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忌中・生理中の神社参拝と熊野権現
忌中は神社に参拝しない。そういう風習があるのはご存知の方も多いでしょう。忌中とは故人をしのび、御霊を鎮める期間です。結婚式やお祝い事への参加も自粛すべしとされます。
忌中の期間は以下のとおり。
父母 50日
配偶者 50日
祖父母 30日
兄弟姉妹 20日
子ども 20日
孫 10日
叔父叔母 20日
従兄弟従姉妹 1~3日
神社参拝をひかえるのは、亡くなった人の家族・親族を「ケガレ」と考えるからです。
ケガレ=気が枯れる。
「肉体疲労や精神的な疲労から復帰し、心身を持ち直してから参拝するように」というのが、参拝をひかえる目的です。
べつに汚いから参拝するな、というわけではありません。安静にしていましょう、ということですね。
仏教は参拝OKで、忌中でも初詣にお寺へ行きます。キリスト教やイスラム教は、忌中にあたる概念が無く、教会に行っても何の問題もありません。
他の宗教と比較すると、神社は、お祝い事の場所とされているのがわかります。晴れやかなパーティー会場のようなものですね。
では不幸があって落ち込んでいる人は神社参拝してはいけないのか?
神職さんは、神社によって職務規定があります。もっとも厳密に守ると職務に支障をきたしかねないので、期間が短縮されたり、お祓いして勤務したりすることも可能なようです。
神職さん以外の一般人は、それぞれのお考え次第。
その上で参考材料を申し上げると、熊野の神様である熊野権現は
「浄不浄を嫌わず」
というコンセプトがあります。ケガレているかいないかの区別はしないので、どうぞご参拝くださいという意味です。
だから熊野は「ハンセン病患者」の治療場所にもなりました。熊野の温泉で治療されたわけです。ハンセン病は見た目がひどくなりますし、仏教でも「前世で悪いことをした報い」とされて嫌われた過去があり、熊野くらいしか受け入れてくれるところは無かったのです。
恋多き平安歌人・和泉式部が熊野をおとずれたときにこんな逸話があります。
熊野本宮大社に参拝しようとあと3.5キロほどのところで生理をむかえた和泉式部。
当時は月経の女性もケガレとされ、神社参拝は控えるべきとされていました。それで「ここまできて月の障り(さわり)になるなんて悲しいわ」と歌った夜に、枕元に熊野権現がきて、こう告げたというのです。
「もろもろに 塵にまじわる神なれば 月のさはりも何か苦しき」
意味は
「ここは浄不浄を嫌わぬ熊野なのだから、月経など気にせずにお参りしなさい」
自由奔放な和泉式部は、現代ならばバッシングされる有名芸能人のような存在。当時もいろいろご批判あったようですすが、熊野の思想はそれを受け入れるものでした。
神仏は塵と埃にまみれた現世で人を救うものだよと。
ただ、これは熊野だけであり、仏教の時宗から出た考え方です。時宗の開祖・一遍は熊野本宮大社で熊野権現の神勅を得たとされます。
神社は、基本的には天皇家や有力貴族がつくってきたもの。有力なお寺もそうですね。だからどちらもかなり保守的であり、体制側の思想です。「人間は」ですよ^^ 神様のような精神のみの知的存在は、人間の考えとはまた独立して動かれているでしょう。
「塵にまじわる神」という熊野の庶民と一緒にいる神という発想は、権力の中枢とはほど遠い人間達が当時の熊野信仰をつくったからかもしれません。
もっとも「神のこと はかりがたし」。
(はかる:図る、測る、謀る、量る、諮る)
神様の考えを推測することは難しいです。我々人間の常識とは違う感覚・世界観だろうからです。
YESともNOともつかない、参考材料を出すのみで、あいまいに締めることとします。結局、最適解は個々人や状況次第でしょうから。