お前、ぎょえんだったのか
東京メトロ丸の内線に乗車中、車内の液晶モニターに停車駅が表示される。次は新宿御苑らしい。ふーん、と思っていると表示が変わりShinjukugyoen、と映し出された。そこで少し驚く、これまで私は新宿御苑のことをじんじゅくごえんと読んでいたからだ。なんなら人に言ったこともあると思う。その時指摘されなかったのか、その人も知らなかったのか。それかその人が直すことでもないとスルーしてくれたのか。
似たような事例として人の名前を思い出した。例えば高山と書いてたかやま、こうやま。これは読みがしっかりと違うので訂正すればいいし相手の記憶にも残ると思う。ただ中島と書いてなかじま、なかしまくらいだと母音は全て同じ、「し」の濁点くらいしか違いがない。また声に出してみると意外と違いが分かりにくい。そうなると相手の印象も残りにくく、訂正してもまた間違えられてしまう可能性があるのではないかと思う。この名前の呼び方について昔、別の名前だが同じ理由で間違えて呼ばれることが多い友人がいた。私は
正しい読み方を幸運にも先に知ることができ、間違えることはなかった。しかし、知っているからこそ周りの人が間違えて呼んでいるときは他人のこととはいえ少し気になった。あるときその彼に聞いてみた、なぜ訂正しないのかと。そうすると「よくあることだし、どっちでもあまり変わらないから。」自分の名前なのにそんな淡白な受け止め方をしているのか、と思ったけれどよく考えてみれば彼にとってはそのやりとりは日常茶飯事。それを漢字で名前を書くようになるくらいから繰り返してもいれば面倒が勝つのか、と妙に納得してしまった。ただ当人が良いと言っても結局間違えている周囲が本来の呼び方で呼ぶべきと思うので、彼の優しさに甘えさせてもらっているということになる。恐らく世の中には彼のような優しい人がたくさんいるんだろう。
新宿御苑が「ぎょえん」だろうが「ごえん」だろうが丸の内線の話であれば意味は通じる。一般に言っても漢字の読み方が少し違っても相手に意味が通れば会話は続けることができる。それが名前であっても当人が気づけば名前としての役割は果たしているといえる。むしろ間違いを毎回指摘した方が話の本題からそれたり、コミュニケーションが円滑に進まなくなることさえある。ただ間違いを許容するべき、というわけではなくて、いずれの場合も受け取る側の優しさによってこれは成立していることを忘れてはいけないなと思った。こういう積み重ねが世界平和に近づくのかもしれない…。
これからは私も些細な間違いは相手が恥ずかしい思いをしないぐらいであれば指摘しないようにしよう。うんうん、と頷き会話を続けるようにする。それがコミュニケーションを円滑にして互いを思いやれる、優しい世界への第一歩になるのだと信じて…。
ただし、好きな漫画やアニメのキャラクターの名前は例外として、都度間違いを指摘します。異論は認めません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?