妖怪喫茶店であっち向いてホイ!

高瀬 甚太

 突然降り出した雨のために、喫茶店での雨宿りを余儀なくされた。古くて薄暗い、営業しているのかどうかさえ疑わしい、閑散とした喫茶店であった。
 「いらっしゃいませ」
 七十歳をはるかに超えていると思われる老婆が、腰を二つ折りにして迎えてくれた。
 「お店、やっておられますよね」
 思わず確認した。客が誰もいないように思ったからだ。
 「はい、営業いたしております。どうぞこちらへ」
 薄暗い通路を通って奥へ向かった。何とも気味の悪い喫茶店だ。壁に掛けられた妖気に満ちた絵画、怪しい空気の漂う店内、この店のスタッフなのか、カウンターの奥にもう一人、顔だけ覗かせて、こちらを見ている人物がいた。
 「どうぞ、このお席にお座りください」
 椅子に座ろうとして目を剥いた。大理石のテーブルも異様だったが、椅子もまた異様過ぎた。大会社の社長が座るような、豪華極まりない椅子だった。
 たかがコーヒーを飲むために立ち寄っただけなのに、この椅子はないだろう。そう思ったが腰を下ろすしかなかった。
 「何をなさいますか?」
 あくまでも丁重な老婆である。言葉つきからしぐさまで、まるで一流レストランにでも入ったような錯覚を覚えた。だが、周囲の雰囲気は最悪だ。墓場にいるような静けさと妖しげな雰囲気に、先ほどから私は圧倒されっぱなしでいた。
 「コーヒー、ホットでお願いします」
 「かしこまりました」
 老婆は会釈を一つして、厨房に向かった。この席へ来るまで気が付かなかったが、通路に、かなり高価と思われる真紅の絨毯が敷かれている。道理で足元がふわふわしたはずだ。見上げると天井に異様な染みがいくつかある。あれは何の染みだろう。気味悪さに肌が凍り付いた。
 雨はまだ止まない。雨さえ止めばすぐにこの店を飛び出そうと思っていたのだが、止むどころか、雨の勢いはさらに強まっている。
 それにしてもおかしな喫茶店だ。BGMもなければ、照明も薄暗い。客は私一人なのに妙にだだっ広い。座り心地はいいが、何となく落ち着かない椅子だ。豪華な椅子に座り慣れないものにとっては、むしろ苦痛だった。
 老婆がコーヒーを持ってきて、テーブルに置いた。銅のカップであった。 もしやと思ってスプーンを見ると、やっぱり銀製である。値打ちのほどはわからないが、皿もまた高価なものであることは間違いなかった。大理石のテーブル、豪華な椅子、銅のカップに銀のスプーン、高価な皿――。店内の雰囲気とのギャップが凄すぎて言葉が出ない。
 カップに口を添えて一口コーヒーを啜ると非常に味わい深い。香りも抜群だ。それもそのはず、ブルーマウンテンであった。空恐ろしくなって、老婆を呼んだ。一杯のコーヒーの値段が知りたかったのだ。とてつもなく高い金額のコーヒーを飲んでいる、そんな気がして支払いが心配になった。
 「コーヒーのお値段ですか?」
 「メニュー表がないもので気になりました」
 老婆は厨房に向かうと、二つ折りにしたメニュー表を持ってきて、私のテーブルの上に置いた。
 「どうぞご覧になってください」
 メニュー表を開けると、コーヒーの値段が一番上にあった。四〇〇円、金額が普通であることに驚いて尋ねた。
 「このコーヒー、ブルーマウンテンですよね。四〇〇円では安いような気がするのですが」
 香りが深く、繊細な味のブルーマウンテンは、限られた地域でしか栽培されない。従って収穫量のきわめて少ない高価な豆である。そのコーヒーを惜しげもなく出して、しかも四〇〇円という低額であることに驚きを隠せなかった。
 「いいんですよ。お嫌いですか?」
 「いえ、そんなわけではありませんが――」
 「では、どうぞ、ごゆっくりお飲みになってくださいませ」
 恭しく挨拶をすると、老婆は再び入口近くの元の定位置に戻った。
雨の降りは一向に収まらない。ガラス越しに見る外の景色を気にしながらコーヒーを味わっていると、不意に背後から声がした。
 「初めてですね」
 えっと思って振り返ると、私の後ろの席に客が座っていた。いつの間に入って来たのだろう、確か、先ほどはこの店にはいなかったはずだ。
 「初めてと申しますと……?」
 「この店、初めてなんでしょ」
 「ええ、今日が初めてです」
 野太い声に似合わない能面のような顔をした髪の長い若い男は、コーヒーを手にテーブルを挟んで私の対面に座った。
 「初めての人は、私とにらめっこをするのがこの店のルールになっています。よろしいですか?」
 「ちょっと待ってください。雨宿りをするためにこの店に入りました。にらめっこをするために寄ったわけではありません」
 拒否をしたが、そんなことなど意に介さない様子で、若い男は勝手ににらめっこを開始した。
 「いいですか? はい、にらめっこしましょ。笑ったら負けよ。アップップのプー」
 能面のような顔の男が急に顔をひん曲げ、舌を出し、目をくるくる回し、眉毛を上下させる。それを見た私は思わず吹き出してしまった。
 「はーい。笑った。私の勝ちです」
 若い男は、老婆に向かってガッツポーズをする。それを見た老婆は、私の前に歩み寄ると、
 「笑ったらだめじゃありませんか。負けたら仕方がないですね。あちらの席へ移動してください」
 と言って、私に席を移動するように言い、奥の席を指し示した。雨はますます本降りになり、止む気配を見せない。仕方なく、席を立ち、奥の席に向かった。
 奥の席は木製の丸テーブルになっていて、椅子は、先ほどと違い、いかにも安定の悪そうな竹で編んだ椅子が一つ置かれているだけだ。仕方なくその椅子に腰をかけると、
 「やれやれ、とんでもない客だ。これではおいらに勝てないぞ」
 いつの間にやって来たのか、七歳ぐらいの男の子が一人、私の前に座っていた。
 「ぼく、いつの間に来たんだい。お父さんやお母さんは?」
 周りを見渡すが、客は一人もいない。先ほどにらめっこをした若い男もいつの間にかい消えていた。
 「さあ、急いで用意をして。三回勝負だからね。後出しなしだよ」
 何のことだろうと思い、怪訝な顔で男の子を見つめていると、男の子は、やおら大きな声を上げて、
 「じゃんけんポン、三回勝負だよ。いいね」
 と言うなり、
 「じゃん、けん、ポン」
 と大声を上げる。仕方なく私は、子供に合わせてじゃんけんポンをした。
 一回目は、私がグーを出し、男の子がチョキを出した。私の勝ちだ。
 「よーし、今度こそ!」
 むきになった男の子が、二度目の「じゃんけんポン」の声を上げる。二回目の勝負は男の子の勝ちだった。私がチョキで男の子がグー。
 「これが最後だよ。いいね」
 男の子の顔が真剣になったので、私も負けじと真剣な顔をして、
 「じゃん、けん、ポン!」
 とやった。チョキとチョキ、あいこだった。
 「もう一度、これが最後だよ!」
 再び真剣な眼差しで、男の子は小さな右腕を振りかざした。
 「じゃん、けん、ポン!」
 同時に声を出した。年甲斐もなく必死になっている自分がおかしかった。
 「おいらの勝ちだ」
 男の子が、奇声を上げ、飛び跳ねる。男の子がパーで私はグーだった。
 それを見た老婆がやって来て憐れみを込めた目で私に言った。
 「やれやれ、勝負弱い人ですね。申し訳ありませんがルールですので席を移っていただきますよ」
 ルール? 喫茶店に何のルールがあるというのか。男の子は勝利の喜びに浸りながら飛び跳ねている。だが、私がふと目を逸らすと、いつの間にか姿を消していた。この雨の中、どこへ行ったのだろうか。
 「こちらへどうぞ」
 老婆が指示した席は、ほとんど灯りの届かない暗い場所にある、粗末な座卓と座椅子の置かれた席であった。
 「こんなところへ?」
 とても客が座れるような席ではなかった。
 「どうぞ」
 こんなところへ座るぐらいだったら、こんな店、出てやる。そう思って入口に向かおうとするが、足が動かない。老婆が厳しい目で私を見て、再び言う。強い口調で。
 「どうぞ」
 仕方なく、私は粗末な座椅子に座った。
 外の様子がまったくわからない。雨はどうなのだろうか。小やみになっておれば、この店を出たい。この店の様子が普通ではないことに、その時、初めて私は気が付いた。
 「お待たせ。しっかし、あなたも弱いわね。でも、私、弱い男って好きよ」
 いつの間にか私の座卓の対面に女性が座っている。しかも色っぽい声で甘えた調子で言う。騙されるものか、今まで女性の色香にどれだけ騙されてきたことか。私は初めて勝利に執念を燃やした。この女性もきっと私に戦いを挑んでくる。今度は何の戦いだ。
 「あっち向いてホイだよ。いい?」
 「あっち向いてホイ」とは、じゃんけんをして、負けた方は「あっち向けホイ」の掛け声とともに、じゃんけんに勝った方が指し示す方向と違った方向、上下左右に顔を向けるというゲームだ。顔を向けた方向と指を指す方向が一致すると指を指した方の勝ちとなり、一致しなかった場合は、じゃんけんからやり直しとなる。そんなゲームだ。
 ラッキーだと思った。私は、このゲームで今まで負けたことがない。自信を持って女性との戦いに挑んだ。
 「じゃんけんポン」
 じゃんけんに勝ったのは女性だった。
 「あっち向いてホイ」
 女性が指で右を指す。私は迷わず余裕で左を向く。軽いものだ、と思った。だが、次の瞬間、私は動転した。女性が着ていた衣服を脱いだのだ。上着を脱ぎ、服装がノースリーブに変わった。
 「じゃんけんポン」
 また、女性が勝った。
 「あっち向いてホイ」
 女性が下を指さす。その瞬間、私は見てしまった。豊満な乳房が下に落ちるのを――。その瞬間、私の目は、自然に下を向き、顔全体もそれにつられて下を向いていた。
 「勝った! 勝った!」
 女性の喜びようは途方もないものだった。こんなゲームでこれほど喜ぶ女性を私は初めて見た。悔しさと、もう少しで覗けたのに、の双方の気持ちが錯綜して私はその場に座り込んでしまった。
 雨は止んだだろうか。気になって窓を見た。勢いを増した雨が窓ガラスをしとどに濡らしている。いつになったら止むだろうか、そんなことを考えていると、老婆が私の背中を叩いた。
 「席をお立ちください。負けましたから席を移らなければなりません」
 「また席を替わるのですか?」
 うんざりした表情で返事をすると、老婆は、
 「この次の席は大変ですよ」
 とニコリともせず言ってのけた。
 にらめっこ、じゃんけん、あっち向いてホイ、負けるたびに三度も席を変わっている。一体、この店は何なのだ。得体の知れない恐怖に、身の毛がよだった。
 「こちらへどうぞ」
 老婆がドアを開けたそこは、物置だった。箒やモップ、バケツなど、主に掃除用の道具が置かれている。暗い物置の中央に、金属製の簡素な椅子が置いてあった。テーブルは――、テーブルというよりもそれは段ボール箱を椅子の前に置いているに過ぎない。
 「すみません。店をでますのでお勘定お願いします」
 頭に来た私が老婆に伝えると、老婆は澄ました顔で私に言う。
 「後一度だけチャンスが残されていますが、それをクリアしないと、あなたは永遠にこの店の中から抜け出ることができません。この店に入ってきたことを後悔してももう遅い。これはあなたの運命なのです」
 老婆は、そう言い終わると、束ねていた白髪を肩に下ろした。それを見て私は驚いた。髪を下ろした途端に老婆の顔が変わったからだ。老婆は猫を模した猫妖怪だった。
 
 私は、突然降り出した雨から逃れようとして、この店に入った。それを老婆は運命だと言った。ここは現実の世界から逸脱した、妖怪たちの棲む異世界なのだ。現実世界の狭間には、ぽっかりと空いたエアポケットのような場所があり、ふだんは誰にも気づかれることはないが、たまにその場所に落ち込む人間がいると以前、知人の学者に聞いたことがある。神隠しに遭った、 蒸発したと言われる人間のうち何人かは、このようなエアポケットに落ち込んだ人間だとその学者は語った。私もその中に紛れ込んでしまったのだろうか。猫妖怪の老婆は、後一度だけチャンスが残っていると言った。そのチャンスを逃せば、私は永遠にこの世界から逃れることができない。逃れられないまま、私もまた妖怪になってしまうのか――。
 「残念だね。あんたのように運のない人間は、このまま生きていてもろくなことはない。この世界で生きながら死ぬのが一番、よく似合っている。最後の問題は俺が相手だ」
 お相撲さんのように体が大きくて、頭の禿げた男が私の前に突然現れて言った。
 人の一生などわからないものだと、その時、思った。この店に入るまで、私は、今日、この後のこと、明日、明後日、一週間後のことまで考えていた。それが、今は、死に至る状況に追い詰められている。
 「ドンパッパで勝負だ。三回勝負。二勝したら勝ちだ。いいな」
 ドンパッパとは、「ドンパッパ」の掛け声で行うじゃんけんである。グーは「グリン」、チョキは「チョリン」、パーは「パリン」と呼び方が変わり、細部に少し違いこそあるが基本はじゃんけんとほとんど変わらない。
 「ドンパッパ!」
 掛け声を上げて、私は「ドン」でお相撲さんのような男とお互いの右手を打ち合い、続いて「パッパ」の言葉で互いの手を二回出し合った。二回目の手で勝敗が決まる。お相撲さんは「パリン」、私は「グリン」だった。私の負けである。絶対絶命だ。何としても次は勝たねばならない。
 「ドンパッパ」の掛け声で、再び、お相撲さんのような男と互いの右手を打ち合い、「パッパ」で互いの手を二回出し合う。「パッパ」、互いの手を二回出し合った。
 二回目の手が、お相撲さんは「チョリン」、私は「グリン」だった。私の勝利である。
 次が決勝戦である。私は緊張した面持ちで深呼吸を一つした。気が付くと私たちの周りを数人の妖怪たちが興味津々といった表情で取り囲んでいる。負けたら私は、彼らの仲間にならなければならない。嫌だ。なりたくない。悲壮感にあふれた私を見て、先ほど私と勝負をした「あっち向いてホイ」の女性が、
 「この世界に来れば楽だよ。毎日、『あっち向いてホイ』をして暮らせるわよ」
 と甘い声で囁くように言う。嫌だ。「あっち向いてホイ」で人生を終わりたくない。
 お相撲さんが、「さあ、これが最後だ」、そう言って「ドンパッパ」と掛け声を上げた。
 お相撲さんと激しく右手を打ち合う。次の瞬間、私は「チョリン」を出した。お相撲さんは「グリン」だ。二回目、今度が勝負になる。私が再び「チョリン」を出すと、お相撲さんも「チョリン」を出す。あいこだ。私は迷わず、「ドン!」と先に叫んだ。少し遅れてお相撲さんが「ドン」と言ったが、私の勝ちだ。あいこの場合、先に「ドン」と言ったものが勝ちとなる。 私は思わずガッツポーズをして、「バンザイ!」を叫んでいた。
 「もう一回! もう一回、勝負をさせてくれ!」
 お相撲さんが猫妖怪の老婆に向かって叫んだが、聞き入れてもらえるはずがない。私の勝利が確定した。
 「負けていたら、私たちの仲間になれたのに。その素質は充分あったのにね」
 猫妖怪の老婆が残念そうな口ぶりで言う。仲間になどなりたくない。そう叫びたい気持ちを抑えて、猫妖怪の老婆に言った。
 「どうすれば私はこの世界から抜け出せるのか?」
 そう聞いた、その瞬間、私は稲光のような強烈な光線に打たれて思わず蹲った。
 1秒にも1時間にも感じられる、そんな時が過ぎて私は目を開けた。目の前にいた猫妖怪の老婆は姿を消し、喫茶店も視界から消えていた。いつの間にかあの大雨が嘘のように上がっており、午後の日差しが眩しく私の目を射た。
 「どうされました? こんなところで」
 老人に声をかけられ、慌てて周囲を見回すと、私が立っている場所は学校のグラウンドの中央だった。どうしてこんなところへ――、呆然自失していると、老人が言った。
 「ここは廃校になった小学校です。たまに、ごくたまにですが、あなたのように、グラウンドの中央で呆然として立ち尽くしている人を見かけます。お聞きしても、首を振るだけで答えてくれない。よほど怖い目に遭ったのでしょうな。唇がブルブル震え、身体を震わせて、怯えた目をしてここを走り去っていく」
 老人は、廃校になった小学校のガードマンをボランティアでしていると言った。
 「私はこの小学校の卒業生なんです。ここで過ごした小学生時代、本当に楽しかった。にらめっこをしたり、じゃんけんポンをしたり、あっち向いてホイやドンパッパで遊んだり――。今でもここにいると、その頃、遊んだ友だちの声が聞こえるようで、もう一度、あの頃に戻りたい。そんな気持ちになってしまいます」
 「戻らない方がいいと思います。思い出に留められた方が。それよりも、もっと人生を楽しんでください。どんなに辛いことがあっても、思い出に浸りすぎるとろくなことがありません」
 老人はキョトンとした目で私を見るが、私は、平気な顔で言葉を続けた。
 「今、ここに生きていることこそが幸せですよ。仕事に追い込まれ、借金に追いまくられようとも、今日のことを考え、明日のことを考えることができる――、やっぱり、人間として生きている間は、それが一番幸せですよ」
老人は、わけがわからないといった表情で私を見る。そんな老人に手を振って、私はその場を離れた。
 夢だったのか、それとも本当に異世界へ行ったのか――。晴れた空を見上げながら、私は青空に向かって、大きく腕を振りかざし、「じゃんけんポン」とやった。
 雲が拳を固めたグーのような形をしたが、それなら私の勝ちだと思った。私は手を思い切り広げたパーだったからだ。
〈了〉

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