千円ちょうだい

高瀬 甚太
 
 「すみません。千円貸してもらえまへんか」
 知り合いと顔を合わせると、江西光一は、まるで口癖のように決まってそう言って金を借りようとする。
 生活に困窮しているようには見えない。スーツを着て、ネクタイを締めて、おまけに帽子を被っている。見た目も紳士風で、インテリ風で上品な感じであったから、つい釣られて、千円ぐらいならと、たいていの人は貸してしまう。しかし、返って来たためしがない。
 「あんたもそうか。実はわしもそうなんや。千円取られたわ」
 そんな声が「えびす亭」のそこかしこで飛び交っていた。江西はえびす亭を訪れる客に誰彼かまわず寸借し、お金を借りたまま返さず、いつも平気な顔をしてえびす亭にやって来る。
 「千円ぐらいやから、返してくれとも言いにくくてなあ――」
 えびす亭の客のほとんどがそう言ってぼやく。一度借りた客には二度と借りないのが江西の主義のようで、客もまた、二度目に申し込まれたら、言いようがあった。
 「この間貸した千円返してくれたら貸してやる」
それを承知しているのか、江西は常に新しいカモを見つけてはその場で寸借する。
 
 江西の標的はえびす亭だけではないようだった。他の店でも寸借詐欺を働いて出入り禁止になっていると聞いた。たかが千円、されど千円だ。えびす亭の客単価は平均して千百円と低い。大抵の客が千円以内で呑み食いをすまし帰って行く。そんな中での千円だ。中には江西に対して怒りを抑えきれない連中もいた。三田村孝彦がその代表だった。
 「それにしても、ええ玉や。年寄りとはいえ、度胸があるというか、図太いというか、のめっとした顔をしていて、やることが汚すぎる。俺があいつに言い聞かせてやる」
 その夜、三田村は大いに息巻き、袖をまくって江西のやって来るのを待った。
 えびす亭の混雑は相変わらずだった。世の中は不景気だと言うが、この店だけは別格だ。他の店は閑古鳥が鳴いているというのに、えびす亭は常に繁昌していて、江西がやって来るのは決まって午後8時と決まっていた。えびす亭が一番混雑する時間帯であった。
 「江西さん」
 ガラス戸を開けてゆっくりとした足取りで入って来た江西を見て、三田村が呼んだ。
 三田村が手招きすると、江西は悪びれもせず、カウンターに立つ大勢の人をかき分けて三田村の元へやって来た。
 「今晩は」
 と、三田村のそばに立った江西が笑顔で挨拶をする。
 「今晩はやあらへんがな。あんた、俺がこの間、返した千円、まだ返してくれてないやろ。早う、返してくれや」
 見た目がいかつい三田村は、乾物店の社長をやっているが、極道とよく勘違いされる。その三田村がドスを利かせた口調で言うのだから、普通の人間ならびびってしまう。ところが江西は一向に動じない。顔色一つ変えないのだ。
 「ああ、そうでした。ごめんなさい」
 と笑って言う。そんな江西の対応を見て、三田村の形相が一気に変わった。
 「俺だけやないやろ、あんた、他にもこの店の客に金を借りているやろが。ええ加減にせんと誰も相手にしてくれんようになるぞ!」
 江西が、三田村の怒り心頭の表情を見て、ようやく申し訳ないと思ったのか、深く頭を下げ、三田村に尋ねた。
 「千円でしたね。三田村さん」
 「そうや、千円や。早う返せや。他の客にも返したらんかい」
 「わかりました。あいにく今日は持ち合わせがないので、この次にでもお返しします」
 江西の平然とした態度に、三田村は拍子抜けし、さらに声が荒くなった。
 「この次やない。今日、この場で返せと言うとるんや!」
 江西は再び深く頭を下げ、
「 では、千円お借りできますか?」
 と三田村に言う。三田村は呆気に取られ、二の句が告げない。
 「千円お借りして、その千円でお返ししたいと思います」
 江西の言葉に三田村の怒りが頂点に達した。
 「何を言うてんのや、このボケ! 何が千円借りて、その千円を返すや。お前、頭、おかしいのと違うか!!」
 三田村の怒りを江西は平然と受け流し、丁寧な口調で三田村に言った。
 「それでは、次の機会にでもお借りしたお金はご返済したいと思います」
そう言って、江西は別の場所へ移動した。三田村はわなわなと体を震わせ、いかつい顔をさらにいかつくさせ、マスターにその鬱憤をぶっつけた。
 「マスター、勘定や。気分が悪いから今日はもう帰る。なんであんな男を出入りさせるんや。一日も早う出禁にしてくれ」
 「そうでんなあ。三田村さんの言う通りや。そろそろ考えなあかんな」
マスターの佳弘が腕組みをして江西を見つめる。マスターの視線の先に、
「 千円お借りできませんか」
 と、性懲りもなく客に寸借する江西の姿が映っていた。
 
 江西は、古くからのえびす亭の客である。佳弘が父、義春からこの店を継いだ時、すでに江西は常連だった。年齢は七十をとうの昔に超えているはずだ。今は何も仕事をしていないようだが、佳弘が父の後を継いだ頃、江西はまだ会社勤めをしていた。繊維会社で働いているとは聞いていたが、仕事の内容までは知っていない。毎晩、決まった時間にやって来て、きっちり30分で帰る。もちろんその頃は寸借などしていなかったし、人に迷惑をかけるようなことは何もしていなかった。
 一度だけだが、江西を訪ねてこの店に女性がやって来たことがある。その時のことを佳弘はよく覚えている。
 ――今から五年ほど前のことだ。
 「すみません。こちらに江西さん、来ていませんでしょうか?」
 四十代半ばの上品な装いの女性だった。
 「江西さんは8時頃でないと来ませんよ」
 佳弘が答えると、女性は、
 「そうですか。じゃあ、こちらで待たせていただきます」
 と言って、カウンターに群がる男たちの前に割り込んだ。焼酎のお湯割りを一杯、おでんを二品ほど頼み、それを食べ終えた頃、江西が姿を現した。
マスターが江西に告げるより先に、女性が江西を見つけて、
 「光一さん」
と大 声で叫んだ。髪の毛が真っ白で、顔の皺が目立つ、いかにも老年の江西と、その女性との年齢差はかなりあるように思われた。
 ――まさか、江西さんの恋人じゃないだろうな。
 佳弘は二人を見てそう思ったが、カウンターの前に並んだ二人は、意外にも恋人同士のような親密さでひそひそと会話を交わし、ただならぬ関係を窺わせた。
 江西の家庭事情はよく知らなかったが、年の変わらぬ奥さんがいると、以前、聞いたことがあった。成人しているが子どもも二人ほどいるはずだった。
 実直で真面目な江西が、自分より二十歳は若いと思われる女性と交際しているとは、どうしても思えず、佳弘は二人の様子に注目した。
 立ち飲み屋にはさまざまな客が来る。どんな客に対しても決して色眼鏡で見ないということが、店を仕切る者の心構えだと、いつか父に言われたことがあった。佳弘も父の言葉に従って、極力それを守ってきた。だが、なぜか、江西の様子が気になって仕方がなかった。
 水商売の女であれば別にそうは思わないのだが、相手の女性は、どうみても普通の主婦で、しかも下町の風情ではなく、上品な山の手の奥様といった感じだった。それが佳弘の興味をそそった。
 1時間ほどえびす亭で呑み、二人はえびす亭から去った。
 その後、しばらく江西は姿を見せなかった。次に江西がえびす亭にやって来たのは、三カ月後のことになる。
 その時から明らかに江西の様子が変わった。寸借を始めたのもそれから後のことだ。
 
― ―このまま放っておくわけにはいかない。長年の常連である江西さんには悪いが出入り禁止にしよう。
 佳弘が決意したのは、三田村のことがあってしばらく後のことだ。
 江西が詐欺をするような人間ではないことは佳弘もわかっていた。何しろ親父の代からの常連だ。だが、三田村以外からの苦情も佳弘の耳に届いていた。このままにしていいわけはなかった。
 佳弘が江西を出禁にしようと決めた日、江西は店に現れなかった。翌日も次の日も江西は現れず、二週間が過ぎた。
 「マスター、近頃、江西さんの姿を見かけないがどうしているの?」
 三田村に聞かれた佳弘は、
 「あれから姿を見せなくてね。来たら出禁にしようかなと思っているのですが――」
 と眉をひそめて説明した。
 「その出禁の話やけど、わしも言い過ぎたと反省してるんや。江西さんを出禁にするのは、ちょっと待ってもらえんやろか」
 三田村の意外な申し出に、佳弘の方が面食らった。
 「たかだか千円ぐらいのことで、わしも大人げなかった。江西さんも年金生活者で苦労しとるんやろ。余分なお金がないのに、それでもえびす亭にやって来るのは、ここがあの人にとって、一番居心地のいい場所やからやと思う。その場所を奪ってしまうのは、やっぱり気が引ける」
 いかつい顔をしているわりに、三田村は意外にやさしいところがあった。
 「寸借詐欺も、よくよく聞いてみると、馴染みのある常連にしか借りていなかった。借りて返さないもんやから、確かにわしのように文句を垂れるやつもいる。だが、そうではないやつも多かった。あの人に昔、ご馳走になった。そんな人もいた。あの人に愚痴を聞いてもらった、あの人のおかげで死なずにすんだ、そんなやつもいた。江西さんは、えびす亭にとって大切な人なんや。わしは改めてそのことを思い知らされたんや」
 ――確かに江西さんはこの店にとってある意味、主のような人だった。
佳弘もまた、三田村の話を聞いて、改めてそのことを思った。
 「江西さんが金を借りに回るようになったのには何か理由があるはずやと思う。そのわけをマスター、あんた、知らんか?」
 三田村が聞いた。だが、佳弘には思い当たることなど何もなかった。
 「困った時はお互いさまや。えびす亭の住人は昔からそれをモットーにしてきた。だが、わしは近頃、その精神をすっかり忘れて、自分のことばかり考えるようになっていた。そやさかい、江西さんに腹を立てて――。わし、反省しとるんや。江西さんはきっと困った目に遭うてるに違いない。もし、力になれるもんやったらなってあげたい。わし、今、心からそない思うてるんや」
 三田村の言葉が佳弘の胸を打った。そう言えば、先代の頃から、えびす亭には人助けの精神が根付いていた。困った時は相身互いや。そう言って、相手のことを我が身のように感じるところがあった。それが今はどうだ。マスターである、佳弘でさえもその精神を見失ってしまっている。自分のことで目いっぱい。そんなところが多分にあった。
 「三田村さん、あんたの言う通りや。えびす亭は普通の呑み屋とは違う。この店に来る客は誰もが家族や。先代がそう言っていた。俺もすっかりそれを忘れてしもうていた」
 佳弘は、カウンターに鈴なりになっている客に大声で尋ねた。
 「皆さん、今日はどうもおおきに。一つお聴きしたいんやけど、江西さんのこと、知っている方いませんか?」
 店内には二十数人の客がいて、厨房を囲むようにして立っている。その中の一人がスッと手を挙げた。
 「わし、知ってるわ」
 駅の向こうの商店街で八百屋をしている木村さんだ。
 「江西なら病気で入院している」
 「病気やて!?」
 三田村が思わず大きな声を上げた。
 
 佳弘と三田村、それに八百屋の木村の三人が、江西を見舞ったのは、三日後のことだ。
 江西は、吹田市にある、万博記念公園近くの阪大病院に入院していた。
 「高齢者を対象とした健診があって、わしと江西とで一緒に診療所へ行ったんや。そしたら、わしは高血圧以外、別に悪いところはなかったんやけど、江西は心臓に異常が見つかった。精密検査の必要があると言われて阪大病院で検査を受けたら、心不全と診断されて、すぐにバイパス手術になってしもうた。あいつ、奥さんと別れて一人暮らしをしてたから、大変でなあ――」
 木村の話を聞いて、手術のことも驚かされたが、もっと驚いたのは離婚していたことだ。
 「江西さんは一人暮らしだったんですか?」
 佳弘が聞くと、木村は大きく頷いて、
 「少し前になるかな。二十歳ほど年下の女と不倫して、奥さんに愛想をつかされて逃げられたんや。浮気した女も家庭持ちだったが、あっちは元のさやに納まって、江西だけが貧乏くじを引いた。もとはと言えば江西が悪いんやけど、ほんま、浮気の代償は高うついた。奥さんに逃げられ、子どもたちにも愛想をつかされた江西は、日々の生活にも困るようになってなあ、苦労しとったわ」
 佳弘の脳裏に、主婦らしき女と江西がえびす亭にやって来た日のことが思い浮かぶ。
 しかし、江西には生活に困窮していたような様子がまるで見られなかった。
 モノレールに乗って、阪大病院前で降りると、すぐ目の前に病院があった。江西の入院する病室は九階東館にあった。
 江西は、見舞いに訪れた佳弘と三田村を見て、ずいぶん驚いた様子で、 「わざわざどうも」と陳謝し、礼を述べた。
 木村から見舞客などほとんどいないと聞いていたが、ベッドのそばに花瓶があり、そこに花が活けられていた。
 佳弘が花瓶に注目していると、江西が照れたような顔をして、
「 古女房が活けてくれたんですわ。花なんか置いたら怒られると言うたんやが、気がやすまってええと言うて、ほんまに頑固なやつですさかい」
 と言う。文句を言っているわりに顔がにやけている。
 「奥さん、帰って来てくれたんか?」
 木村が聞いた。江西が小さく頷く。
 「わしが入院したと聞いて、駆け付けてくれたんや。子どもたちも来てくれたで。心臓バイパス手術は大変な手術やったけど、わし、女房と子どもの顔を見れたから平気やった。あいつらと別れてから、本当に寂しくてなあ。わし、なんべん泣いたか知れん。我が身の不徳の致すところやけど、ごっつう反省したわ」
 用があって大阪へ出ていた奥さんと入れ替わるようにして、佳弘たち三人は病院を出た。
 「江西さん、寂しかったんやなあ」
 三田村がぽつりとこぼした。
 モノレールは速度が遅い。万博公園前で乗り換え、山田で降りて阪急電車に乗って梅田に向かった。途中、関大の学生たちが乗り込んできて、車内は一気ににぎやかになった。
 「マスター、江西さんを出禁にするの、やめてもらえまっか」
 隣の席に座っていた三田村が突然、思い出したように大声で佳弘に言った。木村はポカンとしている。
 「わかりました」
 佳弘が小さく頷くと、三田村は安堵の表情を浮かべ、寝入ってしまった。梅田駅までもう少し時間がかかる。
 
 退院した江西が、えびす亭に姿を現したのは、それから二週間後のことだった。
 「江西さん、酒なんか呑んで大丈夫でっか?」
 心配した佳弘が聞くと、江西は、首を左右に振って、
 「大丈夫なこと、あるかいな。しばらく酒は慎むようにと先生にきつう言われている。ウーロン茶をくれ、しばらくウーロン茶しか飲まれへん」
 酒を呑まないのだったら、えびす亭になどこなければいいのに――、とは誰も言わない。
 ここは、江西さんにとって、憩いの場であり、故郷であり、唯一心安らぐ場所であることを、えびす亭の面々の誰もが知っていたからだ。
 江西さんが寸借したお金は、江西さんから話を聞いた奥さんが、千円札一枚一枚を封筒に入れ、えびす亭に届けに来た。
 「主人がお借りして申し訳ありませんでした」
 一人ひとりに謝って、丁寧に礼をして渡したという。全部で五万二千円、中には三田村のように、「死んでも受けとらへん」と突っ張る客もたくさんいて、奥さんが用意したお金は、三万円余りも残ってしまった。
 奥さんが戻って以来、江西は寸借することはなくなった。だが、ぞんぶんに酒を味わえる日までは、まだまだ時間がかかりそうだ。
〈了〉


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