佐渡鬼太鼓の音が海を超えて響き渡る
高瀬 甚太
五月の大型連休が近づいたが、予定のなかった私は、事務所の中でのんびりと読書三昧で過ごそうと決めていた。しばらく忙しい日が続いていたせいもあって、未読の本が数冊山積みされていた。
多分に活字中毒症的なところのある私は、週に3冊から4冊程度の本を読破する。ジャンルは問わず、幅広い読書を心掛けることを常としていたが、中でも歴史書を好んで通読していた。
今年の連休は、二日と六日を休暇にすれば十連休になる大型連休であった。私もそれをフルに利用するつもりでいた。ところが、連休が始まる直前の日、突然、見知らぬ人物の訪問を受け、予定が大きく変更することになる。
「井森公平さまの事務所でしょうか?」
ドアを開けると、三十代らしき女性が幼い男子を連れて立っていた。
「そうですが、どちらさまでしょうか?」
見知らぬ人物であった。不審に思って尋ねると、女性は淡々とした口調で名乗った。
「比島明子と申します」
名前を聞いても一向に思い出せない。顔を見ても覚えがなかった。色白の美人である。背が一般女性より少し高く見え、洋服のセンスも悪くなかった。
「ご用の向きは何でしょう?」
訝しげに思って尋ねると、比島は私を見つめ、確かめるように言った。
「極楽出版の井森編集長ですよね」
「ええ、そうです。間違いありません」
私の返答を聞いて納得したのか、比島は再度、確認するように私に尋ねた。
「井森さんは、五年前、新潟県の佐渡島へご旅行に行かれましたよね」
私の仕事は旅が多い。五年前のことなどさらに曖昧な記憶しかない。
「佐渡島へは仕事で一度か二度、行ったことがありますが、それが五年前だったか、どうかは――」
「そこで一人の女性と出会いませんでしたか?」
「女性? すみません。それがどうかしましたか?」
「橋口彩名という女性です。当時、二三歳でした」
「橋口彩名さんですか? 記憶にありませんが……」
話の内容がよく掴めず困っていると、しびれを切らした比島が大きな声を上げた。
「しらばっくれないでください。どこまでとぼければ気が済むのですか。あなたは、五年前、私の友人の橋口彩名と旅先の佐渡島で親しくなり、結婚の約束をして一夜を共にした。それなのにあなたはその翌日、彩名を突然、姿を消した。ここまで言ってもまだ、しらばっくれる気ですか」
突然、激昂した比島を見て驚いた。わけがわからず、
「ちょっと待ってください。確かに佐渡島には行ったことがありますが、そこで女性と親しくなったことはないし、一夜を共にしたこともありません。きっと何かの間違いだと思うのですが――」
と答えた。
自慢ではないが、私は女性にもてるようなタイプではない。一夜の恋など、まるで夢物語だ。しかし、比島は追及の手を緩めなかった。
「その時、彩名はあなたの子供を身ごもりました。その子供がここにいる貴志です」
先ほどから女性のそばにいる男の子が気になっていた。じっと黙って私の方を見ている。
「本当に私には何の心当たりもありません。その橋口彩名という女性に会わせてください。そうすれば私ではないことがわかるはずですから」
冷静に答えたつもりでいた。だが、比島はそうは取らなかった。さらに激昂して、私を追い詰める。
「彩名は、貴志の父親は、大阪の出版社、極楽出版の編集長、井森公平だと言いました。誰があなたの名前を語ったというのですか。逃げてばかりいないで、いい加減に認めてください。この子がかわいそうだとは思いませんか」
誤解も甚だしい。そう思った私は、比島に対して強く反論した。
「確かに私は極楽出版の井森公平です。それは間違いありません。でも、橋口という女性にはまったく心当たりがありません。信じてください。それよりも、その橋口さんに会えば、何もかもすべてはっきりするはずです」
比島は、子供の体をギュっと抱きしめ、
「会うも何も、彩名は先日、乳がんで亡くなりました。死の直前、私に一部始終を話し、この子の父親は、井森公平さん、あなただと私に話してくれました」
と涙声で話す。
「そうですか――。それはお気の毒でした。しかし、逃げているわけではなく、本当に身に覚えがないのです。佐渡島へは取材のために行ったことはありますが、佐渡鬼太鼓の取材でしたから、そんな余裕などありませんでした」
佐渡の鬼太鼓は、悪魔を祓い、商売繁盛、五穀豊穣を祈って神社に奉納されるものだ。能の舞に各地の特色ある洗練された太鼓と独特の振り付けがされたもので、約五百年前に佐渡に伝わったとされる。佐渡鬼太鼓の「しだれ打ち」を撮影し、取材した際、すさまじい形相で、鬼たちが裏太鼓に合わせ、身を震わせて髪を振り乱し、必死で太鼓を打つ、その姿に、感動したことを昨日のように覚えている。
「死を前にした彩名が偽りを言うとは思えません。ともかく、私は彩名の言葉を信じます。彩名が亡くなったことで、貴志は孤児になりました。真偽について、もう一度、調べてみますが、それまでしばらくの間、貴志を預かってください。連休明けにでも連絡します」
比島は、少しは私の言葉を信用してくれたようだ。しかし、彼女はまだ、私が彩名を孕ませた張本人だと疑いを持っている。一体、誰が私の名前を語ったのか、貴志という子供のためにも、このままにはしておけない、そんな気持ちで一杯だった。
「佐渡島に戻って、改めて確認したいと思います。井森さんのお写真を一枚、借りられますか」
比島の言葉に従って、写真を用意しようと思った私だったが、その時、ふと思い付いた。
「私もこのまま、このことを黙って見過ごすわけには行きません。あなたと一緒に私も佐渡島へ行くことにします。そこで私の真偽をはっきりさせ、私の名前を語って、彩名さんを騙した男が誰であるか、突き止めたいと思います」
比島は反対しなかった。その日、二人を事務所近くのホテルに宿泊させた 私は、翌朝、比島や貴志と共に、急きょ佐渡へ旅立つことにした。
特急サンダーバードで金沢まで行き、金沢で北陸新幹線に乗り換えた。北陸新幹線に乗車するのはこれが初めてで、一緒に乗った貴志は、新幹線が好きなのか、窓外の景色を食い入るように眺めていた。
上越妙高駅で連絡バスに乗り、直江津港へ向かう。直江津港で高速カーフェリー「あかね」に乗れば、佐渡の小木港まで1時間40分ほどで到着する。
連休初日ということでかなりの混雑が予想されたが、大阪を早朝に発ったことが幸いして、幸運にも混雑を回避して無事に佐渡島へ行きつくことができた。
佐渡島は、日本の島の中で、沖縄本島に継ぐ面積を持つ島である。比島の実家は小木港から国道360号線を走った、西三川という地区にあった。橋口彩名の実家も比島の住居からそう遠くない場所にあり、二人は幼馴染で、小学校から高校までずっと一緒に過ごしてきた仲だと、佐渡島へ向かう電車の中で比島は私に語った。
比島は実家の離れの家に住み、両親の面倒をみながら真野町にある小学校に通い、生計を立てていた。比島の住まいで一息ついた私たちは、疲れて寝込んでしまった貴志を布団に寝かせ、これからの計画を練った。
佐渡島の西三川の流域一帯は、平安時代の昔から砂金採掘が行われていたところで、中流域の山間地に集落が形成されており、佐渡金銀山の一つとして栄えた場所だ。現在は砂金採掘跡や堤跡が田畑に変換、砂金流し用水路が農業用水路に転用されるなどして農地として活用されている。
比島と橋口彩名は、共にこの地で育ち、新潟市の短大を卒業した比島が郷里の佐渡島市の教職員になると、橋口彩名もまた同じ佐渡島市の介護職員として働くようになり、その親交は大人になっても途絶えることがなかったという。
「私と彩名が通っていた西三川小学校は、今は廃校になっています。私は佐渡市内の小学校の教員として働いているのですが、出生率の低下と過疎化が重なって、小学生の数は年々減少の一途をたどっています。彩名も私も一度はこの島を出ましたが、この島が好きで、戻って来ました。彩名が、井森と名乗る男とどうやって知り合ったのかはわかりません。亡くなる直前、彩名が私に話してくれたのは、貴志の父親は、極楽出版の編集長の井森公平で、関西の人間だということと、旅行でやって来た井森と一夜を過ごした時に出来た子供だということだけでした」
「貴志くんは五歳だろ。子供が出来た時、なぜ、すぐに言って来なかったのだろうか。関西だということと、極楽出版と言う社名がわかっているのだったら、少し調べればわかりそうなものだが」
「彩名は、多分、井森に迷惑をかけてはいけない、そう思ったのだと思う。彼女はそんな性格だったから」
「それにしても、彩名さんはどこで貴志くんの父親になる人物と知り合ったのだろうか。心当りはありませんか」
比島は、寝相の悪い貴志を気遣いながら言った。
「それがまるでわからないのです。彩名は、私に何でも話してくれていましたし、隠しごとをするような人間でもありませんでした。お腹が大きくなり始めた頃、『子供が生まれるのよ』と嬉しそうに話していましたが、父親の存在については一言も話してくれませんでした。彩名の両親も、そんな彩名に怒って、世間体が悪いから家を出て行けと彩名を追い出したぐらいです。もっとも両親は、貴志が生まれると、やっぱり孫がかわいいのでしょうね。戻って来るように言い、一緒に暮らすようになりましたけど」
「彩名さんは介護施設で働いていたと言いましたよね」
「ええ、私と同じ真野町にある介護施設です」
「そこへ行けば何かわかるかも知れませんね」
「さあ、どうでしょうか。私も彩名が亡くなった後、施設で話を聞きましたが、介護施設にそんな人物が来訪したことはないと一蹴されました。そりゃあそうだとその時、思いました。介護施設にいるのは高齢者の老人ばかりです。若い人など皆無ですから」
「仕事を終えた後の彩名さんの当時の行動についてご存じありませんか」
「私とは始終、会っていましたけど、それ以外には――。そう言えば、彩名は佐渡鬼太鼓が好きで、時々、練習に行っていましたけど、そこにはこの土地の人間しかいませんからね」
「佐渡鬼太鼓の練習ですか。その練習場所はわかりますか?」
「わかります。でも、訪ねても無駄だと思いますが」
「どうしてですか?」
「彩名の行っていた練習場は、佐渡島の鬼太鼓の中でもとりわけ小さなグループでしたし、大半が彩名よりずいぶん年上の人たちばかりです」
「私のように、佐渡鬼太鼓を取材に来た者がいる可能性があります。土地の人間以外の者と知り合うとなるとその機会が限られますし、何か大きなきっかけがないと恋愛感情に辿り着かない。彩名さんの場合、話をお聞きする限り、発展家ではないようですから尚更のことです」
限られた土地の中でのことだ。知り合うにしても自ずと限界がある。彩名が心動かされ、惹かれた理由を知りたい。そう思うと同時に、私の名を名乗り、偽りの恋をして彩名を貶めた男の正体を突き止めたい。その気持ちが強かった。
「私の名前を名乗っているところから考えて、男は私を知っている、あるいは私の知っている男である可能性が高い。それほど有名でもなんでもない私の名前を、男がなぜ名乗ったのか――。しかし、どれだけ考えても私には思い当たる男がいません。ともかく、彩名さんの行動を調査して、そこから男を割り出すことにしましょう」
その夜は、比島の好意で、比島の家の一部屋を借り、そこで眠ることにした。比島の家は、一階平屋建てであったが、意外に広く、部屋の数も五部屋と多かった。夕食を食べ、貴志と共に風呂へ入ると疲れがドッと出て、つきまとう貴志の相手をしているうちに、いつの間にか深い眠りに陥ってしまった。
翌朝は好天気だった。目を覚ますと貴志が私の布団の中でスヤスヤ寝息を立てている。起き上がって寝床を出て、顔を洗うために洗面所へ向かって廊下を歩いていると、比島がタオルと歯ブラシを手に私の前に現れ、「食事の用意が出来ています」と伝えた。
部屋に戻って着替えをしていると、眼を覚ました貴志が私に飛びついてくる。女手一つで育てられた反動があるのだろうか。父親の愛に飢えている様子が窺われて、いじらしく思えてくる。
「午前中に彩名が時々、顔を出していた佐渡鬼太鼓の練習場に向かいます。一応、責任者の方にはその旨、伝えています」
比島は、よく気が付くやさしい女性だ。知り合って間がないが、その心根のやさしさと気立ての良さに、ついほだされてしまう。貴志を比島の実家に預け、比島と共に、彩名が通っていたという、鬼太鼓の練習場に向かった。
「現在、佐渡には約110組の鬼太鼓組があると言われています。鬼の面を付けた男が舞いながら太鼓を打つところから鬼太鼓という名称が付けられていますが、佐渡では『オンデコ』と呼ばれて島民に親しまれています」
比島はそう説明しながら、佐渡鬼太鼓は三つに大別されていると話した。翁が枡を持って豆まきの舞をする「相川系」、黒鬼・白鬼が獅子と舞い踊る「国仲系」、太鼓と笛に合わせ、二匹の鬼が向かい合って踊る「前浜系」がそれだ。
鬼太鼓の練習場に到着すると、一人の男が迎えてくれた。
「木元さん、ご無理を言って申し訳ありません」
比島がその男に挨拶をする。木元は比島を見ると照れ臭そうな顔をして軽く礼をし、比島のそばに立つ私を警戒心の強い眼差しで見た。
「大阪から来られた井森編集長です。彩名の件でお聞きしたいことがあって、本日はよろしくお願いします」
比島が私を紹介すると、木元は、わかりましたとでもいうように、頭を大きく振った。木元は、四十代後半か、それとも五十代前半だろうか、比島に特別な感情があるようで、ちらちらと比島に視線を送りながら私に聞いた。
「彩名の何を聞きたい?」
つっけんどんな調子は、比島に対するものとあからさまに違う。
「彩名さんは、こちらで鬼太鼓の練習に励んでいたということですが、そのことについてお聞きしたいことがあります」
「……」
木元は、私が何者か、比島とどんな関係なのか、先ほどから値踏みをするような調子で私を見ている。
「こちらの練習場に、関西から記者か、もしくはライターのような人物が訪ねてきたことはありませんか?」
なおも問いかけると、ようやく答えた。
「いつごろのことだ?」
「少し古くなりますが、五年ほど前になるかと思います」
「五年前か――」
木元は少し考えるそぶりをみせ、おもむろに口を開いた。
「あの年は、鬼太鼓のイベントが盛大に催された年だ。取材のために各地からいろんな人間がやって来た。たしか、関西からも来ていたはずだ」
「その人物の名前か、特徴を覚えていませんか?」
「五年前のことだからなあ……」
無理もないと思った。よほどのことがない限り、簡単に思い出せるものではない。
「名刺か、何か、その時、もらっていませんか?」
取材に来た者なら、取材をする前に名刺を差し出すはずだ。もしかしたら、その名刺が残っているかも知れない。そう思って聞いた。
「名刺か!? そうだ。確か、名刺をもらった記憶がある。もしかしたら残っているかも知れない」
そう言って、木元は事務所の中へ戻って行った。
「そう言えば、五年前、記者や取材にやって来た人たちが数人いたわ。でも、その人たちと彩名の接点となると、すぐには思い浮かばない。彩名が誰かと親しくしていた印象はなかったから」
木元の背中を見つめながら、比島が語る。練習場に鬼太鼓が数個、置かれてある。練習は夕方からと聞いているから、木元以外、ここには誰もいなかった。
その木元が事務所から出てきた。
「お待たせしました。五年前のものかどうかわかりませんが、ここへやって来た取材者の名刺です」
名刺入れに数十枚の名刺が挟み込まれていた。順番に見て行くと、やはり関東以北、特に東京を所在地とする名刺が多い。関西はほとんどなかった。
結局、関西を所在地とする名刺は見つからず、私の知っている名前もまた、見つけることは出来なかった。唯一のとっかかりと考えていただけに残念であった。名刺入れを返却し、お礼を言って比島と共に立ち去ろうとした時、木元が何かを思い出したかのように、
「井森さん、ちょっと待ってください」
と私を呼び止めた。
「五年前――、イベントに出場するために練習に励んでいた時のことだ。あまりの猛練習のために、昼間、介護の仕事をしている彩名は体力の限界に近づいていたのだろう。突然、床に倒れた。その時、倒れた彩名を病院に連れて行ってくれた男がいた――。それを今、思い出した」
「病院へ連れて行った男? この島の人間ですか」
「いや、違う。この島の人間ではなかった。かといって記者でもなかったし、取材の人間ではなかったように思う」
「取材でないとすると――」
その時、突然、木元が大きな声を上げた。
「あの時、関西から舞台マネージャーを名乗る人物が来ていた。その人間が彩名を病院に運んでくれた――」
「舞台マネージャー?」
「そうだ。関西の舞台に佐渡鬼太鼓をと言って、その男はやって来た」
「だが、名刺入れの中にそんな人物はいなかった」
「いや、ちょっと待ってくれ。探して来る」
木元はそう言うと、再び、事務所の中へ戻って行った。
関西の舞台マネージャーと聞いても、すぐにはピンと来なかった。しかし、その人物が倒れた彩名を病院に連れて行ったとなれば、そこに立派な接点が生まれる。それが縁で一気に仲が進行したとしても不思議ではない。
10分ほどして木元は、一枚の名刺を手に戻って来た。
「この方の名刺だけ、別のところへ保管していました。この方は佐渡鬼太鼓に惚れ込んで、どうしても関西の舞台に上げたいと、それはもう熱心におっしゃって下さった方でしたから」
木元から名刺を預かり、その名前を見て驚いた。
――樫本芸能株式会社 舞台プロデュース担当 吉村明彦――
樫本芸能は、関西でも三本の指に数えられる伝統ある芸能会社である。大阪の一等地に舞台を持ち、そこで自社に所属する様々な芸人を舞台に上げて人気を呼んでいる。
吉村明彦という名前にも見覚えがあった。関西の芸能文化について、何度か、彼にインタビューをしたことがある。しかし、彼は四十代前半の既婚者であったはずだ。彩名とは少し年が離れているし、さほどハンサムではなく、女に手が早いといった印象もなかった。
「ご存じの方ですか?」
私の眼が名刺に釘づけになっているのを見て、比島が聞いた。
「ええ、それほど親しいというわけではありませんが、よく知っている人物です。しかし、この人物が私の名前を語り、彩名さんを騙したとは信じ難いのですが――」
だが、今のところ、彩名の相手となるとこの人物しかいない。一度、確かめてみる必要があった。
比島は、すでに私を疑ってはいなかったが、私が貴志の父親ではないことを証明し、貴志の父親が誰であるかをはっきりさせておく必要があった。
「その名刺の人物が貴志の父親なのでしょうか?」
比島が私に聞く。
「わかりません。大阪へ戻って、それを確かめたいと思います」
その日のうちに佐渡島を離れた私は、高速カーフェリー、連絡バス、北陸新幹線と乗り継いで、午後、遅い時間に大阪へ到着した。
翌日、樫本芸能に電話を入れた私は、吉村明彦に取り継いでもらい、会いたい旨を伝えた。吉村は、「どんなご用でしょうか?」と聞いたものの、私が、お会いした時にお話しします、と伝えると、時間と場所を指定して、会うことを了承した。
樫本芸能本社ビルのすぐ近くに、樫本芸能が経営する演芸ホールがあった。ホールでは、常時、喜劇を中心とした演劇が上演され、漫才、落語など多彩に盛り込まれ、人気を博していた。吉村が指定したのは、そのホールの一階にある喫茶店であった。
ホールがあるのは、大阪ミナミの繁華街の一等地である。多くの人で賑わう通りに人気コメディアンの看板が飾られ、大勢の人が出入りしていた。
ホールの喧騒と一線を画して、一階の喫茶店は静寂を保っていた。団体客や旅行客は滅多にこの喫茶店には入って来ない。ホテル並みの料金ということもあったが、室内の雰囲気、コーディネート、調度品、椅子やテーブルに至るまで、高級ホテルの喫茶室を思わせるほど格調高い雰囲気があった。
午前11時に待ち合わせをしていた。5分前に喫茶に入ると、座席に座り、コーヒーを注文したところで、吉村が現れた。
「お待たせしました。その節はお世話になりました」
丁寧な挨拶をして、吉村は対面する席に座った。
「ところで今日はどんなご用でしょうか?」
忙しいのだろう。手早く済ませて仕事に戻りたい。そんな様子がありありと見えた。
「つかぬことをお聞きしますが、吉村さんは佐渡島へ行かれたことがありますか?」
「佐渡島ですか――。あります。佐渡オンデコをホールの舞台に上げて、大阪のお客さんにオンデコの素晴らしさを堪能してもらいたい。そう思って交渉に出かけたことがあります」
「それはいつ頃ですか?」
「五年前ですかね。佐渡鬼太鼓のイベントが華々しく開催された年でしたから」
「吉村さんは、橋口彩名さんという方をご存じありませんか。佐渡島の方です」
吉村は、名前を聞いてもピンと来ないようだった。しきりに思い出そうとするが思い出せないようで、最初はとぼけているのかと勘繰ったが、そうではないことが、吉村の態度からよくわかった。
「五年前、吉村さんが佐渡島へ行かれた時、佐渡オンデコの練習をしていた女性が、突然、倒れました。その時、その女性を病院へ運んだのは、吉村さん、あなたですね」
思い出したのだろう。吉村は、ハッとした表情を浮かべ、私を見た。
「思い出しましたか。その時の女性が橋口彩名さんです」
「……」
「あなたは、彩名さんを病院へ運び、看病した。それはいいでしょう。でも、その時、あなたは、偽名を使い、彩名さんと関係を持った。どういう理由でそうしたのか私にはわかりません。だが、あまりにも卑劣だとは思いませんか。あなたとの一夜で彼女は子供を身ごもり、誰にも話さず、周囲の非難を買いながらひっそりと子供を育てて来ました」
「ちょっと待ってください。子供が出来たなんて、今、初めて聞く話です。それに、偽名を使ったことは認めますが、私は卑劣なことなどしていない」
やはり吉村だった。半信半疑のまま、鎌をかけたのだが見事に引っかかった。
「あなたは、私の名前を使って彼女に接触しています。そのため、一昨日、その子供と彩名さんの同僚が私を訪ねて来ました。私は、身の潔白を証明するために、彩名さんの同僚と共に佐渡島へ行きました。そこで、あなたの存在を知ったのです」
吉村は、小さなため息を漏らすと、頭を垂れ、私に深く謝罪した。
「井森さんの名前を使ったことは、本当に申し訳なかったと思います。この通り、お詫びします」
と謝った後、吉村は、彩名との一部始終を素直に私に話して聞かせた。
――佐渡オンデコの素晴らしさを伝えたい。そう思って、五年前、休暇を取って佐渡島へ渡りました。会社の指示で行ったわけではなく、個人的な思いからそうしたわけで、もし、ホールへの来場を承諾していただければ、後は何とでもなる。そう思っていました。
橋口彩名さんのことは本当に偶然でした。たまたま、あの練習場を訪問して、責任者の方に挨拶をして、練習を見学させてもらっている時に、あのアクシデントが起きました。
全員が土地の方で、それぞれ練習途中であったことから、私が彼女をタクシーで病院へ運ぶことになりました。病院へ到着した頃には、彼女はすっかり意識を取り戻し、大丈夫ですと言って、診察を受けませんでした。彼女は、私が関西から来た人間だと知ると、興味を持って、関西には行ったことがない。大阪や京都や奈良のことを話してほしいとせがむのです。車を借りて、海岸へ行った私は、そこで彼女に関西の話をして聞かせました。
橋口彩名は、色の白い可愛い女性でした。無邪気で無防備で、私をまるで警戒しない彼女の様子を見て、私は、彼女は私のことを好きなのでは、と勘違いしました。
誰もいない闇夜の海岸で、私は彼女を襲いました。私の行動が思いもかけないものだったのでしょう。彼女は身を固くして呆然としていました。その瞬間、いけない、と思ったものの、理性の歯止めは効きませんでした。そのまま、私は彼女を――。
彼女は、おそらく私が初めての体験だったと思います。言い逃れの出来なくなった私は、今さら既婚者である、子供もいる、と言えなくなって、名刺入れに入っていた名刺を漁りました。その中にあった井森さんの名刺を渡し、偽名を使ってその場を脱したのです。本当に卑劣だったと思います。
彩名がその後、どうしたのか、私にわかるはずもありません。佐渡オンデコを呼ぶ話も、佐渡島へ行く気になれず、とうとう頓挫してしまいました。
――そうですか。子供が出来たのですか。井森編集長、私はどうすればいいのでしょうか――。
連休最後の日を利用して、私は再び佐渡島へ渡った。ことの一部始終を比島に伝えるためだ。そしてもう一つ、貴志の処遇をどうするか、という大きな問題が残っていた。
吉村は、もし、どうしても子供を引き取る必要があるのなら、妻と相談をして引き取ることを考えてもいい、と私に話したが、吉村の妻が、浮気を許すはずがないと思ったし、ましてや子供を引き取ることを承諾するはずがないと思い、吉村の覚悟を聞くだけに留めておいた。
「そうですか。井森さんには、本当に申し訳ないことをしました。二度も佐渡島へ来ていただいて本当に申し訳ない思いです」
佐渡島を再訪し、比島に会った私は、吉村が私に話して聞かせた一部始終をそのまま比島に話した。
「いえ、そんなことは別にかまいません。それより、貴志くんをどうするか、早急に決めなくてはいけません」
「その吉村という男は、彩名が亡くなったことを知らないのですよね」
「ええ、あえて言いませんでした。彩名さんに深い思いがあれば別ですが、そうでもなかったようなので、話すことをやめました。吉村に貴志くんを預けても幸せになるとは思えなかったし――」
「それでよかったと思います。貴志のことですが、今度、私の彼に相談したところ、自分たちの子供として育てよう、そう言ってくれました。彼は彩名のこともよく知っていてくれているし、ぶっきらぼうなところがありますが、子供にはやさしいので安心です」
「比島さん、結婚されるのですか?」
驚いて私が聞くと、比島は笑って、
「ええ、前から申し込まれていたのですが、なかなか決心がつかなくて、でも、今回の彩名のことがあって、ようやく決心がつきました。幸い貴志は私になついていますし、彼のこともよく知っているので、何とかなるでしょう」
と言う。
「相手の方は、やっぱり佐渡島の方ですか?」
おそるおそる聞くと、比島は、とびっきりの笑顔を見せて、
「井森さんも会ったでしょ。木元さんです」
と言う。木元の顔が脳裏に浮かんだ。あの時の私を見る憎悪の視線を思い出す。悔しいような、嬉しいような、妙な気持ちのまま、私は比島に言った。
「比島さん。彩名さんの分まで幸せになってください」
〈了〉