パフォーマンスとしての議論に騙されないようにね

安倍晋三らの「ご飯論法」、国会でのなされように怒りとか不満とか嘲りとか色んな感情を抱いてきたけど、実際の自分の仕事関係でそういう対応する人に初めて関わってる。多分こういう対応する人って、自分の能力を最大限に使って、自分のことを正当化する努力をした時に、「ご飯論法」を使ってうまくごまかせた成功体験を繰り返して、それが自分の「高い能力」なんだと勘違いしているのではないのかな。小中高大と。
wikiには意図的に問いの定義を狭めて答える論法みたいに書かれてたけど、意図的じゃないと思う。野生に近いんじゃないかな。生き残るための本能で身につけた、困った技能。そういう人は、本来の論理ってものが全くわからないんだと思う。だから安倍晋三も、私が関わっているご飯論法の人も、質問者が怒ってもその怒りがわからないんだと思う。だから何も改善しない。
問題はそういう人とどう関われば良いのかとあうこと。だって正論がわからないだけではなく、ご飯論法で「はい論破!」とか思ってるわけで…。
そしてさらに深刻なのは、そういう人を淘汰できなくなっているのではないかという不安。もちろんこの淘汰は、組織で責任ある立場につく人、社会的に影響力を持ちうる立場の人に、そういう人はなっちゃいけないし、なれない、という意味での淘汰です。
論理よりも情が勝る世界では、ご飯論法は手続き的に何かクリアしているかのように見えるパフォーマンスとして成り立ってしまいます。ああ、としか言えない。そしてそういう世界では、同じことありがちなことが繰り返されるだけで、目的や意味を失ったパフォーマンスだけが再生産されるわけです。インスタ的だね。クリエイティブとは真逆の世界。

付言、そういう人は、会議とかでも議題じゃないようにただ話してただけで、それを承認されたという証拠にする人でもあるので、みなさん気を付けましょう。

パフォーマンスとしての議論に騙されるなよ私たちの社会。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?