抽象的な話 意見と感情について

 最近になって私はあることに気づいた。意見と感情は別なのだと。うまく説明できるかわからないけれど書いて見る。

 私は今まで意見や主張というものには感情がセットになっていると考えていた。だから議論で意見がぶつかると、「うわあ、あの人と意見がぶつかっちゃったから喧嘩になっちゃうよ〜。」とか「なんでこの人こんなに反論してくるんだ?私のこと気に入らないのか?」とか考えていた。
 だから意見や主張を持つと人とぶつかりやすい、喧嘩っ早い人間だと思われるから極力意見は言わないでおこう、中庸な人間になろうと生きてきた。

 だが、時が経ち、大人になり会議やらなんやらすることが増えてきた。可能な限り人と意見をぶつける場や発表などの主張の場を避けてきた私にとっては非常に辛い。(こんなことを書いていると甘いゆとり世代だ、と思われるかもしれないがそうなのだから仕方がない)会議やらなんやらで方向性がぶつかると怖い〜となって相手に合わせる、とりあえず相手の意見を聞いておこう、となった。そうなると色々と問題が起きるのだがそれは今回の話題とはずれるので置いておく。
 ただ、周りに合わせるだけでは大人は生きてはいけず意見を求められることも非常に増えた。最初はなんにも言えなかったが何度も何度も聞かれるので私もだんだんと答えるようになっていった。まあ相手の意見と異なるときは相手の意見を聞き入れていたのだけれど。
 あらゆる場面であなたは何を考えている、どうしたいと聞かれることが増え、その都度無理やり空っぽの意見を吐き出していたが、だんだんと以前と違うことに気づいてきた。

 自分の意見を相手に伝えて反論されたりすることもあるが、繰り返し話すと相手が納得する場合があるということ。
 相手と主張がぶつかって激しく言われても、議論の場が終われば相手は別に怒っているわけではないこと。(私はビクビクして顔を合わせるのも避けていた)

 そこで私はなんとなく思った。ああ、意見を言うからといって自分の人格まで否定されているわけではないのだと。私は今まで意見ではなく思い込みの感情ばかり気にしていたのだと思った。
 もちろん感情じゃねーか?みたいな人もいる。そしてそれは自分が一番そうであるということもわかった。
 私はとにかく人とぶつかったり、怒ったりすることが苦手だった。そして意見や主張することは前述した通り自分の感情を相手にぶつける行為だと勘違いしていたためやめようと思った。しかしそうではなく、ただ感情と意見を切り離して物事を考えるということができていなかったのだとやっと理解できた。

 とはいえ人はそう容易く変われるものでもなく相変わらず自分の意見を持つことはあまりない。事なかれ主義のどっちでもいいが口癖であるがこの主義には弊害があった。長らく意見を持たない生活を続けると何が起こるか、人はあまり考えなくなる。周りに流されただ起こるがままに楽観的に(退廃的に?)物事を捉えるようになる。私は昔は超ネガティヴだったが考えることをやめてから楽観的になったと思う。
 
 このままでは人の形をした喋る肉団子になってしまうのでこれからは少しずつ考えることにしようと思いこの文章を書いた。
 今読んでいる本に考えることができない人は2000文字くらい思いつきで書くといいとあったので書いているけれどなかなかに難しい。今1383字だ。
 しかも人に言われた方法でやっている時点で考えていないとも言える。ただ人は容易く変われるものでもないのでしばらくはちょこちょこと書いていこうと思う。(過去色々同じように書こうした残骸がnoteに下書き欄に眠っていたから継続には自信がない)

 思い立ったが吉日、60点を目指してやっていこう。

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