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「済州島4・3事件」遺族女性聞き書き 3度の戦争を超えて夜間中学へ 

編集部 かわすみ かずみ

 大阪市天王寺区茶臼山に、統国寺という寺がある。JR天王寺駅から徒歩10分の同寺には、「済州島4・3事件」(1948年、アメリカ軍政下の南朝鮮単独選挙に反発した済州島民の民衆蜂起を、韓・米軍などが鎮圧した事件)の慰霊碑が静かに佇む。慰霊碑には事件当時の済州島の行政区分や、事件の概要が刻まれている。
 碑にある城山里(そんさんり)の文字をなぞりながら、かつて同地で亡き父母と暮らしていた高 京子さんは、「懐かしいなあ」と口を開いた。
 高さんはこの村で4・3事件に巻き込まれ、父を失った。母は同年、産後の肥立ちが悪かったのか、入退院を繰り返し、亡くなった。慰霊碑の中段には、済州島の人々が各行政区から持ち寄った石が当時の行政区の配置通りに並べられ、亡くなった方々を偲んでいる。

なじみのある地名を指でなぞる高さん(統国寺にて)

父は殺された

 王寺で生まれた。物心ついた時には、日本はすでに戦争に突入していた。母は兵隊を送り出す千人針を依頼するために、街頭によく立っていたそうだ。
 父親が小学生の時、父は叔母が日本に渡る船まで、自力で泳いで乗り込んできた。高さんは、父親がそこまでして日本に行きたかった理由を「貧しかったから」と答えた。朝鮮では仕事もなく、生活できなかったからだ。
 父親は日本での収入を祖父に送り続けた。祖父は仕送りを元手に家を建て、生活を安定させた。祖父が建てた家の棟上げ式で、父は人知れず涙した、と祖父から聞いた。
 45年3月、大阪大空襲。高さんの家は空襲で全焼し、周囲も焼野原になった。高さんは今でも焼けた家を覚えている。空襲の中で、母親は弟を産んだ。
 近所のおばさんが、焼けた家の中から金の模様がついた茶碗を掘り出していた。それ以後、高さんは金の模様のついた茶碗を使うことはなかった。理由はわからない。だが、嫌な思い出として残っている。
 家を失った高さん一家は済州島に戻った。高さんは8歳だった。今でもそうだが、朝鮮では旧暦を使い、年齢も数え年になる。日本では就学年齢でなかった高さんは、学校には行っていない。日本語で育ったが、漢字やひらがなは書けない。
 8月15日、長い日本占領から解放された人々は、皆喜んで宴会を開いていた、と高さんは回想する。
 父親は済州島で学校建設に奔走した。あちこちから借金し、教師をどこかから探してきた。いつも家にいない父親だが、子ども心に尊敬できる人だ、と感じていた。
 48年5月、半島南部の単独選挙が行われる。この頃から単独選挙に反対する独立派と、それを封じ込めようとするアメリカ軍の対立が深まっていく。投票前の5月6日、母親は死産の末、「B29が来る! はよ逃げや!」と呻きながら亡くなった。怖がりな人だった。身重の体で逃げ回った記憶がそうさせたのだろうと、高さんは思っている。
 同年10月、父親は「親戚のところに行く」と言ったまま帰らなかった。後から聞いた話では、日出峰(イルチュルボン)に連れていかれ、海岸に並ばされ、米軍によって射殺されたという。父親に向けた銃弾は何回も外れ、父親は「早く殺せ!」と叫んだという。米軍に殺されたのは、父親の友人の警察所長を含め、村全体では7~8人になるそうだ。
 母の葬式は村で一番大きく、多くの人たちが母の棺のあとを歩いた。だが、父親は誰にも知られずに葬られた。「父親がかわいそうだ」と高さんは語る。当時、高さんは11歳(小学4年)。

14歳で出稼ぎへ

両親を一度に失った高さんは、祖父母に育てられた。4・3事件後、朝鮮戦争が始まり、済州島には南北の避難民が多数押し寄せた。祖母は、避難民となった同胞に惜しみなく食事を提供したという。島の人々はそんな祖母を「モグンガプソ」(お人よし)と呼んだ。
 朝鮮戦争が落ち着いて3年後、高さんは釜山に出稼ぎに行く。中学の入学試験に合格していたが、当時の済州の慣習で、本家の子どもが学校に行けていないのに、分家の子どもが行くことは許されなかった。
 高さんは父親が創立した学校で学び、済州の訛りがない標準語のハングルを発音できるようになった。そのため、「本土で商売できる」と思い、祖父母から済州特産のゴザなどを売りに行くように言われた。
 釜山は港町で、気の荒い人も多い。スリも多発する町で14歳の少女が商売することは並大抵ではない。それでも高さんは怖がりもせず働いた。
 その後、親族を頼ってソウルに出たが、町の地形は戦争で変わっていた。弟を置いて出てきたことを悔み、済州島に戻ったところ、日本への密航に誘われる。

祖母の血が流れている

日本にきた高さんは、働いて自活した。ある日、朝鮮学校の教員から結婚を申し込まれ、3年の約束で了承した。いつか済州島に帰るつもりでいたが、夫の親戚にも大切にされ、2人の子どももできた。
 当時朝鮮学校の教員は給料も出ず、高さんは働きながら子育てをして生活を支えた。夫のために家を買い、塾をやって生活できるようにした後、家を出た。今度こそ済州に帰るつもりでいた高さんに、再婚の話が舞い込む。しかし、「水商売を手広く行う男性の助けになれば」と始めたスナックで客とトラブルになり、店を失った。
 男性とは破談になり、そのときの客と30年連れ添って別れた。弟は何度も船で迎えに来たが、船で頭部に外傷を受け、それが元となり30歳で亡くなった。
 読書が好きだった高さんは、ずっと学校に行きたいと願ってきた。天王寺夜間中学に4年程通ったが、病気で入退院を繰り返すうちに、退学になり、戻ることはできなかった。
 もし空襲で済州島に戻らなかったら、高さんは天王寺中学に進学していたかもしれなかった。学びたい思いを捨て切れなかった高さんは現在、阿倍野で識字教室に週一回通う。
 「私は相手の都合のいいように動いてしまうところがあるんです」と高さんは言う。「モグンガプソのハルモニの血が流れているのかもしれませんね」と筆者が言うと、「そうかもしれません」と答えた。
 高さんの左手中指は、黒く変色している。30年連れ添った人と別れた後、履物を作る工場で働いたときのものだ。靴底を接着させる強力な接着剤の跡だという。
 高さんは、テレビで戦争の場面が出てくると、すぐにチャンネルを変える。
 「戦争は絶対にしてはいけない。だれも幸せにならない」という高さんの言葉は、その人生の分だけ重い。

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人民新聞
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