真幡神社のご由緒 —明治近代化の荒波を乗り越えた港町の氏神社—
令和六年五月二十五日、子供時代から馴染みの深い神社へ散歩がてらお参りしてきました。
ようやく半袖でないと暑いくらいになり夏の足音が聞こえてくる様です。
小学生時分、境内で遊んでいたのはもう四十年ほど前になります。そのノスタルジーも相まって天気の良い日に歩いて来るとほっこりできる場所です。
日本人の多くの人が思い当たるところのあろう、そんな地域の氏神さま。真幡神社はそんな神社です。
なぜか呼び名は「おうばんさん」
実はこちらの正式名称が真幡神社だと知ったのはほんの数年前のことでした。昔から地域では「おうばん」「おうばんさん」「黄幡神社」などと呼ばれていました。鳥居の扁額にもしっかり「黄幡神社」と書いてあります。
数年前、神社についてきちんと勉強ようと思い始めていた頃に由緒書きを改めて見たところ「真幡神社」と書いてあることに違和感を感じたのでした。
真幡神社の由緒書き
ということで早速みていきたいと思います。
黄幡神は蕃神
蕃神は外国にルーツをもつ神様のことで「あだしのかみ」と読みます。。仏教などと共に持ち込まれたり渡来人(帰化人)の信仰が土着したような神様のことです。
黄幡神はインド由来の神様で仏教(密教)系の神様。集落の境や三叉路などに祀られ道祖神のように扱われることが多いようです。
ご由緒書きにもある通り江戸時代には黄幡神を祀る黄幡社であったようですが、明治時代に神仏分離や神道の布教が政策とされる流れの中、蕃神を祀る神社は取り潰されたりしたそうです。
ちなみに明治時代末期の明治政府による神社合祀政策により明治三十九(1906)年に190,265社あった神社は同四十二(1909)年には147,270社へと僅か3年間で約43,000社の神社が廃されました。この時、神社の体をなしていない社は合祀(ごうし ※合併のようなもの)もされず潰されました。蕃神を祀った黄幡社も廃止の憂き目にあったのではないかと想像します。
そこで黄幡神と同じのような道祖神的性格をもつ日本古来の神様へと御祭神を置き換えることで取り潰しを免れたのではないか、あるいは当局なり地元の名士からそのような指導があったのではないかと考えています。
由緒書きにある御祭神を読み解くと、この空想にも少しは筋が通ろうかと思い、以下に続けます。
泉津道守神(よもつちもりのかみ)
この神様、イザナギが黄泉の国で妻のイザナミに追われて地上に戻ってきた際、地上と黄泉の国をつなぐ道である黄泉平坂(よもつひらさか)を塞いだ磐石を司ります。正に道祖神として外界からの災厄を塞ぐことを祈願する神様です。
【(蕃神)黄幡神=道祖神=泉津道守神(大和神)】という図式で置き換えられたと言えないでしょうか。
寒座三柱神(さやりますみはしらのかみ)
この三柱(神様は柱と数えます)の神様はよく分かりません。音の意味と私の推測から仮定するに『塞三柱神(さえのみはしらのかみ)』のことではないかと考えます。『寒』は『塞』の誤りではないかと思います。よみ仮名で検索してみますと福岡県糸島市の箱島神社などが見当たり、御祭神はやはり『’塞’坐三柱大神』となっています。『塞三柱神』と『塞坐三柱神』は同義です。
塞三柱神は延喜式祝詞(えんぎしきのりと)という平安時代に成立した法令集に出てくる神様です。日本史で「くになす(927)もとだよ延喜式」と習ったことがある人もおられるかと思います。祝詞というのは神社でのご祈祷の際に神職さんが古い日本語で唱える呪文のようなあれです。
その祝詞に出てくる久那斗(くなど)の神、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)という夫婦神、この三柱の神様が塞三柱神です。悪疫・悪霊等の侵入阻止・退散を祈願する神様で、こちらもやはり道祖神です。
金山毘古神(かなやまびこのかみ)
この神様は鉱物を司る神様です。
そうすると神社史・郷土史・国史などについて初学者の私なんかは「この界隈でなにか採れていたのかな?」などと安直に想像してしまいます。カナヤマビコは主に水銀、朱丹(しゅたん)という赤色顔料、硫化水銀の採掘場などの近くに祀られている事が多いと思います。
少し掘り下げて調べてみましたが、この界隈で水銀が採れていた事を裏付けるような材料は無さそうな感じでした。カナヤマビコに関しては由緒書きが作成された時点でそういう言い伝えがあったのか、それとも後付けの説なのか、謎な感じです。
地学は苦手だったもので地質に関する見識が足りず、これ以上の想像を膨らませる事ができず情けない限りです。
神輿は進むよ御旅所へ
神輿は一般的には「みこし」と読みますが「しんよ」と読むこともあります。
お祭りによって様々ですが一般的に御旅所を目指して神輿を運び、そこで神様にお食事を供えつつ一泊してもらったり、祝詞や神楽を奉ったりする儀式があったりして、また元の神社へ帰っていきます。
黄幡神社の御神輿がどんな風だったか、私は町民ではなかったので残念ながら知りません。ただ、町民だった小学校の頃の友達は「おみこしがある」と言って参加していたような覚えがあります。
御旅所の胡子神社は真幡神社から少し離れた公園の脇にあるとても小さなお社です。
まとめ
本質は往来の安全を祈年すること
小学生だった頃、いつも「おうばん」といって親しんでいましたが、いまでも地域の人は「おうばんじんじゃ」と呼んでいます。私の少ない体験でも「まはたじんじゃ」と呼んでいる人に会った事がございません。
本記事で御祭神の変遷を推論しましたが結論として、祀られている神様の名前や神社の呼称が問題なのではなく、氏子の祈りの対象は「交通の安全」でり、例え御祭神や神社の呼び名が変わろうとも氏子・崇敬者にとってそれは本質的な変化ではなかったに違いありません。
だから改称され百年ほど経った今でも黄幡神社として親しまれているのだろうと思います。
江戸時代の中頃までここから見上げる山(黄金山、標高222m)は仁保島と呼ばれる瀬戸内海に浮かぶ島でした。浅野の御殿様によって埋め立てが進み、現代では山と海が直接に面している場所は無くなりました。山の麓は昔の名残を若干保っている街並みではありますが安全に行き来できるようになりました。
そこに道祖神様の恩頼(みたまのふゆ)を感じもしますが反面地域の方々からはご由緒である祈りは忘れられつつあるでしょう。それはそれで良い事なのであります。そして同時に歴史の流れにノスタルジックな感情を揺さぶられます。
所管社について少し
本由緒書きの最後に所管社として『邇保姫神社』が記載されております。
こちらの神社は第十四代仲哀天皇や神功皇后他お祀りされており、創建そのものが神功皇后に由来する由緒正しき神社です。またいつかご紹介したい神社でございます。
本稿は以上になります。最後までお読みいただきまして誠にありがとうございました!
参考
書籍・文献
ウェブサイト
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?