シネマの夜

高瀬 甚太

第一回

 「柴谷課長、長い間、お疲れさまでした」
 今年、入社したばかりの今里洋子がそう言って私に花束を贈ってくれた。
 「おおきに、おおきに」
 花束を受け取って深く礼をすると、課の社員たちからパラパラと拍手が送られた。
 四十年、勤めた私の、それが最後の出勤の日だった。他の部署の人間たちは誰も来ていない。上司たちも同様に、多忙を理由に参加していなかった。見送ってくれたのは課の人間、数名のみだった。
 仕事の引き継ぎはすでに終わっていたし、整理することなど何も残っていなかった。机の引き出しを空にし、机の上を丁寧に拭いて、私はひっそりと会社を去った。
 六二歳での定年退職は少し早いような気がしないでもなかった。嘱託で勤務する話もあったが丁重に断って退職する道を選んだ。給与が半分に削られ、仕事が閉職になるということ以外にも、社内の派閥や人間関係にうんざりしていた。それよりも何よりも私は、すべてのしがらみを断ち切って二度目の人生を生きたいと願っていた。
 正午前に会社を出た私は、地下鉄に乗らず、そのまま御堂筋を北に向かって歩いた。大阪に住んで四七年も経つのに御堂筋を梅田まで歩いたことなど一度もなかった。
 正午前の御堂筋は、意外に人が多い。サラリーマン、ОLが大半だが、みんな急ぎ足なことに改めて驚かされた。ゆっくり歩を進めていると背後から歩いて来る人に舌うちされたり、前から来た人にぶつかりそうになったりする。それでも秋の日差しを浴びて銀杏並木の下を歩くことは、ちょっとしたピクニック気分のように思えて楽しかった。
 北へ向かって歩く途中、頻繁に脳裏を過るのは、残して来た仕事のことだ。うまく伝え切れたかどうか、何か忘れていることがあるのじゃないか――。仕事のことばかりしか思い浮かばなかった。わからないことがあったら遠慮なく連絡してくれ、と部下に言い残しておいたが、多分、電話などかかってくることはないだろう。自分がいなくても会社は回る。そう思うと妙に寂しい気持ちに襲われた。
 南から北へ。歩けば結構、遠い道のりだ。しかし、急ぐ理由など何もなかった。時間を気にする必要もない。自由であるということは本当に素晴らしい。サラリーマン生活に慣れた私には、無駄と思えるこの時間の過ごし方さえ、とても貴重に思えた。
 淀屋橋に到着すると午後一時を少し回っていた。帰宅するには早すぎる、そう思った私は、昼ご飯でも食べようかと思い、御堂筋から逸れて西天満の方へ向かった。
 裁判所のある方角から南森町へ向かおうと思い、歩いているうちに道に迷ってしまった。この方面を歩くのは久しぶりのことだったので、無理もなかった。一号線へ出るか、天神橋筋まで出れば道がわかる。そう思っていたが、どれだけ歩いても一号線へも天神橋筋にも行きつかなかった。
 そのうち空が曇って来て、怪しい天候になってきた。急いで店を見つけなければ、そう思いながら歩を速めたが、旧家屋が軒を並べるばかりで一向に店など見つからない。
 ――どうしたのだろうか。
 見たことのない景観に不安を感じながら、歩を速めていると、十メートルほど先にネオンが見えた。安堵の吐息を洩らしながらネオンの前に立つと、『天満大劇シネマ』と書かれた看板のかかった劇場があった。
 ――こんなところに映画館が……。
 奇妙に感じながらも、郷愁をそそるその劇場を見て、自然と胸が躍った。木造の掘っ立て小屋のような映画館、幟が建てられ、劇場の正面に上映中の映画の写真が飾られている。
 看板には『鞍馬天狗 角兵衛獅子』、ご存じ痛快劇、鞍馬天狗シリーズの第2弾!と銘打たれていた。
 ――今頃、こんな旧い映画が……。
 一九三八年三月公開のモノクロ映画で、監督マキノ雅博とある。小学校の低学年の時、田舎の映画館で観た記憶が沸々とよみがえってくる。
映画の紹介をするキャッチコピーが、映画の場面を映した写真の隣に書かれていた。
 ――激動の幕末を舞台に勤皇志士の暗殺人別帳を求め、単身大阪城に乗り込んだ正義の士、鞍馬天狗がこれを奪い取る。だが、その行く手に立ち塞がる新選組の大包囲網を前に、水責めの危機が迫る。囚われの天狗を助けたのは誰か? 深夜の東寺境内を揺さぶる鞍馬天狗と新撰組隊長近藤勇の一騎討ち!
 映画の一場面、一場面が懐かしく思い出された。
鞍馬 天狗が嵐寛寿郎、沖田総司が原健作だった。近藤勇は誰だっただろうか――。
 知らず知らずのうちに切符を買い、映画館の中へ足を踏み入れていた。映画館の内部は、懐かしい匂いがした。重厚なドアを開けて中へ入ると、今、まさに始まろうとするところだった。座席は固く、座っているだけで尻が痺れてくるような椅子だったが、しばらく経つと気にならなくなった。客席はまばらでポツンポツンと人影が見られたが、私の周りには誰も座っていなかった。
 モノクロの粗い画面を見ているうちに、なぜか、遠い昔の記憶がよみがえって来た――。

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