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【伊藤野枝死後100年フェス】虐殺された野枝を語れる時代 その変化と私たちの使命

編集部 かわすみかずみ

  関東大震災から100年。ときの日本政府が震災後に行った朝鮮人や中国人、社会主義者らへの虐殺に対する慰霊が各地で行われている。
  福岡県糸島市では、この地で生まれ育ったアナキスト伊藤野枝の生涯を伝える「伊藤野枝100年フェス」が、9月15・16日に開かれた。これまで、パートナーでありアナキストの同志だった大杉栄に付随する形で語られてきた野枝の、単独での大規模な追悼集会は、10年前に同地で行われた90年追悼集会以来だ。夏期カンパ募集時の取材計画に基づき、現地へ赴き、人々の野枝への思いなどを取材した。

野枝を育んだ街 福岡県・糸島

  糸島市内を歩くと、「伊都」という字が目に留まる。「伊都」とは、中国で三国時代に作られた「魏志倭人伝」に登場する倭国の都市の名前だ。
  糸島市の郷土史家として、「今宿知ろう会」で野枝の実像を伝え続ける大内士郎さんは、「この辺りで『邪馬台国はどこにあったか?』なんて論争をしたらあかんとです。皆さんこの辺りが伊都国やったと信じとりますから」と笑う。太陽をいっぱいに浴びたような博多弁が楽しい。鎌倉時代にはこの地に、元寇の際の蒙古軍の襲来に備えて土塁が築かれたという、重層的な歴史を持つ場所だ。
  現在、人口10万人ほどの糸島市は、第一次産業が盛んである。北側は海、西は佐賀県との県境を接するこの街は、唐津市、佐賀市、福岡市に接する。
  野枝の父親は海産物問屋だったが、野枝の父親の代で潰してしまったようで、瓦職人をしていた。だが気が向いたときしか働かず、昼間から三味線を弾いて暮らす道楽者で、母親が働いてやっとの生活だった。父親の給金を取りに行かされた野枝は、「畳に投げられた給金を拾い集めて帰ることが恥ずかしかった」と語っている。
  野枝らしいエピソードを聞いた。妹のつたとふたりで留守番をしていた野枝は、お腹が空いたので、つたにおひつのご飯を食べようと誘う。つたは、「お母さんが来るまで待とうよ」と止めた。すると野枝は、「あんたはいらんとやね」とご飯を全部食べてしまった。おとなしかったつたとの対比が面白い。

伊藤野枝の生家跡(畳店が建つ場所)を案内する大内さん

野枝フィールドワーク

  15日は、午前中今宿駅からの野枝フィールドワークに参加した。午後は九大学研都市駅に移動して、映画『ルイズその旅立ち』の鑑賞や講演会、学生シンポジウムなどが開かれた。中でも野枝フィールドワークは、早々に予約が埋まってしまうほどの人気で、30人弱の参加者が集まった。
  北海道から来た男性(30)は、政治学者の栗原康の本で野枝を知り、3年前から興味を持った。また名古屋から来た女性(30代)はアナキストのライターだ。予約できなかったが、当日飛び込みで参加した。約6㌔(野枝の墓〜生家跡〜今宿交番〜今宿海岸)を2時間で回る。
  参加者の一番の興味は、野枝の墓だった。参加者の中には、独自に野枝の墓を探して近くまで来て、見つからずに帰ったことのある人もいた。
  大内さんの案内で野枝の墓を目指し歩く。この日は唐津市に大雨が降り、電車のダイヤも乱れた。雨も降り出した鐘撞山中にある野枝の墓までは、登山路のような道をゆかねば着かない。約30分歩いて見えてきた野枝の墓は、大きな岩のようなものだった。中央に亀裂が走り、3つに割れている。記名もなく、言われなければ墓であることさえわからなかった。
  野枝の墓は、流転の末にこの山中にやってきた。死後、野枝のお骨は伊藤家の墓に納められたが、近隣のものに墓を荒らされるなどの仕打ちを受けた。そのため、叔父の代準介は大きな石を台座の上に積み、野枝の墓とした。
  大内さんは今宿で生まれ育ち、子どもの頃、通学路の横にこの石があったのを覚えているという。大内さんが手を合わせると、近所の人たちから「あの墓は拝んじゃいかん」と言われたそうだ。
  その後、墓地の改装により、墓石の台座を分割して分けたところ、野枝の墓石をもらった人が事故死するなど不幸が続き、「野枝のたたり」と人々は恐れた。
  野枝の四女ルイは、「母の墓がたたるなどと言われる世の中はおかしい」と友人に土地を紹介してもらい、墓石を山の中に置き、誰にもその場所を教えなかった。
  山の中で大内さんがこの話を始めると、遠くで雷が鳴り出した。フィールドワーク終了後、参加者の一人が「野枝さんが来ているんじゃないかな、と思いました」と、このときの思いを口にした。

野枝の墓の前で記念撮影

野枝と現在をつなぐ学生シンポジウム
いのうえしんぢさんの野枝Tシャツ

  この日のもうひとつの呼び物となったのは、学生シンポジウムだった。九州の女子大学生たちが、野枝について語るというものだ。事前に野枝についての文章を読み、その感想を話した。九州大学、西南学院大学から5人が登壇した。彼女たちは2002〜4年に生まれ、九州で育った。しかし、野枝のことを知らなかった人もいた。野枝の第一印象について、「嵐のような人」「逆風にさらされても強い人」など好意的に受け止める人もいたが、「可哀想な人」「過激」「怖い」など否定的な見方もあった。
  野枝の魅力については、「貪欲に学ぶ人で、学生として尊敬する」「激しさを持って自分を貫くところが魅力」「人間らしい」「真っ直ぐな人」と、学生たちは捉えている。
  一方で、野枝の言動に違和感を感じた部分もあったという。例えば、野枝は「しとやかな女性は意気地なしである」という。野枝は痴漢に合うと、足を踏んだり警察に突き出したりする。痴漢やストーカーにあっても声を挙げられないことは良くないのだ、と攻撃する。これについて、ある学生は、抵抗できない女性を意気地なしであると断言することはできないのではないかと言い、賛同できないと述べた。
  実行委員のいのうえしんぢさん(53)によれば、実行委員会は20代から90代の10人ほどで、1年半前から準備してきたという。2日間の企画の多さやゲストの数を考えると、よく10人でできたなと思った。育った時代も考え方も違う人たちが集まっての実行委員会は、意見の食い違いもあったようだ。だが、世代を超えて愛される野枝の魅力を感じることができる。
  1日目の最後には、野枝クイズ大会やコントもあった。いのうえさんは、「どうしても固い催しばかりになってしまうので、柔らかい企画で、現在とつなげて野枝を捉えてほしいと思った」という。いのうえさんは、伊藤野枝Tシャツのデザインも手掛けた。アナキズムとパンクロックの融合をイメージしたTシャツは、海外からも注文が来るほど好評で、フェス初日には完売間近だった。

野枝Tシャツを手がけた井上さん

神田紅の講談 「伊藤野枝」

  2日目は午前中に「ルイズその旅立ち」の上映、午後は神田紅の講談、作家の森まゆみの講演、座談会が行われた。神田は地元・福岡県の修猷館高校卒業とあって、同窓生らも会場に駆けつけた。神田は中村哲やマリリン・モンローなど一風変わったテーマで講談を行う講談師で、後輩の育成も行っている。この日のために書き下ろした野枝がテーマの講談は、30分以上の長尺だ。数日前に打ち合わせで顔を合わせた大内さんに、「まだ原稿が固まらず、部屋中原稿用紙だらけです」と語ったそうだ。
  野枝の波乱万丈の生涯を、見せ場を押さえながら的確に見せていき、人々を引き込む構成力と話術は、時間を忘れさせた。

講演「『青鞜』時代の伊藤野枝」

  作家で編集者の森まゆみは、『伊藤野枝集』(岩波書店/19年)を編集し、ルポライターの鎌田慧らと野枝追悼集会を毎年行っている。野枝の4女・ルイとも親密に交流し、その思いを間近に見てきた。
   冒頭で森が語った「大杉、野枝は何も悪いことはしていないのに殺されて、国賊とされてきた」という言葉は重かった。ともに活動してきたルイが「国賊の娘」として差別されてきたことを、森はよく知るからだ。森が野枝を知ったのは中学3年。修学旅行中に、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を夢中で読んだ。修学旅行で何を見たのかさえ覚えていないくらい、引き込まれたという。
  森は編集者、作家という視点から、女性文芸誌の『青鞜』に参加した女性たちや野枝に関わった男たちを見つめている。たとえば翻訳家の辻潤について、「辻は野枝が転がり込んできたものを受け止めた。度量が広いと言えないか」と問い、「作家として、大杉よりも辻の文章の方が好きだ」と発言。
  また、野枝が平塚らいてうから『青鞜』をもぎ取ったことで、らいてうが何を思っていたかについて、野枝の死後にらいてうが「甘粕(注…大杉栄らを殺害した軍人)を憎む気にはなれません。純粋な心を持つ青年でしょう」と発言したことをあげた。
  「でも、野枝の瞳は強い光を放ち、大人びた印象を受ける」と森は語る。
  森は、甘粕事件を「関東大震災に乗じた憲兵隊のリンチ事件」だと感じている。その非業の死は、多くの人を野枝に惹きつけるひとつの要因になっているのかもしれない。

写真展示

語り継ぐ使命

  最後に行われた座談会では、参加者からの感想を募った。東京からの参加者は「手作りの暖かい雰囲気がよかった」と意見。ルイさんとともに反原発運動などに関わった女性からは、「ルイさんのことも忘れないで伝えてほしい」という声もあった。
  筆者は座談会の中で質問した。「100年前、野枝について語ることさえできなかった時代があり、今こうして野枝を語れる時代になった。この変化は、なぜ起こったと思いますか?」。これに神田紅が答えた。「答えになるかどうかわかりませんが、私はこの『伊藤野枝』の講談をもっと洗練させて弟子たちに教え、日本中の色んな所でやって欲しいと思っています。それが、野枝を語ることができる時代に生まれた私たちの使命だと思うんです」。
  これ以上の答えはないだろうと思い、筆者は静かに頷いた。

(人民新聞 23年11月5日号掲載)

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