あなたのおみとり
村上浩康監督らしい記録映画
※本文章はできるだけ映画の具体的な場面にはふれないようにして書きました。鑑賞前に読んでいただけるとありがたいのですが、鑑賞の妨げになってしまったら申し訳ありません。
素晴らしい作品をみた。待望の村上浩康監督の新作。村上監督作品のファンを自認する身としては、とにかく嬉しいの一言だ。
開巻早々、海をゆく船の航跡にお母様からの電話が重なる。そしてタイトル。もう「うまい!」の一言である。そしてこのトーンが本作の方向性をしっかりと示している。時折はさまれるユーモラスなショットも健在。お母様が読んでいる新聞の見出し、庭でのぞうきんがけ(ここのお母様の言葉には爆笑)、そしてシュークリームのくだりは、大いに笑わせてもらった。映像演出全般からみても村上監督の円熟ぶりがわかる。
死を迎える肉体変化を記録する
本作は看取りの映画で、そこは今までの監督作品同様、優れた記録映画となっている。今までの村上作品同様、そこをしっかりと記録する。監督らしいのは表情だけではなく、肉体の変化をしっかりと描いたこと。ひげや目元の接写、足裏のショット、体の拭き取りや入浴中のお父様の肉体を丁寧に写し取る。死ぬまでの肉体の変化は経験者にしかわからないことだ。床ずれが起き、動きがなくなり、表情が変わり、顔つきもかわる。死筆者も父を亡くしているが、直前の呼吸が変わったところは、筆者も父の時のことを思い出した。担当医師から死が近いことの理由として、呼吸の変化を伝えられたからだ。また予告編で使われている映像も、死を看取った人間であれば、それがどの段階なのかがなんとなくわかる方もいると思う。
夫を看取るまでの妻を記録する
また看取る側の立場になる母親の記録映画にもなっている。というかほぼ実質の主役といってもよい。この構造はこれまでの村上映画から続いている。『東京干潟』でいうならばしじみのおじいさんで、お父様がしじみ(汗)。『蟹の惑星』でいうならば吉田さんで、蟹がお父様(汗)。『たまねこ、たまびと』で言うならば小西さんで、ネコたちがお父様(大汗 失礼な比喩で申し訳ないです)、ということになる。このあたりのことは国立映画アーカイブの岡田秀則氏も指摘している。看取るお母様の姿を見つめる視点はいつもの村上映画のような誠実で優しいものだ。そして本作も間違いなくコミュニケーションの記録になっている。
死を看取るまで支える方法の物語
さらには看取るまでにどんな人間が関わっていくかを記録している側面も加わる。鑑賞後に監督からうかがった話によると、医療や介護の現場の方々からの声として、これはとても参考になるという言葉が出たそうだ。というのも映画で描かれているように、医療や介護の皆さんはそれぞれプロフェッショナルとして、素晴らしい働きをされている。しかしお互いがどのようなことをしているのかを知る場面はあまりなく、お父様を中心とした看取られまでの流れがよく理解できたとのことらしい。そもそも死という日常でありながら非日常な場面をきちんと知るという意味でも、この映画が残した映像の価値、そして作品の価値がわかる。
今までになかった要素=普遍性の獲得方法
しかし本作はこれまでの村上映画とは違う部分がいくつかある。
撮影対象が全員人間
まず撮影対象がすべて人間であるという点だ。ここは結果的に演出スタイルに微妙な変化を生んでいる。
この映画はいわば「密室劇」なので映像の変化をつけるのはとても難しかったはずだ。それでも飽きさせないのはさすがたと思う。ここはカッティングによるリズムも大きく、テンポよく見せるところと、カット割りをせずじっくりみせるところとのメリハリもうまいなあと唸らされる。時折インサートされるご両親のスナップや、庭の様子やお墓参りの映像はもちろんのこと、限られた部屋数の中で、よくこれだけのアングルを思いついたなあと感心した。技術的に言えば環境音へのこだわりはもちろんだが、カラコレはかなり神経を使われたと思う。その分、庭の緑や干された傘が鮮やかに映える。映像的な面白さは今までの村上作品同様だが、アングルの美しさにハッとさせられるところは間違いなく今までの中でも一番多かったと思う。お父様の臨終間際のお母様との場面。本当に美しかった。
また本作の視点はまちがいなく監督の目だと言えるわけだが、相手がすべて人間であるために、これまでの村上監督作と違って観客は常に誰かと関わる場面を追体験することになる。それはまるで劇中にいるような心持ちになり、監督の演出もまちがいなく劇映画的なものを感じさせる瞬間が多かった気がする。
この映画はわたしたちの映画だ
もうひとつは、間違いなく本作は「あなた」=わたしたちの映画だということだ。
『あなたのおみとり』のあなたは誰のことか、上映後のトークショーでも監督から複数の意味がこめられていると明言された。それは妻から夫への「あなた」であり、誰もが経験されるという意味で鑑賞されるみなさんの「あなた」のことでもある、と。
しかし、このみなさんをさす「あなた」の部分にはもっと深い部分があるのではないか。それは本作が普遍性を獲得するために経たプロセスのことだと思う。
監督の作品は監督自身のコミュニケーションの記録だと私は感じているが、そういった意味では本作は母と息子のコミュニケーションの記録だ。だから今までの監督作では考えられない、お母様との口論めいたものまで登場する。いや、あのあたりは男の子の対母親であるあるでしょう(汗)。正直お母様の話し方が筆者自身の母親と重なるところがあって、ちょっとイラッとしたほどだ(笑)。また前述の通り、自身のことと重なったせいもあって、お父様の呼吸が変わってから、臨終を迎えられる場面で涙ぐんでしまった。でも例えそうだとはいえ、まったく素性も知らない死を間近にした1人の老齢の男性に涙ぐむのはなぜだろう。こうやって考えると、いかにこの映画が追体験としてが観客の心を揺さぶったかがわかる。ただ、ここまでの村上監督作品と違うのは、自分の「意見」ではなく、自分「自身」のことを話したくなる作品にまで昇華させたところにある。
よく映画的な時間という表現で作品を言及されることがあるが、本作はそれを考える材料としてはすごくわかりやすい。旅行記録や成長の節目節目に家族を撮影する経験をした方は、おそらく圧倒的に多いはずだ。ではホームムービーと映画の違いは何かと言われれば、突き詰めれば目的とプロセスの違いになると思う。つまり自分が忘れないために撮影するか、誰かにみせたいために撮影するかだ。監督は最初に、そうそうある機会ではないということで撮影し始めたことを発言されている。そしていつの間にか母親も描いた内容に変わっていったともお話されている。この変化のプロセスはまさに映画作りだといえないだろうか。
背景にあるものをふまえて何を残したのか
あえて書くまでもないことかもしれないが、野暮を承知で言えば、この映画は相当に神経をすり減らして取捨選択をされている作品だと思う。たとえばご両親をめぐる物語にしたければ、別の取材方法はあったはずだし、もっと深くつっこむこともできたと思う。さらに地域の関わりや、妹さんや監督の奥さん、親戚の関わりなどもある。ひょっとすると監督自身に対して「何やってんだ、長男! カメラなんか回してるヒマあるか!」なんて暴論を吐く輩も出てくるかも知れない。
ただこの件でもわかると思うが、おそらく監督はやるべき役割はもちろん果たされていると思う。その上で撮影されている。だから監督自身が肉親の死を目の前にして、いろんな葛藤を抱えている。それは作品からも伝わってくる。作品作りの中で取捨選択したのが監督であって、それもまた演出であり、監督の表現だとも言える。このあたりは今までの監督作とは違う。監督自身が自分の話としてこの映画を語るべき物語にするにあたって、気持ちを整理されているプロセスが創作に重なっているのだと思う。そしてそこが観客の心の琴線にふれるのだ。
ご両親の関係性も、お母様はお父様にいろいろ手厳しいことをおっしゃっているが、それもひとつの本音だし、ここで映し出されている献身的な姿もひとつの事実だ。そして映画には出さなかったことも事実なのである。でも観客は自分自身と照らし合わせて、そこを受けとめる。それが映画をみるということなのだと思う。
筆者もすでに父を亡くし、現在母も入院中である私の父もガンだったのだが、コロナ禍だったので面会もほとんど許されず、死の直前になって会うことがようやく許された。ガンを患う直前には認知症を患ったこともあって、詳細を話すことは控えるが家族を巻き込んでの一悶着もあり、かなり大変なこともあった。しかしそこで父と過ごす時間が増え、同じ親の立場になってからの父と話す機会が増えたのは私には想像以上に嬉しい時間だった。そしてこれが一番自分でも驚いたのだが、亡くなってからの方が父のことをふと思い出す場面が増えたことだ。
そんな我が家の時間と村上家と重なるところは、ほとんどない。偶然だが家族構成は監督の家と全く同じで、お父様と同じ教員というのも驚きの一致だ。それでもあの映画と同じではない。当たり前だが誰の人生にも、そのままなぞるように重なるものはなんて存在しない。けれど、この映画は絶妙な取捨選択とバランスで、どこかに「あっ」と思える描写があることで、観客が自分自身のことを話したくなる映画になったと思う。誰もが通る死、そしてそれまでの生をしっかりと見つめているからこそ、誰もが感じる普遍性を獲得したのだと思う。そこが本当にすばらしいのだ。
ただ。異論もあるかもしれない。特に看取りまでの期間や症状など、もっと苦しまれている方にとっては、この映画の描き方がもった「軽さ」については一言申したい方もいらっしゃるだろう。でもきっと監督はそれもわかっている気がする。そして観客のその言葉すらも受けとめられるはずだ。そのひとつのアンサーがあのエノケンの「私の青空」なのだと思っている。「うちのオヤジが死んだけど、とりあえず天寿を全うした気がするんだよな」そんな監督の心に浮かぶ言葉と共に。人間は1人では生きられない。そんな当たり前のことをふと思い出す機会が増えたら、世の中の人々がもう少し人に優しくできるのかもしれない。どこにでもあるような、このひとつの家族が父の死を看取った物語を、日本中、世界中で、現在だからこそ必要としているのだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?