「松井元哉 第113回医師国家試験 不合格発表閲覧之地」に関する一考察⑵
前回の考察に感じた「矛盾」
前回の記事を、「次回は『なぜ石碑を建てるという手段に至ったのか』を考えていきたい」と締めた。しかし、それは第3回目の更新へ延期することとした。
何か心に引っかかるものがあったからだ。前回の考察は、まだ完全ではないのではないか? わだかまりが解消されない限り、次の考察には移れない。
――なぜ、松井さんがあの場所で自身の不合格を知ったのか。その疑問に対し、前回の記事でひとまず出した結論は以下のとおりだ。
「松井さんの親が何らかの用事で平泉方面へ行くため、車を運転。学校を卒業し郷里に戻ってきたばかりの松井さんも同乗しており、スマホ等で合格発表を見る。そして不合格を知った瞬間に、この地点を通っていた」
この考察には、矛盾があったのだ。その矛盾とは。この数日間考え続けて、ついに思い至る。
自分は、松井さんが岩手もしくは東北にゆかりのある人物だと決めつけて、結論を出してしまっていた。
松井さんが岩手や東北にゆかりのある人物とは、言い切れないのでは? ともすれば、例の場所と関わりがないにも関わらず、あの石碑を建てたのでは? その可能性を探らないことには、次に進めないはずだ。
そして自分自身、その矛盾には知らず知らずのうちに気づいていたのだ。前回の記事を参照しよう。
(石碑の建っている場所についての言及より)
わざわざこの道を徒歩で通るメリットは、まずないと考えられる。
ゆえに、石碑があるからといって、松井さんがこの近くの街に住んでいることにはならない。東北地方は車社会で、都市圏と比べ行動範囲ははるかに広い。
このように、松井さんが例の場所と関わりがないという可能性には気づけていたはずなのだ。愚考を反省しながらも、さっそくこの疑問を追及することにした。
関わりがない土地に石碑の建立は可能か?
前回は、松井さんが岩手や東北に関わる方である前提で考えてしまった。そのため今回は逆に、「松井さんは岩手や東北に関わりがない」という前提で考えてみたい。
前回から続けて記事を見てくれている方々は、関わりがあるのかないのかどっちなんだと戸惑うだろう。
だが、この考察では松井さんの詳細な人物像には触れないこととしている。実際に松井さんが岩手と関わりがあるのかないのかは、そもそも追及できないし、するべきでもないのだ。
ゆえに、両方のパターンから考察して、「このどちらかだろう」という落とし所にしなければならなかったのだ。
さて、仮に松井さんが岩手や東北に住んでもいない、それどころか関わりすらない人物だったとして。例の場所に石碑を建てることなど可能なのだろうか?

結論から書くと、決して不可能ではない。しかるべき人間に話を通して、しかるべき建て方をすれば、建てられると見た。
まずは土地の問題だが、これは単純に土地の持ち主と話をつければOKだ。不合格の石碑を建てる許可を出す人がいるのかどうかは、別の話だけど…。
次に、石碑を建てるにしても、ただ作って建てればいいものでもない。地主以外の了解もいる。それは、役所だ。
平成21年に一関市が定めた「一関市景観まちづくり条例」によると、屋外に建設物や工作物を建てる時は、決められた手続きと市長の許可が必要だ。
なぜ役所の許可までいるのかというと、自治体は町の景観を保たなければいけないからだ。
例えば、いくら地主と施主との話がついていたとしても。日本の元風景のような田舎に突如、原色バリバリの巨大看板が建とうものなら、住民からの批判は免れないだろう。
そこで、町の景観を著しく損なうものが建ったりしないよう、役所が管理しているというわけだ。

(人物は実業家・パン屋プロデューサーの岸本拓也氏)
しかし、例外はある。「彫像、記念碑その他これらに類するもの」に関しては、「高さが5m以下かつ築造面積が10平米以下のもの」なら、役所にいちいち届け出る必要がないとのこと。もちろん、町の景観に配慮した色使いが前提だ。
これに照らし合わせると、例の石碑はどうだろうか。
不合格とはいえ、まあ記念碑の類だろう。高さも築造面積も範囲内。色も自然な石の色。すべて基準内であり、役所への届け出は必要なさそうだ。
つまりこの石碑は、地主の了解さえあれば建てられると考えられる。石碑を建てる際の諸問題も、まずクリアできるだろう。
なぜ、松井さんは一関に来たのか?
ここでもう一つ、前回の記事とは逆のパターンを考察しなければならない。
それは、松井さんが不合格を知ったタイミングが、一関から平泉へ向かう途中ではなく、その逆。「平泉から一関へ向かう途中」だったのではないか、ということだ。
それを考えると、一つの仮説が浮かぶ。
ーー松井さんは平泉を観光して、一関ひいてはその先を目指し車で移動していた最中に、例の場所で不合格を知ったのではないか?
その点を踏まえて、松井さんがなぜ、ゆかりのない岩手で不合格を知ったのかについて考察したい。
平泉を目指してこの道を西に進んでいたのではなく、平泉からやってきて東に進んでいたケースとは、どういったものなのか。
ここでもう一度、石碑が建つ例の場所を確認しよう。

この道は県道168号であり、一関市内のみを北上川沿いに通る道路だ。西進すれば他の県道と接続し、地元住民にとって平泉への最短ルートとなる。
では、その逆。この道を東進すると、どこに通じているのだろうか?
もっと広い視点でgoogle mapを見ると、このとおりだ。

これではさすがに視点が遠いので、説明しよう。
一関市川崎地区を抜けたあとは、同市千厩地区、同市室根地区。そして県境を越え、海に面した宮城県気仙沼市に至る。さらに北へ行けば、再び岩手県に入り陸前高田市へ続く。南へ行けば、南三陸町へ続く。
気仙沼市・陸前高田市・南三陸町。これらの地名に、ピンときた方もいるだろう。東日本大震災で大きな被害を受けた自治体だ。
その時、自分の中で点と点が繋がった。以下でそのまとめをしよう。
小括
例の石碑が建つ道路は、西進すれば世界遺産の平泉へ至る。逆に東進すれば沿岸の被災地へ至る。
そして前回の記事でも触れた、第113回医師国家試験の合格発表はいつだったろうか。
3月18日だ。東日本大震災の発災日ちょうどでこそないが、多くの人間が震災に思いをはせた時期だろう。
そしてその頃の学校は、卒業式が終わっていてもおかしくない時期。それらを考慮すると、県外の学生が岩手にやってきてもおかしくない理由が一つあるのだ。
それは、卒業旅行だ。
前回の記事では、例の場所を車くらいでしか通らない道と評した。そこは変わらない。ゆえに、松井さんは親の運転する車に乗っていたのではと考察していた。
しかし、卒業旅行と考えるとどうか? 友人たちで連れ立って、レンタカーなど運転して、皆で乗っていたという見方もできる。たとえ松井さんが車の運転のできない方だったとしても、友人が運転手だったかもしれない。
卒業旅行。平泉から沿岸部へ至る道。日付は3月18日。キーワードは揃った。
松井さんは岩手と無関係、かつ平泉から一関へ向かう途中に例の場所で不合格を知ったケースにおいては、以下が最も妥当と考える。
「松井さんは卒業旅行で平泉を見物。その後は震災に近い時期だったこともあり、さらに沿岸部を目指した。その最中、スマホ等で合格発表を見る。そして不合格を知った瞬間に、この地点を通っていた」
もちろん、先に沿岸部を見物してから、平泉に向かったのかもしれない。それでも十分筋は立つ。
松井さんが岩手に関わりがあろうとなかろうと、例の場所を通る理由はあったということだ。
これで、前回の記事で生じた矛盾も解消されただろう。
次回こそ、「なぜ石碑を建てるという手段に至ったのか」を考えていきたい。