自粛とか自己規制は力の責任転嫁
自粛ってのは、自分の範囲で完結することが前提なんだよと再確認してみる。
鼻くそほじるのとか、大声で歌うとかさ。「自分で決めることですが、やらない方が絶対に良いのでやめて欲しいなぁ」でしょ、自粛って。
でもその活動が、その人個人の範囲を超えて、他者の経済活動などにも影響を与えるものだと、「自粛しろ」っていうのは明らかな営業妨害となる。つまり、大声で歌うのをカラオケでやるな!と言えばカラオケ店への営業妨害だよ。だから保証するの当たり前。
コロナ感染拡大の現況下では、鼻糞ほじんない方が感染リスク下げるっていうのと同様に、人が近くにいる時には大声で歌わないことが望ましいのだからカラオケ店に営業を止めてもらうのは合理的。なので一定の補償してやめてもらうのが筋だよね。鼻くそほじるの我慢して死ぬ人はほぼいないと思うけど、カラオケ店休業しなくちゃならなくて死にそうになる人はいる。そして死にそうな人を救うのは政府の仕事だよね。
そして表現の自由関連での自己規制ってのも同様だなとあらためて考えてみる。本来ならやるやらないを自分で決めてよくて、やらない方が良いと自分が判断をするべき。それは自己規制とは一般的には言われないよね。「何らかの力」を受けて、やりたいことをしない選択をせざるを得ないのが自己規制だとするなら、その力の主体は責任を負うべきはず。それは今回の自粛における経済的な責任ではなく、何を根拠としてそれをするなと力を及ぼそうとするのか、それを明示する責任。それがなされないと議論すら生じず、「力」だけがあからさまに露出して個々の行動選択に力を及ぼすことになってしまう。すごく嫌だ。
私はもちろんコロナで家に居ろ!は合理的で正当な指示だと思っているので基本従ってますが、休業せざるを得ない人たちには、それが必要だからこそ明確に指示し、補償すべきだと思う。
自粛とか自己規制とかいう名の「力」の行使を個々人に責任転嫁することを当たり前に思ってはいけないと思う。誰がなぜそれをしたいのか、それは合理的なのか、それによってだれかの権利は不当に侵害されないか、ちゃんと議論できるようにすべき。
そんなことを、警棒を手に持ち周囲を威嚇しながら歌舞伎町で「自粛」をもとめる警官の映像を見ながら思った。