父子酒

高瀬 甚太

 場末の立ち飲み屋「えびす亭」にやって来る客で、よしおを知らない客などまずいないだろう。よしおは、幼い頃から父と共にえびす亭に毎日のようにやって来た。父親は無類の酒好きで、幼いよしおの手を引っ張り、えびす亭に毎晩のように通っていた。
 親父が酒を呑む間、幼いよしおは親父の服の袖をしっかり掴み、カウンターの下でじつとしていた。見かねたの客の一人が「坊や、これでも食べるか?」とハムや焼き鳥をよしおに与えようとしても、よしおは首を横に振って、ガンとそれを受け取らなかった。
 よしおの父は麦焼酎を数杯お代わりした後、「よしお、ごめんな」と言って、よしおの手を引っ張ってえびす亭を後にする。それが常だった。
 そんな二人の後姿を眺めながら、
 「あんな小さい子供、なんで連れてくるんや。かわいそうやないか」
 と、よしおを不憫に思い、憤慨する客もいた。
 幼児が立ち呑みの店に来て、楽しいことなどあるはずがない。家にいて母親と共にテレビを観るか、風呂に入って寝させた方がいい。第一、酒呑みが集まるこんな店に連れてくるなんて、親としての自覚に欠けている。
 ほとんどの者がそう思っただろうし、また、それが当然だ。ところがただ一人、よしおの父をかばった者がいた。
 「事情がありまんのや、事情が――」
 とかばったのは畳屋の清水さんだった。
 清水さんの畳屋とよしおの家は近い。清水さんの家から少し離れた場所に五軒、軒を並べた長屋がある。古くて汚い長屋だ。そのうちの一軒によしおとよしおの親父が二人で住んでいた。
 清水さんは、畳屋で一日中働いているせいか、いろんな噂話を耳にする。よしおの父親の話も風の噂で聞いていた。
 よしおの父は香川洋介と言い、一時は女の子に騒がれるほど名の売れた劇団俳優だったという。人気絶頂の頃は、香川が出ると聞いただけで劇場は言うまでもなく、劇場の外までファンが群れを成したらしい。そんな香川がファンの女の子と結婚したのが三十代の後半だ。有頂天になっていた香川は、結婚を機に新劇団を立ち上げた。香川洋介の魅力を満載した劇は大いに受けた。テレビや映画にも顔を出し、その人気は不動のものと思われた。だが、隆盛を極めたのはほんの少しの間だった。酒に酔った香川がバーで従業員に乱暴を働いたことがニュースになり、テレビ、映画からはじき出され、香川の人気は地に落ちた。同時に劇団の人気も落ち、人が集まらなくなった。
 香川は劇団を畳んだ。元々酒が好きだったが、その頃から酒量が増え、酒浸りの日が続いた。
 さまざまな手段を講じて再浮上を狙った香川であったが、すでに業界には香川の居場所はなくなっていた。よしおが生まれたのはそんな時だ。子供が生まれても、香川は酒に溺れ、ろくに働くことをしなかった。栄光の日々が忘れられなかったのだ。当然、生活に困窮した。持家だけがあるだけで、収入が何もない日が続き、妻は生まれて間もないよしおを置いて夜の店に働きに出るようになった。妻が働きに出ている間、香川はよしおの世話をしながら酒を呑んだ。酒浸りの香川に愛想をつかした妻は、仕事先で知り合った男と恋におち、生まれて間もないよしおと夫を捨てて家を出た。
 家を売って、長屋に引っ越して来た香川は、人が変わったように子煩悩になった。幼いよしおを背中に背負って、買い物に出かける時も、仕事に出かける時も、どんな時でも片時もよしおを自分のそばから離さなかった。この頃の二人を、清水さんは度々目撃している。
 清水さんはその頃のよしおの話をえびす亭の面々に時折、聞かせることがあった。そんな時、決まって清水さんの顔は泣き顔になる。

 ――香川さんは、よしおを保育所に預けることも施設に預けることもしなかったね。いつも手をつなぎ、時には背中に背負い、坂道を歩いている姿をよう目撃した。二人が仲よく手をつないで歩いている姿をわしは今でもよう忘れんわ……。
 香川さんにとって、よしおはたった一つの宝物やったんやね。香川さんは生活費を稼ぐために工事現場で働いておったんやけど、幼いよしおはいつも現場の安全な場所に座って香川さんを待っていた。近所の人がよしおを預かると言っても、香川さんは決してよしおを自分のそばから離さなかった。不憫に思った仕事先の大将が結婚相手を紹介しようとしても、香川さんは『おおきに』と言いながらも、それを受けなかった。
 仕事が休みの日、公園で二人をよく見かけたよ。二人でキャッチボールをして……。サッカーをして、時にはかくれんぼうをしていた。あの時の香川さん、ほんまに楽しそうやった……。
 香川さんは酒が大好きでね。夜になると「えびす亭」に行かないと我慢のできない人だった。でも、よしおが寂しがる、そう思うたんやろね。いつも一緒に連れて来てた。よしおは無口な子供でね。父親の手をしっかり掴んで、親父が酒を呑んでいる間、ずっと親父の服の袖を掴んで……、何も食べず、何も飲まず、じっと黙って立っていた。本当にいじらしかったよ――。

 それは小学校へ行くようになっても変わらなかったと、清水さんは話す。よしおは、授業を終えると友だちと遊ぶことなく、親父の働く現場へ行き、親父の仕事が終わるのをじっと待っていた。

 よしおは親父が好きだったんやろね。二人はいつも手をつないでいたよ。小学校から中学校へ進学しても二人は変わらず仲良しだったね。
 酒の呑みすぎで体に変調を来していた親父の代わりに、よしおが新聞配達や工事現場に出て働くようになって――、反抗期の年頃やったから、親子喧嘩の一つもあってよさそうなもんやったけど、なかったんと違うかな……。そんな気配を感じたことはなかった。
 中学校を卒業する頃にはよしおの方が体がでかくなっていて、よしおは親父を自転車の荷台に乗せて「えびす亭」にやって来た。二人で仲よくカウンターに立って、麦焼酎を呑む親父のそばで、よしおは相変わらず飲まず食べずで、じっと親父を見つめていた。
 「えびす亭」ではおそらく知らんものがなかったやろね。中学生の子供が親父の呑んでいるそばでじっと黙って心配そうにそれを見ているんや。この親子、何や? そう思った人も多かったん違うかなぁ」
 清水さんは、酒を一杯、口にすると顔を曇らせて、また話し始めた。
 「よしおは毎日、七時頃になると、親父を自転車に乗せて『えびす亭』にやって来た。香川さんの体調は明らかにようないように見えたけれど、よしおは、呑みすぎないように気を付けながら、静かに親父を見守っていた。
わしの息子は今、十八歳になるけど、義男とは大違いや。わしとはほとんど口を利かへんし、反抗ばっかりしよる。それから比べたら、よしおは立派や。香川さんのことがほんまに羨ましかったよ。
 よしおは自分の力で高校へ入った。えらい子や、わしはよしおのことをいつも自慢の種にしとった。よしおは、朝に夕にバイトをして、よう頑張っとったなぁ……。高校を卒業したよしおは、奨学金をもらって、国立大学へ進学した。勉強する時間なんかないように思えたけど、しっかり勉強しとったんや。感心したわ。
 親父が肝臓をやられて入院したのが二年前のことや。
突然、香川親子の姿が見えんようになったんで心配してたら、入院したと聞いて……、噂では香川はかなり重症のようやった。
 それでもよしおは、バイトと病院と学校に忙しく動いた。欠かさず病院へ通って、親父の看病をする。病院でも評判になっていたようや。ほんまにええ子や、何というええ子や。わしは心からそう思うた。
 入院して半年経って、香川さんは退院した。すっかり弱ってしまった香川さんを背負って家に戻ってきたよしおの嬉しそうな姿をわしはよう忘れん……。
 親父が余命いくばくもないことを医師に告げられたよしおは、それだったら、残りの時間をぼくといっしょに過ごさせてほしい、そう言って医師に頼んだそうや。
 驚いたのは、退院したその日から、よしおが親父を背負ってえびす亭にやって来たことや。香川さんはよしおに背負われたまま、麦焼酎をほんまに美味しそうに呑んでいた。親父に酒を呑ませながら、よしおは、子供の頃と同様に自分は何も口にしなかった。親父を背負ったまま、酒を呑ませ、食べさせ、呑み終えたところで背中に背負ったままえびす亭を後にした。店にいたみんなは、呆れたような、羨ましいような、ポカンとした表情で二人を見送っていた。
 香川さんが亡くなったのはそれから一か月後のことやった。その日、よしおの泣く声が遠く離れた我が家にまで聞こえてくるようやと周りのみんなが噂しとった……。
 親父が息を引き取るまで、よしおは「ガンバレ、ガンバレ」と言って、親父の手を握っていたそうや。
 『よしお、おおきによ……』
 香川さんはよしおの手を握って、静かにこの世を去った。その瞬間、よしおは初めて泣いた……。
 『親父、おれをひとりぼっちにせんといてくれ!』
 そう言って大泣きに泣いたそうや。
 子供の頃から片時も離れることのなかった親子が離れてしもうたんや。よしおの悲しみと寂しさを考えると、わしは胸が締め付けられる思いがした。
気丈に通夜と葬儀を終えたよしおが、親父の代わりにえびす亭に来たのは葬儀の翌日やった。今までは、えびす亭に来ても、何も呑まず、食べなかったものが、初めて一人でやって来たよしおは、その夜、親父の好きだった麦焼酎を浴びるほど呑んだ――。

 清水さんの話はえびす亭の面々の心を捕らえた。今度、よしおが来たら、話しかけて慰めてやろう。誰もがそう思った。
 しかし、よしおは、葬儀の翌日に「えびす亭」にやって来たものの、その後、一度も顔を見せなかった。「えびす亭」の面々は、一体どうしたのだろうかと心配した。だが、誰もよしおのその後を知らず、清水さんさえ知らなかった。

 三年が経ち、誰もがよしおのことを忘れた頃、「えびす亭」に珍しい親子連れの客が現れた。一歳に満たない幼児を抱いた若い父親は、えびす亭に入ると、麦焼酎を頼んだ。
 「よしお!?」
 若い父親を見て、清水さんが叫ぶように言った。髪型が大人っぽくなり、服装もスーツ姿になっていたが、紛れもなくよしおだった。
 よしおは、清水さんやマスター、顔見知りの人たちに、丁寧に挨拶をした。
 「こんにちは。お久しぶりです」
 抱いていた幼児がケタケタとあどけなく笑った。
 「その子、よしおの子か?」
 清水さんが聞いた。清水さんは、幼児の顔がよしおの父親によく似ているように思え、
 「お父ちゃんに似ているんやないか?」
 と言うと、よしおはとても嬉しそうな表情を浮かべて、
 「よく言われます」
 と言って笑った。
 「父親の洋介の一字を取って、洋一と付けました」
 えびす亭の面々に息子を紹介したよしおを見て、清水さんやマスターは思わず、
 「お前も嫁さんに逃げられたんか!?」
 と聞いた。
 よしおは、幼児の頃のように首を振って、
 「大丈夫です。嫁はホテルで私たちの帰りを待っています」
 よしおの返事に清水さんもマスターも、えびす亭の面々全員が、安堵の表情に包まれた。

 よしおは、父親が亡くなってすぐに引っ越した。父親の思い出が詰まった家にいることに耐えられなかったからだ。豊中に引っ越したよしおは、そこで小さな部屋を借り、大学に通った。同じ大学に通う新藤絵美と出会ったのは、三回生の春だ。よしおが通う大学のそばに小さな喫茶店があった。絵美はその店で働いていた。
 大学の仲間たちと共に、打ち合わせを兼ねて喫茶店に入ったよしおは、そこで絵美と初めて出会った。強い第一印象を受けたわけではなかったが、絵美の幸薄い表情がよしおの心に引っかかった。
 ある日、よしおは、バイトを終えて帰る途中、偶然、絵美と出会った。梅田の地下街、人でごった返す中で、あろうことか、ぶつかったのだ。よしおとぶつかって倒れそうになった絵美の手をよしおが掴み、辛くも絵美は倒れずに済んだ。顔を見合わせて、二人は殆ど同時に「アッ」と声を上げた。
 偶然が幸いして二人は付き合うようになった。でも、それは映画を観たり、お茶を飲んだり、他愛もない友人関係のようなものだった。
 ある日、絵美の務める喫茶店に入ってお茶を飲んでいたよしおは、その日、絵美がいないことに気付き、店の経営者であるママに聞いた。
 「絵美さんはお休みですか?」と。
 ママは、じっとよしおの顔を見つめて、
 「香川さんですか?」
 と聞いた。よしおが、「はい、そうですが……」と答えると、ママは、にこやかな笑顔を浮かべて、
 「絵美は今日、両親の墓参りに行っています」
 と答えた。
 「両親の墓参り?」
 怪訝な表情でよしおが尋ねると、ママは、
 「絵美が高校生の年に、両親が交通事故に遭って亡くなりましてね。それ以来、ひとりぼっちになった絵美を叔母である私が引き取って……」
 と言い、「かわいそうな子なんですよ」と付け加えた。
 「そうですか……。知らなかった」
 「でも、あの子、この頃、変わったんですよ。以前はいつも寂しそうな表情をして、自殺でもするんじゃないか、そんなことを思ったこともあったのですが、今は、本当に明るくなって。これもすべて香川さんのおかげです。あの子いつも、私に香川さんのことばかり話すのですよ。その時の楽しそうな顔を見ていたら何だかうれしくて……」
 喫茶店はいつも学生で賑わっていた。ぞろぞろと五、六人連れの学生客が入って来たのを見たママは、「いらっしゃいませ」と言ってよしおのそばを離れ、客を席に誘導した。
 コーヒーを飲み終えたよしおは、ママに礼を言って喫茶店を出た。この日は高校生の家庭教師の仕事があった。
 その夜、よしおは絵美の夢を見た。暗闇で膝を抱えてうずくまっている絵美の姿は、そのまま自分の姿であるかのように思えた。父を亡くした心の痛み、ぽっかりと空いた空洞は埋まるまで相当の時間が必要なように思え、それはおそらく生涯埋まらないのではとも思っていた。繰り返し襲ってくる悲しみは、孤独をさらに推し進め、深い闇に導く一つの要因になっていた。寝床の中でよしおは、何度叫んだことだろうか――。
 「父さん、父さん……」
 父の手のぬくもり、背中の温かさ、酒の臭い……、一つひとつが残像となって今もよしおの中に生き続けている。いつになったら脱出できるのか、それは途方もない時間のように思えた。
 だが、それは絵美も一緒ではないかと、その時、よしおは思った。突然、両親を失った悲しみが、深い闇の中に絵美を誘い込み、孤独地獄に貶める一つの要因になっているのでは……。よしおは絵美が愛しく思え、絵美を深い闇から引き上げたい、強い決意でそう思った。――その日からよしおにとって絵美は特別な人となった。
 出会って半年目に二人は一緒に暮らすようになった。学生結婚だったが、絵美の叔母である喫茶店のママが二人の同棲を奨励し、後押しした。
 同棲してすぐによしおは籍を入れ、正式に婚姻すると、翌年には第一子が誕生した。三千二百グラムもある元気な男の子によしおは洋一と名付け、父親がよしおを溺愛したように、よしおもまた洋一を溺愛した。
 大学を卒業したよしおは、大手生保会社に就職し、東京に引っ越した。だが、半年後、辞令を受け、大阪本社勤務となり、地元に帰って来た。住まいを決めるためにやって来た大阪で、まず最初に立ち寄ったのが「えびす亭」だった。この店には父親との思い出がいっぱい詰まっている、よしおはそのことを懐かしく思い出しながら、洋一を抱えてガラス戸をくぐった。父が幼いよしおをそうしたように――。
 「えびす亭」は不思議な店だ。さまざまな人がいて、さまざまな人生がある。酒の味もまたさまざまだ。苦い時もあれば甘い時もある。悔しい時もあれば悲しい時もある。酒の味はそのまま人生の味だ。「えびす亭」はそんな束の間の人生の味を売る店だと、久々にこの店を訪れて、よしおは改めて思った。
<了>


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