地方の底辺校から東大の記事が大事なわけ
阿部幸大さんの記事(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353)、この間金沢21世紀美術館に行った時、スタッフの何人かともディスカッションしたのだけど、美術館に関わる仕事をしている人からはもっとも見えにくい事柄なのかもしれない。
続編(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505)の、この記事への反響について書かれたものも含め、「自明の前提」とされてしまっている自覚が難しいものをどう認識するかの想像力と、それらを構成する複雑な要素、力関係をどう理解していくのかが問われていると思う。
アートとの関わりで言うと、社会包摂の全てにアートが関わるのはもちろん無理。美術館だってそんな責任は負えない。地域の特性、課題との関わりで、特定のものに踏み込むことはあるだろう。でも一番大事なことは、人やら物やら制度やら歴史やらの向こう側を想像する力と習慣を身につけることだと思ってる。そして、感情を含め、複雑な関係性を理解する態度を身に付けること。WiCANや美術教育で、そして社会と芸術フォーラムやAMSEAで私自身がやってることはそれだろうと思う。アートそのものを楽しみながら、関わりながら、その関わっている自分自身が変化していく。その自分が世界を人を複雑なものとして受け入れていく。それがアートを通して育める汎用的能力の代表的なもので、社会包摂という視点でアートが果たせる最大の貢献だと思っています。作品を通して世界を見る眼差しが変わり、感性的領域を含め複雑な対象理解へと入っていく。そういう人が増えることが、結果的に多様な存在を社会が受け入れることにつながっていく。頭で理解するだけでは脆弱なのは皆知ってると思う。アーティストが、アートが必要なのはそういう点において。もちろん全てのアートが重要なものになるわけではないから、批判もあって当然。
誰を対象に、何を見せ、何をしていくのかは、とっても大事なことで、そういう意味であらゆる展示は教育的意味を帯びている。そしてそういう場所(想像と複雑さを学べる)として美術館その他の社会教育施設が認識されることは、社会全体にとって決定的に重要な価値があり、それは全ての人に伝えられるべきこと。だからこの記事の筆者の思いを理解することは今の日本では本当に大事だと思う。
「私たちの想像力には限界がある。たとえ同じ空間で何年も一緒に過ごしたとしても、他人が何を考えているのか、家庭でどんな暮らしをしているのか、教室の外で何をしているのか、私たちは知りえない。そのことを忘れてはいけないだろう。」