雨の日、島田さんと琴平さんは出会った
高瀬 甚太
梅雨の時期になると、場末の立ち飲み屋「えびす亭」は少し暇になる。雨降りが影響するのか、湿気の多いじめじめした天候が災いするのか、午後九時を少し過ぎた辺りから急に客が途絶える。
えびす亭に時折顔を出す島田さんという客がいる。個性に乏しく、目立たない客だから常連たちの印象は極めて薄い。
週に二、三回、午後九時過ぎに顔を出し、大瓶ビール一本をオーダーし、酒の肴に刺身を注文する。ビールを呑みながら島田さんはカウンターに立っていつも宙を見上げている。
島田さんと会話をしようとする客などいなかったし、マスターにしても島田さんに直接声をかけたことがなかった。刺身を食べ終わるとおでんを二個ほど頼み、それを肴にビールを一本呑み終え、「お愛想お願いします」と言うような素振りを見せて代金を払って店を出る。滞在時間が15分ほどの島田さんの支払金額はいつも千円すれすれ。千円を超えたことがなかった。
えびす亭には、島田さんのような客は少なくない。会社の帰りに立ち寄って、一杯ひっかけて帰る。それだけの客が多いのもえびす亭の特徴であった。
それまで単調だった降雨が本格的になったその日の午後九時、店内には珍しく七人ほどの客しかいなかった。その客たちも段々激しくなる雨音に恐れをなし、一人、また一人と帰り支度を始めていた。そんな時、島田さんが入って来た。傘が役に立たないのか、スーツの上着の肩を雨で濡らし、ズボンの裾は水に浸かったかのようにびっしょりと濡れていた。
すでに何人かが帰った店内には、島田さんを含めて四人しか残っていなかった。島田さんはこの日もビールをオーダーして、刺身を注文した。
さらに雨足が鋭くなり、二人の客が店を出た。いつもは人でごった返すえびす亭が、この日は激しい雨のせいで二人だけになってしまった。
島田さんから少し離れた位置に立っている客は、まだ、えびす亭に数回しか訪れておらず、マスターもその名前を知っていなかった。島田さんは今年で四十五歳を超えるのだが、その客も島田さんと同年代に見えた。ただ、白髪が目立つ島田さんに比べ、その客の髪の毛はふさふさとした黒髪だった。
島田さんは、刺身を食べ終えると、おでんのコンニャクとジャガイモを指さして頼んだ。
島田さんの前にマスターが、コンニャクとジャガイモを載せた皿を置くと、
「マスター、すみません。私もおでん、お願いします」
と、もう一人の客が、島田さんと同じものを注文した。
島田さんは、ずり落ちそうになるメガネを片手で押えながら、器用に箸でコンニャクをつまみ、口にする。それをゆっくりと噛み砕き、グラスに入ったビールをゴクゴクと喉を鳴らして呑む。呑んだ後、ハーッと何とも言えないため息のような声を発した。それを横目で見ていた男も、同じようにコンニャクを口に放り込み、ガシャガシャと忙しく噛み砕いた後、ビールを一気に喉に流し込んだ。
島田さんともう一人の男は、同年代のように見えるが、まるでタイプが違った。痩せて貧相な感じのする島田さんは、小柄で大人しい印象を受けるが、もう一人の客は体格もよく、ガッシリとした印象があり、ラフな服装と焼けた肌はどうみてもサラリーマン風ではない。
どこまでもマイペースの島田さんは、雨が降ろうが人が少なかろうが多かろうが関係なく、宙を眺めながらいつものペースで呑んでいる。
そのゆっくりした呑み方が、もう一人の男の気に障ったようだ。
「あんた、男やったら、もっとシャキッと呑めんか? 見ていて苛々する」
男に言われた島田さんは、驚いて男を見る。男は、この店に来るまでにすでにどこかで呑んでいたのだろう、ひどく酔っぱらっているようだった。
「……」
島田さんはそれでもマイペースを崩さない。それが、酩酊している男には、自分が無視されていると思ったようだ。
「耳が聞こえんのか! 何とか言えよ」
声を荒げた男に、慌てたマスターが両手を広げ、
「お客さん。この店では大声を上げたり、喧嘩をするのはご法度でっせ」
と釘を刺した。
「すみません。ビールもう一本お願いします」
言葉にならない言葉と、手話で島田さんがビールを注文する。
いつもビール一本で、追加などしたことのない島田さんの注文にマスターが驚いた。
マスターがビールの栓を抜いて、島田さんのカウンターに置くと、島田さんはそのビールを手に持って、少し離れた位置にいる男の隣に立った。
「まあ、一杯、いかがですか」
切れ切れの言葉と手話で島田さんが言い、空になっている男のグラスにビールを注ごうとする。
男は驚いて、空のグラスにビールを注いでもらうべきか、断るべきか、迷っている。マスターも島田さんの突然の行動に驚きを隠せなかった。
「私、子供の頃、病気をしましてね。以来、耳が聞こえなくて――。あなたが何を言っているかわからなくてすみません。お詫びに一杯、注がせてください」
そのような言葉を手話を交えて切れ切れに語り、島田さんは男にビールを差し出した。
男は空のグラスを差し出し、謝った
「悪かった。酔っぱらっているとはいえ、申し訳ないことを言ってしまった」
男は謝りながら島田さんのビールを受け、グラスに一杯になったところで、島田さんに乾杯のポーズをした。
「私、島田一雄と申します。よろしくお願いします」
ほとんど何を言っているかわからない島田さんの言葉だったが、名前のところだけはよくわかった。島田さんの丁寧な対応に、男はどう応えていいか、一瞬、躊躇した様子を見せたが、マスターに紙とペンを借りると、そこに自分の名前を書き、島田に渡した。
『琴平欣一』と書いた文字を見て、島田がニコニコ笑顔を浮かべて、「いい名前ですね」と言った。
「ちっともいい名前じゃない」
男はひとり言のように言ったが、その言葉はもちろん島田には聞こえていない。
「欣一という名前は父親が付けてくれてね。祖父や母親は別の名前を望んだようだったが、父親がその名前にこだわって付けたらしい。その理由を知りたかったけれど、その時はもう父親は家にいなかった」
聞こえていない島田に、琴平は語り続ける。
「仕事に失敗して、父は家を出た。母親は気苦労が重なってその後、すぐに亡くなってしまった。以来、俺は祖父母に育てられた」
琴平が語り続けるのを島田はキョトンとした顔で見守っている。琴平は、なぜ、自分がこんな話をしているのか、自分でも驚いている様子だった。その口調は決して饒舌ではなかったが、戸惑いを隠せないまま、それでも酔いが後押ししたのだろう、島田に話し続けた。
「俺は父親が大好きで、どうしても会いたかった。それで中学生になった頃から探し始めたが居所を掴むことができなかった。高校生になっても、社会に出てからも俺は親父を探し続けた――」
琴平の空になったグラスに島田がビールを注ぐ。琴平は、島田が耳が聞こえないと知っているからこそ、こんな話ができるのだと、その時、思った。こんな話、今まで誰にも話したことがない。女房にだって言ったことがなかった。
琴平の話が島田には聞こえないはずなのに、琴平の話に耳を傾ける島田の顔が暗い。
「二十代の終わりに、好きな女ができて結婚をすることになった。仲人は勤めていた会社の専務がやってくれることになった。女房の方は両親も健在で、親類も多かったけど、俺の方は両親がいないし、祖父が亡くなっていたから祖母だけだ。女房に相談をすると、親類を呼ぶのを辞めて友だちを集めて結婚式をしようということになった。結婚式が近づいて、いよいよ明日になった時のことだ。突然、俺のアパートに人が訪ねて来た。痩せこけてみすぼらしいみなりの老人だったけれど、俺にはそれが誰だかすぐにわかった」
再び空になったグラスに島田がビールを注ぐ。琴平は「おおきに」と島田にわかるように首を振って応え、話の続きを開始した。
「親父だった。親父はずいぶん年老いていた。俺の顔を見て、『欣一、会いたかった』と言い、『結婚おめでとう』と言うんだ。なぜ、知っているのか聞くと、『お前のことなら何でも知っている。これは少ないけれどお祝いだ』と言って親父はくしゃくしゃになった一万円札を数枚、俺の前に差しだし、『辛い思いをさせてすまなかった。幸せになってくれ』、そう言って、腰を深く折り、俺の前から去って行こうとした――。俺は言ったよ。どこへ行くんだ? 明日の結婚式、出ないのかって。いや、出てくれって、俺は言ったよ。親父、嬉し泣きしやがって――。翌日の結婚式、親父は会場の席の端に座ってじっと俺を見ていたよ。貸衣装のスーツが少し大きかったようで、ぶかぶかの服を着て、しっかり俺を見ていた。もじゃもじゃの白髪がなんとも言えなくてさあ……。
結婚式を終えると、親父はもういなかった。女房が聞いたよ。端の方に座っていた老人は誰なのかって。俺は、遠い親戚だよ。子供の頃、可愛がってもらった人だ、と答えた。女房は、ふーんと言って、あなたに少し似ていた、と言うんだ。親父とはそれ以来、会っていない。子供が生まれた時、親父に見せたくて、俺、必死になって探したんだ。その時、結婚式の前日、親父にもらったくしゃくしゃの一万円札、五枚も同時に返してやりたいと思って――。家を出た親父がどうやって生きて来たのか、親父を見たらすぐにわかったよ。必死になって生きてきたんだなって。だから、親父にもらった五万円、どうしても使うことができなかった」
琴平は嗚咽を洩らして泣いた。島田さんは少し背伸びをしてその肩を抱き、首を振った。
「耳が悪くて何も聞こえないけれど、その分、私の心に届く。悲しみの理由はわからないけれど、元気を出してください」
島田さんの言葉は滑舌が悪く聞き取りにくかった。それでも、島田さんの気持ちは充分、琴平に届いた。琴平は、再びマスターに紙とペンを借りると、そこに描いた。
「ありがとう」と。
雨はまだ降っていた。でも、雨脚の音は次第に弱くなっているようだ。
手の動作で帰ると琴平に告げた島田さんは、伝票を指さしてマスターに見せた。
マスターは、島田さんが耳の聞こえない人だということを知らなかった。滑舌が悪く、ほとんど声にならない声を発し、手の動作で注文し、金を支払う島田さんに違和感を持っていなかったからだ。えびす亭にはいろんな人がやって来る。さまざまな障害を持った人がやって来るが、マスターはもちろん、客の誰もが気にしない。同情したり、そういった態度で接するとかえってそうした人たちが困惑する。健常者と変わりなく付き合うのがこの店の流儀だ。困っていたら手を差し伸べる、それはごく当たり前のことで、それは同情とは意味が違う。
島田さんが店を出た後、一人になった琴平は、もう一杯、ビールを口にしてえびす亭を出た。とうとう店の中には一人の客もいなくなった。
梅雨明け宣言の出た日の夜、午後九時過ぎに島田さんは久しぶりにえびす亭に顔を出した。体調を悪くしてしばらく店に来ることができなかった。店は混雑していた。それでも島田さんが顔を出すと、隙間を開けてくれた。島田さんは、隣りの客が呑んでいるビールの大瓶を指さして、人差し指を立てた。風邪の影響で声が出にくかった。
「島田さん、何しまひょ? 今日はサーモンの刺身とマグロの刺身がおまっせ」
マスターの言葉に、島田さんはまた、人差し指を立てた。一番最初に言った魚という意味だ。
「サーモンですな。サーモンの刺身一丁」
島田さんが、ビール瓶を傾けてグラスに注ごうとした時、荒々しくそのビールを取り上げる者がいた。驚いて島田さんが隣を見ると、この間の琴平が立っていた。
「島田さん。この間はおおきに。このビール、俺の奢りにしてください」
いつどこで覚えたのだろう、手の動作でそう言って、琴平は島田さんのグラスになみなみとビールを注ぎ込んだ。
島田さんは、琴平のグラスに自分のグラスをカチンと当てると、ゴクゴクと喉を鳴らして呑んだ。それを見て、琴平も同じように喉を鳴らして呑んだ。
「冷えたビールが美味しい」
琴平の言葉に島田さんが同調するようにして親指と人差し指で丸をつくった。
「島田さん、俺、あれから手話を覚えようと思って、習い始めたんです。まだ、あまり上手じゃないけど――」
と手話で島田さんに説明をした。島田さんも手話で「充分わかりますよ」と答えた。
「親父が家を出て、俺、親父に会いたくて探して――」
先日、島田さんに話したことをもう一度、琴平は手話で話した。
「でも、結婚式以来会えなくて、それでも俺、ずいぶん探したんだけど、やはり探し出すことができなかった。でも、ある時、本当に偶然だけど、親父を探し出す糸口が見つかった」
手話で表現することに慣れていない琴平の話を、島田さんはそれでも一所懸命聞き取ろうとした。
「俺の仕事は引越屋で、それほど大きくないけど、まあまあ地道にやっている。ある時、引っ越しの依頼を受けて、見積もりをするために出かけた。依頼は老夫婦の暮らす家で、今度、同じ境遇の人たち数人で一緒に暮らすことになったと言う。愛着のあるものが多いからなかなか捨てることができないといって、なかなか見積もりがうまく行かなかった。その時、老夫婦のタンスの上に置かれていた写真を見た。六人ぐらいの老人が仲よく並んで写っていた。老夫婦が言うんだ。『今度一緒に暮らす人たちだ』って。見せてもらっていいかと聞くと、いいと言うので、その写真を見た」
手の動作以外にも琴平は顔の動作、体の動作も交えて島田さんに話した。島田さんはだいたい理解できるらしく、ふんふんと首を振って、琴平の話に聞き入っていた。
「驚いたよ。俺の親父が写っていたんだ。この男性とはどういう関係ですかって、老夫婦に聞いたんだ。すると老夫婦は、『その方は、大工をなさっていて、それはもう腕の立つ人でね。私たちの家もずいぶんその方に直してもらったんですよ。今回、何人かで一緒に暮らすことになったので、その話をすると、その方、ずいぶん興味を持たれてね。自分は長い間、家庭を持っていないし、家族もないから、できたら一緒に住まわせてもらえないか、とこう言うのよ。もちろん、私たちは賛成で、他のみんなも賛成してくれたので一緒に住むことになったの』と言う。
親父が大工? にわかには信じられなかったけれど、とにかく嬉しかった。元気でいてくれて――。その引っ越しが来週あるんだ。親父の奴、俺を見たら腰を抜かすかも知れない」
琴平が手話で話し終えると、島田さんが目に涙を浮かべて拍手をした。琴平が父親に会えるかもしれないということに対する喜びと、短期間に手話を覚えて話しきったことに対する感激、二つの意味があった。
今夜のえびす亭は、九時半を過ぎても混雑は変わらなかった。カウンターの前に立ち、あちこちでいろんな客が話をしている。だけど、手話で話しているのは島田さんと琴平だけだった。
島田さんは、琴平が話し終えるのを待って、手話で琴平に、お父さんに会えるといいね、と伝えると、えびす亭を去った。
店を出る島田さんの背中を見送りながら、琴平は、島田さんはどんな人生を送ってきたのだろうかと思った。聴力を失い、言葉もぎこちない島田さんの人生――、琴平の想像の及ばない世界だった。
この次は、島田さんの話を聞かせてもらおう、琴平はそう思い、えびす亭を後にした。梅雨が明けると暑い夏がやって来る。大阪の夏は特に暑い。湿気を伴った熱気に煽られると汗がどっと噴き出す。引っ越しの仕事をする者にとって一番大変な季節だ。
<了>