仁澪131号
巻頭言 「仁澪会」が目指すもの
大阪公立大学・医学部医学科は、令和6(2024)年、創立80周年を迎える。その歴史は昭和19(1944)年の大阪市立「医学専門学校」から始まり、昭和23(1948)年大阪市立「医科大学」、昭和30(1955)年「大阪市立大学」へと引き継がれていく。大阪市立大学は、平成18(2006)年に「公立大学法人」となり、令和元(2019)年、「公立大学法人大阪」(福島伸一現理事長)に移行、そして令和4(2022)年、市大・府大の統合により「大阪公立大学」(辰巳砂昌弘現学長)が誕生、同大学「医学部医学科」(河田則文現医学部長)となった。附属病院は「大阪公立大学医学部附属病院」(中村博亮現病院長)と名称が変更、昭和33(1958年)に開学した「大学院」医学研究科はそのまま継承されている。
新しい大阪公立大学の一学年の定員は2,853名であり、国公立大学では大阪大学、東京大学に次いで全国3位である。学生総数は約16,000名(大学院生含む)、公立大として最大規模となった。学部は11学部・1学域、時代のニーズに合わせ多彩であり、その使命は“知の拠点として人・都市・世界を結びつけることである”と謳われている。
医学部は医学科とリハビリテーション学科とに分かれ、医学科は市大医学部がそのまま継承された。医学科の定員は一般選抜76名、総合型選抜(推薦枠)5名、学校推薦型選抜(地域枠)10名の計91名である。令和4(2022)年度の、大阪府下における医学部合格者数は、大阪大学110名、大阪医科薬科大学112名、関西医科大学127名、近畿大学112名、大阪公立大学95名となっていた。大学の規模に応じ学生及び教員を増やすべきと思われた。
大阪公立大学は、大阪市内にある唯一の総合大学であるが、市民270万人の大学ではなく、府民870万人の大学となった。附属病院も大阪府下全域の特定機能病院となり、高度医療の提供、医療技術の開発、人材の育成などを担っている。現在、大阪には509病院があり、内9割をしめる民間病院が、地域の救急医療や在宅医療を担い、地域密着型の病院として「かかりつけ医機能」を果たそうとしている。地域医療にも大学の支援が必要だ。
「医師の働き方改革」が2024年4月からスタートし、医師の時間外労働も上限が年間960時間(週20時間相当)に規制される。また、連続勤務時間(28時間)の制限や、勤務間インターバル(9時間)の制限などが加わり、違反すれば6か月以下の懲役または30万円以下の罰金が科せられることになる。大阪公立大学の関連病院は259病院(府内203病院、府外56病院)あるが、救急・急性期病院では、医師不足が現実のものとなっており、多くの病院が、大学からの医師派遣に期待を寄せている。
同窓会の目的は、会員相互の親睦を深め、学術の交流を図り、母校の発展に寄与することであるが、近年、“会員相互の親睦”や“学術の交流”がとり難くなっている。昭和の卒業生は、会費収納率は高いが、集まりが悪い。平成の卒業生は、会費の収納率が悪く、集まりもよくない。卒業すれば母校から離れ、母校の同窓会どころではないのだろうか。
“母校の発展に寄与する”ため、仁澪会では、令和6(2024)年に「大阪公立大学医学部医学科の創立80周年記念事業」に取り組む。また、令和10(2028)年には「森ノ宮新キャンパス」の開学が予定されており、JR大阪城公園駅の東側(敷地58,000㎡)に、事業費420億円の、地上12階建の新キャンパスが誕生する。この事業にも積極的に関わっていきたい。
仁澪会は、平成30(2018)年から「一般社団法人」として活動しているが、ここ数年、公益法人化を目指して、医学生に対する「奨学金制度」、若い研究者に対する「国際学術交流助成」、地域医療で頑張る卒業生への「地域医療研究助成」などの事業を行ってきた。その資金に充てるため、2023年度から会費値上げをお願いし、多くの会員の理解とご支援により、財政を立て直すことができた。本当にありがたく、心から感謝申し上げたい。
「公益法人」の認可を得られれば、“税優遇のある寄付行為”の増大が期待できることになり、公益事業活動のさらなる充実をと考えている。
迎える2024年度は、医学部医学科の創立80周年、仁澪会も念願の「公益法人」となれそうな大きな節目の年度となる。これを機に、仁澪会をよりパワーアップさせ、卒業生や医学生のみならず、社会全体の役に立つ事業を実行していきたい。
会員皆様からのご支援、ご鞭撻を、これからもどうかよろしくお願い申し上げます。
西澤良記先生の叙勲(瑞宝中綬章)のご報告と感謝
代謝内分泌病態内科学・腎臓病態内科学 教授 繪本正憲
令和5年11月3日に行われました秋の叙勲者の発表におきまして、代謝内分泌病態内科学・腎臓病態内科学(旧第二内科学教室)の第四代教授を務められました西澤良記名誉教授が、瑞宝中綬章を受章される栄誉に預かりました。長年の本学におけるご功績に対する栄えある受章でありますので、仁澪会会員の皆さまにご報告させていただくともに、これまでご支援いただきました多くの皆さまに教室代表者として心より感謝申し上げます。
西澤良記先生は、1970年に大阪市立大学医学部を卒業され、第二内科学教室に入局、1975年大学院医学研究科を修了、その後、米国カリフォルニア州立大学ロサンジェルス校にて実験的肥満の研究をされ、1979年帰国後は、第二内科学教室の助手、講師、助教授として、脂質・糖代謝異常とカルシウム代謝異常の病態解明、診断、治療に関する研究を精力的に進められました。1999年から2010年まで教授として教室を主宰され、代謝学、腎臓病学、透析医学の幅広い分野で、基礎的・臨床的研究を大きく展開されました。特に、骨粗鬆症診療における骨粗鬆症マーカの適正使用に関するガイドラインの策定に貢献され、日本骨代謝学会(2005年)、日本骨粗鬆症学会(2005年)を相次いで主宰されました。さらに、透析医学の分野では、腎不全患者における血管石灰化機序の解明、動脈硬化診断、透析患者における合併症と生命予後に関する疫学的研究を発展させ、国際腎不全会議(2001年)、国際マグネシウム学会(2006年)、さらに透析患者における脂質・糖代謝・ミネラル代謝異常から血管合併症まで幅広い視点から『透析患者の良質な長寿(Good Longevity)』をテーマとして日本透析医学会(2007年)を主宰、2006年から日本透析医学会の理事長を担われ、わが国の透析医学・医療全体を主導されました。この間も、2002年からは大阪市立大学医学部附属病院副院長、2006年から大阪市立大学大学院医学研究科長、医学部長を務められ本学医学部の発展に貢献されました。2010年から公立大学法人大阪市立大学の理事長兼大阪市立大学長、2019年から公立大学法人大阪の理事長として、大阪市立大学と大阪府立大学の統合による大阪公立大学の開設に心血を注がれました。
このような超多忙なお仕事の中においても、教授時代には、教室員とのバーベキューパーティや医局旅行などの教室イベントも毎年楽しく開催していただきました。また、人材育成や趣味のゴルフを通じたさまざまな方との交流を大切にされ、教室員には『ヒトとの繋がり』の大切さをご自身の行動をもって示され、現在の教室スタッフ、関連病院の多くの人材を育てられました。今回の西澤先生の叙勲は、そのご指導をうけた私たち教室員にとりましては大変な誇りであるとともに光栄なことです。西澤先生は、現在、関連病院の顧問や学会役員のみならず、2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)での要職も担われておられます。西澤先生の益々のご活躍とご健勝を祈念しつつ、今回の仁澪会会員皆さまへのご報告とさせていただきます。
理事だより 日本酒との出会い
昔の話であるが、30代の時に突然日本酒が好きになった。20代の頃はビールすら飲めなかったのに、である。正直、よそ様からすればどうでもよい内容だと思うが、本当に突然のことであったため、今でも鮮明に覚えている。きっかけとなったのは、旅行中にホテルのレストランで灘のお酒の仙介という大吟醸を飲み、なんて美味しいのかと感激してしまったことであった。仙介であれば特別純米が一番美味しいと今では思うが、当時は大吟醸の口当たりの良さにびっくりしてしまい、その日から突然日本酒の道に邁進することとなってしまったのである。お酒好きの方からすると、なにをいまさら、と思われるだろうが、当時の自分にとっては青天の霹靂ともいえる出来事であったのである。それまではたまに赤ワインを飲むことがあったが、どちらかというとイキって無理して飲んでいたほうだったし、安物ばかり飲んでいたこともあって、お酒というもの全般に対して良い印象を持っていなかった。そんな中でこの大吟醸に出会ったため、あまりの出来の良さにはまってしまったのであろう。最近は生酒を好んで飲んでいるが、大吟醸でなくても味わい深い良いお酒がたくさんあることも知ることができた。当時はまだ給料の安い大学勤務医であったことから、日本酒が存外に安価であったのも魅力であった。ワインは本当にピンキリで、個人的な印象ではあるが、最低限数千円は出さないと美味しいものには出会えないと感じているが、その一方で、日本酒は四合瓶ならば大抵が三千円以内で買うことができ、安価で美味しい、という素晴らしいものであることを知ってしまったのである。
いまやいっぱしの飲んべえのつもりでいるものの、二合も飲むとコテンと寝てしまうのだから、一般で言うところの飲んべえでは全くないのだが、好きなものは好きなのである。もっとも最近は病院関連でイライラすることが多くなってしまい、やけ酒の頻度が増えつつあるが、好きなお酒なのだからできれば楽しく飲みたいとは思っている。
好きが高じて酒蔵探訪もしばしばするようになった。実際に現地に行くことでそのお酒の持つ雰囲気を感じることができ、また、その酒蔵でしか買えない限定品を購入したりできるのが利点である。医師になってからは忙しさのためにドライブをする機会も減ってきていたのだが、おかげでちょこちょこ出かける機会を作ることができた。例えば、いまや超メジャーとなってしまったが、人気が出始めた頃の旭酒造(獺祭を製造しているところ、といえばわかるだろうか)にも訪問できたし、そもそも灘にある多くの酒蔵にはしばしば買い出しに出かけており、関東の方にも出かけたこともある。あ、もちろん飲酒運転はしていないので、念のため。
また、日本酒に関連して、というか、“醸す”ということ全般に興味が出てきてしまい、例えば、醤油にも興味が出て、湯浅まで行ったこともあった。表面的な内容ではあるが、簡単な本を購入して“醸す”ということについて調べていくにつれ、いかに素晴らしい技術であるかを感じる。なお、“醸す”つながりでいえば納豆もあるのだが、食べたら美味しいよ、と教えられてはいるものの、どうしても匂いが苦手で、いまだに食べることができないでいる。
人は年を重ねるにつれ新たなことに手を出すことに億劫となるといわれている。自分自身、孔子のいう「知命」の年齢を超えてしまったため、これから先、どの程度元気に仕事を続けることができるかはわからないものの、仕事関連の新しい知識については働く限りはいわばdutyとして手を出していかなくてはならないが(逆にいえば手を出せなくなったら引退時期だと思っている)、これからも仕事以外の様々なことに興味を持ち手を出していけるように頑張っていきたいと思っている。
2023年 卒業生の初期臨床研修先
大阪公立大学医学部医学科の卒業生は初期臨床研修で多くの病院で研修を開始しています。2023年4月に研修を開始した卒業生の研修先と人数を表にまとめました。人数の入っていない病院は3名未満で順不同としています。大阪公立大学の卒業生がどのような病院で研修しているかの動向が、研修病院でご活躍の先生方の参考になればと思います。また、これから研修先を考えている学生諸君は病院見学や研修先の検討の際に参考になれば幸いです。
卒業生の初期臨床研修先は、今後、継続的に掲載していく予定ですので、楽しみにしていてください。
文責:栩野吉弘 1997(H9)年卒
2023年 卒業生の初期臨床研修修了後の進路
大阪公立大学医学部医学科の卒業生のほとんどが初期臨床研修後(卒後3年目)から専門研修を開始します。今回、2023年3月に初期臨床研修を修了した卒業生の進路を掲載します。2021年に初期臨床研修を開始した卒業生99名のうち同意を得て回答が得られた71名の入局先と診療科を表でまとめています。入局先では、大阪公立大学が48名、他大学が9名、入局せずに病院勤務が14名でした。診療科では内科28名、小児科7名をはじめ、様々な診療科に進んでいることがわかります。
卒業生の初期臨床研修後の進路は、今後、継続的に掲載していく予定ですので、楽しみにしていてください。
なお、前号(130号WEB版)では2023年度の新入生の出身高校を掲載しています。見逃した方は仁澪会ホームページからWEB版でご確認いただけます。
文責:栩野吉弘 1997(H9)年卒
大阪市大医学部79年と附属病院99年の歴史-ⅩⅩⅩⅥ 【神経精神医学教室】
■神経精神科開講当初 初代 阪本三郎 教授/2代 中 脩三 教授(写真①②)
神経精神医学教室の開講は昭和20年(1945年)であり、大阪市立医学専門学校が設立された翌年である。京都大学から阪本三郎先生が講師として赴任したことが始まりで、昭和23年に大阪市立医科大学となり初代教授に就任した。当時の外来患者はハンセン病や神経梅毒、パーキンソン病が中心で、うつ病や統合失調症など現在の精神科の中心疾患の治療はほぼ入院で行われ、治療も電気ショック療法などが主であり、抗精神病薬が登場し使用されるようになったのは昭和30年代になってからである。
昭和32年、それまで九州大学精神科教授であった中 脩三先生が、当教室の教授に就任した。中教授は日本神経科学の開祖的存在であったが、来阪後は精神発達などにも研究の裾野を広げ、昭和34年に阿倍野保健所で始めた三歳児検診は全国での法制化に先んじた取り組みであった。教室の研究領域もまた、電気生理、神経科学、精神病理、精神分析など多彩であった。本学出身者と京都大学、九州大学からの来援者でなる教室員は、手探りながら多方面へ手を拡げ、後に京都大学、名古屋大学、神戸大学、鹿児島大学、奈良県立医科大学、近畿大学、産業医科大学、藤田保健衛生大学など多くの精神科教授を輩出した。
■3代 川北幸男 教授/4代 山上 榮 教授(写真③④)
昭和34年に九州大学から当教室助教授として着任していた川北幸男先生が、第3代教授に昇進したのは昭和41年である。しかし、昭和42年から44年に渡り続いた大学紛争により、当教室の研究や教育は困難を極め、大学を去った教室員も少なくなかった。その後、昭和45年の旧本館改装にともない地下中閉鎖病棟は2階北病棟(40床)へ、北館1階東病棟は東館7階東内科共通病棟(8床)へと移転された。また、研究室に2台の超遠心分離機が設置されたことで、脳の核酸の研究などが活発に行われるようになった。
平成4年に大阪市立大学出身の山上 榮先生が4代教授に就任した。てんかんモデルとしてELマウスを用いた遺伝子研究などが当時の研究テーマの中心であり、外来患者は多く神経症や精神疾患の軽症例、神経系疾患や心身症など幅広い疾患の診療を行うようになっていた。平成5年に現在の附属病院が開院した当初は、6階東の閉鎖病棟に加えて11階西共通病棟に8床の開放病床を有していた。また、将来認知症患者が増え社会問題になることを予見し、大阪市立弘済院附属病院の医療体制の充実に力を注いだ。本学老年科・神経内科の開設にあたっては、山上教授が部長を併任した。
■5代 切池信夫 教授(写真⑤)
平成11年に5代教授に就任した切池信夫先生は、ネブラスカ州立大学医学部薬理学教室での留学から帰国した昭和55年頃より、摂食障害を研究テーマとし臨床でも研究でも精力的な活動を開始した。当時は疾患概念が漸く確立し、西欧諸国に遅れて本邦においても摂食障害の報告数が増えてきた時期である。その後外来受診する摂食障害患者は急激に増え、当科は日本における有数の摂食障害の医療機関となった。切池教授は、日本摂食障害学会設立にも尽力した。平成17年に第1回日本摂食障害学会学術集会を開催し、平成20年度からは同学会の理事長を勤めるなど日本の摂食障害の第一人者として臨床や研究を牽引し、また専門書だけでなく一般向けの書籍も多数出版するなど摂食障害の啓発にも幅広く貢献をした。
当科は、都市型の医療機関として多くの外来患者が受診するが、統合失調症やうつ病、双極性障害といった精神科疾患以外にも、神経症や発達障害、認知症、人格障害など老若男女、多種多様な患者が来院するのも特徴である。このような背景もあり、当教室では摂食障害研究のほか、後に兵庫医科大学教授となった松永寿人先生の強迫症研究や、パニック障害などの神経症研究、児童思春期の精神疾患や認知症など老年期の神経画像研究、産業精神保健に関する研究など多彩な研究グループが生まれ、現在の教室の礎となっている。
■6代 井上幸紀 教授(写真⑥)
平成24年に切池教授の後をついだのが、6代目の井上幸紀教授である。井上教授は当教室に入局後、摂食障害の臨床および生物学的基盤研究に従事し、平成12年からは米国スクリプス研究所に留学した。摂食障害を食物に関する嗜癖行動と捉えた生物学的研究と認知行動療法など臨床アプローチを実践する延長線上に、労働者における燃え尽きと仕事依存に注目するようになり、帰国後は産業精神医学に活動分野を広げた。現在では産業保健の重要な課題がメンタルヘルス対策となっているが、当時の職域では精神科医は限られた存在であり、その後の産業精神医学発展の先駆けとなった。その後、職域におけるメンタルヘルス研究を中心に様々な調査も実施し、日本精神神経学会産業保健に関する委員会委員長、日本産業衛生学会理事、日本産業精神保健学会理事など産業精神保健分野での活躍をはじめ、摂食障害学会や日本心身医学会、日本認知療法学会、日本うつ病学会、日本生物学的精神医学会、日本神経精神薬理学会など多岐におよぶ学会において役員を務めている。現在当教室員は一部上場在阪企業を中心に精神科産業医として活動している。
臨床教育面では近年、他科、特に救急科、産科や小児科との緊密な連携を行い、緩和ケアやリエゾン活動などで大学病院の医療全体に貢献している。また令和4年に大阪府立大学と統合し大阪公立大学となり、学生数は国公立大学で3番目に多く職員数も増えたことからメンタルヘルスセンターが設立され、岩﨑進一准教授を中心にその運営を担っている。研究活動としてはストレス関連精神疾患、摂食障害、児童思春期精神医学、神経画像・認知症、双極性障害の生物学的基盤研究などを精力的におこなっている。これら専門性の高い患者の診療を積極的に受け入れているほか、当科が大阪市内唯一の大学病院精神科としてその他様々な精神疾患の診療も行っていることが、昭和期から現在への系譜である。
(医局長:山内常生)
今回で「医局巡り」を一旦終了いたします。幾つかの基礎医学の教室、
臨床の眼科・皮膚科・産婦人科等が未掲載です。新企画で基礎・臨床の全科を網羅する予定ですが、現役教室員の助力が必要です。
田中祐尾(昭和44年卒)
大阪の医史蹟めぐり―32
昭和44年卒 田中 祐尾
大坂という「まち」 ―その1―
豊臣秀吉(1537~98)が全生涯の集大成であった大坂城とその城下町としての大坂。もともとが本願寺中興の祖蓮如が築いた坊舎(後の大坂本願寺)が始まり。本願寺が織田信長と長らく武力で対抗した挙句、教如によって明け渡されたのが天正8年(1580)、大坂は一寺内町に過ぎなかった。天正11年3月秀吉はこの地を直轄してこの本願寺跡地に大城郭の築造に着手した。天満川につながる平野川・京都から下る淀川・河内平野を縦断する大和川の三つを一本に合流させて大阪湾に至る水路の完成までには多くの商人・土木工人・農民たちが関わって天正12年大坂夏の陣が終わる以前から基礎工事が始まっていた。元和元年(1616)徳川秀忠は家康の外孫の伊勢亀山城主松平忠明(ただあきら)に10万石を加増して大坂城主に抜擢する。忠明は英名な頭脳と俊敏な行動力を持ち東西町奉行所の設置・区画整理・伏見商人の移住・堰堤や水路の確保など僅か3年で荒廃しつくした町を復興する。この人の頭脳と行動力が後の大坂の街を形成する土台となったのであって、もしも愚直な城主だったら大坂は貧弱な一地方都市となっていたと思われる。
東と西の町奉行所は庶民の訴えをとり上げ、今でいう家庭裁判所の役目もした。与力・同心たちは治安を任されて上意下達を徹底、地方への意志伝達は烽火(のろし)を使い雨天には伝書鳩を飛ばした記録がある。
道頓堀で有名な安井道頓(1533~1615)は東横堀川から木津川に至る水路を掘削中大坂夏の陣で戦死するが、それまでの数十年とその死後もひたすら堀を広げて商都を「水運の町」に変貌させた(写真①)。浪華八百八橋と言われるが幕府が架橋した公儀橋は12橋しかなく他は住民負担による町橋であった。そして交通を架橋によって支えたのが裕福な商人達で淀屋の「淀屋橋」がその代表である。淀屋个庵(こあん)は天井に金魚を泳がせるといった贅沢三昧が過ぎて、奉行所から蟄居閉門を申し付けられた。
大坂における物品の運搬は荷車よりも「はしけ」による細かい物流が主流となって約一世紀前のイタリアのヴェニスやピサ・ナポリといった一大商都とよく似た風景だった。当時から江戸期にかけて貨物の末端への陸上輸送は専ら「ベか車」(写真②)と呼ばれた二人かかりの大型大八車が全盛だった。一方この人力と小さい堀や川の浮力・水流そして浮力を利用するはしけでの運搬の差が商都大坂のエネルギー源となって行く。
河村瑞賢安治(やすはる)(1617~99)はこれら多くの川が堂島川と土佐堀川の合流地点で度々洪水をおこすのに長年苦しんだことを幕府に請願し、大阪湾の河口で流れを広く一本にする大工事をする。後にこれを「安治川(あじがわ)」と名付けた。然しながら大和川と淀川を合わせた水量はその後も大雨には耐えきれず、今に至るも河内から大阪湾までの治水は行政の懸案であり続けている。大和川の水路変更工事は中甚兵衛ら河内の農民にとっての悲願であって宝永元年(1704)、河内平野の東部から南へと流れる大和川を現在の柏原市の丁度市役所の辺りから真西へと掘削を続けて6年後、大阪市立大学本学が在る杉本町から住吉の浜へと流れる大工事が終わる。淀川の水路では早くから幕府が認可した「過書(かしょ)船」が行き来し元禄11年(1698)には伏見からの船200艘が営業権を持ち、大和川・平野川では「柏原船」が河内の物資を大坂へ運び外航の船から大阪湾を経るまで、市内を碁盤目のような細い堀で埋め尽くした。水運の盛んなさまを当時「出船千艘 入船千艘」(写真③)と譬えられたが、元禄年間の船番所記録には両方の水路をあわせて交通した船の数が年に3,633艘とある。船の大きさははじめ200から400石積み程度だったが次第に1000石から1800石積みの大船が行き交いして浮力を得るための十分な浚渫が不可欠となる。当時の川浚(ざら)え人足は水夫とは別の危険な作業だったため「非人(ひにん)」たちが受け持った。「非人」とは士農工商の以下の階層で、ほぼ人力が頼りの川浚(ざら)えをはじめゴミや排せつ物・死体の処理といった大都市の底辺を下支えた人達を指す。幕府の公認で市内全域数キロ間隔に100戸ずつを住まわせ「垣外(かいと)」と呼んだ。垣外は天満・天王寺・鳶田・道頓堀の四カ所、長吏(ちょうり)や小頭(こがしら)を頭に各所100人前後だったが時代を経て新垣外が広がり全国から非人に相当する無宿人・元囚人・博徒といったアウトローたちが最盛期には総数一万人となる。また中には教養や頭脳の優れたものがいて、摂津には「転びキリシタン」と呼ぶ禁制のキリシタンから離脱した人たちが海外の知見を持った集団として存在した。幕府はこれらの人々に限定的警察権自治権を与え自らの制御を楽にしたのである。
多くの運河が開削されるにつけ沿岸の堂島・西高津・堀江・曽根崎・難波といった新地が造成され、安治川口には江戸への「菱垣廻船」「樽廻船」のほか「北前船」「明石船」「尾道船」「阿波船」「宇和島船」など諸国の貨物を満載して安治川河口に集まる(写真④)。 ヴェニスやナポリに似た日本の水都大坂ではどのような海外と国内の交易や商工業、そして隣接する河内平野とはどのような物流であったかについて。元禄期以降諸藩の物産が大坂に集中したのを機に諸藩は中之島・土佐堀川・江戸堀川といった大川の岸に年貢米の蔵屋敷を建て、米を換金して藩財政の源とした。淀屋・鴻池・天王寺屋・平野屋などの米商人は米相場を取り仕切って莫大な利益を得る。米以外には薩摩の砂糖(輸入品が主)(写真⑤)、長門・石見の紙、阿波の藍(染料)、土佐の鰹節、播磨・周防の塩、備後の畳表、伊予の蝋などが扱われ、代金は「掛け屋」が預かり、次第に掛け屋が両替商を兼ねていった。要するに諸大名の会計係は変動する相場を扱えず、これら掛け屋に藩の借金を申し込む成り行きとなった。
各地の産品を産品別に扱った市としては堂島米市場と天満の青物市場、それに近海魚の雑喉場(ざこば)魚市場(写真⑥)があって三大市場として繁盛した。青物市場はのちに天神橋北詰に移転するが東成・西成・江口・長町・豊島・能勢・住吉・木津・鳴尾・田辺・吹田といった農村地帯でできる大根・蕪・人参・牛蒡・茄子・瓜・西瓜・柿・クワイといった野菜類は大切な食物だった。
そして天保年間(1834~44)の終わり頃には諸藩の年貢回帰米400万石のうち300万石は大坂商人からの借金6000万両の利息に消えたという。商都大坂の基盤は何時の時代にもお金が主役であった。
天候不順や貧農にあえぐ江戸時代の農民像は大坂郡部の百姓たちには当てはまらない。中 甚兵衛らによる大和川付け替え工事(総延長14.3㎞)の宝永元年工事完成と同時に新田開墾が始まって鴻池新田や深野新田など1063町歩の肥沃な農地が生まれた。米作のほかに北部で木綿(きわた)が、南部では菜種が競って栽培され、百姓たちは衣類(木綿)と灯明(菜種)を扱う商人とも交わって米作の苦労を超えた利益を得た。衣食住の充足であった。
大坂の木綿は水田2万町歩のうち最盛期8千町歩が棉作にあてられた。大坂の木綿織物は天明六年、河内が10万反・摂津が5万反・和泉が20万反であった。百姓の女房達の多くは自家で木綿布を織った。「河内木綿」は近年復活を遂げ八尾市を起点にした販売が盛んとなっている。
学生クラブ活動紹介
医学部ゴルフ部
医学部3回生 山田 駿輔
医学部ゴルフ部は男子36名、女子10名の計46名が所属しており、そのほとんどが大学からゴルフを始めています。練習は毎週木曜日にゴルフスミノエで打ちっぱなしをしています。ゴルフ部の特徴として、大会で好成績を残すため精力的に練習する人がいれば、とにかく友達と楽しくゴルフをする人もいます。このように各々が目標を達成するために向上心を持って活動しています。定期的にコンペが開催されており、他大学の方や先生方と交流できる機会が多いため交友関係を広げることができます。ゴルフはコミュニケーションツールとして親しまれており年齢性別問わずプレイできるスポーツです。今から始めていれば、年代を越えたコミュニケーションが上手くなり将来的に役立つこと間違いありません。医学部ゴルフ部に少しでも興味がある方は、ぜひ練習に足を運んでください。
医学部ラグビー部
医学部3回生 今村 徳希
こんにちは。医学部ラグビー部です。医学部ラグビー部は現在部員プレイヤー18人マネージャー6人の合計24人で活動しております。練習は週3回、火曜、木曜、土曜に杉本キャンパスの人工芝グラウンドで行っております。大会は春の関西医歯薬と夏の西医体があり、部員はこの大会で優勝することを目標に日々練習に取り組んでおります。コロナウイルスの影響が弱くなり、今年度にようやく3年ぶりに大会が開催されました。結果は関西医歯薬は優勝、西医体は4位となりました。西医体では優勝できずとても悔しい思いをしました。また、部員はほとんどが未経験者で、すぐ試合に即戦力となります。背が高い人、足が速い人、キックが上手い人、誰にでもポジションがあり、試合では一年生も活躍しています。部員一同大会に向けて練習に励んでいきますので応援の程よろしくお願いいたします。
国際交流サークルISAO
医学部5回生 伴奈 菜加
国際交流サークルISAOは、主に海外の病院への短期留学と留学生の受け入れ活動を行っています。本サークルの活動は、新型コロナウイルスの影響を大きく受けましたが、昨年度より留学が再開され、本年度は5回生13名がフィンランド、ハンガリー、ポルトガルなど様々な国へ留学に行くことができました。海外の病院での実習、異国での生活、現地の学生との交流など、様々な新鮮な経験をすることができ、各々の視野を広げるとてもいい機会となりました。また、本学での留学生の受け入れは、今年度10月より再開することができ、年内には4名の留学生を受け入れました。留学生とともにご飯を食べたり、京都へ行ったりなど、様々な留学生との交流企画を行いました。新型コロナウイルスの収束に伴って、ISAOの活動も本格的に再開し、徐々に下回生の部員も増えてきており、より国際交流を活発にしていきたいと思っております。今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。
学会主催者報告
第499回日本皮膚科学会大阪地方会
会 期: 2023年9月9日(土)
場 所: 朝日生命ホール
8階大ホールおよびWEB(ライブ) 配信(ハイブリッド開催)
主 催: 大阪公立大学大学院医学研究科 皮膚病態学
会 長: 鶴田大輔(平成4年卒)
この度、第499回日本皮膚科学会大阪地方会を朝日生命ホールおよびWEB配信(ハイブリッド形式)で主催致しましたことをご報告申し上げます。日本皮膚科学会は皮膚科学に関する研究・教育と医療について、その連絡連携を図り、皮膚科学の進歩・普及に貢献し、もって学術文化の発展に寄与することを目的として組織されている学会です。大阪地方会は、大阪府、奈良県、兵庫県、和歌山県を対象とした地方会になります。
今回の地方会は参加者200名を超える規模で開催されました。一般演題20題、スライド供覧5題が発表され、診断・検査・治療・予後などについて、有益な最新の臨床情報が広く共有されました。
教育講演では、浅野善英先生(東北大学大学院医学系研究科神経・感覚器病態学講座皮膚科学分野教授)が「全身性強皮症の病態 ~細胞種横断的視点に基づく理解~」と題して、全身性強皮症の病態についてご講演されました。
また、スポンサードセミナーは2題で、朝比奈昭彦先生(東京慈恵会医科大学皮膚科学講座主任教授)からは「ドボベット®を語り尽くす」と題したご講演があり、また、金田一真先生(大阪医科薬科大学医学部皮膚科学教室講師(准))には「当科の紹介とコレクチム軟膏の使用経験」と題してご講演頂きました。
皮膚科学の分野で最新の研究成果と臨床情報を交換し、関西エリアにおける皮膚科専門家のコミュニティを強化する機会となりました。本会が盛会のうちに終了しましたことをご報告致しますと共に、関係者各位に御礼申し上げます。
第45回日本臨床栄養学会総会
会 期: 2023年11月11日~12日
場 所: 大阪国際交流センター
会 長: 大阪公立大学特任教授 加納総合病院名誉院長
西口修平(昭和56年卒)
第45回日本臨床栄養学会総会は第44回日本臨床栄養協会総会と合同で2023年11月11日(土)から12日(日)まで開催されました。学会総会は医師を中心とし、協会総会は管理栄養士を中心とし、2003年から大連合大会として続けられています。他の栄養関連学会としては、外科医が中心となり静脈・経腸栄養などを扱う日本臨床栄養代謝学会や、糖尿病の専門家が中心となり内分泌・代謝栄養などを取り扱う日本病態栄養学会がありますが、日本臨床栄養学会は幅広い年齢層に対し、特定の疾患や領域に偏ることなく、医師への栄養教育、そしてそれを支える管理栄養士の養成とシステム構築に重点を置いています。
臨床栄養学は薬物療法などと比べてエビデンスの構築が難しい分野ですが、今回のメインテーマは『エビデンスに基づく臨床栄養学の創造 ~"食"を制するは喜びに通ず~』であり、各分野における最新の知見を総覧し、未解決の課題を明確にし、エキスパートが集い議論することを目指しました。2020年と2021年の大連合大会はコロナ禍のためWebでの開催でしたが、昨年からは現地開催とオンデマンド配信を組み合わせたハイブリッド形式で開催されています。今回は、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所の中村祐輔先生、大阪大学免疫学フロンティア研究センターの宮坂昌之先生、神戸大学大学院科学技術イノベーション研究科の渡邊恭良先生、衆議院議員の野田聖子氏など多くの著名な方々が登壇し、1,000名を超える医師と管理栄養士が参加し、盛況となりました。
西口が会長を、本学生活科学研究科の羽生大記先生が事務局長を務められたこともあり、肝疾患に関する栄養療法のセッションが複数行われましたが、生活習慣病、循環器、呼吸器、消化器、腎疾患など、全ての分野が網羅されたプログラム構成でした。本学からは医学研究科肝胆膵病態内科学の元山宏行先生がPhase Angleを用いた慢性肝疾患患者に伴うサルコペニア評価についてシンポジウムと一般口演で、生活科学研究科食栄養学分野の松本佳也先生も食事パターンを基にしたNAFLD患者に対する食事・栄養療法について合同シンポジウムと一般口演で発表し、いずれも若手奨励賞を受賞されました。
私自身も、サルコペニア、腸内細菌、微量元素、サプリメント、AIなどが様々な領域で精力的に研究されていることを知り、分野を跨いで議論される機会を通じて多くの知識を得ることができました。最後になりましたが、運営に際しましては同窓会の先生方に多大なご協力を賜りましたことを、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
卒業後55周年を迎えた43同窓会
参加者:梅咲、河村、北野、許、柴、庄司、田中、中江、土師、古川、丸毛、三橋、山上、山下、和久(計15名)(文中敬称略)
(幹事、許、柴、庄司)(文:庄司)
『43同窓会』の会計を担当している山上先生から突然電話がかかってきました。2023年(令和5年)9月上旬のことです。「領収書、ゴム印、『43同窓会の角印』が行方不明なので、受付の時、一人一人、手書きでお願いします」との内容でした。私は少し驚いて、答えました。「前回、(2019年春のあべのハルカスのレストラン)『ZK』で受け取って、『同窓会の書類』全部、私が持っているよ」と返事しました。
2023年の昭和43年卒業生の同窓会はこのような状況の中で、天王寺動物園の敷地の横にある『天王殿』で行いました。43同窓会が今年度で、「卒業55周年」を迎えていたことを知ったのは、終わってから数日後のことです。このようことになったのには「コロナ」が大きく関係しています。そこで『卒業55周年』開催に至るまでの経過を簡単に書きます。
2019年(令和元年)12月上旬に中国の武漢市で第1例目のコロナ感染者(COVID-19)が報告され、その後、わずか数カ月で世界的なパンデミックとなりました。そのため、早速、幹事の柴先生、許先生、私、それに実質的な43同窓会の世話人で会計の山上先生に加わってもらって相談しました。その結果、全員一致で、「2020年の同窓会」開催の中止が決定しました。次期開催はコロナのパンデデミックが終了次第ということになりました。
コロナの感染は第1波が2020年(令和2年)1月29日~6月13日、一時的な緊急事態措置解除5月22日にありましたが、6月14日~10月9日の第2波に見舞われました。そのため、秋に延期の案も流れてしまいました。その間の2020年(令和2年)9月1日に多人数での宴会自粛要請が報道され、同窓会の開催はますます困難な状況となりました。そのため、また、全員一致で、コロナのパンデミックが終息するまで、開催を中止することに決めました。
コロナの感染はその後も治まることなく続き、第3波が2020年(令和2年)10月10日~2021年(令和3年)2月28日までありました。第3波まではいわゆる従来株(オリジナル株あるいは起源株)でしたが、その後変異株(アルファ株)が出現し、これによる第4波は2021年(令和3年)3月1日~6月20日、続いてデルタ株の出現により第5波2021年7月1から10月1日となり、さらにコロナは変異しオミクロン株となりました。第6波はオミクロン株(BA.1/BA.2)で2022年(令和4年)1月1日から4月1日まで続きました。その間、互いに連絡を取り合い、2022年(令和4年)の同窓会開催も取りやめることに決定しました。コロナはその後第7波に突入、その間、コロナ株の研究も進んだのか、第7波はオミクロン株(BA-5)で2022年(令和4年)7月1日から10月頃、とCOVID-19ウイルスも詳細に報道されるようになりました。
コロナはその後も変異を続け、英国ではオミクロン株(XBB)、アメリカのCDCではオミクロン株(EG5)が主流となっていることが報道され、WHOも「EG5の感染」に対して特に注意喚起していました。その間のコロナのワクチン回数も5~6回の接種が普通となりました。皮膚病では帯状疱疹、丹毒などの感染症が増加しました。その一方で43同窓会のメンバーの逝去が一人、また一人と増加しました。そのような中で、2023年9月23日同窓会開催を決定しました。その案内を2023年(令和5年)8月下旬に出しました。その結果、案内状の受取人不明での返送が3通あり、さらに逝去の知らせが2人ありました。
またコロナのパンデミックの間に大きな変化がありました。それは大阪市立大学と大阪府立大学が合併し、大阪公立大学になったことです。同窓生ほぼ全員が80歳代となった現在、また開催前に卒業後55年目であることを知っていたら、もう少し華やかにすることもできたのにと思うと、大変残念な気持ちで一杯です。しかし、出席が15人と少ないとはいえ、お互いに元気で、それぞれの自分の近況を楽しく歓談できたことは忘れられないひと時であったと思っています。
編集後記
1997年卒 栩野吉弘
仁澪の第131号は、第130号がWEB掲載であったことから、いくつかの記事は再掲載させていただいております。その分、充実した内容となっていると思っております。
今回の仁澪では、11月3日に発表された叙勲者として西澤良記先生の紹介を繪本正憲教授に執筆いただきました。過去にも同窓会委員から多くの叙勲受章者の紹介をさせていただいておりましたので、来年以降も叙勲受章者の紹介記事は継続して報告していきたいと思っています。医学生や研修医の同窓会員の情報として、第130号の大阪公立大学入学者の出身高校に続き、第131号では、卒業生の初期臨床研修先と初期臨床研修後の進路について初めて掲載させていただきました。大阪公立大学医学部IR室の設立以来、多くのデータが集約されてきており、同窓会にも情報を提供していただきました。今の学生や研修医の動向がわかる資料であり大変貴重だと思います。来年度以降も継続して掲載していく予定となっておりますので楽しみにしていただければと思います。
“大阪市立大学医学部と附属病院の歴史”として泌尿器科学教室と精神神経医学教室、“大阪の医史蹟めぐり”は継続して掲載しております。田中祐尾先生のご尽力により長年継続してきた名物コーナーですのでぜひともご一読ください。“学生クラブ活動紹介”は3団体ずつの定期的な掲載となっておりますが、今回は第130号と合わせて6団体の掲載です。学生の活き活きとした様子が印象的で、私は毎回、楽しみにしています。
今回、“学会主催者報告”と“クラス会だより”のコーナーでは、コロナ禍が明けて、対面で実施できてきていることがわかる写真も掲載されています。まだまだ、ハイブリッドやWEB開催からの移行期ではありますが、クラス会等は増えていくのではないかと思いますので、開催された際には、ぜひとも原稿と写真をお寄せいただければと思います。
広報委員として、仁澪の編集委員をさせていただくようになり、新たな記事やテーマを考えておりますが、まだまだ過渡期です。同窓会員からのご要望やご意見をぜひともお願いいたします。ありがとうございます。
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