大阪嫌いの官兵衛が大阪にやって来た
高瀬 甚太
黒田官吉がえびす亭に初めてやって来たのは、新しい年が始まって間もなくのことだった。
その三日ほど前、黒田は東京の本社から大阪へ転勤してきた。この時期に転勤など異例のことだったが、大阪営業所の所長が昨年十二月に心臓の病で急死し、黒田がそれを引き継ぐ形で大阪への転勤を命じられた。
黒田には妻子がいたが、子供の学校の関係もあって単身赴任となり、年が明けてから単身で引っ越して来たのだが、仕事はともかくとして、慣れない独り暮らしと嫌悪していた大阪の街への懸念があって、憂鬱な日々を過ごしていた。
黒田が大阪を嫌う理由はいくつかあったが、最大の要因は新人の頃、研修を受けた課長のどぎつい大阪弁と、ど根性を基本としたスパルタ教育がトラウマとなり、大阪の人間や大阪そのものを否定し嫌悪するようになった。
テレビに大阪弁を使う漫才師やタレントが登場すると、それだけでチャンネルを切り替えるほど大阪に対する嫌悪感が強く、息子が大阪の国立大学への入学を志望した時も、東京か、関東の大学にしろと大反対するほど徹底していた。
「よりによって何で自分が……」
その思いが黒田には強かった。黒田は本社で営業部の課長を務め、部長昇進が間近いと噂されるほど有能な社員だった。四十八歳の黒田は課長になって五年を数えている。そろそろ上に上がってもいい頃だというのが社内全体の評価で、黒田自身もそれに見合った働きをしていると自負していた。
この春にはいよいよ昇進か、そんな話が出ていたところに今回の転勤だ。大阪営業所の所長は五十八歳で黒田より十歳年上だったが、人間性はともかくとして仕事上での評判はあまり芳しくなかった。不況とはいえ、営業成績が毎年降下する一方で、会社としてもテコ入れが急務と考えていた時期だった。他にも候補者は数人いたが、白羽の矢を立てられたのは黒田で、その理由が「切り札を投入して大阪営業所を立て直す」というものだったから、無碍に辞退することができなくなり、渋々だが引き受けることになった。
「大阪を立て直して帰って来い。帰って来たら即重役だ」
専務の八幡と常務の深山が大阪へ発つ黒田を激励したが、嫌な大阪へ赴任する黒田の気持ちを極限まで高めることはできなかった。
年明けは正月5日から仕事が始まった。黒田の営業所長新任の初日であった。午前九時、全員を集合させ、訓示を垂れた。
営業所には全員で三十五名の社員がいた。そのうち営業課の社員は二十五名、建て直さなければならないという気負いもあり、最初に一発咬まさなければ、という思いもあって、熱い訓示になった。
訓示が終わって社員の反応を見ると、やれやれ、やっと終わった……、そんな気分が蔓延していることに黒田は腹を立てた。
「今までのようなわけにはいかないぞ。何が何でも売り上げを上げて、大阪営業所の負の連鎖を断ち切らないといけない」
黒田は訓示を終えた後も檄を飛ばし、社員を叱咤激励した。だが、反応は鈍かった。
大阪営業所は五年連続赤字で、成績は年を追うごとに低迷していた。どこに原因があるのか、それを知っておく必要があると思い、営業課の係長である高橋尚人を呼んだ。
「高橋くん、大阪営業所のこの数字だが、低迷している原因を教えてくれないか」
高橋は三十五歳、大阪営業所の営業課の中では三番目の古株で、成績も優秀とされていた。しかし、見た目はそれほどできるような人間には見えなかった。少し小太りで、慢性不眠症のような目をしてぼんやりしたところがあった。
「所長、年明け初出勤の日は、いつもみんなで神社へ初詣するのが恒例になってまんのや。まずは神頼みでっせ。景気がようなるよう、拝みに行きまひょ」
高橋は黒田にそう言うと、全員に向かって、
「おい、みんな。初詣に行くぞ!」
と大声を上げた。すると、先ほどまでの精気のない様子と打って変わって、全員の表情がパッと明るくなった。黒田は、そんな暇などこの会社にはないのだが……、と思ったが恒例とあれば従わざるを得ない。そう思って立ち上がった。
神社は歩いて十数分の場所にあった。ゾロゾロと歩きながら、高橋が黒田に言った。
「所長、大阪は中小企業の多い街ですさかい、長期に亘る不況でどこも参ってますのや。景気の低迷はうちだけやおまへん。他もそうなんです」
「しかし、景気が悪いで済まされるものではないからな、どのような状況下にあっても工夫して頑張って売り上げを上げるよう頑張らないといけないんじゃないか、それが私たちの使命だろう」
「おっしゃる通りです。景気が悪いで済まされるもんやおまへん。何とか現状を打破せなあかん、そない言うて亡くなった大島所長も頑張ってました。私らももちろん頑張っています。鋼材を取り扱う私らの会社の得意先は主に中小企業です。どこの会社も疲弊してますが、大島所長は、そうした会社を応援することで売り上げをアップさせようと頑張っておりました」
「得意先を応援する……。そんな余裕、どこにあると言うんだ。潰れるところは経営者の怠慢だ。自業自得というものだろう」
「所長のおっしゃることはもっともです。そやけど応援の仕方はいろいろあります。大島所長は、言わはりました。鋼材を押しつけても不景気な会社はよう買わん。それより、鋼材を求めなあかんような状況に押し上げたらんとあかんのと違うか。わしらは鋼材を売るために得意先を応援するんや……。ようやく軌道に乗りかけた矢先に亡くなって、ほんま、残念でなりまへんわ」
高橋は暑苦しい顔を黒田に思い切り近づけて、悔し気な顔でそう言った。
広い境内に入ると、同じように社員全員を引き連れた参拝が目立って多かった。賽銭を賽銭箱に放り込んで、それぞれ今年の無事と会社の繁栄を祈った。
「一日も早く、この大阪から脱出することができますように。神様、私はやはり大阪弁に馴染むことができませんし、大阪人も苦手です。お助けください」
黒田は高橋と少し話しただけで疲労困憊した。こうした状態で果たして勤め上げることができるかどうか不安でならなかった。
黒田は、その日の午後、係長の高橋や主任の樋口明と共に得意先に挨拶回りに出かけた。
「よろしゅうお願いします。前任の大島さんにはほんまにお世話になって、亡くなられたのが残念でなりませんわ」
得意先の社長にお会いし、挨拶をすると、必ず前任の大島所長のことが話題になった。それほど有能な人ではなかったと、本社で聞かされていた黒田は一瞬、耳を疑った。それほど信頼の厚い所長がなぜ売り上げを上げられなかったのか――。不思議でならなかった。
七、八軒、車で回った後、会社に戻った。その車中、高橋が黒田に言った。
「所長、今日、歓迎会をしますさかいよろしゅうお願いします」
黒田は疲れていた。疲れたうえに歓迎会だと――、できれば断りたいと思ったが、本社ならともかく、ここではみんなを束ねる立場だ、そうはいかないと思い、
「わかった」
と気のりのしない返事をした。
午後五時、定時に仕事を終えた後、高橋の先導で全員が会社から歩いて数分のところにある居酒屋に向かった。酒は嫌いではなかったが、昔から社員と一緒に酒を呑むことが好きでなかった黒田は、途中で退席しようと考えていた。
居酒屋に入ると、「いらっしゃいませ、まいど!」と威勢のいい声が飛んだ。
「高橋さん、奥の方に席、用意してますさかいに」
店員が奥を指さして言った。
広い店内は、午後五時を過ぎたばかりとあって比較的空いていた。奥に入ると、五十人ほどが入れる宴席があり、ちゃんこ鍋が用意されていた。
高橋は黒田を奥まった主賓席に座らせると、落ち着いたところでビールグラスを掲げて乾杯の音頭を取った。
酒を呑み、鍋をつつく合間に社員の大阪弁が飛び交う。何度聞いても、黒田には不快感しかなかった。早くこの店を出たい、そう思いながら顔をしかめてグラスを傾けた。
呑んでいる間に何人かの社員が黒田のグラスにビールを注ぎに来た。男性社員も女性社員もみな明るかった。その明るさが黒田には気に入らなかった。大阪人はよく笑うと聞いていたが本当だ。腹の中を隠して外面だけいい、それが大阪人だ、と何かの本で読んだことがあった。警戒しなければ、そう思いながら、一人一人と挨拶を交わした。
宴会が終了に近づいた頃、高橋が黒田のそばにやって来た。真っ赤な顔をしてかなり酩酊していた。
「所長、この店を出たらもう一軒だけ付き合ってください。お願いします」
小太りの醜い暑苦しい顔を、高橋は必要以上に黒田に近づけて言った。顔の圧力に耐えられなくなった黒田は、仕方なく「わかった」と不満げな顔で言った。
宴会の終了を告げる大阪締めが主任の樋口明の音頭で行われることになった。
大阪締めとは、大阪を中心に行われている手締めのことで、大阪では「手打ち」という。
「打―ちまひょ」と樋口が声を上げると、それに併せてパンパンと手拍子が打ち鳴らされる。「もひとつせ」でまたパンパン、「祝うて三度」でパパン・パン、パパン・パン、パパン・パン。最後に「おめでとうございますー」で全員が拍手して終わる。
宴会が終了すると、すぐに高橋と樋口に両腕を掴まれ、まるで連行されるかのような格好で黒田はタクシーに乗った。
「遠いところと違いますねんけど、タクシーの方が早いですさかいに」
高橋はそう断って運転手に目的地を告げた。
タクシーを降りた三人は、駅裏の立ち呑み店が並ぶ通りに出た。高橋はそのうちの一軒の店のガラス戸を開けると中へ入って行った。半円のカウンターに大勢の人が立ち並び、和気あいあいと酒を呑んでいた。真ん中が厨房になっていて、ぐつぐつ煮立ったおでんの匂いや焼き物を焼く匂いが店内に充満している。
「おおっ、健ちゃん、あけましておめでとうさん」
高橋が顔を覗かせると、カウンターで酒を呑んでいた一人のおっちゃんが、赤ら顔に陽気な笑顔を浮かべて言った。
「サブちゃん、おめでとうさん。今年もよろしゅう」
高橋はそう言いながら黒田と樋口を呼んだ。大勢の人がいて、とても入れそうになかったが、無理やり押し込む形で三人がカウンターに並ぶと、マスターが、
「健ちゃん、おめでとうさん。ひーちゃんもおめでとうさん」
二人の顔を見て、ビール瓶とグラス三つをカウンターの上に置いた。
高橋が健ちゃんで樋口がひーちゃんか、なんと言う店だ。馴れ馴れしいにもほどがある。黒田は気分が悪くなったので、高橋の耳元で囁いた。
「高橋くん、疲れたから一杯だけ呑んで店を出るよ」
高橋は、ビール瓶を持つと、黒田のグラスに注ぎながら、
「所長、ここは『えびす亭』と言いまんねん。大阪の吹き溜まりみたいな店ですわ。しょうもないおっさんしか呑んでまへん。そやけど、気のええ人が集まってます。この店は私と樋口、いや、うちの会社の連中がよく立ち寄るお店ですねん。嫌なことがあっても、辛いことがあってもここに来ると気分が変わります。大島所長もこの店が大好きでしたわ。ちなみに大島所長は島やんと呼ばれてました。大島所長は酒を呑むとさらに陽気になりはって、ここへ来るお客さんと楽しく話をしてました。所長がお気に召すかどうかわかりませんでしたけど、私、所長にもっと大阪を好きになってもらって、大阪に馴染んでもらおうと思ってお連れしましたんですわ」
高橋こと健ちゃんはそう言って、黒田のグラスにビールを注ぎたした。
「係長は、所長が大阪を嫌いや言うの本社の人から聞いて知ってるんです。それで何とかしたい言うて――」
樋口が黒田の耳もとで囁くように言って、高橋の言葉を補足した。
呑んでいるうちに、黒田は不思議な気分になってきた。酒のせいではなかった。ここに集まった人たちのせいだ。酒に酔ったのではなく人に酔った、そんな気分になったが、決して悪酔いではなかった。
「あんた、大人しいけど、どこの出身やねん」
黒田の隣に立っていた土建屋の松ちゃんがぶしつけに黒田に聞いた。松ちゃんは大柄な男で一見すると非常に怖い印象がある。顔つきもそうだが、体格もレスラー並みの体格をしていた。
「私ですか、私は埼玉県です」
失礼な、と言わんばかりの態度で黒田が言った。すると、松ちゃんが突然、笑った。
「埼玉かいな。うちの嫁も埼玉やがな。あんた、埼玉のどこやねん」
「……上尾です」
「「あ、上尾! 一緒や。一緒。健ちゃん、ひーちゃん、あんたらの上司、うちの嫁と出身、一緒やで」
と大喜びをしたと思ったら、次の瞬間、
「うちの嫁と一緒やったら大したことないわ」
と大声で言い、馬鹿笑いをした。黒田は気分を害して、高橋の耳元で囁くようにして言った。
「高橋くん、やっぱり帰るから、勘定してもらうよう言ってください」
高橋は慌てて黒田に言った。
「松ちゃんはいつもこんなんですねん。あんまり気にせんようにしてください。これでも松ちゃんにしては珍しく気を使っているほうですから」
高橋が黒田に説明していると、再び松ちゃんが割り込んできた。
「あんた、名前を教えてえな。帰ったらうちの嫁に聞いてみるさかい」
聞いてどうするんだ、と黒田は思ったが、高橋と樋口の手前、つっけんどんな態度もどうかと思い、
「黒田官吉だ」
と答えた。すると、大きな体格の松ちゃんが体を思い切り揺すって、えびす亭のみんなに言った。
「この人、黒田官吉て言うらしいわ。NHKでやってた大河ドラマ『軍師官兵衛』に名前がよう似てる。わし、これからあんたのこと、官兵衛と呼ぶわ」
えびす亭の客が全員笑った。笑って、「官兵衛さん、ようこそ」と声を揃え、手を叩いて言った。
失礼な、と思い、黒田は一瞬顔を歪めた。東京では間違ってもこんな目に遭ったことはない。人生最大の屈辱だ。そう思ったが、松ちゃんを含め、えびす亭の人たちの表情には黒田をからかうような様子はどこにもなかった。親しみを込めた笑顔だけがそこにあった。それを見ているうちに黒田の気持ちがゆっくりと変化した。
黒田は気を取り直して松ちゃんに言った。
「名前をつけてくれてありがとう。あんたは私の名付け親だ。一杯ご馳走するよ」
黒田はそう言うと、ビール瓶を高橋から奪って松ちゃんのグラスに注いだ。
高橋は気が気ではなかった。やたらとプライドが高く、人とあまり接しない性質の所長だと本社の部長から聞いていた。大阪が嫌いで大阪人を敵対視する人だから心配だと部長は電話でこぼしていた。今の位置にとどまっているのも、彼のそうした態度がネックになっていると部長は言い、この機会に少しでも改善されればいいのだがと言って、高橋に黒田の力になってやってくれと頼んだ。一日や二日で改善するとは思えなかったが、えびす亭に連れてきたのは少し荒療治だったかなと高橋は反省した。
松ちゃんが隣にいたことに気付かなかったことも反省点の一つだった。松ちゃんは仕事柄もあるのだろうが、人に対する気配りというものがまるでない。天真爛漫はいいのだが、知らない人は驚いてしまう。嫁が埼玉だから大したことはない、はまだ許せるとしても、名前が黒田官吉だからといって官兵衛はないやろ。あまりにも失礼だ。松ちゃんをしかりつけてやらないといけない。そう思っていたら、所長は怒るどころか、ビールを松ちゃんに注ぎ始めたではないか。
松ちゃんは、顔は怖いし体もでかいが、気の優しい男だ。天真爛漫で思ったことを隠さない。えびす亭にやって来る客のほとんどは松ちゃんがどんな人物であるか承知していたが、知らない人はあまりにも失礼な松ちゃんの物言いに憤慨する。黒田もてっきりそうだと思っていたがそうではなかった。意外なことに、松ちゃんと酒を呑みかわし、気を悪くした様子など微塵も感じられなかった。
高橋は黒田の耳元でそっと囁くようにして言った。
「所長、すみません。官兵衛なんて失礼な呼び名を松ちゃんがつけて――」
すると黒田は、笑って言った。
「私、ニックネームで呼ばれるのは生まれて初めてなんだ。いつも黒田くんか、黒田、それしかなかった。こんな風にまともにいろいろ言われるのも初めてで、少々面食らっているが気を悪くしているわけではない。だから安心したまえ」
「ありがとうございます。少し、ホッとしました。それではそろそろ帰りましょうか」
高橋が勘定書きを手にすると、黒田がその手を抑えるようにして言った。
「まだ早いよ。もう少し呑んで帰ろう。もし、用があるんだったら先に帰ってもいいよ」
一体どうなっているんだ。高橋はわけがわからない気持ちでボーッと黒田を見守っていた。
「官兵衛さんは健ちゃんとひーちゃんの上の人やてね。大学、どこ出てるの?」
松ちゃんの隣に立っていたシズルさんが黒田に声をかけてきた。シズルさんは七十歳になったばかりの果物店の大将だが、知らない人に出会うとすぐに学歴を訊きたがる癖があった。それはシズルさんがろくに中卒でろくに学校を出ていないというコンプレックスからくるものだと、えびす亭のみんなは知っていたが、知らない人は突然、学歴を訊ねられると、なんだこの人は、と思ってしまい、まともに答える人は少なかった。
「私は慶大です」
黒田が答えると、シズルさんがのけぞって「け、慶応大学でっかーぁ」と大きな声を上げて尊敬のまなざしを向けた。別に慶応でなくても、どこの大学のどの学部であっても、シズルさんが驚いて尊敬のまなざしを向けることに変わりはなかったのだが、そうすることでシズルさんはいつも相手とコミュニケーションを保てたような感じがして嬉しかったのだ。
一時間もしないうちに、「官兵衛さん、あんたどこに住んでいるの?」とか、「嫁はんおるんか」、「子供は」と言った感じでいろんな人から黒田に声が飛ぶようになった。
黒田はそれに対してひとつ一つ律儀に答えた。
マスターまでもが、
「官兵衛さん、競馬はお好きですか」
と聞いてくるありさまで、たちまち黒田はえびす亭の常連扱いになってしまった。
翌朝、高橋が八時半に出社すると、すでに黒田は所長デスクに座って資料を読みふけっていた。
「おはようございます。所長、昨日はお疲れ様でした」
高橋がおそるおそる言うと、黒田は、
「こちらこそありがとう」
と言って少し顔を上げたが、すぐに視線を下ろし、再び資料に目を通し始めた。
樋口が出社したのを見計らって、高橋は樋口に聞いた。
「所長の機嫌、どないやろ」
樋口もまた気になっているようで、
「わからん。えびす亭はちょっときつかったかも知れんな」
そう答えながら黒田の様子を窺っている。
その日一日、黒田は営業資料に目を通し、前所長の大島のやり残しの仕事に整理にかかっていた、仕事に邁進する黒田を見る高橋と樋口の目は複雑だった。黒田の心中を読むことができなかったからだ。
二人の意見は共通していた。「初心者にえびす亭はきつい」。少し早まったかなという思いが高橋の気持ちの奥底に強くあった。
定時が過ぎて、高橋と樋口が帰る用意をしていると、所長の黒田が二人を呼んだ。
黒田は資料を手元に広げると、二人に向かって言った。
「前所長の大島さんは、実に細かく各得意先を分析しておられる。こちらの利益を優先させるのではなく、苦しんでいる得意先や困っている得意先に対する目配りや気配りも相当なものだ。相手を生かしてこちらも生きる、大島さんのやられてきた手法を私もやっていきたいと思う。目先の売り上げにこだわるのではなく、もっと大きな売り上げを期待できる方法を取って行きたい。きみたちも今までと同様に頑張ってくれたまえ。私はこの手法で成功して売り上げをアップさせたら、本社に大島所長の功績をきちんと話すつもりだ。もちろんその時はきみたちのこともね」
黒田の話に、高橋と樋口は涙をこぼさんばかりに喜んだ。昨日までは、新しい所長が来たことで、自分たちの今までの努力が水の泡になると営業部全員が意気消沈していた。
本社は大島所長を買っていなかった。ことあるごとに売り上げ、売り上げとせつき、目先の売り上げにこだわってきた。しかし、大阪営業所の営業課の人間は、得意先との絆を大切にしていきたいという大島所長の思いに賛同し、これまで頑張って来た。それが大島所長の死で水泡と期すとなれば勤労意欲さえ削がれてしまいかねない。その危惧が全員の胸の中にあった。
それがどうだ。新しくやって来た所長は、大阪嫌いで大阪人が大嫌いで、やたらとプライドが高く、人と接することが苦手で本社のイエスマンであると伝え聞いていたのに、そうではなかった。そのことに高橋は、驚くと共に喜びを感じた。
「所長、ありがとうございます。失礼します」
二人が礼をして部屋を出ようとすると、黒田の声が背後から飛んだ。
「もし、えびす亭で会っても、私たちは会社の上司と部下の関係ではない。私は官兵衛、きみたちは、健ちゃんとひーちゃんだ。変な気を遣わなくてもいいからね」
二人は黒田を振り返って、
「ハイ!」
と同時に返事をした。
「帰ってよろしい。えびす亭で会おう」
二人はまた同時に「ハイ!」と力強く返事をして部屋を出て行った。
<了>