京都勿忘草荘殺人事件
高瀬 甚太
嵐山・嵯峨野観光を終えた三橋由香里は一人旅の気楽さもあり、ケーキや饅頭、たこ焼きなど散々間食を重ねたせいか、夕食の時間になっても一向に食欲が湧いて来なかった。それでもお腹が空いた時のことを考え、コンビニでおにぎりを買い、嵯峨野から少し離れた場所にある宿泊先に着いた。その時、慌ただしく飛び出して来た女性と危うくぶつかりそうになり、買ったばかりのおにぎりとお茶を落としそうになって大声で叫んだ。
「ちょっと気を付けてよ!」
女性は、由香里に謝ろうともせず、玄関を駆け抜け、そのまま闇の中に消えて行った。
「勿忘草荘」は昔の遊郭をそのまま利用した女性専用の宿泊施設で、その時代の名残がそこかしこに残る木造二階建ての旧い建築物だったが、素泊まりの安価な宿泊料金と、女性専用という安心感からか、利用する女性が多かった。さいたま市在住の由香里は、京都の秋を楽しもうと、三日間の有休休暇を取って、京都へやって来た。今日がその二日目であった。
遊郭の施設をそのまま利用しているものの、内装はその頃のものとはずいぶん変わっており、当時の面影を残す外観とは対照的に、内部は近代的なインテリアに変身を遂げていた。玄関口にこの宿を管理する七十歳代の老人が一人おり、出入りはすべてこの老人がチェックする。特に女性専用の宿泊施設であったことから、老人の監視とチェックはことのほか厳しかった。
「ただいま」と、玄関口で老人と顔を合わせた由香里が挨拶をすると、老人は、笑みを湛えて愛想笑いをし、「お帰り」と答えた後、
「三橋さんは明日、何時にチェックアウトされますか?」
と聞いた。
「午前十時に出ようと思っています」
由香里が答えると、管理人の老人は大きく頭を振り、「おやすみ」と一言、言って管理人室へ戻って行った。
玄関の時計が午後八時を示していた。二階に上がる階段だけが、遊郭の時代の面影を遺す木造の階段で、踏みしめるとキュッ、キュッと奇妙な音が鳴った。女たちがどんな思いでこの階段を昇って行ったのか、二十三歳になったばかりの由香里は、その階段の音が哀れな女たちの悲痛な叫び声のような気がしてならなかった。
二階には部屋が十二室あった。ベッドが一つとテレビ、バストイレが付いていたが部屋は、狭かった。娼婦たちが男たちを迎えた部屋を利用したものであったから、一つひとつの部屋はそれほど広くない。由香里の部屋は、廊下の突き当たり、一番奥にあった。ほぼ満室に近い状態であるにも関わらず物音一つしない。室内の音が洩れないように密閉されているのだから当然といえば当然だったが、それにしても静かすぎると由香里は思った。
突き当りの自分の部屋に向かう途中、由香里は、一室手前の斜め向かいの部屋のドアが開け放されていることに気付いた。女性ばかりとはいえ、あまりにも無防備だ。そう思った由香里は、注意しようと思い、その部屋の中を覗いた。
「ドアが開けっ放しになっていますよ」
だが、部屋の中からは返答がなかった。気になった由香里は、そっと部屋の中へ入った。ベッドにうつぶせになって寝ているようだ。よく見ると、うつぶせになって寝ているのは、男性のようだった。近づいて確認すると、布団に赤いものが――、その瞬間、由香里は大きな声で悲鳴を上げた。
京都府警本部捜査第一課、福澤幸四郎警部は、その日、すこぶる機嫌が悪かった。中学生になる娘の素行を注意して朝から大喧嘩になり、気分を害しての出勤であった。
福澤家の門限は午後九時である。それなのに娘の彩香が帰宅したのは午後十一時、福澤が帰宅してすぐに娘が帰宅した。門限を破った娘を福澤は叱った。父親として当然のことである。理由を言って詫びれば福澤もそれほど怒ることはなかった。だが、彩香は謝りもしなければ理由も言わず、そのまま部屋の中へ閉じこもってしまった。
朝、彩香と顔を合わせた福澤は、昨夜の門限破りのことを持ち出し、理由を問いただした。
「私に干渉しないでよ!」
と言って、彩香は口答えし、あろうことか、鞄を投げつけてきた。娘の行為に福澤は怒り心頭に達した。間髪入れず彩香の頬にビンタを食らわした。
彩香は、泣きながら家を飛び出して行った。
妻を亡くして三年になる。娘との二人暮らしの中で、刑事特有の不規則な時間を送る福澤と、思春期に近づいた娘の距離は日を追って離れて行く。そんな焦りにも似た気持ちが、福澤に大声を張り上げさせ、ビンタになった。
妻が生きていたらこんなことにはならなかっただろう。そう思うと、福澤は、重ね重ね妻が亡くなったことが残念でならない。子宮ガンとその急速な転移で、妻の弥生は四十二歳の若い命を散らしてしまった。事件の最中であったために妻の死に目にも会えなかった。その悔恨が福澤の心の奥底に今も深く傷跡として残っている。
「警部、事件です!」
電話を取った木山刑事が早口で福澤に伝えた。
「何だ?」
福澤が不機嫌な声を上げると、木山が、
「殺しです。場所は下京区の勿忘草荘――」
福澤を先頭に、捜査一課数名と鑑識、所轄の警官が現場へ急行した。
「男が出入りするところなど、見ていませんよ。わしはいつもここで人の出入りを監視していますし、見張っていますから」
福澤の質問に、勿忘草荘の管理人、種田道夫は、声を荒げて答えた。
被害者の男性は、二階奥から二つ目の、崎山孝子の宿泊する部屋で死体となって発見された。
「ガイシャの身元は、背広の内ポケットに所持していた運転免許証から、堂山富士夫、二十三歳と判明しました。住所は愛知県名古屋市となっています」
木山が福澤に伝える。
「死亡時刻は?」
福澤の問いに今度は鑑識の田端進が答えた。
「詳細は後ほどお知らせしますが、昨夜の午後六時から七時と推定されます」
「死因は?」
「現場の状況からみて、鋭利な刃物で心臓を貫かれたことによる失血死と思われます」
「この部屋の宿泊者である崎山孝子はまだ見つからないのか」
いつになく不機嫌な福澤の声が木山を震え上がらせる。
「管理人の話によれば、昨夜、午後八時前、慌てて外へ出て行ったということですが、それ以後、この部屋には戻って来ていません」
「崎山孝子を重要参考人として手配しろ!」
第一発見者の三橋由香里が京都府警本部で事情聴取を受けたのはそれからしばらくして後のことだ。
第一発見者の三橋は、
「ドアが開いていたので不用心だと思って声をかけました。返事がなかったので、中に入ると、男の人がベッドの上でうつぶせになって死んでいたので驚きました」
と答え、死体発見のショックからか、かすかに唇を震わせた。
管理人の種田も事情聴取を受け、
「三橋さんの悲鳴が聞こえたので、慌てて二階へ駆け上がり部屋を覗くと男の死体があったのでびっくりしました。女子専門の宿泊所に、なぜ男が? とその時、思いましたよ。入口は私がずっと見張っていましたから見逃すはずがないし――、不思議でなりません」
と言いながら何度も首を傾げた。
三橋の証言で、三橋が帰って来てすぐに玄関口で慌てて飛び出して行く女性と出会った。それが崎山である可能性が高いということがわかった。
捜査本部は、証言の信憑性から見て、重要参考人崎山孝子が男を殺害したことに間違いはないと断定し、崎山孝子の行方を追うことに全力を注いだ。
「崎山孝子の行方はまだわからないのか?」
事件から三日が過ぎて、福澤は、上司である狭山警視に呼ばれて、詰問された。
「勿忘草荘を出てからの足取りが掴めません。目撃者もいなくて、念のために崎山の実家と崎山の住まいである、岡山市の県警にも依頼しましたが、立ち寄った形跡はありませんでした。それと崎山と亡くなった堂山富士夫ですが、おかしなことに接点が見つからなくて、現在、堂山の交友関係を中心に洗っていますが、誰に尋ねても崎山の名前が出てきません。同様のことは崎山にも言えて、崎山の友人知人の間からも、堂山などという男性の名前など聞いたことがないと言うのです」
「しかし、崎山の部屋で堂山が亡くなっていたのだろ? 知らないはずはないと思うのだが――」
「ともかく崎山の行方を全力で追います」
単純な男と女の諍いで起きた殺人事件だろうと安易に考えていた福澤は、ここにきて、この事件がさまざまな謎に包まれていることに気が付いた。
管理人が厳しく見張っている勿忘草荘に、堂山はどのようにして入ったのか、崎山と堂山の謎の関係――。崎山はどこに隠れているのか、すべては、崎山を発見して問い質さなければわからないことだらけだった。
鑑識の田端の報告書に目を通した福澤は、改めて、死因が鋭利な刃物で心臓を一突きされたものであることを確認した。堂山を殺害した営利な刃物は未だに発見されていない。死亡時刻も当初の推定通り、午後七時から八時の間であることが確認された。
「崎山は岡山からの旅行者で、京都は不案内です。友人知人の類もおらず、逃げ隠れするところなどないはずですが――」
木山は福澤にそう報告して頭を抱えた。
重要参考人である崎山孝子の行方は杳として知れなかった。同時に、崎山と堂山のつながりも不明のまま丸五日が過ぎた。福澤は、娘の彩香のことが気になっていたが、家には着替えに帰るだけで、すぐに警察に戻ってくるといった慌ただしい生活をしていたので、喧嘩をした、あの朝の日から以彩香とはずっと顔を合わせていない。携帯に何度か電話をするのだが、彩香は福澤からの電話を無視して出ようとしなかった。
六日目の朝、事件が動いた。
京都市北山にある小さな池、深泥池は、浮島があることで知られている名所の一つだ。その池の中で崎山孝子が死体となって発見された。発見者は、深泥池の希少生物を研究している京都大学の生物学准教授で、いつものように池に棲む希少生物の観察をしていて、崎山の死体を発見している。
「ここはさまざまな種類の植物や昆虫、野鳥が生息していましてね。中には、池では見ることのできない氷河期以来の動植物も生息しているんですよ」
准教授はそう説明して、崎山の死体が池に浮かんでいたことを話した。現場に急行した福澤は、崎山の死を、逃れられないと思っての覚悟の自殺ではと判断した。
鑑識によれば、死亡推定時刻は四日前の午後から夜明け前と推定された。池の中にいたため、正確な推定時刻が掴めないということだったが、堂山を殺害後、逃亡中に自殺したことは間違いないと思われた。しかし、その時、鑑識はもう一つ、重大な報告を福澤にしている。崎山孝子は自殺ではなく、他殺だというのである。
「他殺? そんなはずはない。もっと詳しく調べてくれ!」
福澤は信じられない思いで田端に詰め寄った。だが、田端は、
「崎山孝子の死因は、鋭利な刃物によるものです。明らかに第三者の手によるものと思われます」
崎山孝子は、背後から心臓の部分を一突きされての死だった。殺されて後、この池に放置されたものと考えられた。
崎山孝子が殺害されたことで、事件は迷宮入りの可能性が高まった。
「崎山の部屋で堂山が殺された。二人の接点は別にして、それは明白な事実だ。ただ、堂山がどのようにして勿忘草荘に侵入したか、その経路は定かではない。どちらにしても、堂山が崎山の部屋で殺害され、殺害したと思われる重要参考人、崎山孝子は逃亡した。しかし、その崎山も殺害されたとなると――、この事件には、もう一人、重要な人間、つまり犯人が存在することになる。今のところ、それが誰であるか、まるで見当が付いていない。二人の身辺を再度洗い出し、捜査を続けるしか方法がない。決して迷宮入りにさせてはならない。いいな、みんな!」
捜査本部の席上、福澤はそう言って全員に檄を飛ばした。だが、何をどうすれば犯人に突き当たるのか、皆目見当が付いていない。ともかく、二人の身辺を再度洗い出すしか術がなく、捜査員は岡山と名古屋に散らばって捜査を再開した。
福澤はその夜、警察本部を出た後、一杯、ひっかけようと思い、帰宅の途中にある居酒屋『よしやん』に立ち寄った。
彩香のことも心配だったが、留守の間、妹の美由紀に彩香の世話を頼んでいた。美由紀の報告では、門限に遅れることなく帰宅して、真面目に学校へ通っているとのことだった。
居酒屋『よしやん』は、福澤の中学時代の同級生、松前健吾が経営している。さほど大きくはない店だが、いつも活気に満ちているのが特徴だ。店の大将である、松前の威勢の良さが活気の源となって店内に反映しているようで、従業員も松前に負けず劣らず元気がいい。
「福ちゃん、久しぶり!」
暖簾をくぐり、ガラス戸を引いて中に入ると、松前の大きな声が飛んできた。
「よう、相変わらず儲けてるなあ」
店内は客で一杯であった。席を探すのに苦労するぐらい人が多く、福澤はようやくのこと、一席見つけ、そこに腰を下ろした。
「相席させてもらいます」
テーブルにはすでに先客がいて、曲でも聞いているのだろうか、イヤホンを耳に付けて酒を呑んでいる。三十代後半か、四十代前半か、ウエーブのかかった長い髪とサングラスが印象的で、スラリとした美形の男性であった。
福澤が対面に座ったところで、ようやく福澤の存在に気付いた男は、軽く頭を下げて会釈した。その顔を見た時、どこかで見た顔だなあ、と福澤は思った。指名手配の犯人か、事件に関係した顔かと、あれこれ考えてみたが思い付かない。だが、、怪しさは拭いきれなかった。
「福ちゃん、どないや? この間の事件は?」
居酒屋の大将、松前が福澤の隣に椅子を持ってきて話しかけた。松前は、ミステリーファンで、事件が起こると気になるタイプだ。店はてんてこ舞いの忙しさだというのに、構うことなく福澤に話しかけてくる。
「勿忘草荘の殺人事件のことか?」
福澤が聞くと、松前は、頷きながら鉢巻を巻いた頭を上下に振った。
「勿忘草荘は女性専用の宿舎で、管理人が人の出入りを厳しく監視している。そんなところで、こともあろうに男性が殺された。鋭利な刃物で一突きだ」
「知ってる、知ってる。新聞とテレビのワイドショーで見た。男が殺された、その部屋の女の子が失踪した。警察はその女の子を重要参考人として指名手配したが、六日後、その女の子は深泥池に死体として発見された。そこまで知っている」
松前は、好奇心に満ちた大きな顔で福澤に喋る。店はさらに込んできたがお構いなしだ。
「勿忘草荘で殺された男と深泥池で殺された女に接点がなかった。しかも、この事件には二人以外、第三者の影が見えない。捜査は完全に行き詰っている。二人が殺されて得をする人間が誰もいないのだから――」
生ビールをジョッキで二杯、立て続けに呷った福澤がため息と同時にゲップを吐いた。
福澤の前に座っていた長髪の男は、いつの間にかイヤホンを外して、二人の話を聞いている。その男は、興味深げな表情で福澤に聞いた。
「すみません。少しいいですか?」
長髪の男がサングラスを外して福澤に問いかけた。福澤は、怪訝な顔で男を見つめる。
「今のお話しですが、接点がない、第三者の影が見えない、そうおっしゃいましたよね」
福澤はムッとした表情で男を見て言った。
「ああ、言いましたよ。それがどうかしましたか?」
「これは失礼しました。ただ、お話の事件ですが、見方を変えればこんな判断もできますよね」
長髪の男はそう前置きをして話し始めた。
「男と女のつながりには、恋愛を軸にしたつながりと、そうではないつながりがありますよね。恋愛を軸にすると、接点ははっきりと浮かび上がってくる。だが、そうではない場合――、たとえば、出会い系で知り合ったカップルなどは、それまでの接点がまったくといっていいほどないわけです。出会い系でなくても、街で偶然出会って意気投合した場合も同様です。そんなふうに考えると、男と女の付き合いに、つながりや接点を見出すことは難しくなる。今回の場合、多分、そのどちらかではないかと聞いていて思ったわけです」
長髪の男は、呑んでいたハイボールを横に置いて、静かに息を吐くと、両手を組んだ姿勢で再び話し始めた。
「管理人の監視が厳しい勿忘草荘ですが、男を連れ込むことはそう難しいことではないと思います。若い男であれば尚更です。女装させて入れば、監視の目は潜り抜けられます。友だちを連れて来た、そんなふうな感じを装えば、多分、入室することは難しくないでしょう。管理人は、男が入らないかだけを注視しているわけですから、女性であれば問題なく入れるはずです。それともう一つ、第三者の影が見当たらないと言いましたが、こんな仮説はいかがでしょう」
福澤は、男の顔を身近に見て、ようやく気が付いた。うまく化けているが、こいつは夕月光だ。銀幕のスター、夕月光に違いない、そう確信した。
「出会い系か、もしくはテレクラのようなもので、男との出会いを画策した長期滞在の女性が二人いたとします。女性二人は、勿忘草荘で別々の部屋を借りて宿泊した。女性二人は、出会い系サイトで京都を旅行中の男性に3Pを持ちかけます。男一人に女二人が相手をする。そう持ちかけるのです。若い女性にそんな話を持ちかけられて、喜ばない男はいません。男は嬉々としてやって来た。ラブホテルを利用すればいいのですが、女性二人は旅行中であったため、万が一、男が払わない場合、損をすることになる。そう考えたのかも知れません。とにかく、男に女装をするよう持ちかけて、男は女装をして勿忘草荘にやって来た。亡くなった女性とは別の女性が、管理人に、友だちを部屋に入れますとでも言ったのでしょう。男は難なく女性の部屋に入り、待望の3Pが始まった。
だが、ここでアクシデントが起きた。当初は3Pを望んだ男だったが、二人のうち一人だけを特に気に入ったのでしょう。もう一人の女性を放っておいて、一人の女性とことに及ぼうとした。怒ったのは、放っておかれた女性です。プライドがズタズタにされ、頭に来た女性は、部屋に戻ると肉切り包丁を手に持ち、女とことに及ぼうとしてシャツを脱ぎかけていた男に飛び掛かり、肉切り包丁で心臓を貫いた。刺された男は即死し、ベッドの上にうつぶせになって倒れる。もう一人の女性は驚いて、身の危険を感じて部屋を飛び出した」
福澤は男の推理力に舌を巻いた。捜査官の誰も考えなかった発想で、この男は見事に第三者の存在を割り出している。第三者の女性の存在は、管理人に確かめればわかるだろう。友だちを連れて入って来た女といえばすぐにわかるはずだ。
「逃げた女性は、着の身着のままで飛び出したため、一度、部屋に戻る必要があった。しかし、テレビのニュースを見て驚かされる。いつの間にか、自分が犯人になっている。女性は、男を殺した女性に電話をして、警察に届け出て、真実を話すと女性に言った。女性は、『私が自首してあなたの無実を晴らすから』とでも言ったのでしょう。女性と深泥池の近くで待ち合わせをした。そこで――」
そこまで話したところで、福澤が立ち上がった。
「名推理ありがとう。これからすぐに勿忘草荘に急行する」
そう言って福澤は、木元に連絡し、人数を集めて勿忘草荘に集結するよう申し渡した。
迷宮入りかと思われた事件は、あっという間に解決に至った。夕月光が推理したように、崎山孝子の同僚、高橋裕子は、事件後も何食わぬ顔で勿忘草荘に宿泊していた。崎山孝子の同僚、とは言っても、二人は勿忘草荘で知り合っただけの関係で、それまでのつながりは何もなかった。男性に対する好奇心が旺盛だった二人は、出会い系サイトを利用して、その網に引っかかった堂山を誘い出して女装させて部屋に入れ、3Pを試みようとした。だが、堂山は3Pではなく、いざという時になって、崎山との二人だけのセックスを選び、高橋を袖にした。その気になっていた高橋は、怒り心頭のあまり男を刺殺し、崎山を口封じしようと思ったが、崎山に逃げられてしまった。重要参考人として指名手配された崎山は、無実の罪を晴らそうと、逃亡先から高橋に電話をかけてきた。高橋は、自首するからと偽って崎山と会い、その場で崎山を刺殺する。――すべてが夕月光の推理通りだった。
「勿忘草荘は長期滞在の客が多いのですが、崎山さんも高橋さんもそうでした。これまでも、崎山さんがお友達を連れてきたり、高橋さんが連れてきたりすることがありましたので、特に注意はしていませんでした。高橋さんが犯人だったなんて本当に意外で、言葉もありません」
管理人の種田は、憔悴しきった表情でそう語った。第一発見者の三橋も事件解決の報を受けて、安堵した一人だ。三日間の京都旅行を終えた後、事件のショックが尾を引いてしばらく落ち着かない日が続いていたが、事件の解決を知って、ようやく落ち着いたと、京都府警本部の木山に電話があった。
「それにしても福澤さん、すごいですね。残念ながら私は、崎山が犯人だと思い込んでいて高橋の存在に気付きませんでした。いやあ、今回は参りました」
木山がそう言って福澤を祝福したが、同じことを福澤は上司の狭山にも言われている。福澤は、今回の事件を解決に導いた最大の要因は、自分ではなく、夕月光だと言おうとしたが、結局、口にする機会のないまま、不本意ながら福澤の手柄になってしまった。
夕月光に会ったら礼をしなければ、福澤はそう思って松前の経営する居酒屋『よしやん』に通うのだが、その後、しばらく会うことができなかった。
「夕月さんはスターだからね。見つかると大騒ぎになるから、変装をしてやってくることが多い。見つけたら礼を言っておくよ」
銀幕のスター、夕月光と言えば、日本を代表する映画俳優だ。ハリウッドからも声がかかる実力派のスターだが、その私生活は謎に包まれている。しかし、と福澤は思う。そんなスターが、よりによってこんな小汚い店になぜ、やって来るのかと。もしかしたら、あれは見間違いではなかったか、それとも夕月光そっくりの人間だったのか。謎は残った。
事件が解決した日、福澤は娘の彩香を誘って寺町で食事をすることにした。福澤の誘いに気乗りのしない様子をみせた彩香だったが、新京極を歩きはじめると、途端に福澤に腕を絡ませ、甘えてきた。突然、甘えてきた彩香に驚いた福澤だったが悪い気はしなかった。彩香と共に街を歩き、一軒の洋食店に入った。
席に着き、注文を終えると、彩香が福澤に言った。
「お父さん、お誕生日おめでとう」
誕生日? そうだ、今日が誕生日だった。すっかり自分の誕生日を忘れていたことに気が付いた福澤は、彩香に「ありがとう。覚えてくれていて」と言った。
「これ、プレゼント」
彩香の差し出した袋を見て、福澤は、相好を崩して「ありがとう。嬉しいよ」と言葉に詰まりながら言った。
袋を開けると、手編みのセーターが入っていた。
「これから寒くなるからね。それを着て頑張ってね」
と彩香は言い、友だちに教わりながら編んだのだと言った。間に合わないといけないと思い、頑張った結果、門限に遅れた時もあったと彩香は口にした。
福澤は、理由も聞かず、彩香の頬を打ったことを改めて恥じた。亡くなった妻も、福澤の誕生日に手編みのマフラーやベストを編んでくれたことがあった。彩香の編んだセーターを頬に摺り寄せながら、福澤はもう一度、心を込めて彩香に「ありがとう」葉を言った。
<了>
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