東大食堂の宇佐美啓司作品の廃棄問題
東大の中央食堂にあった宇佐美啓司作品の廃棄について色々と議論されてますが、私なりに考えたことを書こうと思います。
問題は二つの論点に整理すべきかなと思います。
一つはアートワークを廃棄する行為をどう考えるべきなのか?
アートワークは我々の社会においてどのように扱われているのか?
という二点です。
廃棄ということがかなりショッキングに受け止められて、かなり攻撃的に批判がされてるように思いますが、廃棄することが野蛮だと最初から決めつけるのはある種の思考停止なようにも思います。たしかに、文化的価値はいつどのようになっていくのか不明なもので、そのことを踏まえれば保存維持の理念は広く社会に持たれるべきだと思います。以前山本有三地域創生大臣が「学芸員はガン」発言で炎上した際に、その発言を擁護したアベシンパで元官僚ののどっかの大学教員が「美術館や博物館の収蔵品は数年ごとに見直して要らないものは廃棄」というようなことを言ってましたが、数年のスパンで最終的な評価を下すのは不可能で、これはあまりにも乱暴で無知な無責任発言だと思います。一方で、どこまで保存すりゃいいの?という問題が存在するのも確かです。どこまでというのは、作品・モノの範囲と期間の両方ともです。
日本の美術館は、基本的に一回収蔵したら絶対に守り続けるというマインドに支配されてます。私自身もそうです。以前博物館資料論の授業を担当していた時に、ICOMの収蔵品の管理情報の項目と日本のそれを比較して話をする準備をしていた時に、売却と廃棄の項目があることに驚いた記憶があります。過日のDNP川村記念美術館が日本画のコレクションを売却するということを に批判的な意見を書きましたが、私の中に今でも館が保有した作品は手放されてはならないというマインドが色濃いことに気づかされました。三潴さんの指摘でしたね。自分のバイアスに改めて気づかされました。自らの強みを強化するために、優先順位の低いものを売却し、それを強化に当てるというのは、海外の美術館はやっていること。そう言えば、「交換」という項目もあったのではないかと思います。
目的が何かを考えた上でガチガチの思考に固まらないことも求められていると思います。この話は期間は可能な限り長く維持管理する上での柔軟性ですね。
で、廃棄です。廃棄されるとそれは存在しなくなってしまうので、売却や交換とはたしかに大きく意味が異なります。責任はより重い。この場合、作品・モノとしてどの範囲まで、という問題になると考えます。まず、美術作品の場合、質的評価がされてそれが保有され、展示に供されたり、収集保管されたりするのが基本です。その場合の美的質の評価を美術館の場合は、専門家である学芸員が行っているわけですが、その判断は、いくら美術の理論が生みだされそれを参照してようが、美的質が主観的判断である以上恣意的な側面は免れません。私自身もかつて学芸員として収集に関わってきましたが、そう思っています。ただ、一般の方より多くの情報の中での判断なのである程度の説得力はあるかもしれない。作品はそれこそ編み出され続けてるので、何かしらのゲートキーパーが必要で、そのゲートキーパーに学歴等の専門性を求め、納得させているというのが実態です。これは別におかしなことではない。ただし、学芸員の資格には目利きとしての能力は求められていないですし、採用される時にも少なくとも新人のその能力は分かりません。でも収集に関わってるという矛盾もあります。
東大の件について言えば、誰かどのような責任の上で、あそこにあの作品を設置したのかが問われるべきじゃないかと。持ち主が大学ではなく生協であったという情報も聞きましたが、生協はなぜアートワークを設置したのか?その選定は誰が行ったのか?が気になります。それが恣意的に行われたものであるなら、モノとしてそこにあったとしても、誰からも重要なものとしては認識されないのではないかと思います。だって、ほとんどの人が価値あるものとして認識していなかったわけですよね。そういう状況のものを、美術館の中に一応専門家が根拠を示して入れたものと同じように扱うことはできないのではないか?という見方もできなくはない。
個別の空間のなかで、その空間がどのような意味をもっているのか、どのように機能しているのか、そうしたこととの関係で考えることと、普遍的価値を文化財、芸術作品は持つという主張とをごっちゃにしないで議論しないと、結局は犯人探しに帰結して、私は意味がないと思います。
例えば、私の職場の千葉大学教育学部では、4号館の建物の前に抽象彫刻が台座に載せられ設置されています。7.8年前に突然設置されました。私はそのことについて全く知りませんでした。彫刻の教員と誰かしら幹部職員とで決めてしまったのでしょう。卒業生の作品ですが、設置の直前に卒業した者で、作家として評価されてるわけでもない。力作ではあるが、なぜこの作品なのかは私には理解できません。議論にさえなっていませんから。これは、多くの中から選ぶという行為がきわめて軽く扱われていることで、それがパブリックな空間に設置されるという意味や責任についての無自覚をそこに見ることができます。それに、そのタイミングでしかそういう「設置」のチャンスはないので、公平性もない。
加えて、これはいつまでここにあるのだ?という問いも私は抱いています。もちろんそのことへの考えもないでしょう。まるで原発と相似形だなといつも思っています。誰かの都合で設置され、その終わらせ方は誰も考えてない。今回の宇佐美作品も同じ構造ではないかと思います。千葉大の彫刻の話で言えば、建物の改築とか新築であの彫刻が邪魔になった時、どうするのでしょうか?おそらく資産台帳にも載っていないでしょうし、その時の経緯を知る人間もいなくなっていたりもする。アートワークみたいだから大事に扱い移設して…、ということになったとしたら、それはそれで意識高いと言えるのでしょうが、私はそうなることが無前提で正しいとも考えません。
長々と書きましたが、生協があれを、本物のアートワークを食堂に設置するということを、誰がどのような考えで行い、それがどのように共有され、引き継がれたのかが問われるべきなのではないですかね。あそこに宇佐美作品で良かったのか?そういう疑問だってあったって良い。というかあるべきでした。
そしてもう一つ問われるのは、普遍的価値を持つものとしてアートワークを扱う立場。アートにおける作品の普遍的価値は無いと私は思っていますが、たかだか100年も生きない人間がその範囲で考え判断することの限界を踏まえれば、保存維持することを検討することを求めるのは正しいと思います。
先述の我が職場に設置された彫刻が邪魔になった時、私がまだ現職であれば、作者に連絡をし、どうするかを聞きます。引き取れる?と。それが設置に至った手続き的な観点から、設置を継続することを正当化をすることは私にはできないので、撤去を前提にします。作者が「壊して良いです」「捨ててください」と言ったらそうするかもしれない。でも廃棄する金がなくて、どこかの物陰にひっそりと置く可能性が高いのが国立大学の実態かもしれません。
そうした手続きを生協、東大がしなかったのは残念だと思います。けれど、それもまた日本の文化的状況が表れたものとして考える必要もある。東大に限らず、食堂にアートワークが有ろうと無かろうと関係ない人が多数の大学の現状が日本の現実。あの食堂で宇佐美作品について思いを巡らす人はどれだけいたのか?そういう場が求められるという状況であれば、作品の選定も、手続きについての意識も変わっていくのでは無いか。パブリックな空間に作品を置くことは、美術館に展示することよりもはるかに難しいのだと認識することが最重要だと思う。
ちなみに、地域の人からシャッターアートを依頼されたり、壁画を書くプロジェクトを学校の先生から相談されたりするときに私が問うのは、「どうやって維持していくんですか?」「どうやって終わらせます?」ということ。だいたい答えてもらえないです。
できた最初だけ綺麗!で、じきにくすんで剥げていくのは迷惑。壁画がより堅牢な、質的変化の少ない素材を古来用いてきたことには意味がある。卑近な例ですが、この件と地続きだと思います。
#宇佐美啓司 #作品の廃棄 #公共空間のアートワーク