愛と裏切りの舞台劇(前編)

高瀬 甚太

 緞帳が開いた。拍手が鳴る。舞台の袖から役者が躍り出ると、観客はその瞬間、演劇の世界へと引き込まれてしまう――。
 演劇を観るのは十数年ぶりのことだ。嫌いではなかったが、これまでその機会に恵まれなかった。今回、演劇を観ようと思い立ったのは、この劇に出演する、準主役の斉田真里菜から招待状を送られたことによる。
 真里菜は、大学の後輩――、と言っても年齢は十五歳ほど違うのだが、以前、演劇をテーマにした本を作る時、世話になり、その時、私の大学の後輩だと知り、それ以来、親しく付き合うようになった。
 ずっと端役だったのが、今回、初めて準主役の重要な役どころに抜擢されて、喜び勇んで電話をかけてきたのがほんの一カ月前のことだ。招待状を送ると真里菜は言ったが、真里菜の晴れの門出だから、券を購入させてもらいたいと言ったのだが、一週間前、真里菜は強引に招待状を送りつけてきた。
中央前方の席で、真里菜は非常に見やすい場所を用意してくれた。五百人ほどを収容する客席はほぼ満員で、批評家の評も高かった。二週間の公演で、前売り券の発売も好評だと新聞各紙が伝えていた。
 真里菜が所属する劇団、『アウトライトK』は関西の老舗の劇団で、劇団員が百名以上もいる大所帯だった。創立者で演出家の宮川新太郎のカリスマ的な人気もさることながら、看板俳優、南方健人の爆発的な人気も劇団の繁栄を支えていた。
 物語は、日本の南にある小さな島の出来事を描いていて、その島で起きる不思議な事件を軸にしたラブストーリーだった。真里菜は主役の女優の友人の役割だと話していたが、全編、ほとんど出ずっぱりで、重要な役を軽妙な演技でこなしていた。
 休憩時間15分を挟む2時間の劇は、大胆な演出と退屈させない面白さで、演劇の醍醐味を存分に堪能させるものだった。
 緞帳が下ろされ、舞台が終わると、演出者、出演者に惜しみない拍手が観客から贈られた。壇上に立った真里菜は、私に視線を向け、誇らしい笑顔を見せた。
 久々に演劇を堪能して、大勢の観客と共に会場を出ようとしたところを突然、背中をポンと叩かれたので驚いた。
 振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。三十代半ばだろうか、真里菜と年の違わない年齢に見えるその女性は、長い黒髪を風にそよがせながら私に向かって言った。
 「井森編集長、お久しぶりです」
 私と同等か、それに近い背丈の女性は、スラリとした体形で一見、女優のようにも見えた。私がキョトンとした顔をしていると、女性は笑って言った。
 「私ですよ、榊中芹菜ですよ」
 名前を聞いて、ようやく思い出した。
 「芹菜か! 久しぶりだなあ」
 感激して言うと、芹菜は、
 「五年ぶりですものね。でも、編集長は全然変わらないですね」
 と言って、「お茶でも飲みましょうよ」と私を誘った。
 芹菜は真里菜の友人で、五年前まで真里菜と同じ『アウトライトK』に所属していたが、事情があったのだろう、劇団を退団し、大阪を離れた。芹菜が真里菜と共に劇団にいた頃、私は二人とよく会い、居酒屋で三人仲よく酒を呑んだものだ。
 活発で明るく物怖じしない真里菜に比べて、芹菜は少し臆病で引っ込み思案の女の子だった。当時は、真里菜よりも芹菜の方が演技力という点で演出家に買われていたようだったが、芹菜は、自分の才能に疑問を感じていたようで、いとも簡単に演劇の世界から離れてしまった。
 大阪を離れたはずの芹菜が、今回の演劇を観に来ていた。真里菜が招待状を贈ったのだろうか、会場の近くの喫茶店に寄り、そのことを尋ねると、芹菜は、首を振って、そうではありませんと答えた。
 「急に大阪からいなくなって、一体どこへ行っていたんだ?」
 芹菜は、ピンク色の小さな唇を少し歪めて下を向いた。
 しぐさも表情も、芹菜は五年前とあまり変わっていないように思えた。ただ、服装の趣味は幾分違っていた。以前は黒い服は、喪服のようだと言って、一切、着なかったのに、今日は上から下まで黒ずくめでいる。化粧も以前はほとんどしていなかったのに、今日の芹菜はアイシャドウが際立ち、目がきつく見えた。
 「五年前、ほんの端役でしたが、私と真里菜のどちらかが初めて選ばれることになって、悩みました。真里菜とはライバル関係になりたくなかった。真里菜は私にとって大切な友人でしたから――。そのうち、私の家庭の事情が変わり、両親が離婚することになり、母と共に母の実家である高知県に移り住みました。
 真里菜にそのことを話し、演出家の宮川先生にも話しましたが、先生は非常に残念がって、私を買っていたのに残念だとおっしゃってくれました。その話を真里菜が聞いていたのでしょう。真里菜は、自分より私の方が宮川先生に認められていると勘違いしたようで、その後の私たちの関係は最悪になりました。私は真里菜とほとんど会話を交わさないまま、大阪を後にしました」
 「それからずっと真里菜に会っていないのか?」
 「二年前に母が再婚することになって、それを機会に私は高知を離れ、再び大阪へ戻りました。忘れようと思っていた演劇の世界ですが、やはり忘れることができず、もう一度、劇団に戻りたいと思っていたのですが、自分の才能を考えると、無理かもしれないと及び腰になり、会社勤めを始めました。その間、真里菜に連絡を取ろうと何度か思ったのですが、結局、何の連絡もしないまま今日まで来ました」
「どうだ、真里菜に会ってみないか?」
 私が聞くと、
 「会いたいです。ずっと会いたかった。でも、今日、真里菜の演技を見て思いました。真里菜はずいぶん成長しています。主役になってもおかしくないほどの演技力と華がありました。それを見て、私の中の会いたいと思う気持ちが変わりました。今は会わないでおこう、そう思っています」
 頑なな芹菜の言葉が私にある種の疑問を抱かせた。だが、それ以上、言及せず、その日はそれで芹菜と別れた。
 真里菜の好演が翌日の新聞の演劇評で絶賛されていた。それを読んで私は真里菜に電話をした。
 しかし、忙しいのだろう。真里菜は電話に出なかった。だが、1時間ほど時間を置いて真里菜から電話がかかってきた。心なしか真里菜の声が弾んで聞こえた。
 ――編集長、昨日は観に来ていただいてありがとうございました。
 ――いやあ、よかった。今日の新聞でも絶賛されていたけど、すごいな、真里菜は。
 褒め称えると、真里菜は恐縮したような声で、
 ――とんでもありません。まだまだこれからです。
 と言い、語尾を弾ませた。その弾んだ声を聴いて、私は黙っていようと思った芹菜のことをつい口に出してしまった。
 ――実は昨日、芹菜に出会ってね。彼女、きみの演劇を観に来ていたんだよ。
 案の定、真里菜は驚きの声を上げた。
 ――芹菜が? 本当ですか。それで今、どうしているか言っていました?
 ――いや、そこまでは聞いていないが、ずいぶん前に大阪に戻ってきていると言っていた。
 ――大阪に戻っている? じゃあ、なぜ、芹菜は私に連絡をくれないのですか?
 ――きみに会いたがっていたようだけど、きみの素晴らしい演技を見て、気が変わったようだ。会いたいけれど、今は会わないでおく。そう言っていたよ。
 ――芹菜は元気でしたか?
 真里菜の言葉に私が、「元気だった」と答えると、真里菜は、「ありがとう」と言って電話を切った。
 
 半年が過ぎた晩秋の夜のことだ。小劇場を主催している三枝一郎という友人から電話をもらった。
 ――今週の金曜日、難波、千日前の小ホールで公演するんだが観に来ないか?
 と言う。三枝がわざわざ電話で誘ってくるなんて珍しいな、と思ったので聞いてみた。
 ――一人、優秀な脚本家が見つかってね。その脚本家による初めての公演なんだが、結構、面白いと評判なんだ。招待するから、観に来たらどうかと思ってね。
 三枝の劇団『ひょっとこ』は、『アウトライトK』と違ってマイナーな劇団だが、四カ月に一度の割合で公演を行うなど、精力的で意気軒昂なのだが、弱小劇団であったため、話題になることは少なかった。だが、その実力は一部で高く評価されていた。
 三枝の滅多にない誘いを断るわけにもいかず、また、三枝の推す脚本家の舞台を観てみたい、そんな好奇心もあって、「ぜひとも行かせていただく」と返事をした。
 翌々日、招待状が届いた。封筒を開けると二枚入っていた。二枚の招待状を前にして迷った。誰を誘えば喜ぶだろうか、咄嗟に思い付いたのが真里菜だった。忙しいのではないかと危惧したが、真里菜は案外、あっさりと「ご一緒します」と返事をくれた。以前から、劇団『ひょっとこ』に興味があったので、誘ってもらって嬉しいと、言葉を付け加えて真里菜は電話を切った。
 場所は日本橋の電気街に近い場所にある小ホールで、開演時間は午後7時からになっていた。
 
 当日の天候は曇りのち雨だった。事務所を出る時には降っていなかった雨が、地下鉄を下車して地上へ上がるとポツポツと小雨が舗道を濡らした。待ち合わせの喫茶店に入ると、すでに真里菜が待っていて、コーヒーを飲んでいた。
 「予定が早く済んだのでそのまま来ちゃいました」
 真里菜はそう言ってペロリと舌を出した。
 カップのコーヒーがほとんどなくなっているところを見ると、ずいぶん早くからこの店に来ていたのだろう。お腹が空いていないかと聞くと、ペッコペコだと答える。真里菜のためにミックスサンドを注文した。
 「今日の演目ですけど、脚本の評判がいいですね。宮川さんから聞きました」
 『アウトライトK』の宮川が褒めるなんて、一体、どんな脚本家なのだろうか。一層、興味が湧いてきた。
 喫茶店から小ホールまでは歩いても5分とかからない。だが、小降りの雨が本降りにならないうちに会場に入った方がいいだろう。そう思って真里菜と共に早めに店を出た。
 小降りの雨に打たれながら駆け足で会場に向かった。ビルの地下にある小さな多目的ホールである。演劇をするためのホールではなかったから設備が大変だったろう。そう思いながら会場に入った。
 席数は百席に満たなかった。舞台も急ごしらえといった感じで、簡素なものだった。真里菜と共に最前列に陣取り、開演を待った。雨の影響だろうか、百ほどある席はなかなか埋まらず。開演近くになってようやく半分ほどが埋まった。
 開演を知らせるベルが鳴り、照明が一斉に消された。しばらくして檀上にスポットライトが当たり、一人の女が立った。女は舞台の上で突然、右往左往し始める。右往左往する少女をスポットライトが追いかける。周りは暗いままだ。
 照明が点く。中央に立つ女は、よく見るとみすぼらしい身なりをしている。履いているのもサンダルで、手にしたバッグも安物に見える。不安におびえ、右往左往した女は、舞台中央で立ち止まると、ツカツカと前に歩み出て、観客に向かって毒づき始める。
 「あたいを馬鹿にするな。あたいはお前たちよりも幸せだ」
 黒い衣服をまとった男が女の背後に登場すると、
 「お前の幸せってなんだ?」
 と聞く。
 「好きな酒を呑む。好きな人に抱かれる。好きなものを食べる――、これ以上の幸せがあるものか、聞いてみたいね」
 また一人、女の背後に黒ずくめの男が登場して聞く。
 「お前の愛とは何だ?」
 「好きになった男に抱かれることだよ!」
 また一人、黒ずくめの男が登場して女に聞く。
 「これは誰だ?」
 少女が登場してシクシクと泣いている。袖から登場した酔っ払いの男が少女を蹴とばし、殴る。同じく袖から登場した中年の女は、酔っぱらいの男が少女を殴るのを見ても止めようとしない。止めるどころか、酒を片手に笑っている。
 「この少女はお前ではないのか?」
 黒ずくめの男に聞かれた女は、じっと黙って動かない。
 少女と酔っぱらい、中年女が舞台から消え、若い女性と若い男性のカップルが登場する。
 舞台に居る黒ずくめの男たち全員が口を揃えて言う。
 「これは誰だ? この若い女は誰だ?」
 若い女性と若い男性のカップルが抱き合う。袖と舞台を二人は何度か行き交う。そのたびに若い男の態度が変わって来る。やがて若い男は去り、残された女が舞台に座り込む。
 「これはお前だ!」
 黒ずくめの男たちが口を揃えて言う。
 腹を膨らました若い女が舞台を右往左往する。袖に消えると、今度は子供をあやしながら舞台に登場する。
 「これもお前だ!」
 
 ――女の一生をステージで再現し、女に、真の幸福とは何かを考えさせる。そんな舞台だった。小さな舞台で女の人生を再現させる手法は、観客席にいて、初めてわかるものだ。多彩な登場人物、音楽、すべてが素晴らしかった。
 百人に満たない少人数の観客は、舞台が終わりを告げると、拍手をするのも忘れて、呆然と暗くなったステージを見据えていた。
 三枝が「脚本が素晴らしい」と言った意味がよくわかった。この作家は、観客と対話しようとしている。観客と対峙して観客に問い詰めようとしている――。
 演技を見せる舞台があってもいい。きらびやかで豪華なステージをみせる舞台があってもいい。しかし、観客を舞台に引きずり込み、観客を問い詰める舞台となるとそうはいない。
 「この脚本を書いた作家に会いたいわ」
 真里菜がポツリと言った。私もそうだ。会いたいと思った。三枝に会って紹介してもらおうと思い、舞台を片づけている劇団員に尋ねた。
 「三枝さんは今日、来られていますか?」
 劇団員は、キョロキョロ辺りを見回して、
 「先ほどまでこの近くにいたのですが」
 と答えた。来ているのならどこかにいるだろう。そう思って私は真里菜と共にホールを見回った。ホールを出て地下の通路に出ると、通路の奥の方から歩いてくる三枝を見つけた。
 「三枝!」
 三枝は何事か考えながら歩いていた。一度、呼んだだけでは気付かず、三度目に初めて三枝は気付いた。
 「おおっ、井森、来てくれたのか」
 三枝は私を見て笑顔を浮かべたが、その笑顔にはどことなく元気がなかった。
 「興味深く見させていただいたよ。あの作品を書いた脚本家だが、今日、この会場へ来ていないのか?」
 三枝は首を振って、来ていないと答えた。
 「あの脚本を書いた作家は何と言う名前なんだ? この作品が初めてじゃないんだろ」
 私の問いに三枝はすぐには答えなかった。
 「お茶でも行こう」
 そう言って私と真里菜をホールの近くにある喫茶店に案内した。
 喫茶店に入った三枝は、私と真里菜を座らせ、コーヒーを注文した後、真里菜に言った。
 「宮川さんのところの斉田真里菜さんですね。今日はどうもありがとうございます」
 真里菜に挨拶をした三枝だが、肝心のこちらの質問にはなかなか答えようとはしなかった。コーヒーを飲み干したところで、ようやく脚本家について語り始めた。
 「一年前のことです。一人の女性が訪ねて来ましてね。脚本を見てもらえないかと言うのです。そうした人は少なくありませんので、一応目を通してみたのです。一読して驚きました。こんな作品、舞台にできるはずがない。そう思いました。そんな私に彼女が舞台のイメージを話して聞かせてくれました。それが今日の舞台です」
 「あの脚本を書いたのは女性なのですか?」
 私の問いに三枝が答えた。
 「女性です。脚本を書くよりもステージに出したい、そう思わせるような美人の女性でしたが、女優になるのはあきらめています、と笑って言いました。これからも脚本を書き続けますかと聞くと、一人の女性をスターダムにのし上げたい。私はそのために脚本を書きます、と言って――。ところが、その後、私は彼女に一度もお会いしていません。何度か連絡を取ってみたのですが、つながりませんでした。もしかしたら会場へ来てくれているのでは、そう思って毎日、会場を覗いていますが、来場した形跡はありません」
 「その脚本家の名前は何と言いましたか?」
 私が聞くと、三枝は手帳を開いて、ペンで書いた文字を私に見せた。
 『榊中芹菜』
 手帳に書かれた名前を見て、私よりも真里菜が驚いた。
 「ご存じですか?」
 三枝が真里菜に聞いた。真里菜が知っていることが意外だったのだろう。
 「私の友人です」
 と真里菜が答えた。
 「じゃあ、彼女が言っていた、スターダムに乗せたい女性と言うのは真里菜さん、あなたのことじゃありませんか?」
 三枝が聞いた。真里菜が首を振って否定した。
 「私ではないと思います。芹菜とは五年近く音信不通の状態ですから」
 そう言った後、真里菜は三枝に尋ねた。
 「三枝さん、その脚本家、芹菜の住所か連絡先を聞いていませんか?」
 真里菜の問いに、三枝は再び手帳を開き、芹菜が書いたと思われる、住所と電話番号を指し示した。
 「しかし、電話番号はどういうわけか、つながりません。住所は確認していませんが」
 真里菜は住所と電話番号を自分の手帳に書き記すと、三枝に礼を言って席を立った。
 「もし、芹菜さんにお会いするようなことがあったら言ってください。次の作品をお待ちしていますと」
 三枝の言葉に、真里菜はわかりました、と大きく頷いて三枝の元を離れた。私は大慌てで真里菜の後を追った。
 控えた住所の場所へ、今すぐにでも行ってみたいという真里菜に付き合い、私も同行することにした。住所は大阪市住吉区我孫子になっていた。地下鉄で行けばわかるだろう、そう思って、地下鉄御堂筋線であびこ駅に向かった。
 あびこ駅で下車した私と真里菜は、芹菜の書き記した住所が地下鉄あびこ駅からほど近いところにあることがわかり、その場所に向かった。
 十五階建てのマンションの十階、1005号室が芹菜の住所になっていた。私は、入口にある管理人室を訪ね、芹菜が今もそのマンションに住んでいるかどうかを尋ねた。
 「榊中芹菜さんですか? その号室に住んでいるのは山本さんとおっしゃるんですがね」
 管理人の言葉に、真里菜が肩を落とした。
 「その山本さんとおっしゃるのはどんな方ですか?」
 「結婚されて間もないご夫婦です。妊娠五カ月だと言って、常に旦那さんが彼女を労わって、本当に仲のいいご夫婦ですよ」
 管理人はにこやかに語った。
 「奥さんのお名前はわかりますか?」
 「ちょっと待ってくださいね」
 管理人は、管理人室へ戻って名前を確認し、私たちの前に戻ると、
 「山本芹菜さんです」
 と告げた。
 「芹菜!?」
 真里菜が素っ頓狂な声を上げて、私を見た。芹菜だ。結婚して姓は変わっていたが、間違いなく芹菜だ。私たちは確信した。
 エレベーターで十階に上がった私たちは、1005号室の前に立った。表札に『山本』とあるのを確認してチャイムを鳴らすと、「どなたでしょうか?」と女性の声が聞こえた。
 「井森ですが――」
 と名を告げると、しばらくしてドアが開いた。
 「井森さん――! どうしたのですか?」
 やはり芹菜だった。芹菜は、私が訪ねて来たことに驚きを隠さなかった。
 「芹菜……」
 私の背後にいた真里菜が顔を出すと、芹菜は口を開けたまま、唖然とした表情で真里菜を見つめた。
 「真里菜、どうしてわかったの?」
 少し膨らんだお腹を抱えるようにして、芹菜は私たちを部屋の奥へ案内した。2DKの小さな部屋だったがきれいに片づけられており、キッチンの近くにあるソファに私と真里菜を座らせた。
 私は芹菜に、三枝に会って住所を聞いたことを話した。
 「夫とは二年前、大阪へ出てきた時に知り合って……。演劇には何のゆかりも関心もない人だけど、とてもいい人でね、一年前から同棲していたのだけど、子供が出来たのを機に最近、籍を入れて結婚したの。その時、電話番号を変えたことを三枝さんに伝えていなくて。でも、嬉しいわ。真里菜に会えて」
 お茶の用意をしながら芹菜が話す。私は、芹菜の書いた三枝の演劇を真里菜と共に観たことを芹菜に伝え、非常によかった、と話すと、芹菜は照れながら言った。
 「あの劇を書いた後、子供ができたことがわかって……。脚本を書くことを一時中断することにしました。でも、無事、出産したら、また書き始めます。夫も応援してくれるし、何よりも真里菜のために書きたい。今はまだ無理だけどね」
 真里菜は、この部屋へ入ってから一言も口を開いていない。じっと芹菜を見つめたままでいた。
 「三枝さんがまたお願いしたいと言っていたよ。脚本の評判がすごくいいと言って喜んでいた」
 「本当ですか? でも、私なんかまだまだです。でも、いつか、真里菜に演じてもらえるような脚本を書きますから期待してくださいね」
 芹菜はそう言って笑顔を見せた。黙っていた真里菜がその時、ようやく口を開いた。
 「芹菜、ありがとう。五年前、私、あなたにひどいことを言ってしまったと、ずっと後悔してきた……。初めて役をもらえることになった時、宮川に言われたことを覚えている? 私が芹菜のどちらかに役を与えたい。二人とも甲乙つけがたくて迷っていると。私はあなたに負けたくなかった。それで宮川に、私を選んでください、と直訴した。すると、宮川は、迷っていたが、実はもう芹菜に決めているんだ、と私に打ち明けた。なぜ、あなたに決めたか、その理由を宮川は話してくれた。演劇人としての才能が、ほんの少しだが、芹菜にある、と宮川は言った。悔しかった。その演劇人としての才能が何かを問うと、宮川は答えなかった。私はあなたに敵対心を持った。でも、そのうちあなたは、劇団を辞めた。宮川はずいぶんあなたを慰留したようだけど、あなたの決心は変わらなかった。おかげで私に役が舞い込み、その後、私は準主役をやれるまでになった――。芹菜がいたら、きっと私より早く私の今の位置を取れたと思う」
 芹菜は、真里菜の隣に座ると、真里菜の肩を抱くようにして言った。
 「そうじゃないのよ真里菜。宮川はあの時、私にも同じことを言ったのよ。迷っていたが真里菜に決めていると。真里菜の方が演劇人としての才能が少しだけだがあると。宮川は、多分、そう言って二人を確かめたのだと思う。演劇界でのし上がっていくためには、ライバルに打ち勝つだけの強い心を持たなければやっていけない。そのことを宮川は言いたかったと思うの。案の定、真里菜は宮川に直訴し、私は、両親の離婚を機に高知へ帰った。私はあなたに負けたのよ。演劇から離れると、何だか解放されたような気分になった。きっと、私には向いていなかったのね。母の再婚を機に再び大阪へやって来て、まず、最初に真里菜に連絡をしようと思ったけど、できなかった。負け犬根性が出たのね、きっと。そんな時、主人に出会って、私、女の幸せって、子供を産んで、家庭を守ることにあるのじゃないかって思った。主人はやさしくてとてもいい人だった。私、生まれて初めて幸せを感じたわ。でも、真里菜、あなたのことはいつも気になっていた。あなたはもっとやれる人だ。あなたはスターダムにのし上がり、超一流の演劇人になれる人だ、ずっとそう思って来た。そのための私の役割は何かしらと考えた時、脚本を書いてみようと思い付いたの。それまで少しずつだけど、これまで勉強してきたことがあったので、家庭を邪魔しない程度でやれたら……、と思っていたら、主人が、やりたいことがあるなら頑張ってみろ、そう言ってくれて、書いたのが三枝さんにお渡しした脚本なの」
 女性同士の友情は成り立たないと聞いたことがあるが、真里菜の成功を喜び、芹菜の出産を喜ぶ二人の間には立派に友情が成り立っているように思えた。お互いの誤解が解け、万々歳と思っていたのだが、――実はそうではなかった。
〈つづく〉

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