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コロナ禍強行した五輪    責任を曖昧にするな IOC・JOC・政府・報道

神戸大学大学院教授 小笠原 博毅


 東京五輪は翼賛マスメディアの過剰報道と、酷暑下で競技を強いられる選手や「ボランティア」の動員、税金の湯水のような投入のもと強行された。新型コロナウイルス感染者の治療や医療関係者への感染対策がなされず、感染爆発を招いた。五輪を優先させて医療崩壊への対応は先送り。この五輪ありき、メガ・イべント優先の社会統制は同時に、IOCというグローバル・マフィアにいいように使い倒された為政者の統治能力の喪失を証明した。
 「動員」と「同調圧力」と市民生活の犠牲は、戦前戦中の総動員体制下の日本になぞらえられた。誰が「動員」しどこが「圧力」をかけているのか、メディアは責任の所在を明らかにしようとはせず、日本社会は舵も帆もなくした漂流船のように五輪に流されていった。この無責任と無謀さは、確かに天皇制のもとでの軍国主義を彷彿とさせたかもしれない。
 しかし1945年前後との類似ならば、戦前戦中よりむしろ戦後、占領軍によって「民主化」されたはずの日本社会に重なる部分が多いのではないか。その一つが、メディアを通じて五輪を語る政治家、評論家、知識人たちの「掌返し=転向」だ。
 五輪に懐疑的でも東日本大震災からの「復興」や「五輪の理念」や「スポーツの素晴らしさ」を理由に、「どうせやるなら」やろうと言っていた人たちが、コロナを理由に中止や再延期を求め出した。それはあくまでもコロナを制御できない東京大会に限った話であり、五輪自体への批判には至っていなかった。しかしIOC上層部の強引な発言や姿勢が目に余ったのか、その矛先は東京大会という特殊な状況から、IOCと五輪そのものへと移っていった。
 ここでのポイントは、コロナ禍での五輪強行開催が、IOCに尻尾を振るポチであるJOC、組織委員会、政府のせいだという論調だ。つまり、まるで「軍部が悪かった」、「私たち」国民は騙されただけだとでも言うように。五輪の価値や意義をつい最近まで言祝いでいたくせに、である。さらにいざ開催され、終わってしまうと、必死にプレーする選手の活躍に絆されたのだろうか、再びあの「感動と勇気」のメディア・ミックスに同調する始末だ。
 傲慢なIOCや聖火リレーでのスポンサーの過剰露出を墨塗りし、スポーツを「いいもの」として残しておく戦後直後の教科書のようだ。五輪は「人間讃歌のスポーツの祭典」だからやった方がいいと言っていた人間が、コロナ禍が深刻化するなか五輪とスポーツは別物だと言い出した。
 そのとおり、そもそもの「初めから」五輪とスポーツは別物である。そう口にすることの方が「我が身の安心安全」になったとたんに、ご都合主義の是々非々も余りある五輪賛成派からの反対派への「転向」派が、うじゃうじゃ湧き出ている。
 「いいもの」のはずのスポーツで、「感動と勇気」が渦巻いている(とメディアが喧伝している)そのまさに同じ時に、お腹に子どもを宿したままコロナに感染した女性が病院を見つけられずに息絶え、コロナに倒れた母親が「自宅療養」中に子どもの目の前で亡くなった。五輪開催中の日本社会とは、そういう社会である。
 まさに「パラレル・ワールド」。捨て駒総理大臣の首一つぐらいでは、何の埋め合わせにもならない。

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