セールスの神様
高瀬 甚太
横殴りの雨に打たれてずぶ濡れになった伊藤正平は、雨宿りのつもりで一軒の酒屋に入った。何の変哲もない立ち吞みの店なのに、異常に客が多いことに驚かされた。
立っている客の隙間に無理やり割り込んだ伊藤は、瓶ビールを注文し、おでんを注文した。
昼食を食べる暇もなく、ずっと歩き詰めだった。その疲れがドッと出た。おまけにこの雨だ。ずぶ濡れになった衣服を気にしながらグラスにビールを流し込み、一息に呷った。
喉を通るビールの冷たさが心地良かった。それにしても今日は大変な一日だった。ため息とともにゲップを吐きだすと、伊藤は、生き返ったような気がして目をしばたたかせた。
季節は夏に向かっていた。いや、すでに夏の様相を呈していた。六月だというのにこの暑さはすでに夏のものだ。ネクタイを緩めると、シャツの下からムッと湯気が立ち込め、熱気が漂ってくる。セールスの仕事は楽ではない、と伊藤は改めて思った。
大学を出て、文具販売の会社に勤めて二〇年、これからという時に会社が潰れた。社長の不動産投資の失敗のつけが会社を倒産に追い込んだというのがもっぱらの噂だった。雀の涙ほどの退職金を手に翌日から就職活動に入った。だが、四二歳の中年に思うような仕事は見つからなかった。
三〇歳の年に社内恋愛の末に結婚した女房との間に二人の子供がいた。上が男で下が女、七歳と五歳、まだまだこれから金がかかる。女房はパートに勤め始めたが、時給九五〇円で週四日勤務だから一カ月働いても十万円に満たない。失業保険がもらえるうちはまだよかったが、失業保険が切れると生活ができなくなる。急いで探し当てたのが今の仕事だった。
ずっと事務系でやって来たから、慣れないセールスの仕事はよけいに疲れる。当然、営業成績も上がらず、入社して三か月目の今は、課長に無能呼ばわりされ、罵倒される毎日が続いていた。
保険のセールスはやってみると意外に難しい。さまざまな保険の種類があるが、伊藤の場合は、老人専門の医療保険だった。シニアの多い現在だからうってつけの保険だと喜んだのだが、実際にセールスを行ってみると思っていたほどうまく行かない。老人たちは皆、話し好きで、散々、引っ張って話を聞かせた揚句、すでに入っているからとか、金がないとか、勝手な理屈を付けて断ってくる。
今月、売上が上がらなければ多分、クビだろう。会社が潰れていなければ、今頃、クーラーの利いた部屋でパソコンを叩いているはずだ。元々、伊藤は外交的な性格ではなかった。経理のような一人でコツコツ働き、自分の殻に閉じこもってやる仕事が性に合っている。
今日も朝から何軒の家を回っただろうか。話しすら聞いてもらえず、門前払いの家も多かったが、夕方のこの時間に至るまで、すでに三〇軒近く訪問している。それで成果ゼロだ。才能以前に資質の問題だと思った。やはり俺には向いてない。二杯目のグラスを空けながら、伊藤はそのことを悟った。
クビになる前に就職先を探さなければならない。そう思うと気が重く、おでんの味すらわからない。
「失礼でっけど、ご商売、何してはるんでっか?」
隣の客が声をかけてきた。会話をするような気分ではなかったが、仕方なしに、
「セールスです」
と答えた。
「そうでっか。セールスマンでっか」
隣の男がしみじみとした口調で言い、伊藤を見た。気味の悪い男だと、伊藤は思った。七〇歳は過ぎていると思われるこの老人は、見るからに暇そうで、金銭的にも余裕がないのだろう、一本のビールをゆっくり呑み、酒の肴を頼んでいない。どうせ、立ち呑みに集まって来る客だ。金を持っているはずがない。そんな伊藤の先入観を裏打ちするかのように、老人の身なりは薄汚れた安手のものだった。
「実は私も定年になるまで、ずっとセールス一筋でしてね。これでもずいぶん売り上げを上げて、近畿地区のセールスナンバーワンとして表彰されたことがあるんですよ」
老人は自慢するように胸を張った。
伊藤はまじまじと老人を見つめ、ほら話に違いないと思った。とてもセールスでナンバーワンになるようなタイプの人間ではなかったからだ。伊藤の見下すような眼差しを見て、老人は笑った。
「私、江口隆弘と言いますねん。セールスは口や顔ではおまへんで。いかに相手の中にスーッと入って行くかですわ。あんた、こんなこと言うたら申し訳ないけど、ちっとも売上上がってないのと違いますか」
「……」
ムッとした伊藤の顔を見て、老人が慌てて取り成した。
「怒らんでもよろしい。あんたを見ていたらようわかる。あんたはセールスの仕事が本当は好きやない。家族を養うために仕方なくやっているだけや。私もそうやったからようわかる」
三杯目のグラスが空になり、伊藤がビールを注ごうとすると、その前に江口が自分のビールを伊藤のグラスに注ぎ込んだ。
「あんたのセールスがうまく行かんのは、相手の懐に心を空にして飛び込んでいかへんからや。こんなことを言うてもわからんやろけど、セールスマンの売り物は口やなく、心でっせ」
老人は、遠い昔を懐かしむような表情をして、言葉を続けた。
「わしは親戚の鉄工所でずっと働いてきた。二〇年働いたが、親戚の伯父が病気になって会社が傾き、あえなく倒産して外へ放り出された。工場で作業するしか能がなかったわしは、他の鉄工所に移ろうと就職先を探したが、ちょうど石油ショックの折りでどこも不況をかこっていて雇ってくれるところがなかった。妻も子供もいたから遊んでいるわけにいかない。思案した挙句、セールスの仕事を始めた。受験のための教材を売る仕事だった。中学を卒業してずっと現場で働いていたわしに、学習教材が売れるはずがない。そう思ったわしは、初日で自分の才覚のなさにあきれ、会社に辞めたいと申し出た。
『一日働いただけでわかるのか』
主任にそう言われた。
『わかります。わしには一つも売れません。そのことが一日働いただけでようわかりました』
主任は、一つ大きく頷いた後、わしに言った。
『わかった。だったらもう一日だけ、おれに付き合え。それで決めたらいい』
そこまで言われると、素直に従うしかない。わしはもう一日、その会社にとどまることにした。
翌日、出社すると、主任が何やら資料を見ている。わしが出勤したのを見ると、わしを呼び、『この資料をよく見ておけ』と言う。
その資料は、訪問する地区の訪問する家の家族を著したもので、それはすでにわしも昨日、見ているものだ。
『昨日も見て出ましたが――』
と言うと、主任は、『資料のどこを見た?』と聞く。
『家族構成と子供の学校ですが――』
主任は、『もっと他に見るところがあるやろ』とわしを叱った。
『一番大切なことは、両親の卒業校だ。それと子供が学校で入っているクラブ、それを知っていないと、どんなに頑張っても永遠に学習教材は売れん』
わしにはちんぷんかんぷんやった。
会社を出たのは、他のみんなより一時間ほど遅れた午前十一時だった。
『こんなに遅く出て大丈夫ですか? みんなは一時間前に出て、もう仕事にかかっていると思いますが』
心配になって主任に言うと、主任は笑って、
『人に何かを売ろうとする時は、仕込みと戦略が必要なんや。そのために一時間出るのが遅れても大した差はない。そこの喫茶店を見て見ろ。うちの社員がモーニングサービスを食べながらスポーツ新聞を手に無駄話をしているはずだ』
喫茶店を覗くと、うちの社員たちがたむろしてコーヒーを飲んでいた。
今日のセールス予定地区に入る前に、電車の中で、主任が私に言った。
『今日の地区はいわゆる文教地区と言われる、教育熱心な地域だ。塾に通っている子供たちが大半で、学習教材のほとんどを塾で購入している可能性がある』
『塾で購入している? それだったら無理やないですか。売れるはずがありませんよ』
わしがそう言うと、主任はまた笑ってわしに言った。
『セールスには不可能はない。どんな場所でも売る。それがプロのセールスや』
自信ありげに言う、その言葉を聞いて、わしはこのオッサン、単なるほら吹きと違うかいなと思い始めていた。
目的の地域に到着すると、主任は一軒の家のインターフォンを鳴らした。
『どなたですか?』
『学習教材の会社のものですが、新教材が開発されたのでお持ちいたしま した。一度、見ていただければ――』
『結構です。間に合っていますから』
『でも、それは塾から購入した教材でしょ。子供さんはその教材を有効に使っていますか?』
『ええ、使っておりますので、結構です』
『塾の教材は、受験対象のものが多くて、基礎力を養うには適していないと思います。そちらのお子さんは多分、中学二年生だと思いますので、今は受験を対象にした教材よりも、私どもの基礎を確認し、基礎力を付ける教材の方がきっと役に立つはずです。見ていただくだけで結構です。一度、確認していただけませんでしょうか』
しばらく沈黙があった、ドアが開いた。
『見るだけですよ。買うわけじゃありませんので』
メガネをかけた、いかにも知的な雰囲気の母親は、そう断って、主任が差し出す教材を見た。
主任が、中学二年の子供に必要な基礎力として、重点的にこういった点に集中して解説と問題を網羅していると話し、教材の特徴を端的に説明してみせた。
中身を見た母親から主任に質問が飛んだ。
『子供は数学が苦手で、試験になると平均点は取るのですが、私から見て、基礎がわかっていないのでは、と思えるところがあるんです。塾は進学を中心にしていますから、いかにいい点を取るかにシフトしていて、質問しても教えてもらうこともできません』
『もっともです。この辺りだと、息子さんは多分、高校から大学へ持ち上がりの○○高校を受験されると思いますから、特に数学や国語の基礎力は欠かせません。あの高校の試験は基礎力を試す試験がよく出ますから。それに息子さんはアニメがお好きなようなので、人気アニメを配したうちの教材のイラストなど、喜ばれると思いますよ』
時間にして三〇分、学習教材が一式売れた。わしは、主任のトークに感服して、
『主任のトーク力、すごいですね。自分ではとてもまねができません』
と言うと、主任は怒った。
『トーク力なんて知れている。大切なことは、どれだけ相手の立場に立って話ができるかだ。心だ。こちらの誠意がどう伝わるか。それを考えて相手と話をしなければならない。売らんかなで、こちらの都合で話しても、相手は一切、耳を傾けてくれないし、相手にしてくれない。下準備と戦力さえはっきりしていれば、相手を攻めることができるし、結果として売上につなげることができる』
その後も、主任はわしの前で、神業ともいえるセールスを展開して、次々と教材を販売して行った。わしは感心して言葉も出なかった。
『今日、最後の家はお前がやれ。俺は横で見ていてやる』
『私には無理です。主任のような力はありません』
断ったが、主任は、断られても構わないからやってみろ、と言ってわしの背中を叩いた。仕方なくやってみることにした。
家を訪ねる前に資料を確認した。両親はどちらも私学の有名大学を卒業して、一人息子は中学三年生、高校受験を控えている。息子の趣味は落語で、学校の成績は学年のちょうど中間あたりをウロウロしている。
白亜のモダンな家屋は三階建になっていて、とても三人家族の家とは思えない。周辺でも目を引く建物だ。庭も広く、門も豪壮でインターフォンを押す手が思わず震えてしまう。
『どちら様でしょうか?』
『学習教材の会社のものです』
『ごめんなさい。間に合っています』
と言ってインターフォンを切ろうとする。
『すみません。実はとっておきの情報を一緒にお持ちしています。一度、見ていただけませんでしょうか』
『あまり興味がないのよね。ごめんなさいね』
再び切ろうとする。
『息子さんの国語の成績をワンランクアップさせる情報ですよ』
『国語の成績をアップ?』
『そうです。息子さん、国語の成績が悪くて順位をダウンさせているでしょ』
『ええ、でも、なんでそんなこと、わかるんですか?』
『一度、お会いください。そうすればお話しします』
もちろんこんなにスムーズに喋れるわけがない。それでも、わしは必死になって喋った。
わしの必死の気持ちが伝わったのか、門が開き、玄関口まで入ることが出来た。
玄関口でわしは教材を見せ、特に国語や古文、漢文に効果を発揮する教材だと熱意を持って話した。これはすべて主任の受け売りで、主任のセールスを見ていなければ、こんなにスムーズには行かなかった。
『国語の読解力アップを基本にこの教材は構成されています。国語にはさまざまな要素がありますが、何より必要なことは読解力です。これを身につければ、国語力だけでなく、他の科目にも充当でき、すべての学力アップが可能になります』
相手の立場に立つ、という主任の言葉に感動していたわしは、母親の立場に立ち、教材の特性を話して聞かせた。結局、『主人とも相談してみる』と言われて、その場での販売は無理だったが、翌日、教材を購入すると、その主婦から連絡があった。
翌日からわしは、出かける前に一時間下準備をし、目的の地域の戦略を怠りなく行い、セールスに出かけた。百戦百勝とは行かなかったが、その日、三件の教材を販売することができた。それ以来、わしは教材の会社を振出に、さまざまなセールスを行い、一昨年、引退した」
江口老人は話し終えるまでの間にビールを二本開け、そのうち一本分は伊東のグラスに注いだ。
そう言えば自分は、やみくもに訪問していただけで、地域の研究も戦略も何も考えないで無方図に歩き回っていただけだ、と伊藤は改めて思い直した。相手の立場に立ったこともなく、ただ、保険の加入だけをアピールしていただけではなかったか。江口の話が真実であれ虚言であれ、そんなことはどうでもよかった。自分のやり方を反省し、もう少しセールスの仕事を頑張ってみよう、そんな気にさせられた。それだけで充分価値があった。
「さあ、江口さん、呑んでください。今日は私が奢りますから」
「そうかね。それはありがたい」
江口老人は顔をほころばせて伊藤の差し出すビールを受けた。その夜、伊藤は江口だけでなく、他の客とも話した。初めて入った店なのに、なぜ、こんなにも親しくなれるのか、不思議でならなかった。
「ここはえびす亭や、ここでは皆が友だちだ」
江口老人は、大きな声で笑い飛ばした。その笑いに、客たちが声を揃えて笑った。
「さすがはセールスの神様だ。笑い声が心に響く」
客の一人がそう言って囃し立てる。江口老人は、再び、高らかな笑い声を上げた。
翌日、伊藤は三件の保険加入者を確保した。翌日は五件、驚異の売上ぶりに、課長他、社員たちが驚き、何があったのかと、伊藤に尋ねるほどだった。
伊藤は周到な下準備と緻密な戦略を立て、日々のセールスに励んでいた。相手の立場になって話をよく聞き、相手が入りたいと思ってもらえるセールス話法を展開した。
口がうまくなったわけでも、相手を丸め込む技術を付けたわけでもない。相変わらす伊藤は鉄工所時代と同様に寡黙であったし、喋り方はぎこちなかった。それでも、みるみる売り上げを上げ、とうとう、その月のトップに躍り出た。
初めての表彰を受けたその夜、伊藤は江口老人に会うためにえびす亭に向かった。誰よりも江口老人にセールスの成果を聞いて欲しかった。
しかし、えびす亭に江口の姿はなかった。
「すみません。江口さんは今日、来られていませんか?」
伊藤がマスターに尋ねると、マスターは一瞬、「え――?」という顔をして伊藤を見た。
「いつもこちらに来て、呑んでいるはずですが」
マスターは、小さくため息をついて、伊藤に言った。
「江口さんは亡くなりました。脳出血で倒れてそのまま――。救急車で病院に到着した時は、もう息をしていなかったそうです」
三日前のことだと言う。伊藤は、その場にへたり込んだ。それほどのショックを受けた。
「前からのお知り合いですか?」
「いえ、この店で一度会っただけです」
伊藤がそう言うと、マスターは不思議そうな顔をして伊藤を見た。
マスターに江口の住所を聞いた伊藤は、そのまま、江口の家へ向かった。江口の高らかな笑い声がまだ耳にこびりついていた。
えびす亭から一駅、簡素な住宅街に江口の家があった。あまりにも立派な家だったので、伊藤は、間違ったのではと一瞬思った。それでもインターフォンを鳴らすと家人が出て、
「どちら様ですか?」
と答えた。どうやら江口の奥さんかも知れないと思った。
「こちら江口隆弘さんのお宅でしょうか?」
念のために訊ねた。江口の身なりと、豪華な家屋とがうまく結びつかず、間違いではないかと思ったからだ。
「はい、そうですが」
驚きながらも伊藤はもう一度念を押すようにして尋ねた。
「えびす亭という店で、三日前に江口さんがお亡くなりになったと聞き、慌てて駆け付けました。間違いございませんでしょうか」
「――間違いありません。主人は三日前に急死しました」
「江口さんにご報告したいことがあってやって来ました。夜分、申し訳ございませんが、ご焼香させていただけませんでしょうか」
家人はすぐに了解してくれ、門を開けてくれた。
焼香する部屋に入ると、江口の笑顔が黒い額縁一杯に広がっていた。周囲の壁に生前の江口の活躍を証明する、セールスの表彰状が額に入って飾られている。やはり虚言ではなかったのだ、と伊藤は思った。
「あなたもセールスの方ですか?」
江口の妻が、軽い挨拶の後、伊藤に聞いた。
「はい、そうです」
と伊藤が答えると、江口の妻は、
「通夜や葬儀、ご焼香に訪れる方のほとんどがセールスの方なんですよ。うちの主人にセールスの心を教わった。江口さんは神様のような人だ、とそんなことまで言って下さる方がいるのですよ。あの人も本望でしょうね。セールスが大好きでしたから」
と生前の江口を偲びながら話した。
「私もその一人です。本当にありがたく思っています」
伊藤は丁寧な挨拶を江口の妻に繰り返して江口家を離れた。
もう一度、えびす亭に寄ってみようか、帰り道、伊藤はそう思った。あの店に行けば、江口さんのことを語り合える人がたくさんいるような気がした。
江口さんの高らかな笑い声をもう一度聞きたい。もしかすると、酒好きな江口さんの魂があの店へ帰っていて、あの笑い声を聞かせてくれるかも知れない。暗い夜道を急ぎ足でえびす亭に向かった。
<了>