素敵でかわいい豆タンクの恋

高瀬 甚太

 小峰あずさは、その不幸な生い立ちを感じさせないほど明るく陽気な女の子だった。多分、それはあずさの体型から来る印象が大きかったと思う。丸々と太った体型、決して美人とはいえないが愛嬌のある表情、暖かな性格がその体型ににじみ出ていて、初めて会った時、私は思わず笑った。でも、それは彼女を侮るような笑いではなく、その可愛さに笑ったのだ。
 「小峰あずさと申します」
 挨拶をした彼女は、取材者の私の意図を理解してか、早速、自身の紹介を始めた。
 「私に相応しくない、いい名前でしょ。名前を付けてくれたのは父親です。名前にどんな意味があったのか、聞く前に、父は事故でこの世を去りました。母も父を見送った一週間後に亡くなったので、私は生まれて数か月で孤児になりました。父は交通事故で、母は病気で亡くなったと知ったのは、小学校へ入学して間もなくのことです。父の兄、小峰三郎が孤児になった私を引き取り、育ててくれました。叔父には子供がいなかったこともあり、とても私を可愛がってくれ、私は寂しさを感じることなく成長することができました。
 高校を出た私は、大学には行かず、そのまま企業に就職しました。育ててくれた叔父夫婦に恩返しをするためにも、一日も早く社会に出て働きたかったのです。
 入社した金属製造会社は大阪の中心部のオフィス街にあり、社員二百人弱の中規模の会社でしたが、従来の金属会社とは違う新金属を開発し、上場を目指している発展途上の会社でした。そのため、従業員も若い人が多く、活気に満ちていました。
 会社が主催する新入社員激励のパーティが行われたのは、入社して一カ月を経た時期のことです。同期の新入社員は全員で七名いました。そのうち女性が二人、私と山本瑛梨香さんだけでした。瑛梨香さんは、短大卒のとても美人でスタイルのいい女性でしたから当然のことながら入社してすぐに社内でも男性たちの人気の的になりました。私はと言えば、同期の瑛梨香さんと何かにつけて比較されることが多く、いつもみんなの笑いものでしかありませんでした。
 身長が低く豆タンクのような私と、モデルのように高身長でスタイル抜群の瑛梨香さん、どう太刀打ちしても比較にすらなりません。でも、周囲の評価はともかくとして、私と瑛梨香さんは、入社して以来、大の仲良しで、わずかな期間に何でも話し合える仲になっていました。

 ホテルを借り切って行われた新人激励パーティには約半数以上の社員が参加し、私たち新人七名は宴の進行と共に社員の方々との親交を深める機会を得ることが出来ました。
 パーティがそろそろ終りに近づいた頃、事件が起きました。瑛梨香さんを巡って男性社員同士の諍いが起きたのです。
 その時、私は瑛梨香さんと離れ、端の方の席に座って一人で食事をしていたこともあり、喧嘩が起こったことに気が付きませんでした。瑛梨香さんのように男性社員に囲まれることがなかった私は、会場の隅の方で一人、ぼんやりと過ごしていたのです。会場がざわつき、「喧嘩が始まったぞ」と声が聞こえたのは、そんな時のことです。
 大勢の社員がその場所へ向かいました。私も何が起こったのか気になってその人たちに紛れて走りました。
 パーティ会場の奥まった場所で、二人の男子が取っ組み合いの喧嘩を繰り広げていました。怒号が飛び交い鮮血が周囲に飛び散る凄惨な喧嘩でした。周りの人たちは止めることもできず、二人の喧嘩を見守るしかなかったようです。
 喧嘩をする二人の傍らに瑛梨香が立っていました。
 「新人の女の子を巡って喧嘩になったようだ」
 周りを囲む人の中からそんな声が聞こえてきました。私は二人の男性社員の喧嘩の行方より瑛梨香のことが気になって、急いで瑛梨香に近付きました。
 「大丈夫だった?」
 と声をかけると、瑛梨香は、じっと二人の喧嘩を見守っていてすぐには返事をしませんでした。
 「瑛梨香――」
 もう一度、声をかけると、ようやく、瑛梨香は私の存在に気付きました。
 「あら、どうしたの?」
 と、平然と聞きます。
 総務の武井課長が飛んできたのはそんな時のことです。武井課長は、取っ組み合う二人を分けると、どちらにも激しいビンタをかませ、落ち着きを取り戻させました。
 シャツもネクタイもボロボロになっていた二人は、口から血を流しながら、なおも激しくにらみ合っています。
 「何があったんだ、言ってみろ」
 武井課長がどやしつけるように聞くと、二人共うなだれて言葉なく黙っています。
 武井課長は二人を奥にある控室へ連れて行くと、その後、パーティが終わるまで二人は会場へ姿を現わすことはありませんでした。
 再び何事もなかったかのように、パーティが進行しました。瑛梨香を励まそうとそばに近寄ったのですが、瑛梨香を目当てに集まって来た男子社員たちに弾き出され、話すことができないまま、パーティが終了しました。
 駅までの夜道を一人で歩いていた時のことです。背後から突然、男の人に声をかけられました。
 「小峰さんですよね」
 男の人は確認するように私に聞きました。
 驚いて振り向くと、メガネをかけた感じのいい若い男性が立っていました。
 「技術課の三雲祐介と言います。今日はお疲れさまでした」
 技術課には縁がなく、知り合いなどいません。三雲という男性にお会いするのもこの時が初めてでした。何事かと思い動揺していると、三雲が言いました。
 「小峰さんと話がしたかったのに、先輩に捕まって話が出来ず、残念でした。あれだけ人が多いと、どこに誰がいるのか、見当もつきません。小峰さんがどこにいるのかわからず、会場を出る時、やっと小峰さんを見つけることができました。よかったです」
 一方的に話す三雲の言葉を私は信じられない思いで聞いていました。
 ――私と話がしたい?
 キツネにつままれたような気分でいると、なおも三雲が話します。
 「ぼくは小峰さんより五歳上の二十三歳、入社して一年目です。この会社へ入れたことはぼくにはとてもラッキーでした。高校も大学もほとんど男子ばかりの学校で、これまで女性と話す機会が少なかったので、そういう意味でも素敵な女性がたくさんいるこの会社に入れたことは嬉しかった」
 何が言いたいのだろうか。三雲は一人で喋って一人で笑っています。その無邪気な様子がおかしくて、私は思わず吹き出してしまいました。
 パーティ会場で寂しい思いをしていた身には、たとえそれが冷やかしや冗談であっても、私に声をかけてくれただけでも十分嬉しかった――。
三雲に誘われるまま、駅近くの喫茶店に入りました。
 面と向かって男性と対すると、何となく恥ずかしくて抵抗が感じるものですが、三雲にはそれを感じさせない親しみやすさがありました。お茶を飲みながら三雲と何を話したのか、取り留めのない話ばかりで、特に印象に残った話はなかったと思います。それでも私は楽しかった。これまで男性にはほとんど縁がなく、誰にも相手にされることのなかった私に、初めて声をかけてくれた人がいた。そのことだけで私は十分満足でした。
 店を出ようとした時のことです。三雲は突然、思いがけない言葉を口にしました。
 「小峰さん、よかったらぼくとお付き合いしてもらえませんか?」
 信じられない思いで彼を見つめました。デブで豆タンクのようでおまけに美人ではない私に、どうして三雲のような素敵な人が――。三雲は私をからかっているのではないか、ドッキリじゃないか、俄かにその言葉を信じることが出来なかった私は、三雲に問いました。
 「どうして私なんかと――」
 三雲は笑って答えました。
 「いつだったかな。定時に仕事を終えた後、自宅に帰っている途中、駅近くで小峰さんを見かけたことがあります。その時はまだ、ぼくは小峰さんの名前を知りませんでしたが、同じ会社の新人の子じゃないか、そう思って何気なく見ていると、その子の前を歩いていたお婆さんが階段の手前で突然、ヨロヨロと力なく倒れました。足でも痛めたのだろうか、そう思って見ていると、女の子は躊躇なくそのお婆さんを助け起こし、手を引いて階段を上ると、お婆さんの体調を気遣いながらホームまで同行しました。ぼくが見たのはそれだけのことでしたが、それ以来、ぼくはその女の子が気になって仕方がありませんでした。小峰さんがどの課にいるのか、それさえもわからなかったので、以来、ぼくは必死になって小峰さんを探しました」
 三雲に言われてもその時のことをすぐには思い出せませんでした。そんなこと、ごく当たり前のことで、決して特別なことではないと思っていたからです。だってそうでしょ。目の前で年老いたご老人が倒れたら、誰だって私と同じ行動をとるはず、そう思っていましたから。
 三雲にもそう伝え、別に特別なことをしたわけじゃないからと話しました。
 でも、三雲さんは私が謙遜していると受け取ったようです。
 「咄嗟の行動にその人の人間性が現れると言いますが、ぼくは小峰さんの人間性に興味を持ちました。決して小峰さんを過大評価しているわけではありません。これまでぼくの出会った人の中に、そう言った人はいませんでした。自分のことしか考えていない――、まあ、そういうぼくにしてもそうなのですが、そういった人間たちばかりでした」
 三雲の爽やかな表情を見ているうちに私は、
 ――三雲さんのことをもっとよく知りたい。
 そう思うようになりました。私は、
 「こんな私で良ければお願いします」
 と、三雲に応えました。三雲は、ニッコリ笑って私を見て、
 「ありがとうございます。どうかよろしくお願いします」
 と言いました。こうして私は、生まれて初めて男性とお付き合いすることになったのです。
 三雲は、技術系の課に所属していて、主に金属の材質の研究開発に勤しんでいました。同じ会社にいながら、まるで接点がなく、話が合うかどうか、最初のうちはずいぶん気になりましたが、大らかで隠しごとをしない三雲と付き合ううちに、しばらくすると何の抵抗もなく、どんなことでも気軽に話せるようになりました。
 交際が深まり、何度か一緒に食事をしたり、時には休日を利用して郊外に出かけたりしているうちに、私はますます彼のことが好きになりました。

 以前は昼休みになると、瑛梨香と待ち合わせて一緒に食事をすることが多かったのですが、入社して三カ月、四か月が経つうちにいつしか一緒に食事をする機会が減って来て、半年も経つとほとんど疎遠になってしまいました。総務課に勤務する私と違い、営業課に勤務する瑛梨香は忙しさが違います。その上、彼女と一緒に食事をしたいという男性が目白押しだったこともあり、次第に昼休みだけでなく、仕事を終えてからの付き合いもなくなってしまいました。
 瑛梨香の噂を耳にしたのはそんな時のことです。
 ――山本瑛梨香って知っているだろ。あのエロい美人の新入社員だよ。あいつ、山岡常務と出来ているらしいぜ。俺、狙っていたんだけどなあ、常務のやつ、いち早く彼女をモノにしてしまいやがった。それに彼女、秋の移動で、営業課勤務から秘書課勤務なるらしい。とんだシンデレラガールじゃないか。
 真偽のほどはともかくとして、そんな噂が聞こえてきました。山岡常務は、山岡社長の長男で、有名私立大を出た三十代後半の妻子ある男性です。いずれは社長の後を継ぐと評判の人でしたが、聞こえてくるのは悪い噂しかありませんでした。
 女出入りの激しいことで有名でした。現在の奥さんとも別居状態で離婚は確実のように聞いていましたし、交際している女性も数人いたようです。瑛梨香もその一人になってしまったのだろうか。心配になって何度か瑛梨香の携帯に連絡を取りましたが、返事が返って来ることはありませんでした。
入社して半年が過ぎ、三雲と私の交際が社内の噂になっていることを知りました。
 ――技術課のホープである三雲がどうしてあんなブスと……。
 男性、女性に関わりなくそんな声が聞こえてきました。無理もありません。三雲を狙っている女性はたくさんいましたし、彼は社内でも将来を嘱望される人物だったからです。
 ――あの子なら私だって勝てる。
 そう思っていた女性もきっと多かったと思います。そんな声を耳にするたびに、私はいつも絶望的な気分に陥りました。
 いつか別れが来る、そう思うたびに涙が溢れて止まりませんでした。
そんな時です。瑛梨香が常務と決裂したという噂が伝わって来たのは――。同時に瑛梨香の秘書課への移動が中止になったとも聞きました。
 ――山本瑛梨香のやつ、常務に結婚を迫ったけれども断られて、腹立ちまぎれに暴言を吐いて、それが常務の怒りを買って別れたようだ。常務のお古というところに問題はあるけれど、俺たちにもチャンスが巡って来たようだ。
 社内の男たちの言葉を聞いた私は、心配のあまり瑛梨香に数回、電話をしました。どういうわけか、瑛梨香は私が連絡しても一度も出ず、着信をみたら私からだとわかるはずなのに、一度も電話をして来ません。この時もそうです。電話をしても出ず、返事も返って来ませんでした。
 「私の友だちに山本さんて人がいるんだけれど――」
 ある日、会社を終えて一緒に食事をしている時、三雲に瑛梨香のことを話しました。
 「ああ、営業の山本さんだろ、知っているよ。美人でスタイルのいい人だって聞いている」
 三雲まで瑛梨香のことを知っていることに驚きました。
 「男の人って瑛梨香のように美人でスタイルのいい人を好むものね。私なんか――」
 思わず愚痴ると、三雲が怒りました。
 「それぞれ好みがあるよ。見かけを好む人ばかりじゃない。キミにはキミの良さがある。俺はそんなキミを愛しているんだ」
 三雲の言葉を聞いて、私は安堵しました。瑛梨香が常務と別れたという噂を聞いた時、もしかすると三雲を奪われるんじゃないか、そんな根拠のない心配をしていましたから――。
 私と三雲の仲は順調でした。結婚の話こそ出ていませんでしたが、一週間に二度、三度と逢い、休日も二人でデートを重ねていました。二人でいる時、三雲はほとんど私の聞き役に徹していました。他愛もない私の話をいつも真剣に聞いてくれ、時には真剣に返してくれました。
 女性の多くはお喋りです。話すことで心を開放し、ストレスを解消します。私は、三雲と話すことでストレスを解消し、心を軽くしていました。でも、心配だったのは、あまりにも自分のことばかり喋りすぎて、彼に嫌われないかということでした。思うこと、心のすべてを開放してしまうことで、三雲に私のすべてを見透かされ、軽い存在と思われないか、いつもそのことを心配していました。
 そんな日の金曜日、いつものように会社近くの喫茶店で三雲に会いました。私は、三雲の顔を見るとすぐに会社であった嫌なこと、愚痴をこぼしてしまいます。その日もその予定でしたが、この日は、不思議なことに彼の方から私に向かって喋りはじめました。
 「キミの友人の山本さん、この間、キミ、言っていただろ。その人から今日、突然、電話がかかってきてね。電話に出ると、『小峰あずさの友人の山本瑛梨香と申します。突然、お電話してすみません。あずさのことで少しお話したいことがあります。お時間いただけませんでしょうか?』と言うんだ。面識のない人だし、ぼくの電話番号を知っていたのも不思議だったから、少し黙っていたんだ。すると、『今日、仕事が終わった後、どうでしょうか』と言うので、今日は予定が入っていて駄目です、と言うと、『じゃあ、来週でも結構です。都合が付きましたら、このアドレスにお電話いただけませんか』と一方的に言って、電話を切ったよ。山本さんは、キミのことで話があると言っていたけど、いったいどんな話があるというのだろうか」
その話を聞いた時、私の胸の動悸が高鳴り、それはしばらく止みませんでした。もしかしたら瑛梨香は、三雲のことを狙っているのでは、そんな気がしました。瑛梨香は、結婚願望の強い人で、入社した当時、彼女はよく言っていました。「できれば後、二年か三年以内で結婚したいわ。私、仕事が好きじゃないし、家庭でのんびりしている方が好きなの」。その結婚願望の強さが常務との付き合いに影響したのでは――。常務との破局の噂を耳にした時、そんなことを思ったものでした。
 「どう思う?」
 三雲に聞かれて、ハッとしました。心の動揺を見透かされたのではないか、そんな気がしたのです。
 「私は何とも言えないわ。三雲さんが決めてください」
 それだけ言うのが精一杯でした。
 「キミが嫌なら会わないでおこうと思ったけれど――。そうだな、一度、会ってみるか」
 三雲はそう言って笑いました。
 私と三雲の関係は、お互いに愛し合っているという実感はあったものの、せいぜい何度かキスをしたぐらいで、肉体関係はありませんでした。三雲が求めて来なかったこともありますが、私にも、結婚するまでは純潔を守りたい、そんな気持ちがあったものですから、あえてそんな雰囲気になることを避けてきた経緯があります。
 しかし、いざ、三雲が瑛梨香に会うとなると、不安が募って来ます。瑛梨香は魅力的な女性です。そんな女性に言い寄られると、たいていの男はのぼせ上り、瑛梨香に心を奪われてしまうのでは、そんな気がしました。
 その日、その後、どんな話をして、どんな顔で三雲と別れたのか、まるで記憶がありません。泣きそうな気分になり、「瑛梨香に会わないで」と言ってしまいそうになるのを抑え付けるのに必死だったことだけはよく覚えています。

 三雲が瑛梨香に会ったのは、翌週の火曜日のことでした。予め三雲からそのことを知らされていた私は、その日、仕事が手に付かず、気が動転し、滅多にしない失敗を何度か起こしてしまいました。
 火曜日の午後6時、三雲は私といつも会う、会社近くの喫茶店で瑛梨香に会うと連絡してきました。いったい、瑛梨香は私の何を話そうとしているのか、そのことが気になって仕方がありませんでしたが、それ以上に、三雲が瑛梨香に惹かれないか、心配でなりませんでした。
 そっと覗き見したい、そんな欲望に駆られましたが、それも出来ず、その日、私は早々に家に着き、久しぶりに叔父夫婦と共に食事をしました。
 「どうだね。会社の方は?」
 叔父に聞かれた私は、
 「おかげさまでいい会社に入ることができました。ありがとうございます」
 と、お礼を言いました。入社してしばらくの間、多忙であったため、叔父夫婦に会社のことを詳しく話していませんでした。半年以上経ってお礼を言うのもどうかと思いましたが、やはり遅くなっても叔父にお礼を言わないと思いました。
 「彼氏が出来たと聞いたが、会社の人なのか?」
 叔父に聞かれてドキッとしました。以前、休日に出かける時、叔母に聞かれて、三雲のことを少し話したことがあります。それを叔父は叔母から聞いたのでしょう。
 「会社の技術課の人です。でも、この先、どうなるかわかりません。まだ、お付き合いして半年程度ですから……」
 「技術課の人間か。それを聞いて私も少し安心した。うちの会社でもそうだが、営業課の人間は仕事上、付き合いも多く、酒を呑んだり遊んだりする機会が多いが、技術課の人間は比較的まじめな人間が多い。あずさの彼もきっとそうだと思う」
 叔父の言葉が終わらないうちに、叔母が私に言いました。
 「あずさちゃん、出来たら一度、うちへ連れておいで。叔母さんも一度、あずさちゃんの彼氏の顔を拝んでみたいわ」
 私はドギマギして言葉が返せませんでした。私がもっと魅力のある女性なら、何の心配もしなかったでしょうが、こんな豆タンクの私を三雲が本当に愛してくれているかどうか、言葉では私に好きだ、愛していると言ってくれるけれど、本当の気持ちはどうなのか、私にはまったく自信がありませんでした。
 「その彼が本当にしっかり地に足の着いた人なら、あずさのいいところをしっかり見ていてくれると思うよ」
 叔父が笑いながら言いました。その言葉を聞いて少しホッとしたことをよく覚えています。結局、その日、三雲からの連絡はありませんでした。深夜零時を過ぎるまで三雲からの連絡を待ち続けたものの、疲れて果てて眠ってしまいました。
 翌日、出勤した私は、昨夜と同じように三雲からの連絡を待ち続けました。よほどこちらから電話をしようか、昼休みにそう思ったのですが、出来ずに終わりました。
 夕方近くになって、ようやく三雲から連絡がありました。平静を装って電話に出ると、彼が言いました。
 ――大切な話があるのだけれど、今日、仕事が終わった後、会ってくれないか。
 大切な話と聞いて、私の心臓がドキンと大きな音を立てて鳴りました。もしかしたら別れ話では、すぐにそのことが思い浮かんだのです。
 半年間、付き合って来たものの、ほとんど進展なく時間が過ぎていました。男と女の関係にでもなっていたらまだしも、私と三雲の関係は友だち程度のものに過ぎません。恋人とはいっても口先だけのものです。三雲が魅力的な瑛梨香に呼び出されて、彼女に誘惑されたとしても仕方のないことのように思えました。
 ――わかりました。いつものお店でいいですか?
 聞くと、三雲は、
 ――いや、今日は別の場所にしよう。
 そう言って三雲は、ミナミの中心地にあるホテルの最上階のレストランを指定しました。
 いつもと違う場所を指定するのは、おそらく別れ話に違いない。そう思った私は、力なく、「――はい」と返事をしました。
 電話を終えて仕事に戻ると、私の顔色を見た先輩社員がひどく心配して私に言いました。
 「どうしたの、小峰さん。顔色が悪いわよ。早退したらどう?」
 今にも泣き出しそうな顔で私は、
「大丈夫です。すぐに治りますから」と言って席に就きました。時間まで仕事をしましたが、その間、私の脳裏を駆け巡るのは、三雲の表情、言葉、姿です。素晴らしい人だった。私にとってかけがえのない人だった。おそらくもう二度と、三雲のような男性に出会うことはないだろう――。
 待ち合わせの時間は午後六時でした。仕事を終え、ゆっくり向かっても十分間に合う時間でした。鏡の前で化粧を整えた私は、キッと鏡を睨みつけ、
――もう少し、いいスタイル、いい顔に生まれたかったわね、あずさ。
と、ひとり言を言って、会社を出ました。
 ホテルに着いて最上階のレストランへ向かった私は、そのレストランが思いのほか、きれいでゴージャスなお店であることに驚かされました。
 ――別れ話をするために、何もこんなお店を利用しなくていいのに。
 三雲の精一杯の誠意なのだろうと思い直し、入口で入ろうかどうしようか、迷っていると、受付の女性が私に言いました。
 「小峰あずささんでいらっしゃいますか?」
 私がコクリと頭を下げると、受付の女性が言いました。
 「お伺いしております。どうぞ奥の方へお入りくださいませ」
 ボーイの案内で店の奥に向かうと、きれいに飾られたテーブルがあり、ボーイが恭しく私に頭を下げ、椅子を引いて、私に座るよう促しました。
席についてしばらくすると、三雲が現れました。
 「ごめん、ごめん、少し遅くなって」
 三雲は軽く手を挙げて謝ると、椅子に座り、ボーイに向かって「お願いします」と言いました。それを合図に次々とコース料理が運ばれてきます。とてもおいしそうな料理です。でも、彼との別れが近づいていることを考えると胸が一杯になって喉を通りません。
 「昨日、山本瑛梨香さんと会ったよ」
 三雲の言葉を受けて私が言いました。
 「素敵な人でしょ。男性に大人気なのよ」
 「そうだね。男連中に人気のある人だということがよくわかったよ。魅力的な人だ」
 三雲の言葉を聞いて、一気に肩の力が抜けました。やっぱり三雲も瑛梨香の魅力のとりこになったんだわ、そう思いました。
 「山本さんが俺に話したいと言ったのは――」
 そこまで言って、三雲はワインを喉に流し込みました。その時の私はきっと、死の宣告を受ける死刑囚のように蒼ざめ身体を小さく震わせていたことでしょう。
 「山本さんは、俺にこう言ったんだ。『小峰さんと結婚する気がありますか?』と。俺は、どうしてそんな言葉を山本さんが口にするのか不思議でならなかった。それで彼女に聞いたんだ。どうしてですかって。すると、彼女は、
 『小峰あずさは結婚願望の強い人です。家庭に不幸があって叔父夫婦に引き取られて育ってきました。叔父夫婦はやさしくていい人だけれど、一日も早く家庭を持って世話になった叔父夫婦を安心させてやりたい。いつもそう言っていました。彼女は自分にコンプレックスを持っていて、好きな人が出来ても、自分の本当の思いは話せない人です。もし、本当に彼女を愛し、彼女を幸せにしてあげる気持ちがあるのなら一日も早く彼女に結婚を申し込んであげてください』。
 そう言うんだ。ぼくは、彼女に聞いたよ。なぜ、あなたがそんなことを? と。彼女はこうも言ったよ。
 『私は入社当時、彼女といつも一緒にいました。今年の同期、唯一の女性二人ですからね。でも、営業部に所属してからはそれも出来なくなりました。忙しかったことと、仕事に夢中になってしまって、彼女と会ったり、電話で話す余裕がなくなってしまったのと、入社した当時のお嬢様気分でいた時の私に帰るのがいやだった。それでつい彼女の電話を無視してきたの』。
 ぼくは彼女に言ったよ。
 『彼女が言っていたよ。山本さんは結婚願望が強くて、二、三年以内に結婚するつもりだって。仕事には興味がなくて、家庭に入ってのんびり過ごしたいと思っているって』。
 彼女は、『その通り、私は入社した当初はそう考えていたし、そのつもりでいたわ。だから彼女にも、いつもそう話していた。でも、営業部に所属して、実際に外回りをしたり、得意先と話すうちに、商売をしているといった感覚がとても好きになったの。山岡常務が私を見初めてくれて、交際してほしいと言われた時、とても素敵な人だったから私もついその気になった。でも、彼はあまり仕事に興味のない人で、私に性的な欲求ばかりをしてきたわ。断り続けていると、今度は秘書課に移動するよう言われたの。私、もう少し、営業の仕事をしたい、そう言って断ると常務はあまりいい顔をしなかった。それどころかあること、ないこと、私の噂話を広めるようになった。多分、あなたも小峰も私の噂を耳にしているでしょうけれど、あの話は常務が広めたデマなの。小峰に会ったらそう言っておいてほしい。それに私、もうすぐこの会社をやめて、違う会社へ移る予定なの。だからその前にぜひともあなたに会いたかった。会って、小峰のことをお願いしたかったの』と。 山本さんにお礼を言ったよ。小峰さんのことをそんなに思ってくれてありがとうって」
 つい先ほどまで、私は瑛梨香に三雲を奪われる、そればかり考えていた、そして、デマを信じて瑛梨香を誤解していた。そのことを思い切り恥じました。瑛梨香の方がずっと大人で人間的にも素晴らしい。それに対して私はどうだ。自分のことしか考えていなかった。恥ずかしくて、私はこの場から逃れたい。そう思いました。
 「小峰さん、ぼくは、もっと早くあなたに自分の気持ちを言うべきだった。ぼくの気持ちはずいぶん前に決まっていたし、わかってくれるとばかり思っていた。でも、はっきり言葉に出して言わないと、気持ちは伝わらない――。それを山本さんと話していて感じさせられた。だからぼくは今日、キミをここへ招待した」
 三雲の合図と共に花束が届けられました。三雲はそれを手に取ると、立ち上がって私に向かって恭しく差し出し、レストラン中に聞こえるような大きな声で言いました。
 「小峰あずささん、ぼくと生涯を共にしてください。愛しています」
 花束を私に手渡すと、三雲は深く頭を下げました。
 私なんか――。私なんか――。
 そう思いながらも涙が溢れて止まりませんでした。自己嫌悪と愛される喜びに挟まれて、私はただただ泣きつづけ、ようやく一言だけ搾り出すようにして言いました。
 「どうかよろしくお願いします」

 夏に会社を退職した後、叔父夫婦の元で花嫁修業に励み、春の結婚式に備えて現在は多忙な日を送っています。結婚式は四月十二日、子供はそれよりもう少し後の六月二十日が予定日になっています。瑛梨香は新しい会社に移り、営業の仕事に精を出しています。時々、連絡をくれるようになりましたが、彼女の前ではまだ、家庭の話はご法度です。三雲は、時々、家にやって来て、まるで叔父夫婦の息子にでもなったかのように、一緒に酒を呑み、楽しく食事をしています。この幸せをずっと継続けられるよう、妙なコンプレックスに負けないよう、三雲を倣って明るく楽しく生きていきたい、そう思っています」
 話し終えたあずさの屈託のない笑顔が印象的だった。
 「OLたちの愛と結婚」をテーマに取材した今回、その取材対象に小峰あずさを推薦してくれたのが山本瑛梨香だった。当初はビジュアルを重視して、山本瑛梨香に取材を申し込んだものの、「私の結婚はもう少し先になります」と断られ、「私よりもふさわしい人がいます」と小峰あずさを紹介してくれた。ビジュアルでは劣るが、あずさの取材も悪くなかった。豆タンクのような体から弾けるはちきれそうな幸せ、いい記事が書けそうだと思った。
(了)


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