怨霊の島にやって来た
高瀬甚太
年末の押し迫った日の午後、私は、旧知の樫山喜一から電話を受けた。
――編集長か? ちょっといいか。
のんびりした物言いだったので、高槻市の自宅にいるものだと思い、軽い口調で応対した。
――蚊帳の島という島を知っているか?
突然の問いかけに面食らってしまった。
――蚊帳の島? どこにあるんだ。聞いたことがない。
と、答えると、
――淡路島と徳島の間にある、鳴門海峡に近い島だ。今、そこにいる。
と言う。
――どうしてそんなところに?
正月前のあわただしい時期だった。樫山がそんな場所にいることに驚いた。
――この島に住む八十歳のご老人から連絡をもらってやって来たんだが驚いたよ。ここは島全体が一つの霊界になっていて――。
――島全体が一つの霊界? どういう意味だ。それは?
――来たらよくわかる。来ないか?
興味はあったが、冬のこの時期にわざわざ行きたい場所でもなかった。年末年始は紅白歌合戦でも観てゆっくり過ごしたいと考えていた。
――いや、やめておこう。年末は資金繰りで忙しい。
断ったが、樫山は、声色を変えて執拗に私を誘った。
――来てほしいんだ。わし一人の手に負えそうもない。金なら何とかする。
樫山が頼みごとをするなど珍しかったので、断り切れなくなった。
――しかしなあ、樫山の手に負えないものが私に何とかできるとは思わないし……。
再び、樫山が力を込めて言った。
――金なら何とかする。
樫山は、私が資金繰りに追われていることをよく知っている。それで金で釣ろうとしているのだ。しかし、気乗りがしなかった。年の瀬ぐらいゆっくりしたかった。
――少し風邪気味だし……。
樫山は何が何でも私を呼ぶつもりだ。、大きな声で私に言った。
――金なら何とかする!
徳島の小松島港と淡路島の鳴門を結ぶ、ちょうど中間あたりに蚊帳の島があり、その島へ行くには船を使うしか手段がなかった。大阪からバスに乗って小松島港にやって来た私は、すっかり様変わりした小松島港で運航案内表を見て蚊帳の島を航行する船を確認した。だが、どこにも蚊帳の島行きを示す表示がなかった。
「蚊帳の島? あの島は船が通っていませんよ」
案内係の男性に訊ねると、そんな返事が返ってきた。
「では、蚊帳の島へ行くにはどうすればいいのでしょうか?」
尋ねると、案内係はしばらく考えた後、
「どうしても蚊帳の島へ行かないといけないのですか?」
と面倒臭そうな表情で聞いた。
「ええ、どうしても今日中に行かなければならないのですが……」
案内係は、事務の女性を呼んで聞いた。
「柴田さん。今日、何時ごろ帰る予定ですか?」
柴田と呼ばれた女性は、その手を止めて、
「定時で終わりますから午後5時半頃にはここを出ます」
と答えた後、その女性は、案内係に向かって「どうしてですか?」と聞いた。三十代前半の知的な風貌の女性は、メガネの奥の視線を光らせて先ほどから興味深く私を見ていた。
「いや、この方が蚊帳の島へ行きたいとおっしゃっているんだが、帰りに一緒に連れて行ってもらえないかと思ってね」
柴田は、私を品定めするようにして一瞥すると、
「蚊帳の島へはどんな用で行かれるのですか?」と聞いた。
「友人の樫山喜一というものが蚊帳の島にいて、島に来るよう誘われましてね。断り切れなくてやってきたのですが、定期便がないと聞いて、どうしようか思いまして――」
柴田は、樫山の名前を聞いて、思い当たる節があったようだ。頷くと、
「わかりました。仕事が終わるまでお待ちください」
時計の針は午後2時を少し過ぎていた。蚊帳の島に関する知識が不足していたため、柴田が退社する時間までの間に島のことを調べておこうと思い、小松港周辺を散策することにした。
小松島港は、かつては四国の東の玄関口として、大阪や和歌山を結ぶフェリーの発着港として賑わった場所だった。だが、一九九八年の明石海峡大橋の開業を機に、旅客港としての地位が低下し、現在は旅客港としてよりも、四国の主要な商港としての色合いが強くなっている。ターミナルには、たくさんのコンテナが滞留しており、中国や韓国との往来を窺わせる文字が目に付いた。
食事をするために港近くの小さな食堂に入った。和食、洋食、全般を扱う大衆食堂のようで、壁に書かれたメニュー表を見ると、うどんから始まって、中華、洋食、たこ焼きに至るまでほとんどのメニューが揃っていることに驚かされた。
きつねうどんと親子丼の二品を注文すると、10分もしないうちにテーブルの上に並べられた。食堂の中は、昼食の時間帯を過ぎていたせいか客はまばらで、旅行者よりも港で働く労働者の方が多かった。
「蚊帳の島をご存じですか?」
食堂の店員に尋ねると、店員は不審者でもみるような目で私を見て、
「知っていますけど……」
と曖昧な返事をした。「どんなところですかね?」と再び聞くと、
「平家の落ち武者が流れ着いたと言われている島で、人口が三百人程度の過疎地です」
と店員は説明した。
「平家の落ち武者?」
意外な言葉を聞いて、驚いた。
「四国には平家の落ち武者がたくさん流れ着いたと言われていて、いわく因縁の話がたくさん残っているんです」と店員は言う。
二十代らしき店員の口から、平家の話など聞けるとは思っていなかったので少々驚いた。その時、私は、樫山が電話で言った霊界の島というのも、平家伝説に由来しているのだろうか、とふと思った。
時計の針が午後5時を指したところで再び港湾事務所に入った。柴田は、私を見つけると、
「少し早めに帰りますので用意をしておいてください」と言った。
港の東、少し歩いた場所に自家用船やボートを寄港する場所があった。柴田は、その場所へ私を案内すると、一隻のモーターボートを指さし、それに乗船するよう言った。
「これで通勤しているんですか?」
ボートに乗り込み、女性に尋ねると、
「ええ、これなら1時間程度で島に着きますから」
と柴田は不愛想に答えた。
港を出ると、風の影響だろうか、とたんに波が荒くなった。女性は慣れた様子でボートを操縦し、スピードを上げて荒波を乗り越えて行った。
女性の名前は柴田奈津美といった。元々、東京で働いていたが、島に住む母親が体調を悪くしたため、その世話をするために戻って来たと語り、島に住む人の数が年々減少していて、年齢も高齢化の一途を辿っており、近い将来、島に住む人は誰もいなくなるのでは、と顔を曇らせた。
柴田は樫山のことをよく知っていて、最近、島で不幸な現象が相次いで起こっていることから、島人全員の意向で樫山をお呼びしたのだと語った。
樫山はいわゆる霊媒師で、それを職業にしている。
島で起きている不幸な現象について、その詳細を尋ねようと思ったが、その前にボートは島に到着し、詳しい話を聞けないまま島に上がった。
柴田は、港に停めていた車に乗り、樫山が滞在する清水崎守の家へ向かった。蚊帳が島は、小さな島と思っていたが、思いのほか大きく、緑深い山が中央にそびえ、それを二分するようにして二つの集落があった。舗装されたアスファルト道路を車で走り、山を越えたところの集落に樫山の滞在する清水崎守の家があった。
「お帰りになる時はおっしゃってください。小松島港までお送りします」
柴田は、私を家の前まで送り届けると、急いで立ち去った。
清水崎守の家は大きな門構えの絢爛たる豪華な建物であった。時代を間違えたかのではないか、と思えるほどの建物のその造りは、この島に似つかわしい建物とは思えなかった。インターフォンを鳴らすと、静かに門が開き、老婆が顔を覗かせた。
「こちらに樫山と申すものがいらっしゃると思いますが――」
「編集長でいらっしゃいますか?」
「そうです」
と答えると、老婆はニッコリ笑って私を見た。暗闇の中で覗く老婆の顔がいかにも奇妙で、はゾクッとするものを感じながら、老婆に案内されて門をくぐった。
木々が生い茂る庭を通り抜けて豪壮な造りの家の中へ入ると、
「おお、編集長、待ちかねたぞ」
玄関先で樫山が私を待っていた。樫山の背後に八十とも九十ともつかない老人が立っていた。その老人は、私を見ると、
「どうぞお上がりください」
と言い、奥の部屋へ案内した。
強い風の音と荒い波の音がこだまする。その音が寂とした室内を支配していた。老人は、「清水崎守と申します」と挨拶をすると、しわがれた声で、
「この島は、平家の落ち武者が移り住んだ島といわれた土地でして――」
と島の説明を始めた。
「先祖代々、受け継がれてきた風習の中には平家の時代の習わしを継承するものもたくさんあり、また事物や事象もたくさん残されています。人の入れ替わりのほとんどない島ですが、家が絶えたり、人口が外へ流出するなどして、いつの間にか人口も世帯も大きく減少しました。そのため、この島に代々伝えられてきた祭りや伝承を継続することが困難になり、それが災いしたのでしょうか。近年、この島に不幸な現象が立て続けに起こっております」
「不幸な現象と申しますと……」
尋ねると、崎守老人は、テーブルの上に置いた湯飲み茶わんを手に持ち、その中に入っていたお茶を一気に喉に流し込み、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「第一は不幸な死が続いていることです」
「不幸な死――?」
「寿命が尽きての死であればしかたのないことですが、そうではない死が多いのです」
崎守老人の物言いがやや恐れを秘めた口調に変わった。
「昨年のことです。福田英二という七十歳になる島人が、田畑を耕している最中に心臓麻痺を起して亡くなりました。心臓麻痺――、高年齢の方ですから致し方のないことのように思いますが、亡くなった時の彼の表情をみて、駆け付けた人や医師はみな驚きました。その顔は、恐怖にひきつったこの世のものとは思えない形相をしていたからです。一体、彼は何を見たのか、それが島の人たちの話題になりました。
一昨年には、清水みちえという、私どもの親戚筋にあたる六五歳になる女性が何者かに引きずられていくようにして、海に飛び込んでいます。目撃した島の人の話によれば、止めようにも止まらない、すごい力で清水みちえは崖へと運ばれ、そこから海へ飛び込んで命を失ったと言います。
今年の春にも、車を走らせている途中、急にスピードが上がり、猛スピードで崖から落とされそうになった川田弥助という七五歳の老人がいます。この老人は幸い、九死に一生を得て無事でしたが、その時のことを、『アクセルを踏んでいるわけでもないのに急にスピードが上がり、ハンドルが動かなくなった』と語っています。崖から落ちる瞬間、川田は偶然にもドアを開けることができ、外へ飛び出して助かりました。警察は、車に故障があったのではないかと言いますが、私はそうは思っていません。川田の話を信じているからです。五月にも一人、島の人間が命を失っています。その死も奇妙な死でした。夜中に突然、庭へ飛び出して自らの首を断ち切って――。そんな事件が相次いで起こり、これはもう尋常ではない、そう思った私は樫山さんに連絡を取り、来ていただけないかとお願いをしました。樫山さんは、すぐにこちらへ来てくれました。そして島に到着するなり、すごいパワーの霊がこの島全体を覆っている。そう言って看破しました。然し、樫山さんの力を持ってしても、この島を覆う霊気に対抗することはできない、そうおっしゃったのであなたをお呼びした次第です」
深刻な表情で崎守老人は語り、私を見た。
「お話はよくわかりました。今のお話を伺っただけでも、この島を取り巻く霊的なものが普通ではないということがよくわかりました。ただ、申し訳ありませんが、私は一介の編集長に過ぎず、樫山のようなパワーも持っていなければ霊気に対抗する手段も持ち合わせていません。樫山に誘われて好奇心のまま、この島を訪れただけでしたので、今さらながら場違いなところへ来てしまったと後悔しています」
おそらく何の役にも立たない。期待に応えられないということを崎守老人に知ってもらいたかった。
「いや、それは違う!」
その時、大声で私の言葉を封じたのは樫山だった。
「霊気に霊気で対抗しようと思っても無理がある。この島を覆う壮大なパワーは底知れぬものがあり、私の霊能力など屁の突っ張りにもなりはしない。そのことを私はこの島にやって来て痛感した。編集長を呼んだのは、霊気を封じ込めたり、やっつけようと思ってのことではない。闘っても無駄だということは私が一番よく知っている。要はこの島を覆う霊が何を望んでいるかを知ることであり、把握することだ。知ることで対処する、それが今回の場合、最善の方法ではないかと私は考えた。それであんたを呼んだのだ」
「しかし――、私は」
「霊に立ち向かうには、霊を恐れない勇気、霊に屈しない強い気持ちが大切だ。島民にはそれがない。恐れや弱気が霊の力を増幅し、最悪の結果を招いている。私にしてもそうだ。闘う方にしか意識が向かない。だからダメなのだ。その点、編集長はいたずらに霊を恐れたりせず、霊を信じる勇気もある。霊の存在を認め、霊を慈しむ心も持ち合わせている。それが今回の場合、一番重要なことなのだ」
霊を信じる勇気、屈服しない強い力、そして、霊を認め、慈しむ気持ち――。樫山の言葉が、今の私に本当に当てはまるかどうか、自信はなかったが、この問題を解決するまでは島を後にすることはできないだろう。その時、私そう覚悟した。
翌日、樫山、崎守老人と共にこの島唯一の神社に向かった。
蚊帳の島神社は、島の中央に位置する小高い山のふもとにあった。島民は一日に一度、この神社を訪れ、お参りをすることが習慣になっていると崎守老人は説明をした。確かに、神社はよく手入れされ、きれいに掃き清められていた。
「源氏との闘いに破れた平家の落ち武者がこの島に逃れ、死した平家の霊を慰霊するために建立したのがこの神社だと言われていますが、その際、先住民の島民といざこざがあったと伝えられています。その頃の島民のほとんどは、太陽信仰、自然信仰が中心で、神社や寺を持つといった発想がありませんでした。この島に落ち延びた平家の落ち武者たちは、慰霊するための神社を必要としましたが、平家にゆかりのない島人には平家を慰霊する神社など、何の有難みもなく、必要のないものでした。
当然のように神社建立を巡って落ち武者と先住民の間でいざこざが生じ、それが高じて憎悪が生まれ、血で血を洗う戦いに発展しました。双方にかなりの死者が出て、それは数年間続いたといわれています。
結局、武器を持つ平家の落ち武者たちが島を統治するようになり、神社も落ち武者たちの手によって建立されました。問題はその戦いの後です。闘いがきっかけとなって、落ち武者と先住民の二派に島が分類され、同じ島に住みながらお互いに相容れないといった不幸が生まれました。
島を巡っていただければわかると思いますが、島の中央にある山を分岐点として、二つの集落が存在します。片方が平家の落ち武者、片方が先住民、今でもはっきりと棲み分けされ、現在に至ってもなお反目し合っています。ちなみに私は平家の落ち武者の側にあたります」
憎悪は悪霊を生み出す要因の一つだと私は思っている。狭い島の中で二分された島人たちの数百年に亘る憎悪の歴史が、何かがきっかけになって突然、その姿を現したのではないかと、崎守老人の話を聞いて推察した。一体、何があったのか、何がきっかけとなったのか、まず、それを知る必要があった。
孤島を囲む瀬戸内の海は静かで平穏なものだと思っていたが、この島を取り巻く海の荒れようは尋常ではなかった。また、清水崎守家を含む平家の落ち武者を先祖に持つ家々が豪華絢爛たる造りなのに比べ、先住民である島民の家は、質素で実用性を兼ね備えた家が多かった。この差は何か、樫山に訊ねると、それは先祖から伝わる財産の差だろうと樫山は言った。平家の落ち武者は、ある程度の財産を持って逃亡し、この島に流れ着いた。その差が今の暮らしの格差に現れているのではないかと――。そのことが先住民たちの憎悪を高める一つの要素になっているのかもしれない、というのが樫山の推測で、それは私も同意見だった。
柴田奈津美と再会したのは、この島へ来て三日目のことだ。その日、私は、樫山と共に、終日、島を探索し、さらに深く島の実情を探るために歩き続けていた。そんな時、幼い子供の手を引っ張りながら畦道を歩く柴田に出会った。彼女は、私に気付くと、丁寧な挨拶をした。
私は柴田に先日、この島へ送っていただいた礼を述べ、そばにいる幼女を見て尋ねた。
「柴田さんのお子さんですか?」
二歳ぐらいだろうか、幼女は柴田の手をしっかり掴み、見上げるようにして私を見た。
「ええ、そうです。麻耶ちゃん、おじさんに挨拶なさい」
麻耶と呼ばれた幼女は、
「おじちゃん、こんにちは」
と、たどたどしいがはっきりした声で挨拶し、頭を下げた。
「柴田さんはどちらにお住まいですか?」
尋ねると、柴田は先住民の住む村の方を指さした。
その夜、私は、清水崎守と樫山の三人で夜遅くまで対策を話し合った。樫山がその鋭い霊感力で恐ろしいほど大きな霊の襲撃を感じ、このままではまた、新たな死者を出す。そう予感したからだ。そのための対策を急いで行う必要があった。
この時、私はずっと気になっていたことを崎守老人に聞いた。
「崎守さんは、島民の柴田奈津美さんという方をご存じですか? 先住民の村に住んでいる方ですが。その柴田さんが崎守さん、あなたとよく似ていることが気になって――」
崎守老人は、柴田奈津美と聞いた途端、表情を変えた。
「奈津美は私の姪で、妹の娘です。――こともあろうにその奈津美が五年前、先住民の側の柴田芳樹という男と結婚すると言い出して……。許すわけにはいきませんでした。向こう側の人間と付き合うことは、こちら側に住む人間にとってタブーで、大問題です。結局、奈津美は私たちの反対を押し切って、柴田と共にこの島を出ました。五年前のことです。
しかし、島を出て三年後、生まれたばかりの麻耶を残して奈津美の夫が交通事故で急死し、奈津美は働きながら女手一つで子供を育てることになりました。その頃、奈津美の母で私の妹の美也子が肺ガンになり、余命いくばくもないことを知って、奈津美を呼びました。奈津美は麻耶と共に帰り、美也子の看病をしましたが、美也子が亡くなると、亡くなった夫の実家近くに住み、そこで暮らすようになりました。私たちは何度も奈津美に、こちらへ帰って来いと言ったのですが、なかなか言うことを聞いてくれなくて――」
崎守老人の嘆きを聞きながら、令和のこの時代に、なんと言う時代遅れのことをやっているのだろう、と腹立ちを覚えた。しかし、私が意見すべきようなことではなかった。そのことについては口をつぐんだ。
その時、樫本の体が突然、大きく震えた。
「編集長、一刻も早く悪霊が現れる要因を見つけ出さないとこの島の人たちが危ない。大きな悪霊がすぐそこまで近づいている」
青白い顔に苦悶の表情を浮かべて樫本が言った。
この二、三日、樫本と共にこの島をくまなく探し回ったが、何も見つけることができなかった。私の脳裏を憎悪、対立、敵対――、島を巡るさまざまな負の要因が過った。
柴田奈津美と麻耶の顔が浮かび、その顔が無表情なことが気になっていた。崎守老人は、三年前から不可思議な不幸な事件が相次いでいるのだと問わず語りに語っていた。
――三年前、それは柴田奈津美が麻耶と共にこの島へ戻った時期ではないか。二派が対立するその軸に彼女の存在があるのではないか。結婚を許されずこの島から逃亡した二人、しかし、夫が急死し、この世を去った。
彼女の夫の無念の気持ちがこの島に災いをもたらしているのではないだろうか、ふとそう思った。
もし、そうであるならどうすればいいのだろう。私は自らの考えを樫山に話した。
「柴田奈津美の夫の遺骨がどうなっているか、それを調べる必要がある」
樫山は私の意見を否定しなかった。
早速、私は柴田奈津美の携帯に連絡を取った。奈津美はすぐに電話に出た。
――奈津美さん、唐突でもうしわけありません。ご主人の墓はどうなっていますか?
と聞くと、奈津美は、
――ご存じのように私の実家と夫の実家は敵対する地域に存在しています。私が両親を捨てて島を出たように、夫も家を捨てて島を出ました。夫の死後、遺骨はずっと私の手元に置いてありました。いつの日か、夫の実家の墓に入れてもらいたいと思ったからです。
母を看病するために島に戻った私は夫の実家に行き、夫の遺骨を柴田の墓に納めてもらうようお願いしました。でも、島を出る時のしこりが残っているのでしょうか、許してもらえませんでした。私は許してもらえるまで、自分の実家には戻らず、夫の実家の近くに住み、その日を待とうと決心しました……。
――では、現在もご主人の遺骨は奈津美さんの手元にあるわけですね。
――はい。私の手元に置いています。
私は樫本と共には、奈津美の家に急行した。
「編集長が推理したように、奈津美の夫の遺骨がこの島に帰ってきたことで、それまで眠っていた先住民の怨霊が目覚め、奈津美の夫の霊と合体した可能性がある」
柴田奈津美の住まいに向かう途中、樫本はそう語り、どうすれば目覚めた怨霊を抑えられるか、それを考えた。
「やはり、霊力で押えようとしても抑えられるものではない。この大きさは想像もつかないぐらい大きなものだ。私の力では限界がある。編集長、きみの力が必要だ」
「私の力?」
「ああ、そうだ。きみのように霊の存在を認め、霊を恐れず、霊と真正面から向き合う勇気こそが奇跡を起こす可能性がある。私のように最初から、霊を封じ込めようと意識し、霊に戦いを挑む者は、逆に霊の力を増大させ、さらに多くの犠牲者を出す可能性がある」
「どうすればいい? 私はどうすればいいのだ。何もわからない」
樫山の冷静さに比べ、私の動揺は頂点に達していた。とにかく、奈津美の家に急がねば、そのことだけを意識して、気の鎮まるのを待った。
奈津美は夫の遺骨を抱えて玄関で待っていた。その傍らに幼い麻耶も心配げに立っていた。樫山尚は、「説明は後で」と断って、奈津美の手から遺骨を奪った。
「編集長、ここからが勝負だ。私が奈津美さんの遺骨を抱えるから、きみは遺骨に向かって話しかけてくれ」
奈津美の家の前に広い田畑があった。樫山はその中央に立ち、私を呼んだ。奈津美と麻耶の視線を背中に感じながら私は和尚のそばに近づいた。一般人で何の力も持たない自分に何ができるか、などということはもう考えていなかった。ただ、目の前の柴田奈津美の夫の遺骨に向かい、真摯に話をしよう。そのことだけを思っていた。いたわって、やさしい言葉の一つもかけてあげたい、そのことだけを思い、樫山の前に立った。
樫山の腕の中の遺骨を納めた木箱が、カタカタと揺れ始めた。同時に樫山の腕も震え、それと共に樫山の顔が苦痛に歪んだ。それだけではない。田畑が紅く輝き始めたのだ。何かが覚醒しようとしているのだ。
大きく深呼吸をして、木箱の中の柴田奈津美の夫の遺骨に語りかけた。
「蚊帳の島は誰のものでもない。この島を愛し、この島で生命を育ててきた者たちの島だ。島を愛する者の力は無限だ。その愛は誰にも抑えられるものではない。この島を覆う霊たちよ。その壮大なパワーを持ってしても、土地を愛する者の心は打ち破れまい。
幼い命がここにある。亡き人を偲ぼうとして悩み苦しむ人がいる。なぜ、この人たちを苦しめる。年老いた老婆がいる。年老いた老父がいる。この島に住む人たちに共通していることは、亡き人を思い、偲び、敬愛し、その死を慈しむ気持ちだ。墓があり、仏壇がある。日々、祈り、霊界にいるあなた方の心を静め、平穏にするよう努力している。それなのになぜ、苦しめる――」
奈津美の夫に、夫が呼び覚ました巨大な霊に、私は心から呼びかけた。
うまくいくなどとは思っていなかった。ただ、知ってほしかった。この島を愛する人たちの気持ちを、先祖を供養し、祀り続ける島民の精神の底にあるものを――。
樫山が木箱を抱えたまま仰向けに倒れた。ほとんど同時に私も気を失った。
気が付くと、目の前に樫山がいて、奈津美、麻耶が立っていた。そして、その周りに崎守老人をはじめとする島民全員が集まり、私を囲んでいた。
怨霊たちは姿を消したのか――。私を見つめる樫山のうるんだ瞳が印象的だった。
私の力で怨霊が退散したわけではなかったと思う。私はただ事態を改善しただけだ。今回の事件が功を奏して、柴田家の墓に奈津美の夫の遺骨が納められ、奈津美と麻耶は正式に柴田家に迎えられることになった。柴田家と清水家の仲も麻耶がかすがいになり、改善された。柴田家と清水家だけではない。祖先の怨霊を癒す目的もあって二派に分かれ、対立していた島民は手を取り合い、垣根を低くするよう努力をするようになった。
翌朝、私は樫山と共に、柴田奈津美の操縦するモーターボートで小松島港に向かった。彼女は、初めて会った時とはくらべものにならないほどの明るい表情で私と樫山を見送ってくれた。
樫山とは小松島港で別れた、増山はまた、旅に出るのだという。そんな樫山をうらやましく思った。
別れた後に、私は約束の金を樫山からもらっていないことに気が付いた。正月が目の前に迫っている。それなのに――。電車の中でウトウトとした私は、怨霊より怖い借金取りに追われる夢を見て、飛び起きた。大阪まで後、30分。眠るのをやめた。
〈了〉
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