美術の可視化する力?隠蔽する力の間違いでは?
芸術祭が日本国内では大流行りだけど、私は手放しで喜んではいない。地域にアートが出て行くことを擁護する立場ではあるが、ここまで一般化され、行政の取り組みとして当たり前のように実施されると問題なしとは言えない状況も現れてくる。
一番大きな問題は、社会にどのような眼差しを向けるのかが前提として問われてないこと。日本の地域アート系芸術祭の多くは、多様性を謳いながら、極めて画一的な価値観を強いている詐欺的なイベントになってると言える。多様性を謳い、それにより乗り越えるべきことが共有されていないから。
そしてそれは、肝心なことを隠すマジョリティの狡さの表れにも見える。多様性を認めるとかオルタナティブを提示するとか言っても、そのアートのオルタナティブ性はある限定された"安全な"範囲にしか適用していないのが現実。それはオルタナティブ性を装うことでよりひどい詐欺ともなっている。
ネット空間が「見たいものしか見ない」で済むようになってることはよく指摘されるけど、日本は現実の空間においてもそうなってて、それへの疑いもない。素敵なアートイベントを実施することで、地域の課題は覆い隠される。地域系のアートは今ではその最たるものになってる。覆い隠すくらいだから、アートの「可視化する力」なんて嘘だということ。そしてこの国ではアートのオルタナティブ性とか可視化する力とか何の期待もされてない。美術教育もそうだけど、そもそも表層の感覚的なよろこびしか許容してないのだから、異和を生じさせるものやことは最初から排除されてる。
だから地域系のアートイベントは、安上がりな客寄せイベントでしかない。推進する人たちの多くは実はみんな"山本幸三マインド"の持ち主。アートプロジェクトの権威みたいに扱われてる人って実際のところ同じ価値観の人に見えてしまう。
NHKの相模原のやまゆり園での障害者殺害事件に関する番組の記事を見て、その意を強くした。役に立つとか立たないとか、単純で画一的な表層でしか評価しない社会。この状況で、美術を通した豊かな学びとか言うのはキツイですね。表層のごまかしが豊かなはずないからね。