無表情さを崩すことなく参加を決めた。但馬の下で働く坂本祐介は、歯科大を出て、証券会社に三年勤めた後、歯科医療の世界に舞い戻って来た変わり種で、仕事熱心だが頑固なところがあり、先輩の但馬を悩ませることが多かった。彼もまた、今回の旅行を歓迎しているのかいないのか、判然としないところがあった。
三田あすかは、家が代々歯科医の家系で、勉強のため藤堂歯科医院で働いている。後、二年ほどしたら父が経営する歯科医院に戻る予定だ。
山本紗耶香は、下條の紹介で藤堂歯科医院に入った、腕の立つ歯科技工士で、下條より一歳下で同じ大学の先輩後輩の間柄であった。
経理を担当する広島頼子は藤堂よりも年長で、四十代後半の最年長者である。唯我独尊、我が道を行くスタイルの彼女だが、旅行には毎回参加している。
今回、特別に参加した水田孝治と佐藤稔は、藤堂歯科医院に医薬品を納入する薬問屋の営業マンで、二人とも二十代半ばと若かった。
京都駅を出て、天王子駅を過ぎ、もう少しで和歌山駅に到着しようとした時のことだ。
「先生、遠藤さんの様子がおかしいんですけど……」
眠りかけていた藤堂に下條が声をかけた。
「遠藤が……?」
ベテラン医師の遠藤静子は藤堂の5列後ろの座席に林安代と共に座っていた。遠藤がおかしいと下條に伝えたのは林だった。
下條と藤堂が遠藤の席に近づくと、遠藤は顔面を真っ青にして、身体を折り曲げるようにして苦しんでいた。
「下條くん、急いで車掌に伝えろ」
藤堂が下條に指示をし、遠藤の脈を測った。
1分と経たずに車掌がやって来た。
「どうかしましたか?」
車掌の問いに藤堂は、
「即刻、病院へ運ばないと危険です。脈拍も弱くなって来ている」
と説明し、
「車内に医師がいないか、確認してもらえませんか。病院へ運ぶまでの間、応急処置が必要です」
と付け加えた。
車掌はすぐに車内アナウンスをし、その後、病院へ連絡を取った。遠藤の呼吸が一層弱くなっていた。
「遠藤さんはいつからこうなのですか?」
駆け付けた井森が林に聞いた。
林は、困ったような顔をして、
「乗車した時は何ともなかったんですけど、新大阪駅を出発して、幕の内弁当を食べてから急に様子がおかしくなりました」
と答えた。
「食中毒かしら?」
と下條が言った。だが、それにしてはおかしい。遠藤の他にも弁当を買った者はたくさんいたからだ。他の者が大丈夫なのに遠藤だけが食中毒にかかるとは考えにくかった。
「お医者さんをお連れしました」
車掌が医師を連れてやって来た。医師は、遠藤の容態を見るなり、
「患者を横にします。手伝ってください」
と言い、井森とみどりが手伝って遠藤を通路に横たわらせた。
年輩の医師はカバンから医療器具を出すと、遠藤の瞳孔を確認し、口の中を見て、心音をチェックした。
「非常に危険な状態です。毒性のものを口にしている可能性があります。至急、病院へ運ばないと」
と車掌に緊急事態であることを告げた。車掌は、
「後5分ほどで和歌山駅に到着します。駅に救急車が待機していますので」
と説明し、
「それまでの間、応急処置をお願いします」
と医師に言った。
医師は、カバンの中から解毒剤のようなものを取り出すと、それを遠藤の口に含ませた。
「解毒剤で対応出来るかどうかわかりませんが――」
いつの間にか、通路に、藤堂歯科のスタッフをはじめとするたくさんの人が集まっていた。遠藤は、通路に横たわったまま、口から泡を吐き、苦痛に顔を歪ませていた。
2
遠藤は和歌山駅で待機していた救急車で運ばれることになり、林安代が遠藤に付き添うことになった。
「遠藤くんのことを頼む。様子がわかったら携帯に電話をかけてくれ」
藤堂はそう言って、林を遠藤の付き添いに付け、救急車を見送った。
救急車への搬送のため、藤堂歯科医院の一行は、一度列車を降り、次の便に乗り換えることになった。
次の列車は1時間後に和歌山駅に到着する。
「編集長、遠藤さん、どうしたのでしょうね」
搬送が終わり、病院へ送りだした後、みどりが井森に尋ねた。井森は、
「毒性のものを口にしたのではないかと医師は言っていたが、どうなんだろう?」
と言って顔をしかめた。なぜ、毒が……。本当に毒なのか……。
御坊駅を過ぎ、紀伊田辺駅を過ぎても藤堂に林からの連絡は届かなかった。
やがて列車は白浜駅に到着した。
駅に到着するや否や、藤堂の携帯が鳴った。
着信をみると非通知になっていた。
――もしもし……
藤堂が出ると、明らかに変質させた声で
――藤堂か……?
と尋ねてきた。
――そうだが、きみは?
――スタッフが急病で倒れて命が危ないと言うのに呑気に白浜旅行かね? 相変わらずだな。
――命が危ない? どうしてそれを知っているんだ。
――私が毒を仕掛けたからさ。彼女の命は風前の灯だ。
――なぜ、彼女の命を狙った? きみは一体何者だ?
――ふ、ふ、ふふふ……。
――何がおかしい。
――彼女を狙ったのは、単なる警告のためだ。本命は藤堂院長、あんただよ。
――何!?
――あんたの命が欲しいと言ったのさ。ただ、簡単に殺してはつまらない。そこであんたのスタッフの命を狙わせてもらった。あの女だけじゃないぞ。この先、何人ものスタッフの命を狙わせてもらう。そして、最後は藤堂、おまえだ。せいぜい白浜を楽しみな。
それだけ言い捨てて電話は一方的に切れた。
「先生、どうかしたんですか?」
傍らにいた下條が心配そうに藤堂に尋ねた。他のスタッフは駅を出たところで待っている。
「いや、何でもない。早くバスに乗ろう」
藤堂は下條やスタッフに心配をかけまいと、わざと明るい声で言ってバスに乗り込んだ。藤堂の様子に不審なものを感じた井森は、バスの中で藤堂の隣に座り、確かめようとした。
その時、人数を確認しようとした下條が声を上げた。
「あらっ、二人いません。佐藤さんと東さんだわ。困ったわ。どこへ行ったのかしら」
藤堂は不吉な予感に襲われてバスを降りた。その後を追いかけるようにして井森も降りた。
「佐藤――」
藤堂がつぶやいた。
佐藤がバスに向かって走って来るのが見えた。
「すみません。トイレに行っていまして」
佐藤は、平謝りに謝って、慌ててバスに乗り込んだ。
「東を見なかったか?」
藤堂が確認すると、佐藤は首を振って、
「見ていません」
と答えた。
「東さん、どうしたのかしら?」
下條が思案にくれていると、藤堂が、
「気になるから私が見てくる。みんなは先に行っておいてくれ。後で合流する」
と言ってバスを発車させるよう促した。それを見た井森が藤堂に声をかける。
「院長はバスでみんなと一緒に行ってください。私が残って調べます」
「私も一緒に行きます」
みどりがすかさず声を上げたが、井森はそれを制するようにしてみどりに言った。
「きみはみんなのことを頼む。すぐに追いつくから」
そもそも今回の旅行に江西みどりを同行させる予定はなかった。井森一人で参加する予定が、みどりが割り込み、藤堂に直訴したことで急きょ、みどりの参加が決まった経緯がある。藤堂は、みどりが井森の重要なスタッフと勘違いしたようだ。
みどりは短期に雇ったパートの一人で、その期間もすでに過ぎていた。本来ならやめてもらわなければいけなかったのだが、運の悪いことに急な仕事が入った。それで仕方なく、雇い続けている。そのことを藤堂に告げようと思ったが、藤堂はすっかりその気になっていて、井森の話をろくに聞かない。藤堂は井森が遠慮をしているとでも思ったようだ。
バスが出発するのを見送って、井森は駅周辺を見回った。どこにも東藍子はいなかった。
井森は駅員に尋ねた。
「先程、下車した者ですが、一人、どこへ行ったかわからなくなりまして、二十歳ぐらいの女の子ですが、ご存知ありませんか?」
駅 員は首を傾げてしばらく考えていたが、
「この駅で間違いなく下車しましたか?」
と聞いた。
「はい、間違いありません。全員で列車から下車しましたから」
「そうですか。おかしいですね。見てご覧の通り、何もない殺風景なところですから隠れようがないのですがね」
白浜駅は海辺から離れた山に近い場所にある。そのため、海岸の賑わいは、この駅周辺にはない。
仕方なく井森はもう一度、駅周辺を探してみることにした。だが、東藍子はどこにもいなかった。
その時、井森の携帯が勢いよく鳴った。
――編集長、藤堂です。
藤堂からの電話だった。
――林くんから、遠藤が一命を取り留めたと連絡がありました。
――よかった。それで遠藤くんの病状はどうですか?
――もう少し遅かったら危なかったようですが、どうにか助かったようで、安心しました。編集長、遠藤は毒を飲まされていましたよ。
――やっぱり毒ですか。
――東くんは見つかりましたか?
――いえ、まだ、見つかっていません。もうしばらく調査して合流します。
井森は電話を切ると、駅周辺をもう一度見渡した。東藍子が潜んでいるような気配などまったくしなかった。
3
千畳敷でバスに合流した井森は、東藍子の携帯を鳴らしてくれるよう下條に頼んだ。
「バスを出発する前から何度も電話しているのですけど、つながらなくて……」
下條が不安げに井森に言った。
東藍子は疎外感が強く、人と群れるのが苦手な女性だったが、下条にだけは違った。他の女の子たちとはあまり口を利かないが、下条にだけは心を開き、何でも喋った。その下条が電話をしているのに出ない。下条が不安がるのも無理はなかった。
井森は藤堂に報告をした。
「駅周辺をくまなく探しましたが、彼女はどこにもいなかった。下車する時、一緒に降りたから間違いなく駅にいるはずなのに、どういうわけか見つかりません。もしかすると事件に巻き込まれた可能性があります」
井森の言葉に、藤堂が天を見上げた。その時、薬問屋の営業マン、佐藤が、
「あのう……」
と言って手を上げた。
「どうした?」
藤堂が訊ねると、佐藤が、
「ぼく、東さんらしい人を見かけました。多分、東さんだったと思うのですが……」
恐る恐る話す。それを見た下條が、
「何でそれを早く言わないのよ。あれだけみんなで心配していたというのに」
と佐藤に激しく詰め寄る。
「すみません。東さんかどうか自信がなかったものですから」
と、佐藤は謝罪し、その時の様子を藤堂と井森に話した。
「トイレに行って、早くバスに乗らなくちゃと思って急いでいたら、女子トイレを出たところに東さんらしき人物がいたんです。急がないと、と思って声をかけようとしたら、男が一人東さんに近寄って――。男の顔はわかりませんでした。ぼくも、東さんかどうか、自信がなかったので、そのままバスに向かったんです」
「東さんと思われる一緒にいた男の風体を覚えていますか?」
井森の問いに佐藤は明確に応えることができなかった。
「それが、はっきりわからないんです。野球帽のようなものを被っていて、サングラスをかけていました。ぼくが覚えているのはそれだけです」
それを聞いた藤堂は、井森とみどりを含む参加者全員を集めて言った。
「実は、私の携帯に、先ほど、ある人物から電話がありました。その人物は、遠藤さんを手にかけたと私に言いました。幸い、遠藤さんは寸でのところで一命を取り留めました。だが、今度は東さんが行方不明になった。私のところへ電話をかけてきた人物の狙いは私にあると言いました。だが、それだけでなく、私のスタッフを次々、手にかけると宣言してきました。このように二つの事件が相次ぐと、満更、嘘とは思えない。皆さんにお伝えしておきたい。私同様にあなた方も狙われている。どうか気を付けてほしい」
ホテルにチェックインすると、午後4時半を過ぎていた。下條は、予め決めていた部屋の振り分けをそれぞれに伝えた。二人一部屋、下條は清水紀代子と同部屋、みどりは三田あすかと同部屋になった。水田と佐藤、坂本と但馬、山本と行方不明になっている東、広島と林、青山と井森が同部屋になり、藤堂だけが個室を取った。
遠藤に付き添っていた林安代は午後6時の食事前に到着した。藤堂は不慮の事態に備え、宴会場での食事会を中止にするよう下條に伝え、食事の後、全員にホテルの外へ出ないよう通告した。
午後9時を過ぎたところで、藤堂の部屋のドアがノックされた。藤堂がドアを開けると、下條が立っていた。
「どうした?」
藤堂が訊ねると、下條は、
「東さんが……」
と言う。
「東がどうした?」
藤堂が聞くと、下條は悲痛な表情を浮かべ、
「見つかりました」
と言う。
「そうか、どこで見つかった? ホテルに帰ってきたのか」
下條はそれには応えず、大きな泣き声を上げ、藤堂の胸の中に倒れ込んだ。
東藍子と思われる人物は円月島を眺める対岸の岩場で死体となって発見された。
午後7時過ぎ、浜辺を散歩していた新婚旅行のカップルが暗がりの岩場の中に、白いものがぶら下がっているのを発見、不審に思って近づいたところ、女性の死体であることがわかった。カップルはすぐに警察に通報し、駆けつけた警官はその持ち物から東藍子であることを確認した。
藤堂と井森が白浜署に駆けつけると、警察は死体を安置する場所に案内した。藤堂が遺体の顔にかけられた白いハンカチを取ると、現れた顔は意外にも東藍子ではなかった。
「違います。東藍子ではありません。別人です」
藤堂が遺体を確認して警官伝えると、警官は、遺体の遺留品を藤堂に差し出した。
東藍子が愛用していた赤いポーチ、衣類が入ったバッグなど、三点あまりの遺品がそこにあった。
「所持品はすべて東藍子のものに間違いありませんが遺体は本人ではありません」
立ち会った警官に藤堂が説明をすると、
「おかしいですね。どういうことでしょうかね」
と、警官は首を捻った。
その時、安置室のドアが開いて、二人の男性が飛び込んできた。
「遅くなりました。原野です」
入って来たのは原野警部とその部下の木下刑事だった。井森が驚いて、
「原野警部!?」
と、声をかけると、原野警部も井森を見て目を見開いている。
「編集長……? どうしてここへ?」
4
今回の殺人事件が、大阪で頻発している事件と関連性があると判断した白浜署が大阪府警に連絡をした。要請を受けた担当の原野警部は、部下の木下刑事を連れてパトカーを飛ばして大阪から急行した。
大阪での一連の事件というのは、若い女性ばかりを狙った殺人事件で、八月以降、三件が頻発している。その殺害方法が三件とも酷似していることから、同一人による殺人事件としてみて、捜査をしていた。
白浜署が通報を受けて現場に駆けつけた時、死体をみて、すぐに想起したのが大阪の事件との関連だった。現場を見た警官は、大阪で起きている若い女性を狙った連続殺人事件と酷似していると判断し、上部に届け出た。
当初、原野警部は、大阪で起きている事件と同一の犯行であることに疑問を持っていた。
殺害された女性の年齢はどの被害者も二十代半ば。身長1メートル62センチ程度で、色白でやせ形のショートカット、首を固いロープ状のもので強く締められたことによる窒息死。死体は俯せの状態で放置されていた。
――それが大阪の事件の特徴である。
大阪で事件を起こした犯人が、同じ近畿地区とはいえ、白浜までやって来て事件を起こすだろうか、原野警部が抱いた素朴な疑問であった。
しかし、実際に現場の状況や、死体の状態を確認すると、大阪の事件と寸分も違っていないように見えた。
「間違いなさそうですね警部。大阪の事件と殺害方法が酷似しています」
木下刑事は、原野警部にそう告げた。
白浜署の宮本刑事は、原野警部に事件の状況を改めて説明をした。
「被害者は、放置されていた場所で殺害されたとみて間違いないでしょう。解剖の結果を待たないといけませんが、死亡推定時刻は本日午後6時から7時までの間。また、暴行や性行為目的でないことは遺体の様子からみて明らかです」
宮本刑事の説明を聞きながら原野警部は思い悩んでいた。こういった事件を犯す犯人の目的が全くわからなかったからだ。
大阪で連続して起きた三人の女性殺人事件も、被害者の三人には何の関連性もなかった。犯人は、背後から女性の首をロープで締め付け、被害者を死に至らしめている。
「警部、解剖の前に被害者の歯を藤堂院長にみせてもらえませんか?」
井森が原野警部に言った。原野警部はキョトンとした顔をしている。
井森に代わって藤堂院長が説明をする。
「被害者の身元がわからない場合、歯の治療跡を診ますが、それ以外にも、歯を診ると、その人の人生、生活状態が歯に現れます。被害者の歯を診たら何か、わかるかも知れません」
原野警部が宮本刑事に確認すると、宮本刑事はゆっくり頷いて承諾した。
藤堂は遺体に近づくと、そっと唇を開き、口を開けた。冷たくなった唇は上唇が薄くて下唇が厚かった。細面で顔立ちのしっかりした女性は、一見して水商売風に見えた。
きれいな歯並びだった。歯は全体に小さめで、両側の奥歯に治療の跡がある以外、健康な歯に見えた。だが、よくよく見ると、上部の歯に矯正の跡がある。
「この女性は、見かけを気にする仕事をしていたようですね。よく手入れした歯をしていますし、ホワイトニング、矯正など共に定期的に行っている様子が窺われます、歯科医に当たれば身元確認は難しくないと思います」
藤堂はそう説明をすると、被害者の過去の人生について語り始めた。
「被害者の女性は、ごく普通の中流家庭で少女時代を過ごしていると思われます。推定年齢が二五歳前後と考えられますから高校を卒業して短大へ行って、平凡な学生生活をして……。だが、学生時代のアルバイトに問題があった可能性があります。そこで水商売のような派手な仕事を経験して、被害者の運命が狂った。その結果が今日の殺人につながった可能性がありますね」
白浜署の宮本刑事は、呆れたような顔をして、
「先生、いい加減なことを言ってもらったら困りますよ。歯を少し診ただけで被害者の人生までわかるはずないじゃないですか。ねえ、警部」
原野警部に相槌を求めた。しかし、原野警部は、それには応えず、
「じゃあ、先生は被害者を殺したのは被害者の知人だと? 流しの犯行ではないと?」
と藤堂に訊ねた。
「そうです。大阪での事件はわかりませんが、女性の歯の状況から判断すると、今回の事件は怨恨、痴情、どちらにしても憎悪がからんだ殺人のような気がします」
「なぜ。そんなことまでわかるのですか?」
原野警部が畳み込むようにして聞くと、今度は井森が藤堂に代わって答えた。
「歯にはその人の生活や環境が現れると言います。藤堂院長がおっしゃったように、被害者は、これまで、お金に恵まれた生活をしていたと思われます。ただ、手入れを怠らなかったわりに歯垢が、大した量ではありませんが残っています。この女性は夜型な暮らしをしていて、歯磨きを出勤前だけしかしていなかったような気がします。夜に働く女性は、一概に言えませんが、朝方近くに眠るので寝る前の歯ブラシを怠る人が多いようです。日に一度、出勤前に歯ブラシをする。この女性の歯にそんな生活ぶりが窺えます。ねえ、そうでしょう、藤堂院長」
藤堂は、ゆっくり頷いて、
「さすがは編集長だ。私よりも的確に歯の状態を見ている」
二人の会話を聞いて、収まらないのが宮本刑事だ。宮本刑事は、二人の話 をまったく信じていない。
「そんなアホな。歯を診ただけで、そこまでわかるなんて」
原野警部が、宮本刑事に抗議するようにして言った。
「宮本刑事、井森編集長は警察の人間ではありませんが、卓越した推理力と洞察力をお持ちの方だ。お気持ちはわかりますが、もう少し話を聞いてやってください」
井森がなおも言葉を続けた。
「この女性の死体は、すさまじい霊的エネルギーを放っています。多分、自分を殺した犯人に対する深い憎悪の故でしょう。この事件は決して流しの犯行ではないと思います。大阪の事件の殺害方法が今回の事件に酷似しているようであれば、その三人の女性の身辺もしっかり洗ってください。大阪の事件も今回の事件も決して流しの犯行ではありません」
井森の言葉に原野警部が大きく頷いた。
「わかった。もう一度調査してみるよ。周辺に男がいなかったかどうか……」
「原野警部、男とは限りませんよ」
井森の言葉に原野警部と木下刑事が同時に、
「えっ?」
という声を上げた。原野警部が井森に聞いた。
「男とは限らないとはどういうことですか?」
井森が答えた。
「女性の可能性もあるということです」
「しかし、あの殺害方法は男でないと無理なんじゃ」
抗議する原野警部に井森が答える。
「いや、女性でも十分可能です。殺害方法をみてください。背負うようにしてロープを引っ張っています。女性の力でも充分殺害が可能です」
原野警部と木下刑事は井森の言葉に思わず頷いた。
〈つづく〉
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