真夜中の訪問者

高瀬甚太

 午後11時、井森公平が部屋一杯に散らかした書き損じの用紙を片づけている時のことだ。突然、電話がけたたましく鳴った。こんな時間に誰だろう、そう思って電話に出ると、
 「……」
 電話の向こうで何かを話しているようだが、声がうまく聞き取れない。
 「もしもし、もう少し大きな声で喋っていただけませんか」
叫ぶように言ったが、
 「ツー……」
 という音が鳴って電話が切れた。時々、こうした悪戯電話がかかってくる。ふざけんな、井森は憤慨して電話を切った。
 終電車に間に合わなくなる、そろそろ帰らねばと思い、井森がドアの近くに来たところで、いきなりピンポーンとインターフォンが鳴った。こんな時間に一体誰が――。
 「どなたでしょうか」
 と尋ねたが返答がない。
 ドアを開けると一陣の冷たい風に見襲われた。インターフォンが鳴ったはずなのにドアの外には誰もいなかった。
 井森はドアを閉め、そのまま事務所を出た。駅まで5分ほどの距離だ。終電車まではどうにか間に合いそうだ。そう思って足早に歩いていると、背後から声をかけられた。
 振り返ったが誰もいない。下を見ると、小さな子供が立っていた。
 「おじさん、編集長でしょ?」
 五歳ぐらいの幼い男の子があどけない表情で井森に聞いた。
 「ああ、そうだけど……、こんな遅くまでうろうろしていたらダメだよ。お母さんやお父さんはどこ?」
 問いには答えようとせず、男の子は井森の上着の袖を掴んで言った。
 「編集長さん、ぼく、お願いがあるんだけど」
 「お願い? なんのお願いだ。言ってごらん」
 「ぼくのお父さんとお母さん、探してほしいの」
 「お父さん、お母さんを探すってどういうこと?」
 と井森が聞くと、男の子は、
 「連れて行かれたの」
 と答える。
 「よくわからないけど、そういうことはおじさんより警察の方がいいよ。連れていってあげるから一緒に行こう」
 男の子の手を取って歩こうとすると、男の子がその手をふりほどく。
 「ぼくはおじさんに探してほしいの」
 「おじさんは本を作る編集長で、探偵でも刑事でもないからきみの願いを聞いてあげることができないよ」
 「でも、ぼく、編集長さんでなきゃ、いやだ」
 むずかる子供を前にして、このまま放置するわけにもいかず、しかもこのままでは終電車には間に合いそうもなかったことから、仕方なく事情を聴くことにした。
 「じゃあ、そこのファミレスで話を聞くからね。そこまで一緒に行こう」
男の子の手を引いてファミリーレストランへ向かった。井森の事務所から歩いてそう遠くない場所にあり、24時間営業であったことから話を聞くには好都合だった。
 男の子はよほどお腹がすいていたのだろう。注文したハンバーグをペロリと平らげた。
 「きみは私のところへ一人でやってきたの?」
 井森が聞くと、男の子はくりっとした大きな目を輝かせて、
 「お父さん、お母さんと一緒に来た」
 と言う。
 「じゃ、どこでお父さん、お母さんと別れたの?」
 「編集長の事務所の前で」
 「なんだって? うちの事務所の前で――」
 「お父さんは編集長に電話をしている時に連れていかれた。お母さんは、編集長の事務所のドアの前で連れていかれたの」
 電話の主は男の子の父親だったのだ。インターフォンを鳴らしたのはこの子の母親だったのか。それにしてもなぜ、二人はいったい誰に連れていかれたのだろうか。
 「そもそもきみのお父さんやお母さんは私に何の用があったのだろう」
 「編集長に相談したいことがあるって言ってた」
 「私に相談?」
 「相続のことだってお父さんが言っていたよ」
 「相続? それなら専門家に頼めばいいのになぜ私に――」
 「わからないけど、編集長の出した本をみて、お父さんは相談してみようと思ったらしいよ」
 しっかりした男の子だ。五歳でこれだけのことはなかなか言えない。
 井森は最近、相続の本を出版した。従来の専門書のようなものではなく、もっと一般にわかりやすく、法律の裏をかくような内容の本だ。そのため初版から飛ぶように売れた。極楽出版、久々のヒットといっても過言ではなかった。
 その本をこの子の両親がみて、井森に相談しようと思ったようだ。でも、それは無理な相談というものだ。井森は単なる編集者で、法律や税に詳しいわけではない。監修者がいて、その人の指導を受けて作っている。相談されても答えようがなかった。
 「お父さん、お母さんを連れていった人物に心当たりはないの?」
井森が問うと、男の子は愛くるしい笑顔で「あるよ!」と即座に答えた。
 「えっ、あるの?」
 「だってお父さんとお母さんを連れて行ったの、ぼくのおじさんとおばさんだから」
 「おじさんとおばさんが連れて行ったのか?」
 「うん」
 「きみはなぜ連れて行かれなかったの?」
 「ぼく、うまく逃げたから」
 「そうか。それで警察に行きたくなかったんだな」
 「そうだよ。だっておじさん、おばさん、本当はやさしい人だから」
 事件にもならない話だと思った。この子が言うようにおじさん、おばさんがこの子の両親を連れて行ったのなら、警察に届けるわけにはいかない。仕方がない。こうなったらこの子をおじさん、おばさんの家に届けるしかないと井森は思った。
 「きみの名前は何と言ったかな?」
 「ぼく、ゆうだよ」
 「ゆう? ゆうくん、おじさんと一緒におじさんとおばさんの家に行こうか」
 「いや!」
 ゆうは、今にも泣き出しそうな顔をして首を振る。
 「どうして? やさしいおじさん、おばさん、なんだろ」
 「やさしいけど、今はだめ。怖い」
 「怖い?」
 「うん、怖い」
 「どうして怖いの?」
 ゆうはその問いには答えず、下を向いた。
 「仕方がないなあ。じゃあ、今日だけおじさんの事務所に泊まるか。今日だけだからね。いいね」
 そう断ってゆうに尋ねると、ゆうはいかにも嬉しそうな表情を浮かべ、
 「ぼく、編集長のところへ行く!」と声を上げた。
 事務所に戻り、疲れ切った様子のゆうをソファに寝かせ、毛布を被せた。よほど眠たかったのだろう。ゆうはすぐに眠りについた。
 相続がこじれて、この子の両親と伯父叔母の間で諍いでもあるのだろうか。この子の話からそんな様子が透けてみえた。それにしてもこの子の両親を誘拐するなど尋常じゃない。何か、ほかに大きな問題が横たわっているのでは――、井森は嫌な予感に囚われた。
 翌朝、井森はゆうを車に乗せ、西宮市にあるという伯父の家を訪ねることにした。いつまでもゆうを預かっておくわけにもいかないし、相続問題の顛末にも興味があった。
 ゆうをなだめすかして伯父の家の門の前に立った。 二百坪は超えようかという大きな邸宅だった。
 「どなたですか?」
 インターフォンから年配の女性の声が聞こえた。
 「私、極楽出版の井森と申します。昨夜、ゆうくんを預かって、ご両親がこちらにいらっしゃると聞きましたので、お連れしました」
 しばらくすると勝手口の扉が開き、年配の女性が顔を覗かせた。
 「ありがとうございます。生憎こちらにはおりませんが、ゆうはこちらで預からせていただきます」
 叔母と思われるその女性は、井森の後ろに隠れている、ゆうの名を呼び手招きをした。
 「ゆうからご両親がお宅にいると聞いているのですが、会わせていただくわけにはいきませんか」
 井森の言葉に、叔母は露骨に顔を歪ませて、
 「来ていないものは来ていないんです」
 と声を上げた。その様子をみて、井森は間違いなくゆうの両親はこの家にいると確信した。
 「仕方がありません。こちらにいないのでしたら今からゆうと共に警察へ行きます」
 ゆうの手を引っ張って車に戻ろうとすると、背後から叔母の声が追いかけてきた。
 「ちょっと待ってください。あなたはどういう意図があって私たちの問題に取り入ろうとしているのですか」
 「何も意図などありません。この子に両親を戻してあげたくてやってきただけのことです」
 叔母は少し躊躇し、小さくため息をつくと、
 「いいでしょう。中に入ってください」
 と言い、勝手口の扉を開いた。
 門の構えも贅を尽くしたものだったが、庭の様子もさらに豪華なもので、相当な財力の持ち主であることが理解できた。
 案内されて応接室に入り、ゆうと共にソファに腰をかけて待っていると、隣に座っていたゆうが、
 「お父さん、お母さんに会いたいなあ……」
 とひとりごとのようにつぶやいた。
 「なあにすぐに会えるさ。もう少しの辛抱だ」
 慰めるように言うと、ゆうは「うん」と小さく頷いて私のそばにもたれかかった。
 どんな事情があるにせよ、ゆうの両親を連れ去るという今回の所業に井森は少なからず義憤を覚えていた。
 しばらくして扉の開く音がして、一人の老人が入ってきた。老人は座っている井森の前に立つと、
 「どうも初めまして、私、この子の伯父で西野大作と申します」
と挨拶をした。
 「この子が世話になったそうで、ありがとうございます」
と言い、老人は井森の隣に座るゆうを「こっちへおいで」と呼び寄せた。
 しかし、ゆうは井森にしがみついたまま動こうとしなかった。
 「昨夜のことで、この子はかなりのショックを受けています。何があったか事情はわかりませんが、この子の両親を拉致するなど尋常ではないと思いますが――」
 西野は一瞬、顔を曇らせ、すぐには返事をしなかった。
 「この子の両親は、私のところへ訪ねてくる途中だったとこの子から聞いています。私に相談されると不都合なことでもあったのでしょうか。この子のこともありますが、そのことも気になったので、お訪ねさせていただいた次第です」
 「そうですか――。それではすべてあなたにお話しした方がいいかもしれませんね」
 老人はお茶を手にすると、それを一気に飲み干し、井森に視線を投げかけた。
 「私の兄は一代で巨大な富を築いた経済界の大物です。その資産も半端ではありません。この子の父親はその兄の息子で、長男です。兄が健康な頃はまだよかったのですが、ある時期、健康を害してからめっきり気が弱くなって、遺産相続について考え込むようになりました。
 というのも長男である息子がどうにもだらしがなくてギャンブルはもとより女遊びなど仕事以外のことにうつつを抜かして仕事に身が入らない状態です。一応肩書きは取締役になっていますが、飾りのようなもので社の者は誰一人として彼を認めていません。私も数年前までは取締役に名を連ね、兄の手助けをしていましたが、二年前、体を壊してからはすべての役を降り、今では隠居の身で、家で蟄居しています。それもあって会社のことが心配でなりませんでしたが、幸い次男が優秀であったことから、会社の運営については安心できるところまで来ました。ただ、問題はその長男です。
 父親が余命いくばくもないことを知った長男は、莫大な父の遺産を独り占めしようと画策して――、そういう悪知恵だけは働くやつなんですよ。あいつは」
 伯父の話を聞きながら、井森は隣に座るゆうの様子を伺った。幸いゆうは話をわかっていないようだった。いつの間に与えられたのだろう、ポケット版のゲーム機に夢中になっている。
 「昨日、あいつを捕らえたのは、相続の問題であなたに知恵を借りようとしたからです。兄には二人の息子と一人の娘がいますが、兄は相続の大部分を起業基金にして、若い人たちの夢を応援したい考えです。それを知ったあいつは、それをさせまいとあれこれいろんなところに相談を持ちかけているようです。あなたのところへ行ったのもたぶんそのことで行ったのだと思います」
 井森の出した相続の本には、自分にとって都合のいい相続ができる裏ワザが書かれてある。
 損をしない、もっともらえる、税金対処法など目白押しの内容だ。だが、所詮は机上の空論で、現実的ではない。実際にその場に立つと思わぬこと、予期せぬことが次々起こる。本は、あくまでも読み物でしかなく、参考程度にするものにしか過ぎない。
 「しかし、どんなに画策したところで父親の意志を変えることは難しいんじゃないですか? 遺言書に残すとか、あるいは生前に起業基金を作ってしまうとか、いろんな方法があると思いますが」
 「あいつはずる賢いやつで、兄の周りの弁護士や会計士、相続に関係するあらゆる人間をすでに金で買収していて、兄の金の動きを封じています。このままでは兄の金はすべてあいつに蹂躙されてしまう。それだけはどうしても避けたくて、あいつとあいつの嫁をうちに拉致したのも、その間に何とか手を打ちたいと考えたからなんです」
 「でも、この子のことも少しは考えてあげてください。この子にとっては大切な両親です」
 「この子も相続の問題が片付くまで、しばらくうちにいたらいいだろう」
 「しかし、この子は昨日、両親が誘拐されたことであなた方を怖がっています」
 伯父はしばらく天井を見上げた後、ゆうに視線をやり、井森に言った。
 「わかった。ゆうのために二人を解放することにしよう。ただ、それには一つだけ条件がある」
 「……」
 「兄の遺産を守るためにあなたが協力すること、これが条件だ」
 「えっ――!」
 思わず絶句した。何という条件だ。
 「私は今回の騒動には何の関係もありません。言ってみれば善意の第三者に過ぎない。その私がどうして今回の件に巻き込まれないといけないのです」
 「あいつにびた一文やらないと兄は言っているわけではない。だが、金の有難味を知らないやつにやっても死に金にしかならない。兄はそれを危惧しているんだ。あなたにお願いしたいことは、出版社の編集長としての立場で、あいつに金の大切さ、正しい相続をして未来につながる金の運用をすること、そのことを教えてやっていただきたい」
 「ちょっと待ってください。私は昨夜、この子と出会って、この子がかわいそうで、それだけのことでここにやってきました。その私がなぜそんな面倒なことをしなきゃならないんですか」
 「ゆうをみたまえ」
 と、ゆうを指さして言う。
 隣をみると、いつの間にかゆうは井森の膝で眠っている。
 「今のゆうはきみに頼りっきりじゃないか。その子を今回のようなかわいそうな目に、また合わせるのかね。きみがあいつら夫婦をしっかり教育し、目を覚ましてやれば、この子も幸せになる、そうじゃないかね」
 結局、井森は反論する気にもなれず、強引な伯父の言葉に従って、ゆうの両親を引き取ると、両親に「いい相続の方法がある」と偽り、ゆうの家にしばらく滞在することにした。
 幸い二人は、もともと井森のことを相続専門の編集長と勘違いしていたこともあり、井森の話すことを何でも素直に聞いた。
 一週間もすれば金の亡者から金の有難味と尊さを知る人間に生まれ変わるだろうと井森は思った。そうさせる自信が井森にはあったし、ゆうのためにもそうしなければいけないと思っていた。
 二週間後、伯父から丁寧な礼状が届いた。長男夫婦の劇的な変化に驚いたという一文と共に、お礼として五〇万円を振り込むから口座を教えてくれというものだった。井森は早速、口座番号を書いた手紙を送った。経営が困窮しているゆえ、できれば至急、入金頼むと一文を入れて――。
〈了〉

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