日記(2024/9/4 1:40)
ウクライナ侵攻でロシア兵がドローンか何かに攻撃されて爆散する動画を(もうこの地獄は何年も続いているはずなのに)なぜか最近よくSNS上で見かけるようになった。
映像冒頭、そいつは大体ドローンのカメラの方をじっと見つめている。パッと画面が煙に覆われたかと思えば、大体次の映像で、身体を激しく損傷させたそいつは胸を大きく上下させながら必死に呼吸を繰り返している。
人間は爆散すると国籍も何もなくなるのだと、強く思った。
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驚くほどに似たような構成の動画で溢れている。そのひとつひとつに登場するそいつらは、“驚くほどに似たような構成の動画群のひとつ”としてパターン化され、遠いアジアに住むひとりの馬鹿にインスタントに消費される。
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大体動画と一緒に投稿されているのは「神聖なウクライナの土地を犯す憎きロシア兵には鮮血の報いを」みたいなキリル文字か、英語の文章。投稿への反応はそろって歓喜、歓喜、歓喜。みんなこれが地獄だと分かっていながら、それでも歓喜しなければやっていけない。僕は彼らが悪魔だとは思えない。ただ不幸な当事者であるだけなのだ(なにせ彼らはいま自国の存亡をかけた戦いの最中にいる!)
動画が流れてくるたびに激しい忌避感を覚えながら「これを飛ばしてしまうといよいよおしまいな気がする」と歪な正義感のような何か(こんなものは決して正義感なんかではない)に突き動かされてそれを全部見て、お決まりのようにおしまいの気持ちになる。なんて軽薄な毎日を送っているのだろうと溜息を吐こうとするも、胸がつっかえてうまく呼吸ができない。
いま、どうしようもなくなってこうして思考を書き殴っている。吐き気がする。一丁前に、安全圏で。その構造自体にも吐き気がする。なーんにも関係ないのに。逃げられない、という気持ちになっている。一丁前に、安全圏で。
本当に逃げられないのは動画で爆散するそいつらと、それに歓喜するアカウントたちなのに。
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人間は対象そのものを知覚することができない。完全な意思疎通も存在しないのだから、我々は他者に本質的に向き合うことができない。
高校一年生の現代文でクオリアを習ってからずっとそんなことを考えて耐えがたい孤独感に苛まれてきた(なんてちゃちな中二病的思考だ!と当時は自身をメタ視して嘲うことぐらいはできていたのに、今でもその状態から抜け出せていない。なんならもっと深くにはまりこんでしまっているような気がする。これは大変なことだ)
インスタントにしか消費できないのはなにもウクライナ、ガザ、中国少数民族自治などの“大きな”問題だけではない。今日のニュースで流れた、飲酒運転のトラックに夫と子どもを殺された母親にも、熱中症で死んでいった人たちとその家族にも、そして僕の身の回りの、最初の飲み会で本当にやらかしてからずっと周囲からの評価を気にしている会社の同期にも、深夜になるとTwitterで「死にたい」としか呟けなくなる知り合いにも、全部僕は干渉し得ない。
それでも向き合おうとする努力はできるのだ、そしてそれは尊いことなんだと自分を説得して何とかぎこちなく生きているが、着実にガタがきはじめている。現に、こうしてこのどうしようもない感情をネットの海に放流しないと、僕は耐えられなくなってきている。
将来、配属が“希望通り”にいくのなら僕はこうした「向き合う努力」を強いられる職業に就くことが決まっている。ひたすらに自信がない。「初期配属は君の希望通りにならないだろう」と僕に伝えた人事の方々は、僕のこのどうしようもない状態を見抜いていたのかもしれない。まさかな。
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明日はサークル業務のために朝の8時に大学に身をとどけなければならないらしい。馬鹿なのか?手遅れになりつつあるが、まだここで「就寝」を選択できているうちは、それなりにうまく生きていけるのだろう。そう信じるしかない。おやすみなさい
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