怯え震える幽霊病棟

高瀬 甚太
 
 向東孝という旧知の友がいる。井森の幼なじみで日頃から親交が深かった。
 その向東が交通事故に合ったと電話を受けたのは井森が〆切に追われていた水曜日の午後だった。大した怪我ではなく二週間ほどで退院できると聞いていたので、休日になるのを待って入院している病院に出掛けることにした。
 朝から激しく雨が降っていた。入院先はT市の山間にあると聞いていたがアクセスの不便な場所だった。T駅まで二時間かけて電車で行き、下車した駅からバスに乗って向かうしか方法がなかった。
 十五分ほどバスに揺られて、降りるとすぐのところに病院があった。山間の病院としては不自然なほどに大きく、しかもおよそ病院とは思えないほど西洋の古城に似た形をしていた。
 本当に病院なのだろうか、不安に思いながら、入り口の案内板を見ると、「雅堂病院」と記されていた。暗いロビーには患者が一人もおらず閑散としている。
 受付に行き、向東の病室を尋ねようとしたが受付にも人が見当たらなかった。「こんにちは」と何度か呼びかけて、ようやく事務員らしい女性が姿を現した。
 「向東という者の病室に行きたいのですが……」
 年輩のその女性は井森の問いには答えず、入院患者のファイルをめくると、右手人差し指で奥の方を指差した。
 「この奥ですか?」
 井森が確認するように聞くと、女性は無表情に頷き、そのまま再び受付の奥へと消えた。
 休日だからだろうか。閑散とした院内はガランとして人の姿がまるで見あたらない。
 こんなに大きな病院なのだ。患者はともかく看護士や医師は多数存在するはずだ。見舞客だって少なくないだろう。それなのに井森はまだ受付の女性しか出会っていなかった。
 一階奥に進むと、突き当たりにエレベーターがあった。何階に行けばいいのかわからず、エレベーターの前で躊躇していると、急にエレベーターが開いた。
 誘い込まれるようにして中に乗り込むと、五階のボタンが点いていたので五階で降りて尋ねることにしようと思った。しかし、閉ボタンを押したがどういうわけか閉まらない。
 故障しているのではと思い、エレベーターを降りようとすると急に扉が閉まった。やれやれと思い、エレベーターの中で一息つくと、今度はガタンと大きな音がしてエレベーターが途中で停止した。
 しかも電源まで消えた。慌てて真っ暗なエレベーターの中で呼び出しボタンを探し、押した。だが、呼び出しボタンを押しても一向に応答がなかった。扉を叩いたが、何の反応もない。何という病院だ、怒りにまかせて大声を上げた。
 すると、電気が点き、急にエレベーターが動き始めた。ホッと胸をなで下ろし、病院に抗議しなければと思っているうちに五階に着いた。
 急いでエレベーターを出て、辺りを見回すと、一階同様、暗く寂しい廊下が続いているだけだ。普通はエレベーター近くにあるはずの看護師詰め所もない。仕方なく廊下を歩き、前方に進むとほのかに灯りが見えた。てっきりそこが看護士詰め所だと思い、足早に駆け寄ると、そうではなかった。五歳くらいの男の子が懐中電灯を手にして廊下に座っていた。
 「ぼく、ここで何をしてるの?」
 井森が尋ねると、その子どもは懐中電灯で井森の顔を照らし、「きゃっきゃっ」と笑った。笑うだけならいいのだが、笑いながら井森の向こうずねを蹴飛ばして走り出した。
 「待って、ちょっと待って」
 男の子を追いかけようとしたが、蹴られた足が痛くて走れない。そのうち男の子は闇に紛れて消えてしまった。
 廊下は延々と続いていて、病室など一室もなかった。医務室もなければドアもない。どうなっているのだろうと思い、井森がエレベーターのところまで戻ろうとすると、背後から突然、声をかけられた。
 「何かご用ですか?」
 男の声がして、振り返ると白衣に身を包んだ若い医師が立っていた。二メートル近くあるような背の高い医師だった。井森は安堵して医師に聞いた。
「この病院に入院している向東という者を尋ねて来たのですが、受付の対応が悪くて丁寧に教えてもらえず、仕方なくエレベーターで五階まで上がって来ました」
 医師は井森の目をじっと見つめて、「向東さんですか?」と聞き、
 「交通事故で入院された方ですね。あの方なら退院しましたよ」と言う。
 「えっ、そんなはずはないと思うのですが……。向東の家の方にも、まだ入院しているとお聞きしたばかりなので」
 しかし、医師は、
 「退院しました。どうぞお帰りください」
 と言い張って井森を追い返そうとする。
 「一度、向東の家に電話を入れて確かめます」
 井森は携帯を手に、番号を押すが、つながらなかった。電波が届かないのだ。
 「電波が悪いですね。こちらの電話をお借り出来ますか?」
 「では、こちらへどうぞ」
 と無表情な顔で医師は井森を案内した。暗く長い廊下を抜けると大きなドアに突き当たった。そのドアを開くと、目の前に手術室があり、その隣に事務室のようなものがあった。事務室にもなぜか人がいない。井森は、医師に断って電話を借りた。
 向東家に電話をするが、つながらない。医師にそのことを伝えようと思ったが、医師もいつの間にか姿を消していた。
 事務室で人が来るのを待ったが、誰もやって来ない。仕方なく事務室の反対側のドアを開き、外へ出るとそこは通路になっていて、賑やかな話し声がした。
 急いで声のする方向へ歩くが、声がするだけで姿が見えない。ここは一体、本当に病院なのか。井森は背筋の寒くなるのを感じた。
 しばらく歩くと、再びドアがあった。重い扉を押し開けると、ようやく病室らしき部屋が並ぶ通路に立つことができた。
 だが、不思議なことに誰もいなかった。詰め所にも人がおらず、どの病室も空っぽで患者は一人もいなかった。
 通路を抜けると下へ降りる階段があった。その階段を下りる途中、どこからか呻き声が聞こえたので、井森はハッとした。その声はどうやら階下の四階からの声のようだった。
 急いで階段を下り、四階フロアに立つと、呻き声はさらに大きくなった。
だが、どこから聞こえるのか、まったくわからない。四階の通路を歩いているうちに、その呻き声が間近に迫ってきた。――何かがある。通路を辿るうちにあるドアの前で井森はそれを感じた。
 しかし、ドアを開けようとするが鍵がかけられていて開かない。呻き声と思ったものは、よく聞くと悲鳴であり、叫び声だったのだとその時、気付いた。
 この部屋の中で何かが起きている、そう思った井森はドアに体当たりをした。二度、三度跳ね返されて、三度目に体当たりしようと思い飛び込むと、スーッとドアが開き、井森は部屋の中へ転がり込むようにして飛び込んだ。
暗い部屋の中に確かに何かがいるような気配がした。井森は電気を点けようと、入り口付近で電源を探ったが見つからなかった。
 その時、突然、電気が点いた。がらんとした部屋の中に机がいくつか並べられていたが、他には何もない。あれだけ聞こえていた叫び声も今はまったく聞こえなかった。
 部屋を出てドアを閉めると途端に電源が落ち、再び叫びとも悲鳴ともつかない声が甲高く響いた。 
 一体、この病院はどうなっているのだろうか。不安になった井森はこの病院から抜け出さねばと思った。だが、暗いせいもあってフロアの様子がまるでわからない。ともかく突き当たりに行けば何とかなるだろう、そう思って井森は駈けた。しかし、走っても走っても突き当たりにたどり着かない。
恐怖に駆られながら走っている井森の耳に地の底を這うようなおどろおどろした声が追いかけてきた。立ち止まって振り返るが追いかけて来る者は誰もいなかった。
 真っ暗な中を走っているうちに不意に井森の体が宙に浮いた。階段があったのだ。それに気付かず、飛び込んだ井森は真っ逆さまに階段を転げ落ちた。
 そこで意識が途絶えた。
 
 「大丈夫ですか?」
 意識が戻ると、目の前に医師がいた。先程の医師ではなかった。
 「ここは……?」
 尋ねると、その医師は、井森を診察しながら、
 「病院ですよ。あなたは階段を転げ落ちて意識を失っていたんです」
 と言う。
 診察室のベッドに寝かされた井森は、体の痛みに耐えながら起きようとした。すると看護士が飛んできて、
 「だめですよ。まだ寝ていなくちゃ」
 と井森の体を押さえつけるようにして言った。
 診察室には看護士数名と医師がいて、忙しく患者の診察を行っていた。どこにでもあるような病院の光景だ。では、井森が先程まで体験したのはいったい何だったのか――。
 井森は看護士に聞いた。
 「この病院に向東という者が入院しているかどうかわかりますか?」
 中年の女性看護士は、
 「ちょっとお待ちください。調べてきます」
 と言って井森の側を離れた。それにしても不思議だ。井森は五階で下り、四階で迷った。そこで悲痛な叫び声や悲鳴を聞き、恐くなって病院を出ようとして階段を転げ落ちた。そして助けられた。あれは一体何だったのだろう。
 「入院されていますよ。五階の503号室です」
 看護士が戻って来て井森に言う。
 「五階? 五階なんですか? 私、先程五階へエレベーターで上がったのですが、真っ暗な通路があるだけで何もありませんでした。四階もそうでしたよ」
 看護士は笑って、
 「少しよくなったらご案内しますから一緒に行きましょう」
 と言って、診察中の医師の側に立った。
 階段で頭を打っておかしくなったとでも思ったのだろうか。看護士の態度が気になって、
 「すみません。もう大丈夫ですから案内してもらえますか」
 とお願いをした。看護士は快く、「はい、わかりました」と言って井森を五階へ案内した。
 エレベーターに乗って驚いた。明らかに先程のものとは違っていたからだ。五階のフロアもまるで違う。明るくて清潔で看護士もまたたくさん行き交っていた。
 「この部屋です。どうぞ」
 看護士が503号室を指して言った。井森は、看護士に、
 「私、先程五階に下りたのですが、今とまるで違った雰囲気だったのですが、どうしてでしょうか」
 看護士は、井森の肩をやさしく叩き、
 「いいのよ。すぐに治りますから」
 と言って笑顔を見せて井森の側を離れた。やはり信じていないのだ。
 病室に入ると四人部屋だった。カーテンが閉まっていたので、「向東!」と小さく叫んだ。
 するといきなりカーテンが開き、ベッドの上で退屈そうな顔をした向東が顔を覗かせた。
 「おう、井森、わざわざ来てくれたのか、ありがとう」
 そう言って向東は井森を歓待した。
 この地域の道路を車で走っていた向東は、後方から来たトラックに追突され、大きく道路から逸れて道路の脇に立つ大木に衝突した。幸い、足を骨折する程度の軽傷で済み、近々退院出来そうだと語った。
 井森は向東に、この病院へ来てからのことを話した。向東は井森の話を聞いて思い切り笑った。やはり信じていないようだ。
 井森は自身が実際に経験したことなのに、今はもう夢の中の出来事のような気がして、一瞬戸惑った。あれはやっぱり夢だったのだろうかと不安になった。
 向東に別れを告げ、病室を出て、エレベーターで一階に下りた。一階フロアの様子も先程とはずいぶん違った。患者や見舞客などたくさんの人がいて、いかにも病院らしい賑わいがあった。受付を覗いても先程とはまるで違った。数人の事務員が患者の対応に追われ、右往左往している。
 やはり夢を見ていたのだろうかと井森は思った。病院の外に出ると上天気だった。あれだけ降っていた雨の跡が今はかけらもない。もっと驚いたことは病院の建物だ。ここへ来た時は、お城のような建物だったはずなのに、今、目の前にある病院はごく普通の八階建ての建物だ。
 信じられない思いでしばらく井森は建物を見続けた。一体自分はどうしたのだろうか。精神がおかしくなってしまったのだろうか。井森は再びその思いに囚われた。
 病院名は「雅堂病院」、そこだけは同じだった。不安に襲われながらバスを待った。30分ほど待ってようやくバスがやって来た。
 旧式のボンネットバスが到着して、その旧さに思わず首を傾げた。今でもまだ、こんなバスが走っていたのかと目を疑った。
 ドアが開き、中に入るとえらく人が多い。埋まった座席の奥に一つだけ空席があったので井森はそこに座った。しばらく走ったところで何となく薄気味悪くなって周りを見回すと乗車している人たちの陰が異常に薄い。そのくせザワザワと小声で話している声が妙にうるさかった。
 あれだけ上天気だったのに、しばらく走ると、突然、周りが見えないほどの大雨になった。その瞬間、井森はこの日、最大の恐怖に襲われた。
 乗車している人たちが一斉に立ち上がり、井森に襲いかかって来たのだ。 しかも、およそ人とは思えない形相で――。
 
 気が付いた時、井森は再び病院の診察室にいた。病院の入り口で倒れていたところを発見されたらしい。バスの話をしてもおそらく誰も信じないだろうと思った。
 「また、あなたね」
 そう言って、ベッドに横たわる井森を見て年輩の看護士が笑った。
 この日、井森は二度も気を失った。しかも二度とも同じベッドの上で目を覚ましている。
 井森が見たものは一体何だったのだろうか、とても幻覚とは思えなかった。井森が体験したことは決して夢ではない。リアルな現実なのだと、改めて井森は思った。その証拠に井森は一部始終をはっきりと記憶している。
 井森は思った、自分が体験したことは決して偶然ではない。井森は階段から崩れ落ち、子どもに足を蹴られた。ドアに体当たりをして部屋の中へ飛び込み、バスの中では襲って来るゾンビのような面々に抵抗をした。
 それがすべて偽りの体験だとは思えなかった。きっと何か原因があるはずだ。帰って調べなければと思った。
 
 ――一九七〇年十月五日、T市山中でバスが運転を誤って谷底に転落、四十二人の乗客、全員が死亡――
 翌日、図書館に出掛けた井森は、T市のあの場所で何か大きな事件が起きているはずだと思い、それを探すために新聞記事を探した。そこで見つけたのがその記事だった。
 病院に関しても同様だと思い、新聞記事を追った。すると、
 ――一九六三年十月五日、T市山中に開院したばかりの雅堂病院が不審火による火事で焼失。三十二名の死傷者を出す――
 そんな記事が見つかった。やはり、あの場所で事件や事故が起こっていたのだ。どちらも大量の死傷者を出している。
 この世に思いを残しながら無念の死を遂げた人たちの怨念が、現在に至ってもまだ遺っていて、信じられない話だが、それが井森のような人間を時折、迷い込ませていたのかも知れない。
 なおも新聞を読み続けるうちに、病院の近辺でたくさんの行方不明者が出ているという記事を見つけた。井森のように迷い込んだまま囚われの身となったものがいるのかも知れない。
 向東には申し訳ないが、二度とあの病院には近づかないことにしよう。井森は奇妙な震えにおびえながら図書館を後にした。
〈了〉

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