通り魔事件の真相
高瀬 甚太
大阪駅の雑踏の中で刺傷事件が起きた。
そのニュースを午後6時のテレビのニュースで知った。犯人は逃走してまだ捕まっていないとリポーターが伝えていたが、冷静を欠いたその報道に、事件の深刻さがよく現れていた。
事件直後の大阪駅付近全体に厳戒態勢が敷かれ、一種異常な空気が漂っていた。駅のあちこちに警官が立ち、パトカーがひっきりなしに周辺を往来している。
その様子を知った私は、この日、打ち合わせ予定だったライターの浅井裕二に、
「打ち合わせは明日にしよう」
と連絡を入れようとした。だが、携帯電話が不通になっていて、連絡することが出来なかった。仕方なく私は、厳戒の大阪駅に向かった。
午後7時が約束した時間だった。さすがに事件報道のニュースを観て危険を察知したのか、いつもは混雑する大阪駅のコンコースはいつになく人影がまばらだった。
駅構内に立つホテルのロビーで浅井を待った。だが、約束の時間になっても彼はやって来なかった。
携帯を見るが、彼からの連絡は入っていない。これまで約束を破ったことのない彼だ。おかしいなと思い、もう一度、連絡を取ったが、やはりつながらなかった。
警官が大挙してコンコースを行き交っていた。どうやら犯人はまだ駅構内に潜んでいるようだ。
事件は今日午後2時、大阪駅中央改札口付近で起きた。
通行中の若い女性が、突然、男に刃物で斬りつけられたのだ。男の刃物は女性の腹部を貫通し、止めに入った男性の肩口に向けて男が刃物で襲いかかった。この間、わずかな時間だったが、思わぬ事件に駅構内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。男は血染めの刃物を手に構内のどこかへ逃げた。すぐに警官が到着し、駅を囲むようにしてパトカーが配列された。男が構内を出ていないことは、現場に居合わせた通行人の証言でわかった。
刺された女性は岡本美幸、二八歳、市内の商社に勤めるOLで、ちょうど この時、社用で大阪駅に来たところだった。刺した男とは一面識もないと救急車で運ばれる途中、岡本は警察に証言している。
止めに入った男性は酒井謙、四五歳で大手銀行の営業マンだった。肩口から血が噴き出ていたが命に別状はなく、出血量に比して軽症だったと伝えられていた。
刺した男の人相風体を酒井が記憶していて、三十歳前後、髪は短髪、一見やさ男風であったと証言している。駅構内のどこかに隠れているとの確証があり、大量の警官を投入したことで、誰の目にも事件は早晩片付くだろうと思われたが、事件後5時間を経過してもなお犯人は逮捕されずにいた。
午後7時半になっても浅井からの連絡が入らず、ロビーにも姿を見せなかったことから、いよいよ私は心配になり、再度、電話を入れたが、やはりつながらなかった。仕方なく、大阪駅構内のホテルロビーの喫茶室に入り、そこでコーヒーをオーダーして待つことにした。
構内の警官の数は先程よりさらに多くなっていた。それに比例するように人通りは少なくなっている。
大阪駅構内に犯人がいるのなら、すぐにでも捕まえられそうなものだが、そうはならなかったのが不思議だった。警察は二次被害を心配して慎重に捜査を進め、駅構内に入る人間の数を制限していた。
それにしても一向に浅井は現れない。急ぐ必要もなかったが、これまで約束を違えたことがない浅井が何の連絡も寄こさないことが心配で、ずるずると喫茶店で待ち続けていた。
「キャーッ」
突然、大声がして、周囲が騒然となった。レジで金を払い、ロビーを飛び出すと、中央改札口付近に警官で集まっていた。通り魔がようやく姿を現したようだ。
5時間あまりも一体どこに隠れていたのだろうか。でもまあ、これで一安心だ。そう思って現場に近づくと、容疑者の男が人質を楯に警官を威嚇していた。
その人質を見て驚いた。何と浅井だった。男が浅井の首すじに包丁を突きつけ、警官に逃げ場を要求していた。
浅井の腕の辺りが血に染まっていた。男に襲われた時に包丁で切られたのかも知れない。出血がひどかった。警官は男の周囲を囲んでいたが、浅井が人質になっているため迂闊に手を出せない。
浅井のことが心配で、私も犯人に近づこうとするのだが、周囲を囲む警官に押しのけられて近づくことができなかった。
警官が男に投降するよう呼びかけているが、男は包丁を振り回して警官を退却させ、浅井の首に包丁を突きつけたまま、道を開け、通すよう怒声を放つ。
男は逃走用のクルマを用意しろと、警官に命じた。さらに多くのパトカーがけたたましい音を鳴らして大阪駅周辺を囲んでいた。警官の人数はさらに増え、大阪駅は警官で埋め尽くされたかのように見えた。構内の混乱とはうらはらにJRの各列車は平常に運転されているようだ。降車した客は、駅員の誘導で中央改札口を避け、他の出口を利用し、駅から出ている。
浅井の腕の出血はさらにひどくなっていた。かなり深く腕を切られているようだ。
それにしても浅井はいつ、捕まったのだろうか。私は事件の報道を聞いた直後、浅井に電話をしている。その時から数回、浅井に電話をかけているが、すべて通じなかった。
男は一向にクルマを用意しないことに苛立ち、今度は「別れた女房を呼べっ!」と要求し始めた。
浅井はぐったりとして、顔が青白く、力の失せた表情をしていた。警官も浅井に万一のことがあってはいけないと思うのだろう。近づくことができない。
「俺の別れた女房を呼べ!」
男は、血走った目で再び叫ぶ。ついには狂気の目が浅井に注がれた。浅井が危ない、そう思った瞬間、大阪府警の責任者らしき人物が、マイクを手に持ち、男に言った。
「奥さんに今、連絡を取っている。だから早まったことはするな」
男は、「早く呼べ! こいつを殺すぞ」と叫び、今にも浅井に手をかけようとする。
その間に警察はすでに男の素性を調べ上げていたようだ。男の別れた妻に連絡を取ろうとするが、肝心の妻が捕まらないようで焦りの表情が見えた。
男が薬物中毒らしきことは、その顔色と表情、狂気に満ちた目を見てすぐにわかった。それだけに何をするかわからない怖さがあった。警察も慎重に対処しているようだ。
再び、大阪府警の責任者がマイクを握った。
「別れた奥さんがもうすぐここへやってくる。人質を解放してやってくれ!」
だが、男の興奮は頂点に達していて、マイクの声が聞こえていないかのように見え、取り囲む警官を威嚇し、浅井を引き回しながら右に左に位置を変えている。
男の別れた妻が到着したのはそれから30分後のことだった。
「約束通り、奥さんを連れてきた。だからその青年を解放してやってくれ。そして、お前も投降しろ。逃げられないぞ」
大阪府警のマイクの声が強い調子で男に迫った。男は、別れた女房が現れたことで、それまでの勢いが失墜した。男の視線の先に別れた妻が弱々しく立っていた。
「あんた、もうやめて……」
消え入りそうな声がマイクから流れた。
男は、別れた妻を注視し、視線を外さないまま叫んだ。
「紀代子! 何でおれを捨てたんや!」
紀代子と呼ばれた妻は、何も言わず、俯いたまま言葉を発さず立ち尽くしていた。それを見て、男はさらに大声を上げた。
「紀代子! 改心する。おれともういっぺん、一緒になってくれ!」
その瞬間、男の目から幾粒もの涙がこぼれ出た。やがて男の手が浅井から離れ、浅井はそのまま地面に突っ伏した。同時に警官が一斉に男に飛びかかった。
翌日のどの新聞も一面でこの事件を扱っていた。幸い、腹部を刺されたOLも命を取り留め、浅井も三日ほど入院を余儀なくされたが、傷は思ったより浅く、一週間後には無事退院することができた。
後日談として、新聞の片隅に、通り魔が事件を契機に元の奥さんと再婚するようだと伝えていた。男には三歳になる子どもがいたようだがなぜ奥さんが男とよりを戻したのか、その経緯は不明のままだ。まだ、愛が残っていたということだろうか。幸せを願うしかない。
一週間ほどして浅井と梅田の喫茶店で会った。会って驚いたことは、彼の様子がいつもと違って感じたことだ。短髪の髪をさらに切っていたということもその一因のようだったが、それにしてもずいぶん様子が違って見えた。
浅井に依頼する仕事というのは、大阪の中小企業の社長たちを取材するというもので、彼なら難なく片づけるだろう。そう思っていた。だが、その話をする前に浅井が真剣な表情で私に言った。
「編集長、まことに申し訳ありませんが、私、ライターを辞めようと思っているんです」
いきなりの廃業宣言に驚き、思わず問い返した。
「ライターを辞める……? それで何かあてでもあるのか」
浅井はしばらく黙した後、私に言った。
「先日の通り魔事件ですが、編集長はその一部始終を見ていたと思いますが、あれを見て何も感じませんでしたか?」
「えっ……、特に何も感じなかったが……」
浅井は手にしたコーヒーカップを見つめてつぶやくように言った。
「編集長、実はあの事件の犯人はぼくなんです」
口にしたコーヒーを思わず吐きだしてしまった。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。きみはあの通り魔に人質になり、生死さえ危うい状況に置かれていたじゃないか」
しかし、浅井は真剣な表情でなおも私に言った。
「OLを刺し、銀行員を傷つけたのはぼくなのです」
浅井の目があまりにも真剣なことに、驚いた私は、
「まさか、そんなことが――」
と驚愕の声を上げていた。
「このところ、ライターとして生きて行くことに不安になり、精神的に不安定な状況が続いていました。そのため時々、発作が起こり、自分でもわけのわからない行動を取ることが度々ありました。それでもそれまでは自傷行為に走ったり、内面に向かってのもので済んでいましたからまだよかったのですが、この間はとうとうそれが表に出てしまい、大阪駅構内で人を刺すというとんでもない行動に出てしまったのです。
二人を刺した後、ぼくは構内の陰に隠れようとして、そこであの男に出会いました。男もまた私と同様に、精神的に不安定な状況にいたのです。ぼくは男を人質にして脱出しようと考えました。しかし、その男は、ぼくが包丁を目の前に突き出すと、ぼくに向かって『身代わりになってやる』と言ったのです。だが、現実にぼくはあの人混みの中で、二人もの人間に傷害を負わせ、大勢の人に顔を見られています。身代わりなんて考えられません。すると男は、ぼくに言ったのです。『年も違わないし、偶然にも同じような服装をしているじゃないか。髪の毛だって短髪だ。おそらくわからないと思う』と言います。『刺された人間は、恐怖とショックで冷静に相手を観察する余裕などない。周りの人間は基本的に無関心だ。あんたとおれが入れ替わってもきっと誰も気付かないだろう』と言うのです。その頃には、ぼくの興奮も冷めており、冷静になっていました。何てことをしでかしたんだ、その恐怖に身も心も震えていました。
男はぼくに、『別れた妻に会って、もう一度一緒になってくれるよう頼みたいのだ』と言いました。『しかし、妻の行方がわからず、探し出すことができないでいる。しかし、警察なら人質を助けるために前科のあるおれの身元を洗い出してきっと妻の行方を探し出してくれるはずだ。おれは薬をやっていて、妻は依存症に陥ったおれを捨てて去った。このまま一人でいるとおれは駄目になってしまう。何とかしたいと思っていたところにお前の殺傷事件に遭遇した。チャンスだと思ったよ、おれがおまえの身代わりになって、おまえを人質に女房を連れて来い、と言えば、警察は総動員しておれの女房を捜し出すことだろう。おれはどうしてももう一度、別れた女房とやり直したい。そう思っている。そのためには薬から抜け出すことが必要だ。だが、今のままでは抜け出せない。おそらくまた薬漬けになってしまうだろう。しかし、刑務所へ入って一からやり直せば、おれはきっとこの状態から抜け出せるはずだ。女房もわけを話せば、わかってくれると思う。元々、気の優しい女だ。立ち上がる意欲さえ見せれば、あいつはおれを見捨てたりしないだろう』男はそう言いました。
結局、男の要望で、ぼくと男が入れ替わり、彼が通り魔になって私を人質にとるという方法を取ることにしました。その際、本気度を見せるためにぼくを刺した方がいいと男に提案しました。手許が狂って、少し深手にはなりましたが、その方が迫力が出てよかった。ぼくの殺傷事件を目撃した大勢の人も、深手を負ったぼくを真犯人とは誰も思わなかったでしょうから。
男は別れた奥さんと再会出来、もう一度やり直すという確約を取ることが出来たようです。男の言うように、誰もぼくの顔など覚えていませんでした。ぼくは幸運だったと思います。でも、このままでは、今回のような事件を再び起こしかねません。それで田舎へ帰って病院へ入院することを考えました。病んだ精神を癒して、改めて自分の人生を考え直してみたいと思ったのです」
浅井は話し終わると、私に向かって深々と頭を下げた。
通り魔は懲役二年の実刑判決を受け、服役した。自らが進んで提言した行為とはいえ、私は複雑な思いでそのニュースを聞いた。
浅井は大阪を引き払い、田舎へ帰った。その後、浅井がどうなったか、私の耳には一切入ってこなかった。田舎の空気を吸って元通り元気になっているのではないだろうか、秘かにそのことを願った。
〈了〉