あいトリから引き受けるべきこと
久々のノート。
前の水曜日に、AMSEAで津田大介さんにレクチャーをしていただいた。これは、あいちトリエンナーが社会的に大きな話題となる前からお呼びする予定だったもので、当初はジェンダーバランスとか、ジャーナリストがディレクターをすることの意味とか、日本における社会とアートの関係についてとかをお話しいただくという想定でしたが、結果的には、最後の「社会とアートの関係」について、今回のあいトリを具体例として語っていただいた形になりました。
津田さん自身、とても冷静に分析をされているなと感じました。
その中でも非常に印象に残っていることは、日本の社会の中で現代アートがここまで注目されたことは初めてのはずだと明確に語っていたこと。これを前提とせず、様々な問題について従来の枠組みで考えるのはあまり意味がないだろうというのは、もう少しアート関係者は意識した方が良いだろうと思いました。前提状況が変わった中で、どう考えて動くかが問われている。
今後考えていくべき具体的な話として、「写真撮影」について語っていたのが強く印象に残っている。これはやはり情報メディアに強いジャーナリストならではと思った。要は、昨今のインスタ映えなどを狙った美術館をはじめとするアートの展示空間での写真撮影可は、社会的議論がなされるような作品についてはしない方が良いということ。これは隠蔽するということではなく、私なりの言葉で説明するなら、現代アートの多くは、前提を共有した上で初めて意味が成立するわけで、それは議論の余地のある作品であればなおのことそうだということが理由。安易に撮影可にすることで、作品の前提が共有されないまま、一部が切り取られ、結果的に炎上させられるネタを提供することになってしまう。津田さんは「現代アートとSNSの相性の悪さ」という言葉でそれを説明していて、具体的な根拠として、ホー・ツーニェンの豊田での作品を挙げていた。あの作品は多くの評価を得ているが、今回の右寄り人たちによる炎上という観点からすれば、最も問題とされるはずの作品だったのに、全く炎上しなかったとのこと。その理由としてあの作品が撮影禁止であったことが影響しているのではないかという分析でした。これを踏まえて、インスタ映え一辺倒ではなく、作品の内容によって撮影の可否を判断すべきであろうという提言もしていました。なんでもオープンにすることが生産的なわけではないと。キュレーターや主催者の主体的な撮影禁止の判断が重要になっていくとも。
前提共有の難しさ、文脈設定の難しさがあって、その作品が投げかける問題の共有が難しくなる。それもまた、現代アートが、かつてないほど多様な層の人たちの目や耳に届く時代の到来がもたらしているもの。SNSはその事態を加速させ、増幅させてもいる。
だからと言って、色と形の純粋性に逃げ込むことにも意味はない。これからのアート関係者が引き受けねばならないことを確認する機会となった。
また、質疑の中で、映像作品の話が出たのだが、それも考えさせられた。近年の国際芸術祭では映像作品が多くなり、それはそれでネガティブな要因ともなっている。とにかく鑑賞に時間がかかる。
津田さんも当初は少なくしたかったとのこと。しかし、私の感想とも一致するのだが、結構みんなちゃんと見ていて、それは一つにアートの映像作品の質が上がっているということが理由だと思うが、それに加えて、映像は文脈共有が受け身的に可能だから、何についてどのようにアプローチしてるのかが分かりやすかったのかもしれないと。これは、現代アートへの間口を広げる上で、映像作品には可能性があると考えているとも仰ってました。
最近特に、展示の前提を共有するために何ができるのかを考えていたので、とてもよい考えるヒントを得られたように思います。
いずれにしても、身内のみで、高踏的に、現代アートを”おしゃれ”に”知的に”扱うことはもう出来ない時代に入ったのだと思う。田中功起さんの水戸での展示の映像の中で藤井光さんが語ってた「社会がアートを求めているのではなく、アーティストが社会を求めていることが明らかになった」という言葉が正しいとしたら、遅かれ早かれ、今の状況を引き受けざるを得ない流れの中にあったのだと思います。
これからどうして行くのかだということです。
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