怪物の棲む部屋
高瀬 甚太
大阪へ出て来て三年目、川島英吾は同じ北区内の住まいに転居した。引っ越した理由はただ一つ、それまで住んでいたマンションより賃料が三分の一と破格に安かったからだ。
1ルームから2DKになり、近くには日本一長いと言われる商店街もあった。住むには申し分のない場所のように思えた。しかも以前より会社に近くなり、物価も安かった。
それほど至れり、つくせりのマンションだったが、なぜか長い間、その部屋だけが空き室になっていた。
不動産会社に川島が転居の相談に行ったのは、ひと月ほど前のことだ。都心の賃貸物件となるとどこも異常に高かった。賃貸物件を紹介する不動産会社の社員が、しびれを切らして、
「この物件なら破格の値段で借りられますが……」
と紹介してくれたのが、今のマンションだった。
「えっ、この部屋がこんな値段で借りられるの?」
ほとんどタダ同然と言ってもいいほどの賃料だった。おまけに保証金も不要だと言う。
「こんないいところ、なぜ今まで紹介してくれなかったんだ」
思わず不動産会社の社員を責めた。築15年、2DKでバストイレ付、おまけにベランダも広く、十三階だから見晴らしもいい。
「借りられてから文句を言われても困りますから最初にお話ししておきますが、この部屋はいわく付の物件で――」
不動産会社の社員は、眉をひそめ、わざと声を小さくして言った。
「いわく付の物件?!」
素っ頓狂な声を上げて川島はその社員を見た。
「新築当初、この部屋を借りられた最初の方が住居して一カ月で原因不明の謎の死を遂げています。その次に借りられた方も同様に一カ月も経たないうちに死体で発見され、ちょっとした事件ということで話題になりました。警察で二人の人体を司法解剖して調べましたが、何かのショックで心臓が停止し、死に至ったと報告されています。事件性はないということで安心したのですが、少し間を置いて三度目に住まわれた方もまた、一カ月半ほど経ったところで、やはり不審死で亡くなりました。この時も司法解剖を行っていますが、原因が特定できず、心臓麻痺による心肺停止と報告されています」
「三人が原因不明の死!?」
川島が声を上げると、不動産会社の社員は、落ち着いた物言いでさらに補足した。
「いえ、それが三人だけではないのです。しばらく間を置いたところで、今度は男性の方――これまで三人の方はすべて女性で、不思議なことに年齢も二十八歳と同じでした。その男性も偶然同年齢だったのですが、この時も一カ月半ほど経ったところで急死しています。先の三人と同様の亡くなりようでした」
「部屋に何か問題があるのですか? それとも偶然?」
「特に部屋に問題があるとは思えません。新しい方が入られるごとに改装していますし、建築関係、インテリア関係の人間にも問題がないことを確かめています。もしかすると何かの祟りではないかと思い、入居者が部屋に住む前に念入りにお祓いを行っています」
同年齢の男女が一カ月か一カ月半ほどの短期で不審な死に方をしてしまう。川島はそれを聞いて、とても偶然とは思えなかった。
「しかし、四人も亡くなるなんて――」とため息を漏らすと、不動産会社の社員は笑って首を振った。
「いえ、実は四人ではないのです」
「もっとですか? 五人? じゃあ六人? まさか十人じゃないですよね?」
冗談でも、そんなことなどあり得ないと思った。しかし、冗談ではなかったようだ。
「そのまさかです」
と、不動産会社の社員が力ない声で言った。
「これまで計十人の方、それもどういうわけか同年齢の男女が同じ状況で亡くなっています。十人とも特に持病を抱えていたわけではなく、至って健康体であったにも関わらずです。不思議で仕方がありません」
「十人もの人が短期間に怪死しているのに、警察は何もしていないのですか?」
憤慨する川島を押しとどめるようにして不動産会社の社員が言った。
「不審死ということで解剖して調べていますが、毒物を飲まされたわけでもなく、犯罪に関連する状況でもなかったため、現在のところ警察は捜査対象にはしていないようです」」
「もう一つお聴きしたいのですが、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
「不審死が続いていることを知りながら、なぜ、次々とその部屋を借りる人が現れるのですか? 気味が悪いとは思わないのでしょうか」
「入居希望者が現れるたびに、不審死が続出していることをお伝えしています。みんな最初は気味悪がって敬遠しますが、部屋を見学すると、いい部屋だということになって、ほとんどの方が入居を決心されます。何しろ、この立地でこの部屋で通常の同型マンションの三分の一以下ですからね。この安さで、しかも眺めが抜群と来れば、私だって借りたくなりますよ」
川島もそうだった。気味悪いところこそあったが、心を動かされている。
川島が現在住んでいるマンションは、賃料の遅延が響いて今月中に追い出されることになっていた。期間はあと3日しかない。賃料を遅延するぐらいだから生活も困窮している。保証金さえ満足に用意できないありさまだったから、どのようにリスクがあったとしても、保証金なし、賃料が今の三分の一というのは魅力的だった。
結局、川島は、その格安物件に入居することを決意した。生命の危機に陥る危険性はあったが、そのマンションの魅力には勝てなかった。
緊張したのは引っ越しをした最初の日だ。さすがにその日、川島は、一日中、何が起こるのか気になって落ち着かず、夜など恐怖のあまり眠りに就くことが出来なかった。
部屋の中は、壁から天井に至るまで染み一つない新しさだった。キッチン、バストイレもきれいに洗浄されていた。初日の夜、眠れないまま、ベランダに出た川島は、ウイスキーの入ったグラスを片手にネオン瞬く大阪の夜景を眺めて過ごした。
春めいた風が頬を過り、見上げる空に半月が浮かんでいた。ゆったりとした時間の流れが心地良く、過去にこの部屋で起きたことなど、すべて忘れて景色に酔った。
朝まで何ごともなく過ぎた。一睡もしていないのに目は冴えわたり、頭はすっきりとしていた。午前八時半過ぎ、川島は会社へ出かけた。会社は自転車で通勤できるほど近くにあった。以前の住まいも自転車で通勤できたが、今の住まいの方が圧倒的に会社に近かった。十分足らずで会社に到着した川島は、タイムカードを押すと、今日の営業の準備にかかった。
大学を出て、しばらくの間、川島はニート暮らしをしていた。目的も気力もなく、ただぼんやりと過ごす日常が自分に相応しい生き方なのだと、あきらめていた。
両親に内緒でサラ金に借金をしていたことがばれ、それを親に支払ってもらった後、勘当同然に家を放り出された。それが二年ほど前のことだ。
川島はしばらく友人の家に間借りしていたが、些細ないさかいが原因で、友人の家を出ることになり、借金をして前のマンションに引っ越した。マンションの家賃を支払うためには、ニートでは暮らしていけない。そこで一念発起して正式に今の会社に就職をした。
機械部品を扱う会社の営業課に所属し、毎日のように各地の工場へ営業に回るのが川島の日常になった。中規模の会社で、給料も人並みなら賞与もある。おまけに休日も土日祝祭日が休みと申し分のない会社だった。
本来なら家賃を溜めることなどないはずだったが、呑む、打つが災いして借金が重なり、その借金を支払うためにまた借金をする。その繰り返しの中で次第に家賃が遅滞し始めた。
遅滞したマンションを負い出され、多少のリスクがあるとはいえ、自分なら大丈夫だと過信する気持ちがあり、このマンションに移り住んだが、いざ住んでみると意外に平和なことに驚かされた。
最初のうちこそ気になって安眠できなかったが、一日二日と日が経つにつれて慣れて来て、一週間もすれば何も感じなくなった。もちろんその間、霊現象のようなものには一切出会っていない。
二週間目のある夜、いわくつきの部屋だと聞いて、好奇心旺盛な川島の学生時代の友人が二人、遊びにやって来た。
「これが噂の部屋か。もっと幽霊屋敷のようなところを想像していたが、ごく普通のマンションじゃないか」
友人の一人、田代勇作が拍子抜けした表情で言う。もう一人の友人、中村泰明も同様に、
「十人も不審死を遂げている部屋と聞いていたから楽しみにして来たけど、何も感じない。本当にこの部屋なのか?」
と聞く。
テ ーブルの上にスーパーで買ってきた酒の肴を並べ、缶ビールを数本置いて、その夜、三人で遅くまで痛飲した。深夜一時過ぎに寝ようかということになり、雑魚寝をしたのはよかったが、途中、田代のいびきがひどくて川島が目を覚ますと、中村も同じように目を覚ましたようで、その後、眠れなくなったのか、中村はベランダへ出て一人夜景を眺めはじめた。
一度、目を覚ました川島だったが、睡魔が再び襲ってきて、朝まで熟睡した。
強い日差しに当てられて目を覚ますと、田代はいびきをかいて正体もなく眠りこけていたものの、中村の姿が見えない。
「おい、中村、どこにいる?」
起き上がって川島はバストイレを覗くが中村の姿がない。帰ったのかと思い玄関を見ると、中村の靴がきちんと置かれてある。だが、部屋のどこにも中村の姿がなかった。
「どうかしたのか?」
ようやく起き上がって来た、ねぼけ眼の田代が川島に聞いた。
「 中村がいない」
と答えると、田代は、
「あいつ気まぐれだから、眠れなくて帰ったのじゃないか」
と言う。
「靴が玄関に残っているんだ。まさか裸足で帰ったりしないだろうよ」
ようやく田代もことの重大さに気づいたようだ。飛び起きると、部屋の中を探し始めた。
「そう言えば昨日の夜、お前のいびきがうるさくて、中村のやつベランダに立っていた」
川島が思い出したように言うと、田代がベランダに向かい、ひとり言のように言った。
「まさか……」
川島も田代に続いてベランダに向かった。
「ひゃあ――」
下を覗いた田代が声にならない声を上げた。
「どうした?」― と言って川島も下を見た。
――中村が血を流して地上に横たわっていた。
警察がやって来て、一通り聴取を受けた。
「自分で飛び降りるわけはありません」
川島も田代も、中村は自殺ではないと強調した。中村は、つい最近、恋人が出来たばかりで、いずれ結婚するつもりだと張り切っていた。仕事も順調で上からの覚えがめでたいことを口にしていた。その彼がなぜ――。
「また、この部屋か――」
捜査のために部屋を訪れた刑事がぼやくようにしてその言葉を口走った。
「この部屋を斡旋してくれた不動産会社に聞きました。これまでこの部屋で十人ほどの住人が不審死をしていると。刑事さん、この部屋についてのもっと詳しい話を聞かせていただけませんか? ここに移り住んで二週間になりますが、それほど悪環境には思えないのですが――」
川島が尋ねると、所轄の刑事は、ベランダに出て下を眺めながらポツリと言った。
「死への誘惑なんて、ほんの思いつきで湧いてくるものさ。発作的に起こるから大胆な行動がとれるわけで、考える時間があればそんなに簡単に死ねるわけじゃない。昨夜、ここから飛び降りた、きみたちの友だちも多分、そうなのだろうよ。何かに触発されるか、きっかけを与えられてベランダから飛び降りたのではないかと俺は見ている」
「触発――、きっかけ?」
川島がその言葉を反復すると、刑事はなおも言葉を続けた。
「この部屋にいるのは、きっと想定外の怪物だ。霊感などといったものをはるかに超越したものではないかと、俺は感じている。死を恐怖ではなく、パラダイスのようなものに感じさせる、そんな力を持っているのかもしれない。そうでなければ、飛び降りた人間があのような笑顔は浮かべない」
中村の死体は、悲壮感とは裏腹に、笑顔を浮かべていた。刑事はそう語った。これまでの十人の死体に共通しているのは、すべて笑顔を浮かべていることだと、刑事は言った。飛び降りた者の死体がなぜ、こんな幸せな笑顔を浮かべることが出来るのだろうか、不思議でならなかった、と刑事は言った。
「この十五年、俺は十人の死体をこの部屋で目撃している。事故死でもなく、毒死でもない、誰かに絞殺されたわけでもなく、すべて心肺停止の完全な病死だった。十人の死体に共通しているのは、幸せな笑顔を浮かべていることだ。なぜ、こんな幸せな笑顔を浮かべているのか、不思議でならなかった。――今日、この部屋から飛び降りた遺体を見て、俺は確信したよ。この部屋には人間の叡智とはかけ離れたすごい怪物が存在している。どうしてこの部屋にそんな怪物が居ついたのか、なぜ、この部屋なのか、それはわからないが、間違いなく怪物は存在する。あんたも一日も早くこの部屋から脱出することだ。そうでなければ、遠くない日に、俺はあんたの死体を見なければならない」
――人間の叡智を超えた怪物。そんなものが果たして存在するのだろうか。
恐れをなした田代は、青ざめた表情を隠そうともせず、
「悪い、俺、帰らせてもらうよ」
と言ってそそくさと部屋を出て行った。
田代を追うようにして部屋を出て行こうとする刑事を捕まえて、川島は聞いた。
「不動産会社の社員は、お祓いをしても何をしても効き目がなかったと言っていました。どうすれば怪物を退治できるのでしょうか?」
刑事は振り返って言った。
「何をやってもおそらく何の効き目もないだろうが――、そうだな、一つだけ、死体を見続けてきた俺が言えるのは、何が起きようと何も見てはいけないということだ。また、何が起きようと何も耳にしてはいけない。退治しようなどと考えては駄目だ。空気になって無になって、怪物が押し広げる狂気の世界に溶け込め。それが唯一助かる方法だ」
所轄の刑事は、それだけ言って部屋を出て行った。
中村の死は、事故死として処理され、遺体は両親のもとに引き渡された。
――十人の死体に共通しているのは、すべて幸せな笑顔を浮かべていることだ。なぜ、笑顔を浮かべることが出来るのか、川島には不思議でならなかった。
――今日、この部屋から飛び降りた遺体を見て、俺は確信したよ。この部屋には人間の叡智とはかけ離れた怪物がいる。どうしてこの部屋に居ついたのか、なぜ、この部屋なのかはわからないが、間違いなく存在する。
刑事が言った言葉を反芻した。とてつもない恐怖が心の底から湧きあがって来て、川島は身体を震わせた。
入居して三週間、予期せぬ中村の死というアクシデントはあったものの、川島は平和な日常を過ごしていた。あの夜以来、田代は川島の住まいに近寄ろうともしない。他の誰も近づかない。中村の事件からこちら、友人たちの間でさまざまな風評が飛び交っているのだろう。だが、川島は平気だった。友人の多くを失ったとしても、それに代わる大きな存在を川島は見つけていたからだ。
マンションから少し離れた位置に小さな公園があり、その公園を超えたところに喫茶店があった。十名も入れば満席になるのではないかと思われるほど小さな喫茶店だった。
その喫茶店を経営していたのは、七十がらみの老婦人で、いつもその老婦人が一人で店を切り盛りしていた。店はそれほど繁昌しているようには見えなかったが、常に数人の客が入っており、それなりに安定しているようだった。
中村の事件があってすぐの土曜日、川島は気分が優れなかったこともあって、散歩がてらその喫茶店に立ち寄った。店へ入って、ドアを閉めようとすると、
「いらっしゃいませ」
と声が飛んできた。いつもの老婦人の声と違うことに気付いてカウンターを見ると、カウンターの中に若い女性が立っている。
「ホット、お願いします」
と言って、川島が空いた席に腰を下ろそうとすると、
「ママはどうしたの?」
年配の客が若い女性に尋ねる声が耳に届いた。
「叔母は今日からしばらくお休みなので私が手伝っています」
と、若い女性が答える。快活で明るい声も魅力だったが、スレンダーな姿態と長い黒髪、笑顔が印象的な女の子だと、川島は席から盗み見して思った。
その日はコーヒーを飲んだだけで店を出て、会話を交わすことはなかったが、川島はその女性のことばかり気になっていた。
普段の日曜は朝からパチンコ店に入り浸るのが常だったが、その日曜日、川島は、朝から喫茶店に出向き、モーニングコーヒーを飲んで、昼近くまで新聞と本を読んで過ごした。
何とか話が出来ないものかと思案したが、いい秘策は思い浮かばなかった。仕方なく席を立とうとした時、思いがけず彼女の方から川島に声をかけてきた。
「マヌエル・プイグがお好きなのですか?」
その時、川島は古本屋で購入したばかりの『蜘蛛女のキス』を手に持っていた。
「ええ……」
特に好きではなかったのに、川島は曖昧な返事をしてしまった。
「私、その作品大好きなんですよ」
と、彼女は言った。
『蜘蛛女のキス』は、アルゼンチンの作家、マヌエル・プイグの代表作で、映画にもなった作品だ。ブエノスアイレスの刑務所の中の獄房の一室で、未成年に対する性犯罪で投獄されているゲイのモリーナと社会改革を目指す若き活動家、ヴァレンティが心を通わせていく物語である。
店に客がいなかったこともあって、彼女は饒舌に作家と作品の魅力を川島に語った。思いがけない展開に、胸の鼓動が鳴り止まないまま、川島は彼女のさまざまに変わる表情に見とれ、心を躍らせながら話を聞いていた。
それが縁で川島は彼女と親しくなった。平日の朝、早起きをして彼女の喫茶店に足を運び、サービスの朝食を食べ、会話を交わした後、出勤し、帰社すると、その足で再び喫茶店に立ち寄り、会話を交わす。それが川島の日課になった。
――彼女が川島にとって、すべてになるのに一週間も日を要しなかった。
一カ月が過ぎようとしていた。川島は、亡くなった中村のことも、この部屋で起きた事件のこともすっかり忘れ、楽しい日を送っていた。
危惧したことは何も起きていなかった。
田代がやって来たのはちょうどそんな時期のことだった。休日の朝のことだ。彼女に会うために喫茶店へ向かおうと川島が支度をしている途中、思いがけなく早い時間に田代が部屋をノックした。
「この間はすまなかった」
ドアを開けた田代は、早速、先日のことを詫びた。中村の死に動転したのと、変な気分に襲われてそのまま部屋にいることが出来なくなった、と川島に説明をして田代は素直に詫びた。
「あの後、何か変なことが起きなかったか?」
それが心配になって田代はやって来たのだと言った。
「何もないよ。不思議なぐらいに平和に暮らしている。それにあの後すぐに彼女も出来たし……」
川島が答えると、田代は奇異な顏をして私を見た。
「彼女が出来ただって?」
「ああ、今からその彼女のいる喫茶店に行こうとしていたところだ。よかったら一緒に行かないか。紹介するよ」
「喫茶店で働いているのか?」
「いや、彼女の叔母が病気で休んでいて、その手伝いのためにやってきている。すごく話が合って、毎日、仕事に出かける前に喫茶店に寄って朝食を摂ったり、夜は夜で仕事を終えた後、立ち寄って話をしている」
やっかみなのか、信じようとしないのか、田代は怪訝な表情で川島の話を聞いている。
「ともかく一緒に行こう」
と、川島は田代を誘って部屋の外へ出た。
マンションを後にしながら田代は、妙な言葉を口走った。
「実は、俺が今日、突然、お前のところへやって来たのは、昨夜の夢見が悪かったからだ。川島、俺は昨日、お前の夢を見た」
「俺の夢を――」
「そうだ。正式にはお前の部屋の夢だ。お前が見たこともない奇妙なものと部屋の中で暮らしている、そんな夢だ」
田代の話を聞いて、川島は思わず声を上げて笑った。
「俺が奇妙なものと暮らしているだと? 部屋を見てわかっただろ。俺は一人で楽しく暮らしている」
田代は一瞬口ごもった。
「それはそうだが……。変な夢だと思うだろうが、妙に信憑性があった。 それで俺はお前のことが心配で駆けつけたんだ」
「その気持ちは嬉しいが……、ありがとう。俺のことをそんなに心配してくれて。だけど、部屋の中を見てわかっただろう。何も存在しないって」
「そりゃあそうだが、それでもやっぱり俺はお前の部屋の中に入ると、異様な感じがする。何か変だ」
川島がまた笑った。
「考え過ぎだよ。それよりもうすぐ喫茶店に着く。おいしいコーヒーと美人の彼女に合わせてやる」
公園の向こうに小さな喫茶店があった。川島は意気揚々と喫茶店の扉を開いた。
「いらっしゃい」
カウンターの中にいたのは、彼女ではなく叔母だった。
「あれ? 今日は彼女はいないの」
川島の言葉に、喫茶店のママは「えっ!?」とした表情で戸惑いの声を上げた。
「ママさんがしばらく休んでいた間、姪御さんが店を切り盛りしていたでしょ。その子のことを言っているんですよ」
田代と共に椅子に腰をかけながら川島が言った。
喫茶店のママが怪訝な表情を隠さず川島に言う。
「おかしいですね。体調を悪くしたのは確かですが、その間、一カ月近く、店を閉めていたんですよ。それに私には姪御なんていませんよ」
川島は思わず立ち上がると、喫茶店の中を見わたしながら言った。
「ママが休んでいた間、ぼくはほとんど毎日のようにこの店に朝晩、通っていたんですよ。間違いなくこの喫茶店ですし、彼女は叔母に代わってこの店をやっている、とぼくに話してくれました」
ママはコーヒーを淹れながら困惑した表情を浮かべ、川島に言った。
「でも、本当に私、姪御なんていないし、店はずっと休業していたのですよ。お客さんの言っていることも満更嘘には聞こえないし、一体何があったのでしょうね」
見 るに見かねたのだろう。田代が川島に言った。
「川島、お前、別の店と勘違いしたんじゃないか」
川島は頭を抱えてうずくまった。
「いや、この店に間違いないよ。昨日までこの店に彼女は居た。間違いなく居たんだ。俺と小説や音楽について語り合い、これからのことについて話した」
「これからのこと――?」
「ああ、一緒に暮らそうって。彼女は言ったよ。じゃあ、明日から俺の部屋にやって来て、一緒に住みますって。それなのにどうして――」
田代は、昨夜の夢見を思い出したのだろう。青ざめた顔で川島に言った。
「今日の夜からお前の部屋へ来るって言ったのか?」
「ああ、そう約束した。あの時の表情は真剣そのものだった」
田代は大きくため息をついて川島に言った。
「お前、今日からしばらく俺の家で泊まれ。いいな、お前のために言っているんだ。そうでなければ、お前、命を失うぞ」
川島が田代の顔を見て笑った。
「また、お前の夢見か。俺はそんな話、信じない。それよりも俺は彼女の言葉を信じている。彼女は今夜から俺の部屋へやって来て一緒に住むと言った。それなのに俺が部屋を離れるわけにはいかない」
「喫茶店のママは、ずっとこの店を閉めていたと話したじゃないか。それに姪御なんていないと言った。じゃあ、お前が毎日、この喫茶店で遭った女性は一体誰だ。おかしいとは思わないか」
苦しげな表情を浮かべて川島は首を小さく振った。
「わからない。だが、俺は間違いなく毎日、彼女の淹れるコーヒーを口にしていろんな人生の話をした。おかしいところなんてどこもなかった。毎日、会うたびに俺は、どうしようもなく彼女に夢中になって行った。この気持ちは誰にも止められない」
「川島、俺はお前のことを心配しているんだ。その彼女がお前をこの世から引き離そうとしていたらどうするんだ。お前はこの世からいなくなってしまうんだぞ。それでもいいのか!」
田代の怒声に、喫茶店の中にいた数人が驚いたような目で川島を見た。川島はうつむいたまま、小さな声で言った。
「それでもいい。それでも俺は幸せだ」
田代は川島の肩を抱き、震える声で言った。
「今夜は俺が一緒にいてやる。お前に怪物が近づいて来たら、俺が追い返してやる」
だが、川島はそれを否定した。
「いや、田代。大丈夫だ。彼女が部屋に来て、お前がいたら驚いて帰ってしまう」
その後、田代がどのように言っても、川島は聞く耳を持たなかった。
喫茶店を出た後、結局、川島は一人で部屋に戻って行った。
その夜、夜半近くになって川島の部屋のインターフォンが鳴った。川島がドアを開けると、彼女が立っていた。
「ごめんね、遅くなって。一緒に住むと言ったけど心変わりしていない? 私、部屋に入っていいかしら」
そう言いながら、彼女はすでに川島の部屋に足を踏み入れていた。彼女は部屋に入ると、勝手知ったる部屋のように、まるでこの部屋の住人のような様子で、ゆったりとソファに腰をかけ、川島を呼んだ。
「こちらへいらっしゃい。愛するあなた――」
突っ立ってぼんやりと彼女を眺めている川島の手を取ると、彼女はぐいと自分の胸の中に引きよせた。
「今夜からあなたは幸せな夢しかみなくなるわ」
川島の耳元に囁くと、川島はその胸の中に飛び込み、しがみついた。
――翌日、心配して駆けつけた田代が、部屋の中で笑顔を浮かべて死んでいる川島を見つけた。田代はストンと腰を落として泣き叫び、泣きじゃくりながら警察に電話をした。
所轄の刑事がゆっくりとした足取りでやって来ると、川島の死体を凝視して言った。
「何をやってもおそらく何の効き目もないだろうが――、何が起きようと何も見てはいけない。何が起きようと何も耳にしてはいけない。退治しようなどと考えては駄目だ。空気になって無になって、怪物が押し広げる狂気の世界に溶け込め。それが唯一助かる方法だ――、と言ったが、駄目だったか。それにしてもこの幸せな笑顔はどうだ。これ以上ない笑顔で死んでやがる。よほどいいことがあったらしい」
田代が聞いた。
「やはり、霊的なものでしょうか」
「いや、そうじゃないだろう。怪物は、多分、それぞれの胸に抱える様々なものが噴出した結果ではないか。ある者にとっては愛情の飢えであり、ある者にとっては金銭に対する欲望であったり、また、ある者にとっては――。人間の生み出すさまざまな欲望がこの部屋に入ると増進される。普段、抑制しているものがこの部屋に入ると噴き出てしまう。すべての夢や欲望がかなえられると、人間は空虚になってしまう――。そんなものがこの部屋にはあるのではないか。死体の様子を見るとそうとしか考えられないものがある」
再び田代が聞いた。
「この部屋に入ると、鬱積していた夢がかなえられ、かなえられた瞬間、空虚な思いに駆られて命を落とす。つまり、そういうことですか」
刑事は小さく首を振って答えた。
「わからない。だが、人生は亡くなる時の表情で価値がわかるという。この部屋で見つかった死体はどれも幸せな表情を浮かべていた。だから俺はそう思っただけだ」
「一つだけわからないことがあります。中村の死体だけは、部屋ではなくマンションの下で発見された。もっとも笑顔は同様でしたが――」
「その男は、亡くなった他の連中と違って、結婚も決まり幸せの絶頂だったと言うじゃないか。怪物がやっかんでその男をこの部屋から追い出したのではないか」
川島の部屋を鑑識に任せ、刑事は、ゆっくりとした足取りで部屋から出て行った。その後ろ姿を見つめながら田代は思った。
――何もいいことのない俺の人生だ。川島も同様だった。そのあいつが、あれほどはしゃいでいたのを初めて見た。この一カ月、あいつがどんな幸せな日々を送って来たのか、それを知りたい気持ちが少しだけある。俺もこの部屋に住んでみようか……。
〈了〉
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