千葉市の朝鮮学校への補助金不交付について思うこと
千葉市が千葉朝鮮学校への補助金を打ち切ることにした件について考えてました。
私の個人的な関わりとして、あの展覧会について話すと、前々回の美術展(在日朝鮮学生美術展千葉展)を千葉市美術館でたまたま見る機会があり、その表現力に驚きました。これまた偶然ですが、私の研究室に千葉市の長期研修生として1年間在籍していたことのある美術教員が、朝鮮学校から一番近い市立中学校に勤務しており、その展覧会に中学校の美術部の子どもたちが作品を出品し、交流をしていたということもありました。WiCANで製作した屋台を真似て美術部の生徒たちと先生が作った屋台を会場に持ち込み、朝鮮学校と市立中学校の生徒たちが交流する場を作っていました。
その後、朝鮮学校で美術を教えている金先生との交流が始まり、私が千葉大で行っている研究会にもお呼びして、朝鮮学校の美術の教育で大事にしていることについてお話しいただき、日朝の子どもたちの表現の違い、そしてそこから浮かび上がる日本の子どもたちの課題について議論する場を設けたりもしました。
そしていま問題になっている昨年度の美術展では、わたしの研究室の学生が、朝鮮学校の生徒たちと作品の前でギャラリートークをするという機会を作りました。そして、WiCANで作成した屋台を持ち込んで、それを展示台として使ってもらいました。
芸術発表会にはお招きいただきましたが、行けませんでした。なので見ていません。
そうした関わりを持つ立場から考えたことを書きます。
今の状況は、千葉市の「補助金打ち切り」の判断を熊谷千葉市長がツィートで説明、それについて民族差別だ、表現の自由を踏みにじっているなどの批判と、北朝鮮の拉致やそれを行った政治体制を見れば当然の対応など、賛否が割れた論争になっています。
市長のツィートから補助金不交付の経緯を理解するなら、この補助事業は「市民の税金が投入される地域交流事業」で、その補助を受けている「美術展に従軍慰安婦の絵があり、解説で日韓合意を否定している等、目的に反すると判断」。それは現況の国際情勢や選挙などとは関係なく、「事業を精査した上で今回の判断に至った」もので、「市民の税金が投入される地域交流事業としては適切ではない、むしろ逆になります」というものです。精査とは「政治的目的を有するものでないこと」という規定に抵触するか否かということを法的に検証したということになります。
そして「朝鮮学校を孤立化させず門戸を開放させる地域交流は促進すべきとの立場を貫いてきた市と、超党派の女性議連を中心に事業に理解を示してきた議会の思いを踏みにじる行動であり、今回はもとより今後も厳しいと考えています」との考えを明確に述べられています。
この問題を考える上で「朝鮮学校を孤立化させず門戸を開放させる地域交流は促進すべきとの立場を貫いてきた市と、超党派の女性議連を中心に事業に理解を示してきた議会の思いを踏みにじる行動」という発言が重要な鍵なのだろうと思います。
最初は、リベラルな、多様性を尊重する政治家だと評価していた熊谷市長がなぜ?という気持ちでいました。上記の部分について気になったのは、昨今の嫌韓、嫌中のヘイトスピーチが社会問題になり、ネット上でも民族差別があからさまに行われることを目にする状況の中で「朝鮮学校を孤立化させず門戸を開放させる地域交流は促進すべきとの立場を貫いてきた」ことは特段問題もなく行われてきたのだろうか?という点です。私がネットで少し調べた限りでも、以下のような状況が見えてきました。
千風の会という愛国団体は、しつこく熊谷市長の朝鮮学校への補助金支給を攻撃しています。http://senpu.exblog.jp/19771511/
在日特権を許さない市民の会千葉支部も、公開質問状を千葉市に送るなど、千葉市の姿勢を攻撃してきました。在特会のリンクを通して千葉市の対応を見ることが出来ます。http://www.zaitokukai.info/modules/wordpress/index.php?p=521
千葉市議会議員にも当然補助金への否定的な議員はいます。https://www.facebook.com/www.masayoshi.take/posts/187486235062538?pnref=story
そうした議員たちを支持し、議場まで赴いて、千葉市の姿勢を批判しているブロガーもいます。
http://ameblo.jp/masayoshi-take/entry-12140220978.html
また、平成26年度の補助事業に対する住民による監査請求があり、以下のリンクでは千葉市の対応を見ることが出来ます。
http://www.city.chiba.jp/…/docum…/juminkansa271218_gaiyo.pdf
総じてこれまでの千葉市の対応は、とても誠実であったと思います。「朝鮮学校を孤立化させず門戸を開放させる地域交流は促進すべきとの立場を貫いてきた市と、超党派の女性議連を中心に事業に理解を示してきた議会」はこういう状況の中「交流」を推進、持続するための姿勢を貫いてきたのでしょう。この補助金自体が、他の市区町村と共に実施してきたのが、一つ抜け、二つ抜け、千葉市だけが残り、それでも堅持してきたのは相当な覚悟が求められたとも思います。学校がある千葉市だからこそとも言えます。そのことがネトウヨから攻撃され続けてきたのはネット上で検索すればすぐにわかります。朝鮮に媚びる政治家というレッテル貼りも熊谷市長はされています。
「思いを踏みにじる行動」とは、そうした難しい状況の中で、その姿勢を貫くことを難しくさせることをなぜやったの?という思いからくる言葉なのでしょう。「繰り返し市や理解派の議員からも注意をしてきた中で今回」というツィートからはそれがうかがえます。
表現の自由を尊重する立場からは、従軍慰安婦の問題を絵で表現するのは許されるべきだということになります。程度の問題はあれ、人によって不快に思おうが思うまいが、表現をすることは認められなければなりません。そしてその表現の主体が高校生である、ということを考えれば、そのことを理由に不交付を決めるということは、子どもへの教育的な配慮にも欠けるという指摘も理解できなくはありません。
ただ私はこうした考えに容易に賛同することは出来ないと考えています。慰安婦の問題は、簡単には解決しません。市長のコメントの中では日韓合意を理由の一つにしていて、それについて批判的な意見も多いですが、それは本質的なものではないと思います。ツィートの中で「朝鮮学校で日韓合意に否定的な教育をするなと言っているわけではありません」と触れられている通り、国がそういう約束をしているのだから従えという考えではないと思います(そもそも日韓合意に韓国籍以外の朝鮮人は拘束されるはずもない)。交流を目的とする補助事業で、係争中の、つまりは政治的な論争を引き起こす可能性の高いことを、しかも厳しい逆風の状況の中であえてやるというのは残念だ、というものでしょう。
たしかに係争中のものであったとしても表現の自由によって、社会が利益を得ることは大いにあります。白川昌生さんの群馬での作品撤去問題を、私は批判しました。係争中のものであったとしても、その問題が存在することを可視化することで、多くの人がそれについて考え始める契機になると思います。美術にはその力があります。私のこの立場は変わりません。
ただし考えなければならないのは、その作品は、何かこれまで見えなかったものを可視化することが出来たのか?ということについてと、この美術展がそうした表現の場として存在したのかということです。
表現の自由についていえば、補助金を打ち切ることで発表の場が奪われるという批判もされています。それは部分的にはそうだと言えるけれど、全面的にはそうは言えないと考えます。これはとても重要なことですが、記者からの「千葉市美術館の市民ギャラリーを貸し出すのは止めるのか」という質問に対して市長は「それは不交付と関係なく、表現の自由などに基づいた公共施設の貸し出し規則に則り対応する」と明言しています。つまり、補助金を受けた展覧会を通じて展示をする機会は奪われるかもしれないが、表現する機会、展示する機会が奪われたわけではないということです。芸術表現の場を保証するための補助金ではなく、地域交流のための補助金なのだということです。まぁただ、美術館も税金で営まれている以上、上述のレトリックで表現規制が行われる余地がないわけではない。ただし、優先度の上で、税金を使っていても表現の自由が尊重されるべきという態度を市長が明示したのは評価できます。
部分的に表現の自由の制約だと言えるのは、経済的に豊かとは言えない朝鮮学校が、補助金を受けられないことで展覧会を行えなくなる可能性があれば、それは経済的制裁によって表現発表の機会を奪うと見えなくはないという点です。ここは考える余地があるでしょう。
そして、他にも考えるべき点はいくつかあります。
一つは、展覧会を構成する1点の作品が狭義の「交流」の精神に反するものであったとしても、それにより全体をそうだと認定することが妥当か?というものです。会場に展示されていたものの多くは、「多くの人たちによって支えられて私たちの今はある」というメッセージのものや、「自分とは何か?」という自己のアイデンティティを問うもの、社会の差別的な眼差しにより「自分が傷を負っている」ことを晒すもの、在日のアイデンティティとは直接関わりなく「戦争や欲望の醜さ」をテーマにしたものなどでした。日本人の生徒作品とは比べ物にならないほど、自分自身で考えて構築した作品が多いことは、誰もが認めざるを得ないと思います。生徒たち同士が近い世代のこうした作品に触れる「交流」の場はかけがえがないものです。そして大人たちから見ても、自分たちとは違った立場でしっかりと生きている彼らの内面を知ることは、共生を考える上でとても大きな意味を持ちます。全体としてみれば「表現を通して交流する場」としてきわめて質の高いものであったと私は考えます。
そして、そのうちの一点をどう理解するかは、見た者それぞれの判断であって、そこから交流が始まる可能性はあります。つまり、初めからハッピーな内容が期待されるものだけが交流ではないし、特に芸術表現を通しての交流には、共感反感を通して共通理解を求める性質があるので、そうしたネガティブなものも含まれるのが当然だと思います。だからと言ってネガティブな表現が交流に反するとは、すぐには断言はできません。「例えば朝鮮学校の地元で行われる行政が補助するイベントで、拉致被害者の救出とそれを理由に朝鮮学校への補助根絶と北朝鮮へのさらなる経済制裁を主張する展示があった場合も、補助要綱に則り、不適切と判断するということです。不交付決定に反対する人は上記も補助してOKなのか不思議です。」と市長は語っていますが、展覧会全体がその趣旨で貫かれていたら、一方の主張のみしか存在しえない場であり、交流が成立しない可能性は高いと言えるでしょう。しかし、そのうちの1.2点(数とか比率を言うのは意味がないことは分かっていますが)が拉致や補助根絶、制裁についての作品であっても、交流は可能だとも思います。
ただ、そのための条件はいくつかあると思います。一つは、その主張の根拠を作者はどのように構築したのかが明確であること。そしてグループ展である場合には、展示の趣旨に対して、その作品がどのような意味を持ち、展示以降の反響、反応についてどのように対処するのかをまず自分自身がしっかりと認識していること。そして他の出品者や主催者がきちんと理解し、納得していることだと思います。他の出品者と同じ思想信条を持てと言う意味ではもちろんありません。意見を異にしていても、その立場を理解し尊重することは出来ます。そのためには作品の説得力が必要だということです。作品の質というよりは手続きと言った方が良いでしょう。さて、それが今回存在していたのかどうか、それを考えるべきでしょう。
問題となったグラフィティのようなスタイルの絵の作者と私は神奈川朝鮮学校の美術展で会って話をしました。とても愛嬌のある高校生で、どのくらいの時間をかけて制作したのか、どんなことを考えてこういう表現にしたのかなどいろいろ聞きました。今どきの若い子といった感じで、「ついついさぼっちゃうから中々進まなかった」と話してくれました。十分な時間、踏み込んで話が出来たわけではありませんが、表現の根拠として何があり、どのくらいの覚悟があったのかは正直伝わってきませんでした。
先述の通り、ネット上では今回の不交付という結果の原因を子供に負わせるのは行政として教育的視点が足りない、という指摘もあります。しかし、この責任は、こういう事態を生み出した大人たちのものだと私は思います。覚悟をもって、十分な調査研究をして、そして作品を世に問うのは、レベルや責任は異なれど、大人も子どもも変わりがありません。教育的というのなら、そこプロセスをしっかり踏まえさせることと、論争を起こすだろう内容について、その後のことも含めて準備すべきことかと思います。準備は作者だけでなく、それを展示させた大人もすべきものです。教育というなら、その表現の仕方についても指導すべきなのだと思います。規制しろという意味ではありません。表現は受け止めてもらえなければ意味がなく、状況によって受け止められる形は異なるはずです。それを想像してどのような形を与えるかは、社会批判を含む作品の場合には重要なもののはずです。(追記ですが、千葉展で見たチョゴリ制服の歴史についてと、それを踏まえた制服の提案をしていた女子生徒の発言を思い出しました。差別的な視線や暴力にさらされうる立場を最も弱い女子生徒に押しつけるのはありか?という疑問でした。今回の件も、そのような側面がなかったか気になるところです。)
以下は、神奈川の朝鮮学校の美術展にたくさんの力作を出展していた中二の女生徒に向けて私が書いたメッセージです。ここでも慰安婦についての作品がありましたが、その作品について違和感を覚えたことを何とかうまく伝えたいと思い、親しくしている高校生に託したものです。
「・とても精力的に作品を作っていてとても感心しました。
・作品のテーマも多様で面白いと思います。
・画力もあって、丁寧に描いていて、作っていて、それもとても魅力的です。
・その上であえて以下の点をアドバイスとして伝えたいなぁと思います。特に従軍慰安婦の作品。
従軍慰安婦の問題が日韓・日朝の間で、国そして国民の間で、あるいは世界の人たちの間で大きな問題であり、日本にその多大なる責任があることを前提とした上で話します。
アートの表現は、正解を誇示するものだとしたらとても弱いものになってしまうと思います。表現内容や表現手法がいくら強くてもです。その弱さとは何かというと、アートは理念を伝える方法としては不完全で弱いものであり、アートの強みは感性を通じて、見る者を揺さぶり、「自分自身で考えざるを得ない」状況を作ることが出来る点にあると思います。なぜなら、強い表現手法で「お前らが悪だ」と言ったところで、敵味方の二分法になってしまい、本当に重要な深刻なところへと入っていけなくなります。そうではなく、自分の問題として引き受けざるを得ない状況をどうやって作品を通して作るかが問題です。そのためには、あえて直接強い表現を採らないことが、より強い作品経験を可能にすることだってあります。
従軍慰安婦の問題は、かつての強者としての日本側の行為に原因があったのだから、日本側は相手の慰安婦の方たちに寄り添った解決を目指すべきで、日本の側が謝罪の量や質を決める権利はありません。そこが現実には大きな問題になっています。それは逆に言えば、日本の側にこの歴史的な行為を深く真剣に考えさせるには、日本の側を想像しながら「真に日本の人たちがその問題を引き受けざるを得ない」状況を感性を通じて作ることができなければ、相手には届かないということです。敵味方の線引きであれば、おそらく「言葉」で済んでしまいます。
そういった意味で、はさみの作品は、在日の人たちだけでなく、多くの異なる人たちの共感を得る、心に響く作品だったと思います。それはあなたの書いた女生徒の絵と、あの空間の構成が実現したものです。頑張ってください。あなたの力はすごいと思います。」
長々と書きましたが、私が言いたいのは、責任は大人たちにあるということ。あの素晴らしい「交流の場」が今後失われるのは、本当に惜しいと思います。なので、千葉市長には「今回はもとより今後も厳しいと考えています」ではなく、「意味のある交流が持続的に発展するための提案を待ちます」と言ってほしいと思います。「今後も」というのは、これまでの経緯からの発言と思いますが、変化をはなから否定していたら、多様性を尊重した上での交流への期待もウソになってしまうと思います。
一方朝鮮学校の方たちにも、いたずらに対立を煽るのではなく、日本の地でゆっくりと着実に友好の輪を広げていくために大人たちが引き受けるべきことを考えていただきたいです。対立が目的でないなら、何をどう構築し直せば、あの素晴らしい場を引き続き成立させ続けられるのか知恵を絞って欲しいと思います。
一番大事なのは、あの場が持続することです。大人たちが知恵を絞って欲しいと思います。
追記
その後、在日の研究者からお前が言うなというような批判、というよりは非難を受けました。
気持ちは分からなくはないがやはり理不尽ではないかと思いました。
日本人だから自分の立場で関わってはいけないとは私はやはり全然思えない。
そして私のアートの定義も否定していましたが、そんなに簡単に否定されるほど軽い関わりを私は否定していない。自分は自分の受け取られたい形を強制するのに、他者のそれは認めないのは、傲慢だと思う。私はアートマネジメントの視点から、この問題は、大人たちがチェック&バランスを欠いていたのが問題だと思っています。現実が間違っていても、現実を踏まえなければ、表現行為は意味をなさない。意味をなすための条件整備、条件の検討をするのがマネジメント。正しいと思ってそれをそのまま認めろというのは、ヒロイックだけど、戦いとして正しいかどうかはわからない。戦い方も人に強制される筋合いもない。議論の余地がない人とどうか変われるのか、これはこうした問題の前ではとても深刻な問題かなと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?