島ちゃんの恋
一
JR駅の改札口を出ると、右手に飲食店が並ぶ商店街、左手に私鉄の駅を擁するホテルが立つ。朝夕関係なしに人通りの多いことがこの駅の特徴だが、線路沿いに続く路地を歩く人となると、途端にその数が少なくなる。
路地を進むと、吹き溜まりのような一角があり、赤ちょうちんの呑み屋が五軒、軒を連ねている。五軒すべてが立ち呑みの店というのも珍しいが、どの店もそれなりに賑わっているから不思議だ。
そのうちの一軒、五軒のちょうど中央に位置する店がこの界隈で一番古いと言われる『えびす亭』である。入口にかけられた提灯と暖簾に、『えびす亭』と太書きされた字が大きく書かれている。
ガラス戸を引いて開けると、半円形のカウンターがあり、カウンターの中が厨房になっている。おでんがぐつぐつと煮込まれていて、惣菜がカウンターの上に山盛りになって無造作に置かれている。古びた何の特徴もない立ち呑みの居酒屋である。しかし、そんな店に集う人の何と多いことか、この店の営業時間は、午後三時から午後十二時までだが、開店と同時に人が集まって来てカウンターを埋め尽くす。
場末の何ということのない立ち呑み店になぜ、こんなにもたくさんの人がやって来るのか、この店で働き始めて間もない九島良治は、そのことが不思議でならなかった。
橋村良治の父、繁和は、地下鉄九条駅の近くで居酒屋を営んでいたが、六十を超えてすぐに病に伏し、三月と持たずに呆気なく亡くなった。良治は当初、父の意志を継いで店を継続するつもりでいたが、高校を出たばかりで料理の経験もなかったことから断念し、また、周囲の反対もあって店を閉め、人の紹介を経て『えびす亭』にやって来た。
働き始めて間もない良治は、店の経営者であるマスターの佳弘から、えびす亭の歴史を聞かされたことがある。
――終戦後、十年近く立って世の中がようやく落ち着いた頃、春日要吉という人物が駅に近い路地裏のこの地にバラックの店を作った。当時、この地は始終、小便の臭いのする空き地で、誰も見向きもしない荒れ果てた場所であった。
戦争で左足を負傷し、満足に歩くことが出来なかった春日は、出自が酒の販売店であったことから、その経験を生かして酒を仕入れる道筋をつけ、座って商いの出来る安価な立ち呑みの店を開いた。
当時は、木箱をテーブル代わりに使い、それをバラックの中に無造作に置き、客は木箱の前に立って酒を呑むというだけのもので、酒の肴は、サンマやサバ、鯨の肉などの缶詰、ソーセージ類などに限られていた。
ポツンと一軒だけ空き地に立っていた、立ち呑みの店は、暖簾もなく看板もない単なるバラックだったが、二年、三年と営業を重ねるうちに、世の中の好景気と歩調を合わせるように成長し、五年目にはバラックを壊して立て替えられ、暖簾も付けられ、看板もついてようやく店の体裁を整えることができるようになった。店名の『えびす亭』は、その頃からのものだ。
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