年に一度の幸さんの意外な秘密

高瀬 甚太

 年に一度しかえびす亭にやって来ないのに、妙にインパクトがあって、年中来ているような錯覚を起こす人がいる。新橋幸吉、通称幸さんは、住まいが九州で、年に一度、八月の末に大阪へやって来て、えびす亭に立ち寄るのを常としていた。
 「ガッハハハ」
 幸さんの笑い声だ。豪快に笑う幸さんの声を聴くと、普通は煩く思うようなものだが、実際に聞くとそうでもない。つられて笑ってしまいそうになるぐらい、その声は底抜けに明るかった。
 「もう一年か。早いなあ一年の経つのが……」
 幸さんを見ると、えびす亭の面々はしみじみとそう思う。
 「それにしても幸さんは年を取らんなあ」
 四十を過ぎて、すでに半ばに入っているはずなのに幸さんは年齢よりずっと若く見える。髪の毛も黒々として皺も少なく、何よりも表情が若々しい。
 「幸さんは九州のどこやねん?」
 客に聞かれると、幸さんはいつも丁寧に答える。
 「別府です。温泉の街です」
 「年に一回、今頃の次期、大阪へやって来るけれど、何の用があって来るねん?」
 他のことにははきはきと明快に答えるのに、そう聞かれた時だけは、幸さんはなぜか、曖昧に言葉を濁す。
 開店と同時に店に入り、閉店まで、その日はずっとえびす亭で過ごし、えびす亭のさまざまな客と接し、酒を酌み交わす。

 えびす亭の常連客の一人に、山内和重という男がいる。不定期にえびす亭を訪れる客で、大人しい性格のせいかあまり目立たない。その男が、幸さんが酒を呑んでいるところへ近づいてきた。
 幸さんと客の一人が別府を話題にしているのを耳にした山内が、懐かしさのあまり、会話の中に入ってきたのだ。
 「お宅も別府ですかぁ、懐かしいなあ」
 普通なら、「いやあ、こんなところで別府出身の方にお会いできるなんて……」となるところだが、幸さんはそうはならなかった。山内を無視して隣の客と話し込み、山内と目を合わそうとしなかった。
 そのうち山内はあきらめて、えびす亭を出ようとした。帰ろうとした矢先、再び耳にした幸さんの言葉に山内の足が止まった。
 「すみません、ちょっとお尋ねしますが」
 山内の問いかけに、幸さんはこの時、初めて山内に注目し、突然、顔を輝かせて大声をあげた。
 「やっぱり、幸吉さんだ!」
 その時、一瞬、幸さんは、しまったというような表情をした。
 「幸吉さん、ぼくですよ、ぼく。野球部の山内カズですよ」
 幸さんは、多分、ずいぶん前から山内の存在に気付いていたようだ。これは隣で一緒に呑んでいた加賀という薬剤師の男の証言である。
 幸さんは、山内に鷹揚に答えた。
 「ああ、カズか……。久しぶりだなあ。大阪に住んでいるのか」
 「ええ、大阪へ来てもう十五年になります」
 「時々は田舎へ帰っているのか?」
 「女房と子どもを連れて盆休みに帰ったばかりです」
 「そうか……」
 山内が、話を変えようとして、
 「幸吉さんは残念でしたね」
 と言った時、幸さんは、
 「いや、おれはいいんだ」
 と小さな声で言った。
 「あんなことさえ起きなければねえ……」
 山内がなおも話そうとするのを止めて、店から追い出すようにして言った。
 「カズ、気を付けて帰れよ」
 だが、山内の話は止まらない。
 「奥さんは大阪にいらっしゃるんでしょ。息子の靖くんと一緒に」
 「カズ、もういいって言っているだろ」
 とうとう幸さんが大声をあげた。えびす亭の面々は、みな驚いて幸さんを見た。笑うことはあっても大声を出すことなど、滅多にない幸さんが真剣な顔をして山内に怒っている。
 「すみません。つい……。幸吉さん、ぼく、お先に失礼します」
 山内がえびす亭を出ようとする背中に、幸さんが声をかけた。
 「カズ、元気でな」
 幸さんはその日、閉店までいなかった。山内が店を出てしばらくして幸さんも店を出ようとした。
 「もう帰るんでっか?」
 驚いたマスターの声がみんなの気持ちを代弁していた。
 「今日は疲れました。では、皆さん、また来年」
 幸さんは丁寧に頭を下げて店を出た。

 幸さんは別府で生まれ育ち、大学を大阪で過ごした時に、幸子と出会い、結婚をした。幸子とは学生結婚だった。
 幸子はアルバイト先の製菓工場の従業員で、幸さんより三歳年上だった。実家の両親は二人の結婚に猛反対し、半ば勘当同然に幸さんは幸子と結婚をした。
 一年後に子供が生まれた時、幸さんはようやく大学四年生だった。仕送りを断たれた幸さんの生活は困窮を極めた。それでもどうにか卒業するところまで頑張り、就職も決まった。
 生まれてきた男の子の名前をたすくと名付け、幸さんは幸子と共に大切に育てた。
 だが、結婚して三年目の年、幸さんのところに緊急電報が届いた。
 『チチ キトク スグ カエレ』
 勘当されて久しく連絡のなかった実家からの知らせに、幸さんは驚き、慌てて帰郷した。
 幸さんの実家は、別府で何代も続く酒づくりの店を営んでいた。幸さんの父親は、幸さんの顔を見ると少し元気になり、危篤状態から脱することができた。だが、予断を許さない状態には変わりがなかった。
 父親は、病の床に伏したまま、幸さんに懇願した。
 「先祖の代からずっと守り続けてきた酒蔵だ。わしが死んだら跡を継ぐものがいない。頼むから帰って来て、この酒蔵を継いでくれないか。そうでないとわしは死んでも死にきれん」
 幸さんの父親は、そう言って幸さんの手を固く握って離さなかった。
 幸さんは父に約束をした。酒蔵を自分が守り続けると。父もまた、いまわの際に家族、親族を集めて幸さんに約束をした。幸さんの結婚を許し、勘当を解くと――。
 父親が亡くなった日、通夜と葬儀に、幸さんは幸子と子どもを呼び寄せ、葬儀に出席させ、そこで二人を実家の家族や親族に披露した。
 幸さんはそれまで務めていた大阪の会社を退職し、家族より一足先に実家に戻り、父の跡を継ぐべく、酒づくりの仕事に邁進した。幸さんに遅れること二週間、幸子と子どもが別府に到着した。
 幸せな日が続くはずだった。しかし、三カ月を経た頃から、幸子のやつれ方が目に見えてひどくなってきた。心配した幸さんが医者に診せると、医師は、ストレスが原因だと語り、ストレスのないところで養生させるように言った。
 なぜ、幸子がストレスを溜めるのか、理由がわからなかった幸さんは、幸子に問いただした。そこでわかったことは、熾烈な姑たちの嫁いびりだった。
 近所でも評判になるぐらい、それはひどいものであったようだ。幸さんは、一切、そのことに気付いていなかった。母や姉を呼んで、意見をしようとした幸さんを幸子が止め、しばらくの間、子供を連れて大阪に戻りたいと言った。
 幸さんもそれを承諾し、幸子と子どもを大阪へ返した――。
 それっきり幸子と子供は、幸さんの元へ戻って来なかった。幸さんが電話をして、戻って来てほしいと懇願すると、幸子は、
 「何もいりませんから離婚してください」
 と言い、幸さんの元に離婚証書を送って来た。
 幸子や子どもと別れる気のなかった幸さんは、すぐに大阪へ出向き、幸子と話をした。しかし、幸子の決意は固く、
 「あなたのことは大好きだが、別府には戻りたくない」
 と言って聞かなかった。
 幸子は多くを語らなかったが、実家での嫁いびりは想像を絶するものであったようだ。幸子や子どもと一緒に暮らしたい、そう願っていた幸さんだったが、先祖代々続く酒造りをそのままにしておくわけにもいかず、苦渋の決断をして幸子と離婚をした。
 離婚するにあたって、幸さんはいくつかの条件を幸子に告げた。一つは、子どもと年に一回、一日でいいから過ごさせてほしい。もう一つは子供が大学を卒業するまで養育費を払うということ。最後の一つは、二十年経ってお互いの愛が変わらなければ再婚しようということ――。
 以来、年に一回、幸さんは大阪へやって来る。子どもに会う前日、大阪へやって来た幸さんは、その夜はえびす亭で酒を呑み、翌日、子どもと会って一緒に遊ぶ。その子供も今はもう大学生になり、いつも食事をする程度で終わってしまう。幸子の様子を尋ねても、幸子に口止めをされているのか、息子は何も答えない。養育費は、二人が充分生活できる程度の金額をずっと送り続けて来た。
 ――明日で別れて二十年になる。この間、幸さんは一度も幸子に会っていない。幸さんはたくさんの縁談の話があったものの、結局、ずっと一人身できた。自分の知らないところで、幸子が激しい嫁いびりを受けていたことがトラウマになり、結婚を決断できずにいたのだ。
 二十年間、ずっと泊り続けたビジネスホテルの一室で、幸さんは明日のことを考えていた。息子の就職内定祝いをしてやらねばいけない。どこがいいだろうか、幸さんはそればかりを考えていた。しかし、息子の好みがわからない。一年に一度しかない出逢いだ。わかる方がおかしかった。
 幸子はどうだろうか。二十年間、お互いの気持ちが変わらなければ再婚しようと約束をしていた。そんなことなど、もうとっくの昔に忘れ去っていることだろう。そんなことを考えながら幸さんは深い眠りに就いた。
 翌朝、早くに目覚めた幸さんは、ホテルの喫茶で朝食を取り、今日の息子との計画を練った。多分、息子と会うのも今日が最後になるだろう。そう思うと、できるだけ欲張りな一日にしたいと考えて幸さんは作戦を練った。
 午前十一時、幸さんは大阪駅構内の喫茶店の中にいた。約束は十一時半だったが早めにやって来た。しかし、約束の時間になっても息子は現れなかった。
 携帯に電話を入れてもつながらず、幸さんは不安な気持ちのまま、冷たくなってしまったコーヒーをすすった。
 「こちら、よろしいでしょうか?」
 本を読んでいた幸さんは、その声にあわてて、
 「すみません。その席にはもうすぐ連れがやって来ますので」
 と断って、その人物を仰ぎ見た。
 このところめっきり視力の落ちていた幸さんは、相手の顔がわからず、平身低頭して謝った。
 「たすくは来ませんよ。何だかデートがあるんだと言って朝から張り切って出かけましたから」
 幸さんは驚いて席に座った女性を見た。少し年を経ているが、――妻の幸子だった。
 「久しぶりだね……。二十年ぶりだ。元気そうでよかった」
 幸さんは、幸子を見て感慨深げに声を発した上げた。
 「あなたも元気そうで何よりだわ。少し白髪が増えたわね」
 幸さんは、頭に手をやりながら、
 「そうかなあ、これでも若く見られるんだけど」
 と照れて笑った。
 「それにしてもたすくの奴、昨日、電話をした時は来るって言っていたのに」
 幸さんがひとり言のように言うと、幸子が笑った。
 「それは私が言わせたのよ」
 「……どうして?」
 「私が来ると言ったらあなた、来ないかもしれないと思ったから」
 「……」
 「二十年前、あなた、私に約束してくれたわ。そのうちの二つをあなたは律儀に守ってくれた。最後の約束だけど――」
 「二十年後に再会して、お互いの気持ちが変わっていなければ再婚するっていう約束だろ。覚えていてくれただけでも嬉しいよ」
 「忘れたことがないわ。ずっと覚えていた」
 「ずっと覚えていたって……」
 「私、二十年経ってもやっぱりあなたが好き。この二十年、あなたのことしか考えたことがなかったわ」
 幸さんは、唖然茫然として言葉を失い、目の前の妻、幸子をただ見つめた。

 その日、息子と過ごす計画を、幸さんは幸子と共に実行した。
 ――まず、映画を観る。息子の好きなアクションものだ。映画館を出て海遊館へ行く。昔から息子は海の魚が大好きだった。何度か連れて行ったことがあったが、大人になってから行くのも悪くはないだろう。
 夜になったら連れて行きたい店があった。幸さんが一年に一度通う店、えびす亭だ。昨日までは考えていなかった。でも、朝になって思った。お前と二人、肩を並べて酒を呑みたい。最後の日にふさわしいと思わないか――。
 幸子と実行するには無理があるように思えたが、幸子は賛成した。映画も海遊館も、唯一抵抗するだろうと思ったえびす亭も積極的に賛成した。
 手をつないで映画を観た。手をつないで海遊館の魚を観、腕を組んで大阪の街を歩いた。
 「私、どんなにいじめられ、いびられても大丈夫よ。二十年で私も充分おばさんになった。心も体も強くなった」
 幸子は歩きながら前を見てそう言った。実家の母は年老い、今では介護の手がないと暮らせなくなっている。出戻りの姉も何度か病気をして気弱になった。家の手伝いをしている親戚筋の叔母さんだけが問題だが、今の妻なら負けることはないだろう。手をつないでいるだけで、幸子のタフさが伝わってきた。
 それでもえびす亭に入るには勇気がいった。だが、迷っている暇などなかった。幸子が幸さんの手をぐいぐい引っ張って、店の中へ入って行ったからだ。
 「おや、珍しい!」
 マスターが幸さんを見て声を上げた。
 「あれ、もう一年経ったんかいな」
 誰かがふざけて言った言葉にえびす亭がドッと沸いた。
 「紹介します。うちの嫁です」
 幸さんが照れながら紹介すると、誰かが、
 「名前は?」
 と聞いた。そう言えば、長い間、名前を呼んだことがなかった。
 「お前、名前、なんやった?」
 幸さんがふざけた調子で尋ねると、幸子は、
 「幸子です。できれば私もこの人と同じように幸さんと呼んでください」
 と挨拶をした。
 拍手をしているメンバーの中に、昨日、すげない扱いをした山内もいた。
 「幸吉さん、おめでとうございます。よかったですね、いい人が見つかって」
 山内の言葉に、幸さんが「えっ?」という顔をした。
 「どこで見つけられたんですか? 新橋酒造にふさわしいお嫁さんや」
 どうやら山内は、二十年前の幸さんの嫁だと気付いていない様子だ。
 「山内さん、お久しぶりです」
 幸子が挨拶をすると、幸子を凝視していた山内が、「アッ」と大きな声を上げた。
「私、おばちゃんになったでしょ」
 幸子の言葉に、山内が思わず手を左右に振り、「いえいえ」をした。
 細くて気弱な幸子の姿はどこにもなかった。逞しい大阪のおばちゃんの姿がそこにあった。
 「お幸せに」
 の山内の声を、幸子の笑い声が吹き飛ばした。幸さんの笑い声もすごいが、嫁の幸子の声はそれ以上だった。その日、えびすは閉店まで笑いが尽きなかった。
<了>

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