いずみ

高瀬 甚太

 警察が島田いずみの住むマンションに乗り込んで来た。礼状を手に家宅捜査をするのだという。七、八名はいただろうか。2DKの部屋の中を散々荒し回って、三時間後、警察は何の収穫も得られず、立ち去った。
 恋人の三井孝志がいずみの部屋を出たのは二週間前のことになる。その孝志が犯罪集団の一味として指名手配されたのが一週間前のことだった。いずみには寝耳に水の話で、警察から事情聴取を受けた時も、心当たりがない、と答えるしかなかった。それよりも何よりも、孝志との仲は、孝志が家を出た時、すでに終わっていた。いや、正確に言えば、それよりさらに前に二人の仲は終わっていた。

 ――いずみが孝志と出会ったのは三年前の春、いずみがそれまで務めていたテレホンサービスの会社を退職し、次の職を探すわずかな期間、会社時代の同僚、坂本美代子の経営するスナック『ヒルマ』にアルバイトとして働き始めた時のことだ。
 いずみは初めて経験する水商売の仕事に緊張していた。カウンターだけのスナックで、十人も入ればいっぱいになるほどの小さなスナックだったが、客は多かった。経営者であるママの人気が高く、ママ目当てにやって来る客が大半だった。
 ママは元々、いずみが勤めていたテレホンサービスの会社の先輩だったが、パトロンの支援を得て店を開いた。いずみとは当時から仲が良かったこともあり、会社を退職し、無職になったいずみを、仕事が見つかるまでの間、ここで働けばと言って、働くようになった経緯がある。
 『ヒルマ』の常連の一人に、山口彰浩という男がいた。三十代前半の若さで不動産関連の会社を経営している山口は、時折、社員の何人かを店に連れてきた。そのうちの一人が孝志だった。
 『ヒルマ』には常時三人ほどのホステスがいた。ママの下にチーママの安藤博美がおり、いずみは、週に三回ほど店に顔を出した。いずみが出勤する日に、必ずといっていいほど顔を出す孝志は、いずみより三歳下の二十八歳だった。
 一カ月働いても、客と対する仕事に慣れなかったいずみは、一日も早く次の仕事を見つけたいと焦っていた。
 最初のうちこそ山口と一緒にやって来た孝志だったが、三回目からは一人でやって来て、いずみが立つカウンターの前の席を選んで座るようになった。挨拶程度こそ交わすものの、ほとんど会話がないまま、孝志はいつも一時間ほどいて、店を出た。
 「三井さんは山口さんのところで働いているんでしょ。何をなさっているんですか?」
 ある時、いずみが孝志に聞いたことがある。孝志は、笑って、
 「営業マンをしています」
 と答えた。それが唯一の会話らしい会話で、その後、再び、孝志は沈黙した。見かねたママが、ある時、孝志の前からいずみを外し、明美という若くて明るい女の子を立たせたことがある。すると、孝志はすぐに席を立ち、そのまま店を出て行った。それ以来、ママは孝志の前からいずみを外したことがない。
 二カ月少し経った頃、ようやくいずみの次の仕事が決まった。中小企業の金属工場の事務員として雇用されることになったのだ。いずみは、ママにそのことを報告し、お礼を述べた。
 「よかったわね、島田さん。頑張ってね」
 ママはいずみを激励し、その後、すぐに顔を曇らせた。
 「ママ、どうかしました?」
 いずみが聞くと、ママは、
 「三井さんのことよ。あの子、あなたがいなくなるとガッカリすると思うの。今日、来ると思うので、一応、店を辞めることだけでも伝えておいた方がいいと思うんだけど――」
 と言う。いずみは、
 「わかりました。そうします」
 と明るい表情でママに答えた。
 いずみが勤める最後の日、それとは知らない孝志がいつものように一人でやって来た。
 いずみの前の席に立つと、孝志は軽く挨拶をしていつものように寡黙に酒を呑み始めた。
 「三井さん、短い間でしたが、今までありがとうございました。私、今日でこの店を辞めます。本当にありがとうございました」
 いずみの言葉を聞いて、孝志の顔色が少し変わった。長い前髪と華奢な肩、典型的な近頃の若者の体格とルックスをした孝志は、身長だけがやけに高かった。
その孝志が突然、立ち上がり、
 「付き合ってほしい」
 搾り出すようにして言った、その言葉をいずみははっきり聞き取ることができなかった。それで思わず、「えっ?」と聞き返した。
 「おれと付き合ってほしいんだ」
 今度ははっきりと聞こえた。いずみは戸惑い、言葉を返すことができなかった。あまりにも唐突だったからだ。
 「あんたといつも一緒にいたいんだ」
 孝志のその声は、多分、店の者にも客にも聞こえたことだろう。それほど大きな声だった。
 いずみはじっと孝志の目を見つめた。孝志もまたいずみの目を見つめた。孝志の真剣な眼差しが、一瞬、いずみの心を揺れ動かした。いずみはゆっくり頭を上下に振った。

 スナックを辞めたいずみは、孝志と交際するようになった。
これまでいずみは三人ほどの男性と付き合ってきた。一人は一歳上の高校時代の先輩で、一人は最初に勤務した会社の上司で十二歳上、この時は不倫だったが、いずみは彼が奥さんと別れて自分と一緒になるものだとばかり思っていた。だが、その彼は結局、奥さんと別れることはなかった。裏切られた思いでいずみは彼と決別した。
三人目に付き合ったのは、仕事を終えた後、よく呑みに行ったカフェのマスターだった。四十代とは思えないほど若々しいマスターの容姿と巧みな話術に惹かれて、誘われるようにして付き合ったいずみは、散々もて遊ばれたあげく、あっさり捨てられた。
男はもうこりごりだと思っていた、そんないずみの目に、孝志がひどく新鮮に映った。年下の男と付き合うなど、これまでのいずみには考えられないことだったが、愛すれば年下とか年上というのは無意味なことだと改めて知った。いずみは、孝志の情熱に応え、徐々にその愛を高めて行った。
交際し始めたものの、いずみは孝志の過去を何も知らなかった。孝志が喋りたがらなかったせいもあるが、いずみもまた孝志の過去など気にしていなかった。
同棲を始めたのは、交際して三か月目のことだ。ある夜、孝志が泥酔して夜中に訪ねて来た。理由は聞かなかったが、何かあったのだろうぐらいのことはいずみにもわかった。その夜、いずみの家に泊まった孝志は、以後、いずみの家から出ようとしなかった。
孝志との同棲は楽しかった。若い孝志のエネルギーのすべてが、いずみに解き放たれるかのように孝志はいずみを愛した。いずみもまた、孝志を愛した。今までの愛のすべてが嘘だったと思えるほどに、いずみは孝志を心から愛した。
二年目を過ぎた頃、いずみは孝志が勤めを変わったことを知った。それよりずいぶん前に山口のところを辞めていたようだが、いずみはそれに気づかなかった。孝志の新しい仕事が何であるのかさえ知らず、あまりにも自分は孝志を知らな過ぎる、そう思って反省し、孝志のことを調べようとしたことがあった。だが、すぐにそのことに気付いた孝志にやさしく諌められ、調査を断念した経緯がある。
孝志に変化が現れたのは半年ほど前からのことになる。帰宅が遅くなり、帰らない日も多くなっていた。そんな孝志の様子を見て、いずみは孝志に女ができたのではないかと疑った。孝志を問い詰めると、孝志は頑強に否定した。だが、いずみはそれを信じることができなかった。年上の三十を過ぎた女の厭らしさがすべて出た追及に、孝志は嫌気を感じたのか、やがて、孝志は家を出て、それっきり帰って来なくなった。
孝志が犯罪集団に加担していた罪に問われ、指名手配されたことを知ったのはそれからしばらくしてからのことだ――。

警察はずいぶん以前から孝志をマークしていて、いずみと同棲していることもまた、事前に掴んでいたようだ。ある日、突然、警察がガサ入れにやって来て、その時、初めて孝志が犯罪に加担していたことを知った。当初、警察は、いずみが事件に関与していると疑っていたようだ。任意であったとはいえ、警察の強硬な取り調べにいずみは閉口した。
何のことかまるでわからなかったいずみは、警察に激しく抗議し、やがて証拠不十分で解放された。だが、その後、警察の家宅捜査を受け、自分の疑いが完全に晴れていないことを知った。
そんな時、突然、いずみの前に孝志が現れた。
深夜のことだ。午前二時を過ぎた時間、ガラス窓が開いたような気がしていずみは目を覚ました。起きると、孝志がそばにいた。どうやって入ったのか、窓を見るとカーテンが揺れていた。
「こんな遅くにどうしたの?」
いずみが聞くと、孝志は神妙な面持ちで、いずみに言った。
「迷惑をかけて申し訳なかった。きみを巻き込むつもりじゃなかったのに、こんなことになって――」
やつれた孝志の顔を見ているうちに、いずみの中にあった孝志への熱い思いが蘇って来た。
「謝りに来たのだったらいいわよ。それより、警察があなたを探しているわ。ここに来たら危ないから、早く逃げなさい」
いずみが諭すようにして言うと、孝志がすがるような目でいずみを見た。
「おれは、騙されて犯罪集団の一味に巻き込まれただけなんだ。それなのに、おれが集団を率いていたように報道されている。どうしたらいいのかわからなくなって――」
そう言った後、孝志は、
「何とか金を儲けたいと言う、そんな欲を見透かされて、男たちに仲間に引き込まれた」と語り、「迷惑をかけて申し訳ない」と再びいずみに謝った。
「なぜ、そんなにお金が必要だったの?」
いずみには、孝志が金を欲しがる理由がわからなかった。
「おれ、きみを楽にさせてやりたかったんだ。金を稼いで、楽にさせてやろうと思った。だから山口さんのところを出て、もっと率のいい仕事を探した。そうやって探すうちに御木本という男に出会い、誘われたんだ。ブランド品のバッグを販売する仕事で、御木本は、おれを販売の責任者にすると言い、その分、高額な給料を払うと約束してくれた。一個、数十万もするバッグを十分の一か十分の二で販売する。売れないはずはないと思った。でも、なぜ、安くなるのか理由がわからなかったので御木本に聞いた。御木本は特別な仕入れ方法があるとおれに話した――」
「それってあなた、偽ブランドじゃなかったの?」
「そうなんだ。おれはそれと知らずに販売して、売れたお金をせっせと御木本に渡していた。必死になって売ったよ。でも、警察の手が入って、おれは奴らに騙されていたことを知った。奴らは、販売の責任者は三井孝志だと言って、おれ一人に責任を押し付けた」
「――浮気じゃなかったんだ」
「浮気? 浮気なんかするはずがないだろ。おれはいずみに出会った時からずっといずみに夢中で、今もその気持に変わりはないよ」
孝志は言葉を強めて言った。いずみは、孝志を疑ったことを後悔した。孝志はいずみのことを思って金儲けにあくせくしていたのだ。それなのにそれに気付かなかったばかりか、いずみは孝志の心変わりを疑い激しく罵った――。
「孝志、これから警察へ行こう。自首してすべてを話すのよ。逃げ回ってもそのうち捕まってしまう」
「でも、警察はおれの言うことなんて信じてくれない」
「私が信じるわ。私が、警察に話す。そしてあなたが帰って来るのを待つわ。また一緒に暮らそう。私なら大丈夫。働くことが大好きで、楽をしようなんてこれまで考えたこともなかった。だから大丈夫。あなたをずっと待つから」
いずみは自分でも何を言っているのかわからないほど、夢中で孝志を説得した。
孝志は、いずみの胸に飛び込むと、子供のように泣きじゃくった。そして、その時、初めて孝志は自分の過去のすべてをいずみに話した。

――うちの親父は典型的なDV男で、母やおれと姉は常に親父の暴力にさらされていた。姉はいつもおれをかばって、おれを助けてくれた。おれは姉が大好きだった。ある時、おれたちは、親父が寝静まったのを待って、母と姉と共に夜中に家を抜け出ようとした。だが、すぐに親父に見つかり、追われて逃げる途中、トラックに跳ねられて、母が即死し、姉も大けがを負った。その事故の背景を警察が調査して、親父の家庭内暴力が明らかになり、おれと姉は施設に入った。事故で足の骨を折った姉はまともに歩くことができなくなっていたが、そんな状態でも幼いおれを常にかばってくれ、愛してくれた。十五歳で施設を出ることになった姉は、おれを連れて施設を出て、小さなアパートを借りて一緒に住んだ。楽しかったよ、姉と一緒の生活は――。でも、長くは続かなかった。ずいぶん無理をしていたと思う。一日中、働きづめだったから。二十歳を前にして姉は肺炎にかかり亡くなった。おれは中学校を卒業したばかりで、途方に暮れたが、姉のためにも頑張らなければと思い、定時制高校に通いながら働いた。高校を卒業して、しばらくして、山口さんに出会い、山口さんのところで世話になることになった。
ある時、山口さんに『ヒルマ』へ連れて行かれ、そこでおれはいずみに遭った。姉の生まれ変わりじゃないかと思うほど、いずみはおれの姉に感じがよく似ていた。おれはいずみに夢中になり、どうにかしていずみとずっと一緒にいたいと思うようになった。いずみは、姉が亡くなった後、ひとりぼっちになったおれに初めてできた、共に暮らしたいと思う人だった。
山口さんのところを退職するのに、ずいぶん勇気が必要だった。山口さんはとてもいい人で、本当はやめたくなかったけれど、給料が物足りなかった。おれは姉にそうしてやりたかったように、いずみにも楽をさせてやりたかったんだ。
いずみのマンションへ転がり込んだあの日、おれは山口さんに辞表を出して、酔っぱらい、その挙句にいずみのところへ駈け込んだ。山口さんは、もう少し考えろ、そう言ってしばらくは辞めさせてくれなかった。だが、おれの気持ちに変わりがないことを知ると、わかった、おまえの好きなようにしろ、と言って許してくれた。おれはいずみと一緒に暮らしながら、いろんな仕事をした。もっとも全部まっとうな仕事ばかりだ。そのため、帰るのが遅かったり、時には徹夜で働くこともあった。しっかり説明すればよかったのだけれど、口下手なおれにはそれができなかった。いずみと別れることになったけど、いずみはそのうち、きっとわかってくれる、おれはいつもそう思っていた――。

その日、いずみは夜明けを待って、孝志と共に警察へ出頭した。
警察の担当は、孝志が出頭して来たのを知って驚いたが、いずみが事情を話すと、意外にも真剣に聞き入れてくれた。
長時間に亘り、孝志の自白を聴取した担当刑事は、孝志の言葉を信じ、御木本とその仲間数人を逮捕するべく事務所に向かった。担当刑事の出現に慌てた御木本とそのグループは、偽ブランド商品を隠す余裕もなく、その場で現行犯逮捕された。
事件の全貌が明らかになり、孝志は、無罪にこそならなかったが、懲役一年、執行猶予三年の罪で刑に服することはなかった。
いずみは、孝志と共に山口さんの不動産会社を訪ね、逮捕された孝志の力になってくれたことに深く礼を述べた。山口は、笑って応え、孝志に言った。
「どうだ。三井、もう一度、うちで働いてみないか。この会社にはどうしてもおまえの力が必要なんだ」
孝志は、返事より先に体をくの字に折り曲げ、
「よろしくお願いします」
と躊躇なく答えた。
その夜、いずみは、スーパーで買い込んだ肉を孝志と共にすき焼きにして食べた。
「姉が生きていた頃、たまにすき焼きを作ってくれてね、それが今でも忘れられない」
と、以前、いずみに話した孝志の言葉を思い出し、用意したものだ。
いずみは孝志を眺めながら複雑な思いでいた。孝志にとって自分は姉の身代わりでしかないのだろうか、そう思ったからだ。最初からきっとそうなのだろう――。そう思い始めると急に寂しい気持ちになった。
「おいしい!」
肉を頬張りながら、孝志が叫んだ。
「お姉ちゃんのすき焼きも美味しかったけど、いずみのすき焼きはそれよりさらに美味しい」
その言葉を聞いて、いずみは、少し心が軽くなった。どうやら孝志は、自分と姉を区別してくれているようだと思ったからだ。
「じゃあ、私も食べてみるか。孝志、お姉ちゃんのことは、死ぬまで忘れたらだめだよ。私も、お姉ちゃんに負けないように、孝志をずっと――」
言葉に詰まったいずみを孝志が笑顔で見つめ、小さく頷き、言った。
「いずみ、おれ、頑張るからな」
鍋に残った肉の破片が、じゅうじゅうと音を立てている。部屋の中に甘酸っぱい匂いが漂った。
<了>


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