愛という名の海辺の叙景

高瀬甚太

 Y大学の藤田教授は、毎年夏休みになると小旅行に出るのを慣例としていた。三年前に妻を亡くして以来、ずっとそうだ。
 行き先は誰にも語らない。特に目的もなく、あてのない旅をするのだと誇らしげに語っているのを以前、私は聞いたことがある。
 私と藤田教授の接点は、三年前、彼が奥さんを亡くされて傷心の時、たまたまY大学へ用があって行った際、事務局長に藤田教授を紹介されて以来のことだ。その席で私は教授から亡くなった奥さんの自筆の原稿を見せられ、本にしてくれないかと依頼された。それ以来の付き合いだ。
 達筆で美しい文字を書く亡き夫人、藤田桐子の文章は、その内容もまた読む人の心を捉える素晴らしいものだった。
 自身の生い立ちとこれまでの人生を淡々と書きつづったその作品にたちまち私は魅了された。
 さすがは教授夫人だと感心したが、内容を読むと、彼女は決して豊かな学歴の持ち主ではないことがわかった。履歴によると、漁村の貧しい家で育ち、中学校を卒業した後、定時制高校で働きながら学び、高校を卒業した後、Y大学の夜間に入学したとある。学問に対する憧憬は子供の頃から、ことの他、深かったようだ。
 紀州南紀の片田舎で生まれた桐子は、三歳の時、漁師の父を海で亡くし、母もその後を追うようにして数カ月後に病死している。
 母方の祖母に引き取られた桐子は、中学を卒業するまで祖母と共に暮らし、卒業と同時に大阪へ出て、縫製工場に就職し、そこから府立の定時制高校に通っている。
 働いて学ぶことは、桐子にとっては大変なことだったようで、三年生の時に二度ほど病院に運ばれ、一週間程度の静養を余儀なくされている。
 高校卒業と同時に縫製工場を退職した桐子は、Y大学の夜間の部に入学し、昼間は輸入品を取り扱う商社の事務員として働くようになった。
商社の仕事は、桐子にとって充実したものだったようだ。手記に仕事の内容が事細かく描写されている。ここでの生活がよほど楽しかったのだろう。大学を卒業した後も、桐子はこの会社で働いていた。
 藤田教授と知り合ったのは二八歳の夏と記されている。
 その夏、桐子は伊豆へ一人旅をし、下田の温泉地で藤田教授と知り合ったとあった。
 この頃から桐子の筆致が変わってくる。
 
 同じ年の初夏に会社の上司に勧められて桐子は見合いをした。二度ほど相手と会い、そこでプロポーズされたが、決心がつかず、旅から帰ったら返事をすると、相手に言い残して伊豆へ一人旅に出ている。
 下田に三日ほど滞在した桐子は、同じホテルに長期逗留していた藤田武治とこのホテルで知り合った。藤田は、研究論文を完成させるために半月ほど前から滞在し、論文の仕上げに勤しんでいた。
 桐子がそのホテルに着いたのと、藤田が散歩のためにホテルを出るのがほぼ同じで、二人はホテルのロビーでばったり遭遇しているのだが、この時はまだどちらも相手の存在に気付いていない。
 下田でも高名な老舗のAホテルの一室に宿泊した桐子は、荷物を片づけるとベランダに出て外を眺めた。ホテルのベランダから眺める海の景観は、桐子の気持ちを心地よいものにした。天気はよかったが風があったために波が荒かった。白い波頭の揺れ動くさまを眺めながら、桐子はぼんやりとこれから先の自分の人生について考えていた。
 夕刻が近づき、食事の時間が訪れた。部屋で食事をすることもできたが、一人で食事をするのもどうかと思い、桐子はホテルのレストランに足を運んだ。
 団体客が多数宿泊していてレストランは混雑していた。時間をずらそうかと思ったが、ボーイに相席でお願いします、と言われて仕方なく案内されたテーブルに座った。そこにいたのが三十代半ばと思われる男性だった。
 「相席でお願いします」
 ボーイがその男性に申し訳なさそうに言うと、男性は立ち上がって「どうぞ」と笑顔で桐子に挨拶をした。桐子もまた、「よろしくお願いします」と応えて席に着いた。
 料理がテーブルに届くまで少し時間がかかった。
 「一人旅ですか?」
 男性が尋ねてきた。その時、桐子は初めてその男性の顔をまじまじとみた。
 男性は笑みを絶やさない明るい表情で、時折、メガネを気にしながら聞きもしないのに自分のことについて説明を始めた。その説明を聞いて、その男性が藤田という名前で大学の助教授であることを知った。
 桐子もまた、その場で名前こそ名乗ったものの自身のことについては詳しく話していない。藤田がどういう人物であるか、すぐにはわからなかったからだ。
 食事をしている間も藤田はしきりに桐子に話しかけてきた。桐子はもっぱら聞き役に徹した。それでも藤田のことをうるさい人だなどとは思わなかった。常に桐子を気遣いながら話す藤田の口調に好感を抱いていたからだ。藤田は、
 「ずっと一人閉じこもって論文を書いているものですから、話し相手に飢えていました」
 と話し、極力、饒舌すぎる自分を戒めようとしたが、桐子は、
 「私は大丈夫ですよ」
 と答え、笑顔で返した。
 桐子は藤田が独身男性だとは最初から思っていなかった。年齢的にも人間的な魅力においても藤田には妻や子がいて当然だろう、そう感じさせるものがあったからだ。
 先に食事を終えた桐子は、
 「ありがとうございました。とても楽しいお食事をさせていただいて感謝しています」
 と言って、席を立った。
 藤田もまた名残惜しそうな表情を浮かべ、「こちらこそありがとうございました」と言って、桐子を見送った。
 その夜、桐子は一晩中眠れぬ夜を過ごした。見合いをし、プロポーズを受けた山田隆のことが脳裏にあったからだ。
 山田を桐子に紹介したのは専務の久方雄一で、久方は、
 「うちの得意先の山田社長の息子がきみのことをえらく気に入って、ぜひ一度、席を設けてくれといってきかないんだがどうだろうか」
 と桐子に相談を持ちかけてきた。
 桐子は久方の言う山田社長の息子の山田隆に会ったこともなければ知識もなかった。だが、相手は桐子をよく知っていた。それで久方に聞いた。
 「専務、私、山田さんを存じていないのですが、山田さんはどうして私のことを知っているのでしょうか?」
 「ああ、それはだね。以前、きみと一緒に山田社長の会社を訪問したことがあっただろ、あの時、社長の息子さんがきみを見かけて一目惚れをしたらしい、以来、彼はきみに夢中になっている」
 と言って久方は笑った。
 「いい話じゃないか。息子さんは一人息子だというし、いずれ社長になる人だ。こんないい話はないよ。玉の輿じゃないか」
 確かに山田社長の会社は、千人規模の社員を要する大手の企業だ。そんなところへ嫁入りすれば玉の輿に違いない。桐子も少しは興味を持った。ただ、相手が自分に関心を持ってくれた、そのことが嬉しくもあり、半ば不安でもあった。
 久方の世話で、山田隆と会ったのは五月の後半、雨の降る夜だった。
 市内のホテルで、見合いという形式をとり、山田隆と出会った。山田隆は社長である父と母と共に出席した。
 久方と共に席に着いた桐子はこの時、初めて山田と対面した。山田は印象の薄い男だった。すぐに忘れてしまいそうなほどに個性が乏しく、ずっと穏やかな表情で桐子を見つめている。その作ったような笑顔が桐子には気になった。
 あたりさわりのない会話が続き、山田の両親、久方が共に席を離れ、二人だけの時間になった。その時になってようやく山田は口を開いた。
 「あなたがうちの会社に初めてやって来られた日から、ぼくはずっとあなたに注目していたんですよ」
 常套の口説き文句だと思ったが、なぜか表情に真剣みが感じられず、気持ちが全面に出ているようなには感じられなかった。その後も会話は続いたが、まるで軽音楽でも聞いているかのようで、心地よさこそ感じさせるものの、山田の言葉はまるで桐子の胸には響いて来なかった。
 その後、桐子は山田から誘いを受け、二度ほど会っている。二度目に会った時、桐子は山田から結婚を申し込まれた。桐子が即答を渋ると、山田は明らかに不満げな表情を浮かべ、早急に返事が欲しいと、桐子を急き立てた。そこには、俺に何の不満があるのだ、とでも言いたげな山田の思い上がった態度が垣間見えた。
 桐子に不満などあるはずがなかった。相手は社長の息子だ。貧しい少女時代を過ごし、働きながら高校、大学へすすんだ自分とはずいぶん違う。結婚すれば何不自由なく楽な暮らしができるだろう。でも、結婚というのはそれだけのものではないはずだ。何より自分が大切に思っているのは、愛だ。自分は山田に愛を感じているだろうか、そう考えた時、桐子は自分の気持ちに自信が持てなくなった。
 「旅から帰ったらお返事させていただきます」
 桐子の返答に、山田は渋々頷いた。桐子は、三日間の旅で果たして満足のいく結論が得られるかどうか疑問だったが、山田にはそう話し、大阪を旅立った。
 断ればどうなるか、相手は得意先の社長の息子だ。久方専務にも迷惑をかかるが、当然、自分は会社を退職しなければならなくなるだろう。そんなことを考えるとますます眠れなくなった。とうとう日の出の時間を迎えてしまった。
 翌朝、桐子は食事の前に部屋を出て海岸を歩いた。潮騒が耳に心地良く、磯の香が幼い日々の郷愁を誘った。しばらく岩場に佇み海を眺めていると、釣り人らしい人の姿がみえた。何が釣れるのか、興味があったので聞いてみようと思い、近づくと釣り人が桐子に気がついて声を上げた。
 「あらっ……」
 「やあ……」
 二人同時に言葉を交わした。釣り人は昨夜、相席になった藤田だった。
 「藤田さん、どうしたんですか? こんなところで」
 桐子が尋ねると、藤田は照れながら、
 「毎朝、朝食の時間まで釣りをしているんです。下手の横好きというやつで、あまり釣れてはいませんがね」
 と言って笑った。
 桐子は藤田の隣に座ってしばらく海を眺めることにした。
 なぜだろう、この人のそばにいると心が落ち着く。桐子はそう思った。まるで何年も前から知り合いのようで、まったく警戒心を感じさせない。
 「長期間、おうちを離れて、奥さんやご家族の方は寂しがったりしませんか?」
 と桐子が聞くと、藤田は、苦笑いを浮かべて、
 「私、まだ独身なんです。ずっと学問の世界に没頭してきましたから、チャンスがなくて。独身のまま三五歳になってしまいました」
 と言って笑った。桐子はその言葉を聞いた途端、心がざわついた。
 「独身なんですかぁ」
 と藤田を茶化すようなふざけた調子で返してしまった。
 「じゃあ、あなたはどうなんですか?」
 「すみません。実は私も独身です」
 とペロリと舌を出して、おどけてみせた。
 「よかった……」
 藤田が釣りをしながらポツリとつぶやいたので、驚いた桐子が聞いた。
 「よかったって……」
 「私にも、もしかしたらチャンスがあるかもしれない、そう思ったんですよ」
 藤田が明るく言ってのけた。桐子の頬が一瞬赤らんだ。
 山田にはない、人としての温かみが藤田には感じられた。屈託のない笑顔が印象的で、偽りのない言葉の響きが桐子には心地よかった。こんな人と人生を共に過ごせたら幸せだろうな、会って間もない藤田を見つめながら、桐子は心からそう思った。
 
 旅から帰った桐子は、久方専務を通じて正式に断りを入れた。久方は、
 「こんないい話、めったにないのにもったいないよ」
 と言い、桐子を慰留したが、桐子の心が変わらないと知ると、
 「わかった。先方に出向いて断ってくるよ」
 と桐子の意志を受け止めた。
 「断ったからと言って、会社を辞めることはないからな」と桐子に念を押して。
 山田のプロポーズを正式に断った桐子は、半月後、伊豆から戻ってきた藤田と再会した。藤田は伊豆での論文作業を切り上げ、大阪に戻ると、その日、すぐに桐子を食事に誘った。
 「論文は完成したのですか?」
 と桐子が尋ねると、藤田は真剣な表情で、
 「論文を書くことはいつでもやれます。でも、それ以上に今の私はあなたに会いたい。その思いで一杯です。少しでもあなたのそばにいたい。そう思って伊豆を去りました」
 と桐子に向かって熱い思いをぶっつけた。桐子もそれは同様だった。伊豆から帰って以来、藤田のことを考えない日はなかったからだ。
 「私も藤田さんに会いたかった――」
 桐子は藤田に向かって臆することなく自分の思いを打ち明けた。
 ――その年の秋、半年足らずの交際を経て、二人は共に暮らすようになった。
 
 桐子は、藤田との結婚がよほど幸せだったのだろう。書き記した文章には、藤田との楽しい日常が克明に描かれていた。それはまるで一片の恋愛小説を読むかのような愛に満ちた文章の数々だった。
 
 その桐子が三年前、突然、急死した。桐子の死因を私は知らない。病気だという人もおれば、事故で亡くなったという人もいた。藤田の悲しみはいかばかりだったろう。その胸中を私は図りかねた。
 正式に桐子の本の編集に携わって、最終段階に近づいた時、桐子の文章の最終部分を渡し忘れていた、といって藤田から最後の原稿を渡された。
 その原稿を読み、私は愕然とした。
 
 ――私の寿命が尽きかけている。それを感じる今日この頃だ。痛みは体全体に巡って、今では息をするのも苦しい。ガンに気付いたのは一年前のことだ。乳がんになって、治療をしている間に他の場所へ転移した。病気になって、死が近づいて改めて夫のやさしさ、愛情をつぶさに感じている。夫は大学を休み、私の看病に没頭してくれている。私は夫に言った。これ以上、みっともない姿をみせることは耐えられない。後生だから、私を助けると思って、私を殺して。あなたに殺されるならこんなに幸せなことはないわ。死ぬ時は、私、あなたの手で命を落としたいの。お願い、私を殺して――。
 
 桐子の死の真相は誰も知らない。私は医師に確認する気にはなれず、桐子の死を慈しみ、藤田の心情を察するあまり、かける言葉を失った。
 藤田は毎年、夏が近づくと旅に出かける。行先は誰も明かされていないが、私には予測がついていた。たぶん、伊豆ではないか。そこで藤田は桐子と出会った昔を懐かしみ、桐子と過ごした時間の数々を思い出しているに違いない。そんな気がして仕方がなかった。
 本が完成して一カ月後、私の元に藤田から丁寧な礼状が届いた。
 それはまるで遺書のような礼状だった。本を編集した私に対する感謝と、桐子を亡くした寂しさを切々と綴った礼状で、最後に、「さようなら」と書かれていたのが気になった。
 私が藤田の死を知らされたのはずいぶん後のことだ。その夜私は、飲めない酒を呑み、一晩中、泣き明かした。
〈了〉

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