発信することと感情に支配されることの間
なんと言うか、今の世界は、表現するための敷居が下がることと、表現することの責任について考え判断できる能力が育まれることのバランスが著しく欠けてると思う。一般の人達から専門家としての表現者までね。
ネット世界の教育については、ICTがどうとか今言ってる連中のやってることよりも、先にやるべきことがあると思う。マナーとかのレベルじゃ解決できない。感情と知性をどう折り合いつけるのか、そうした技能を身につけないと、ネット世界は地獄でしかない。それがリアルだとか言って肯定する人もいるかもしれんが、それはブラックボックス展を擁護するのとおんなじ立場。
最近思うのは、愛があるかどうか。ベタな言い方ですけどね。ダリが自分の著作でアーティストを採点してて、そこには「愛」の項目がある。昔は「ふーん」ぐらいの印象しか持たなかったけど、最近はよく分かる。多分昔は自分も新しさや奇抜さばかりを追ってたのかもしれない。
だからデリヘル騒ぎの人を私は全く評価しないけど、山本高之は評価する。山本高之の作品は、子どもを突き放すサディスティックなものに見えるかもしれないけど、最終的には愛を感じさせる。同列に語るのも失礼だが。
chim↑pomもそう。彼らは対象を理解しようとチャレンジしつづける。間違って怒られることもあったけど。ボイスは、愛とは対象を理解しようとすることだとどこかで言っていた。訳わからない対象に、あるいは分かったつもりでも実は何もわかっていない対象に、自ら向き合い続けて分かろうとすることが愛だと。そう言う意味でchim↑pomも愛にあふれてる。
そこにあるノイズを拾って増幅して笑うのは、愛じゃないよな。あるいは自分の中に生じたノイズをただ正当化して誰かを攻撃するのも同様。
現代アートが一部の人たちからすごく嫌われてるのは、そこが一緒くたにされてるからだろうな。そして、アートの側の人たちも、ここを整理できてない人が実は多い。タブーや規範を乗り越えることが目的化されてしまうと愛の居場所はない。
まぁ、愛という言葉を連呼するのは気恥ずかしいけど。