【蘊蓄小説】man in the man ~中の人~
ACT.1 前説 Introduction|||||||||||||||
このお話が現実的でないにしても特に問題ではない。
ある女性のことについて描かれた日常的な現実が現実的ではなかっただけで、信じるかどうかはそれぞれの問題でしかない。しかしながら、これはあくまでその女性のお話である。そして言うなればネストの物語でもあるのかもしれない。
Joseph K Chapman(ジョセフ・キング・チャップマン)
ジョセフはヘブライ語でYosephと書きヨセフと読む。ヨセフは旧約聖書の創世記に登場するヤコブの子の名である。ミドルネームのKは、KINGの頭文字だが、ここにもY.Kのイニシャルが見て取れる。父はウクライナからのユダヤ系移民の子孫であるが、スイスの傭兵部隊に在籍していたときに渡米し、チャップマンという姓を名乗るようになる。その後ヨーロッパを転々とし、フランスのパリ在住時に中央アフリカのタンザニアからの移民の女性と一緒になる。ジョセフはそのときに生まれた。 ちなみにウクライナからのユダヤ系移民の有名人には映画監督のスティーブン・スピルバーグがいる。
生まれてすぐはパリで両親とともに生活していたが、1985年にイタリアのジェノヴァで開催されたフェスティバル「ジャパン・アヴァンギャルド・オブ・ザ・フューチャー」を体験し、日本という国に憧れ8歳の時に来日。そのとき来日に合わせ、父の知り合いの造形師から日本に行くならと作ってもらった日本人女性の着ぐるみを着て日本に渡り生活を始めたため、いつしか脱げなくなり現在に至る。
言葉は英語とフランス語以外に5ヶ国語を話すが、ヘブライ語、スワヒリ語、チベット語、ドンガン語、サンスクリット語 と日常会話に使用できる言葉を使えないため、無口でシャイな性格と思われている。
ちなみに、着ぐるみは日本語会話機能を持っており、自動翻訳でしゃべることが可能らしいが仕組みはよくわかっていない。たまにどこともわからないイントネーションがでるのは、機能の不具合ではないかと思われる。自身の身長は170センチ、体重78キロ、肌の色は黒系で筋肉質、髪はブロンズで目は淡いブルー、それは誰が見ても大柄な黒人男性である。
ACT.2 事例「メソ」ex.MESO
時代の要請であったかもしれない。当時の特撮においては人がそれを代用する必要があった。それによって、怪獣やウルトラマンやヒーローたちは、中の人とは別の存在として誕生し、子供たちの心を魅了していったのだ。円谷プロが特撮において着ぐるみを作り上げたとき、中の人の存在は明確に否定された。はじめからなかったものとして・・・
しかし、現実的にはそこに中の人を意識する隙があった。例えばヒーロー物のゴレンジャーなどにしても同様で、モモレンジャーの中の人が男性的であったことが、後日談として話題になったりもした。それでもぼくらは、モモレンジャーが女性を鋳型にしているのだと強制的に信じたものだ。
そうして、いつしか着ぐるみが文化として定着し、さらに着ぐるみの技術も進み、リアリティや存在感を持ち始めると、次第に中の人のことなどどうでもよくなっていった。本当になかったことになっていたのだ。いまではガチャピンやムックの中の人を詮索する人など皆無に等しい。しかしながら、その中の人への意識の復活を誘うような作品が漫画的表現に現れてしまう。
それが、うすた京介の「セクシーコマンドー外伝 すごいよマサルさん」である。この作品に登場する不思議な生命体「メソ」は、そのかわいらしい容姿や愛想のいいアクションでみんなから愛されるキャラクターとして存在するが、最終巻である第7巻コマンドー70(70話)「つゆメソ’97」およびコマンドー71(71話)「しおこんぶと私」において、 それが表面上のモノ、つまり着ぐるみのモノであり、中に別の存在があることにみんなが気づくのである。ここで描かれている中の人は、おそらく人間とは別の異世界の生命体だろうと想像できる。
うすた京介が1995年から2年間、週刊少年ジャンプで連載していたこの漫画は彼の実質的な連載デビュー作であるが、1998年にアニメ化されたものの深夜のバラエティ番組の1コーナーとして1話10分で48話が作られただけで、その後要潤主演で実写映画化された「ピューと吹く!ジャガー」と比べると非常に地味な作品として記憶されている。批評的な文献は皆無に等しいが、コアなファンにより同人誌レベルでノベライズが発行されており、その付録か中綴じ的な体裁で対談が掲載されていたので引用しよう。
この対談は「阿修羅ガールズプレス」という雑誌に掲載されていたもののようで、おそらく無断転載だろう。対談をしているのは映画評論家の聖遼印龍酔と本誌ライターの大爆恕シチューである。この対談の興味深いところは、謎のカワユスキャラである「メソ」を掘り下げたコアな内容になっていることである。
大爆恕シチュー(以下「大」)「梅雨時期でジメジメしてるからって海パンはないですよね。」
聖遼印龍酔(以下「聖」)「まあでもマサルらしいからOKじゃない。」
大「そんで、モエモエがメソの様子がおかしいって気づきますよね、中でなんか動いてる感じで。」
聖「それが伏線なのよ。つまりメソの中に外見がメソとは違うものがいるみたいなね。メソの外見は着ぐるみで、中に別のものがいるんだよって話ね。」
大「それで雨上がりの放課後に部室に戻ってきてみると、メソの様子がさらにおかしいんですね。」
聖「ロボになってる」
大「ちゃんと口からレシートみたいな紙テープが出てきて、“ロボチガウ”って書かれているですよね。あのへんの小ネタはぼくら世代には大いに受けちゃうんですよねえ。海外SFドラマや松本零士の漫画とかに出てくるネタですよね。まあそういうことでみんな怪しみ出すんですよね。明らかに中に何かいるって思わせますもんね、意図的に。」
聖「そそ。実際に太文字で“中”ってのが3回登場するじゃん。あれは作者の意図が見え見えだよね。」
大「ああ、ココの部分ですね」
モエモエのロボ発言にマチャ彦が「ロボは古い」と突っ込み、マサルがぷりぷり笑っている最中、フーミンだけは冷静に事の重大さについて気づいていた。
「でも変だよコレ・・・いままでのメソ君とは明らかに違うもの」
「そういえば、メソくん今朝!」
モエモエもなにかに気づく。
「なんかモゾモゾしてたよ」
「“中”で」
「梅雨だからな・・・やっぱりムレてるんじゃないか・・・?」
マチャ彦も疑問を投げかける。
「“中”は」
フーミンがさらなる確信的な疑問を言い放つ。
「て事は本当の“中”は・・・今、外に・・・?」
マサルは真面目な顔で、ある回答を口にした。
「食われたりしてなきゃいいがな」
この回答にみんなが一斉に怯えだし、モエモエはクワーッと顔をしかめた。
「や、やめてよマサルくん」
「だ、大丈夫だよモエモエ。あのメソが食われたりするもんか」
マチャ彦がモエモエに気を使って優しい言葉を投げかけるが、マサルはまったく別の回答を用意していた。
「ハハハ、いやいや、メソがっていうか」
「ヒトがさ」
そのマサルの言葉には部員たちを凍りつかせるだけの言霊が宿っていた。そして誰もが「あり得る」と同意し、大急ぎでメソの中身を探しに向かったのであった。
大「この後で意外にもメソがマサルたちのところに戻ってくるのですが、なぜかメソはトレパン先生マツダのトレパンを着て登場しますよね。」
聖「ここがひとつとてもシュールな場面なんだよ。メソがなぜトレパン先生マツダのトレパンを着たのかは別にして、そもそもなんでメソは着ぐるみを残して外に出たのかってのもあるんだけど、ここでトレパン先生マツダのトレパンの中にいるメソらしきモノを見て、みんなは完全に怪しみだすんだよ。」
大「そうですね。この部分ですね。」
メソの着ぐるみでひとしきり至福のときを堪能したマサルたちはメソの着ぐるみを前に、ある疑問にぶち当たる。
「でもこれが着ぐるみだって事は・・・メソってどっちのことなんだろう?この外側の方かなあ?」
モエモエがメソの着ぐるみを見ながら重大な疑問を投げかけた。
「やっぱり中身じゃないっスか?!」
キャサリンの投げやりな返答にモエモエはふてくされている。
「こうしてはどうだ。とりあえず今は中身の事を」
マチャ彦は神妙な顔でみんなに提案した。
「ケビンという名で呼ぶのは・・・」
そのとき部室の窓の外で怪しく動くモノの気配を部員たちは感じた。
そしてマサルはこう叫んだ。
「ヤツかっ」
そしてまたしても独りごちになるマチャ彦であった。
<中略>
「おいでメソくん!なでなでしてあげるからおいで!」
トレパン先生マツダのトレパンの中で怪しく動くモノに対してモエモエはなんとかメソと信じて近寄っていく。
「モッキュ~ン」
そのメソかもしれないトレパンの中のモノはメソのような声で愛嬌を振りまくが、見てくれにはただトレパンがモゾモゾ動いてるようにしか見えなかった。モエモエはそれを前にこう思った。
「アタマはどこかしら?」
<中略>
「実はオレもうすうすわけがわからないと思ってたんだ」
「実は僕もさっきから変なモノが入ったトレパンにしか見えないなあと・・・」
「しかも、しかも何かコレ」
マチャ彦とフーミンはその変なモノが入ったトレパンを見ながら、マツダ先生をイメージしていたのだ。
“バキューム”
「すごくイメージ悪い!!」
聖「シュールだねえ。」
大「シュールですよねえ。」
聖「特にトレパンのメソとマツダ先生がかぶるってのはおもしろいね。」
大「モエモエのセリフも秀逸ですよね。トレパンのメソに向かって”脱がされたくてたまらんですって顔はやめて”って。」
聖「これは逆をついたナイスなフリだよね。機転がきいてるって感じで。」
大「そしていよいよトレパン先生マツダのトレパンの中のものをみんなで見てやろうってんで、バトルが始まるんですね。」
聖「このへんはいつものノリなんだけど、ただ相手がよく知っているはずなのに実は得体の知れないメソの中身なわけだから、どんなトリッキーなことが起こってもおかしくないよね。」
大「クライマックスのシーンはこんな感じに描かれていました。」
腕力には自信があるマサルはマチャ彦とアイコンタクトするとおもむろにトレパンの片側をつかんだ。マチャ彦も同様にもう一方を掴むと、ちょうど綱引きのような格好でマサルとマチャ彦はトレパンのそれぞれの片側を引っ張りだしたのである。
「ナーバス!」
「ガーリレィ!」
<中略>
二人のかけ声がバラバラに響き、トレパンの引っ張られる力は着実に増していき、つなぎ合わされていた縫合はその力によって次第に崩れ、とうとう千切れていった。そしてトレパンはふたつに分離し文字通り裂けたのである。誰もが中身ごと裂けたと思ったに違いなかった。しかし現実は小説より奇なりであった。
<中略>
真っ二つに裂けたトレパンのそれぞれがモゾモゾと動き出し、中央にズルズルと集まろうとしてた。
「う、動き出した」フーミンが叫んだ。
「い、生きてんのか?!」マチャ彦も悲鳴に似た声で叫んだ。
「しまった。そうかやはり裂けたんじゃない。やつらもともと・・・」
そしてマサルは理解した。「2匹だったんだ!!」
そのときトレパンの中で目のようなものが光った。とたん部室中に煙が立ち込み始めたのだ。
「わ!」
「え、煙幕?!」
煙が立ち込めた部室は完全に視界を奪われていたかに思われたが、煙はそれほどでもなかった。
「思ったよりケムリがうすいよ」フーミンは辺りを見渡した。
「見ろ!うっすらと」マチャ彦がなにかを見つけた。「に、2匹だ!やっぱり2匹動いてるぞ!」
そのとき誰もが耳を疑っただろうが、2匹のところからはっきりとその声は聞こえた。
「はよせな・・・!」
そして、モッキュキューンと現れたメソは、きちんと着れずに無残にも異型の形をしてしまっていたのである。フーミンなどはつのだじろうが描くキャラクターのような状態で恐怖していたぐらいであった。
聖「トリッキーだねえ。」
大「トリッキーですよねえ。」
聖「・・・」
大「ただ結局のところ、そのことについてはなかったことになってしまうんですよね。最後はこんな感じで終わっています。」
かくして、その日のメソの恐ろしさに悲鳴をあげる部員たちであったが、メソの恐ろしさは10分で恐怖心をぬぐいさるそのかわいさにあるのかもしれない・・・。
聖「この終わり方は、ジャック・フィニイの小説”盗まれた街”を原作とした一連の映画の中では、2作目のSF/ボディー・スナッチャーと同様のバッドエンドなオチなんだけど、マサルたちに取ってみればハッピーエンドに見えてしまうのがおもしろい。」
大「ただ最終回ではやはりって形で現れますよね。」
聖「まあだからこれって最終回への伏線だったんだろうけど、この時点でうすた京介がそこまで意識してたかどうかは疑わしいけどねえ。」
大「ですよねえ。」
ACT.3 事例「ジャック・フィニイの盗まれた街」ex.Jack Finney's The Body Snatchers (Invasion of the Body Snatchers)
中の人と外の人の違和感やズレが導きだす恐怖や面白さは多くの創造者を魅了する。すこし内容は違っているが、ジャック・フィニイの小説「盗まれた街」、そしてそれを原作とする映画(これまでに4本も作られている)も人が入れ替わることによる恐怖を描いている。こちらは宇宙人が繭上のモノの中で人間そっくりに変身したり、ウイルスのように感染して取って代わったりする。気ぐるみという発想とは微妙に違うものの、中身が外見と違う、という意味では同様におもしろい。
1955年に著された「盗まれた街」は古典SFの代表作であるが、豆のさやから現れたエイリアンが街の人間にすり替わって地球を侵略しようとするお話である。このプロット、つまり「エイリアンが人間と入れ替わり侵略を図る」という設定でその後4回にわたり映画化されている。
最初の映画作品は原作発行後の翌年に公開されたドン・シーゲル監督の「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」である。ドン・シーゲルといえばクリント・イーストウッド主演の「ダーティ・ハリー」が最も有名な監督だろう。古典SFの傑作としていまも多くのファンに愛される逸品だろう。原作にも比較的忠実に描かれている。
2度目の映画作品は1978年の「SF/ボディ・スナッチャー」。 監督はフィリップ・カウフマンで、後に「ライトスタッフ」や「存在の耐えられない軽さ」などで有名な監督であるが、さらにはインディ・ジョーンズシリーズの第1作「レイダース/失われたアーク」でこのアークのアイデアを提供した人だそうだ。ところで、前作の「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」がオープニングとエンディングの後付で回想という形態を取ってハッピーエンドで終わっているのに対して、この「SF/ボディ・スナッチャー」は完全なバッドエンド。まさに恐怖を感じざるを得ない。だからこそおもしろいのかもしれないのだが・・・ まあキャスティングの妙もあると思う。「24」のジャック・バウアー役のキーファー・サザーランドのお父さんドナルド・サザーランドが主演で、脇を固めるのが「スタートレック」のMr.スポック役でおなじみのレナード・ニモイ、そして「ザ・フライ」から始まり「ジュラシック・パーク」「インデペンデンス・デイ」など数多くのメジャー作品に出演するジェフ・ゴールドブラムと、今思えば豪華絢爛なキャスティングである。これでコケたらおおごとしますよレベルである。
15年から20年の周期でリメイクされているこの作品は1993年に3回目のリメイク「ボディ・スナッチャーズ」が公開となる。といっても日本では未公開で、B級臭が非常に強いためにマイノリティーな作品となっている。特撮技術が進んで映像的にも見栄えがするようになるが、ストーリーは淡々としていてゾンビ映画に近い様相である。エイリアンの生成方法も人間の中身をジュルジュルっと吸いだすというグロさ加減で、あまり気持ちの良いものではないだろう。
21世紀に入り映像技術は飛躍的に進歩する中、4回目のリメイクはジョエル・シルバー制作、ウォシャウスキー兄弟(現・姉妹)脚本による「インベージョン」である。主演にニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグという大物俳優を起用しているのは良いが、ストーリーは設定が大きく改変され未知のウイルスよって人間の遺伝子が書き換えられるというお話。こうなるともうまったく違う路線なんじゃないかっって思うんだが、50年もたてばリメイクもこうなるんだというお手本のような作品である。
つまるところ、中の人が外見では判断つきかねるというのは、このリメイクにリメイクを重ねたジャック・フィニイの盗まれた街の50年の歴史と変遷からも明らかであると同時に、そのことが多くの不安や不信感やさらには事件さえも起こし得ない危険性を内包していることは確からしい。それが物語を物語足らしめる所以なのであろう。
ACT.4 外の人 man out of the man
ここでジョセフが着ている着ぐるみについて説明する必要があるだろう。なぜならいまここでジョセフは彼女なのだから。
彼女は日本人女性で年齢は36歳。IT系企業の総務的な事務の仕事に携わっている。Y.Kのイニシャルを刺繍したハンカチが一般的な事務服のポケットから覗かせている。身長はそんなに高くはないが、どちらかと言えば痩せ型で、腰までかかるストレートの長髪が大人びた印象をあたえる。物静かだが、すこし気負っている感じは、物憂げな心象表現とも取れてミステリアスだ。ときに舌っ足らずな物言いやちょっと変わったイントネーションで発せられる言葉には、なにやら演じわけたキャラクター的印象にも映るが、本人はいたって真面目でそこがかわいらしくもある。
さらには公私で二面性を持っており、仕事での顔とプライベートの顔ははっきり言って真逆である。そこがさらなるミステリアスな一面として語られることになる。また、彼女のプライベートにもいささか多くのミステリアスなところがある。例えば彼女は26歳以降の履歴しか持たない。それまでの記憶はないことになっているし、それ以前の彼女を知る人間は皆無である。戸籍に関しては偽造されたものではないか、と疑われる余地もあった。
ある日のこと、会社の同僚とともに四川省出身の料理人が営む中華料理屋で食事をし、ラウンドワンでバトミントンに興じたときだ。思いのほかハッスルしたのはいいが、その後異常を来たすことになる。突如体中に発疹ができ始めたのだ。当然周りの人間はあたふたした。本人的にはスーツの異常でしかないのだが、脱いで対処することもできず収まるのを待つしかなかった。
海老と極度な運動が原因であることは後にわかった。事実、人間でいうアレルギー体質は当然ながら顕著である。海老でもそうだが甲殻類が全般的にダメなものだから海鮮風と書かれていたら最悪である。また卵なども要注意である。そうすると食するものが限定されてしまうのだが、いまのところあまり食さないことで難を逃れている。
彼女の性格は寡黙ではあるが、情熱的ともいえる。仕事に対してはかなりの責任感があり、休みなしで働くことが可能で現に最近は休んでいない。それは中のジョセフのバイタリティのなせる業なのだが、はたから見たら病的にしか映らない。しかしそこが逆に男性の母性本能をくすぐってしまうことにつながっているのかもしれない。もともと男性なのだから性格的な違和はしかたないだろうが、そのギャップが彼女の性格をある程度固定することになる。男性性と女性性の狭間で彼女という人格が形成されていくことになったのは否めない。
ACT.5 「中の人」論争 the problem of man in the man
話を戻そう。
着ぐるみにおける「中の人」の問題が大きく取り沙汰されるようになったのは、2010年のまさにゆるキャラ戦国時代がなせる業であろう。全国にご当地キャラとしてゆるキャラが誕生し、くまモンのセールス的な成功によって都道府県や市町村だけでなく企業のキャラクターにまでもこのノリが波及することとなった。
もうひとつはSNSの普及により、TwitterやFacebookの企業アカウントでつぶやいたり書き込んだりする人のことを「中の人」と呼称することにより、あたかも単一のキャラクターとして存在しているかのような錯覚をし、キャラクター化に拍車をかけている。実際、一言カードのコメントが秀逸であると話題になり書籍化までされた東京農工大学の生協職員である白石さんやどんなバカな質問にも誠意を持ってシュールに答えるIKEAのTwitterアカウントなど、「中の人」に関する話題は最近も比較的よく聞くのである。ちなみに、「中の人」をウィキペディアで検索してみると以下のように説明されている。
「中の人」の語源は吉田戦車の4コマ漫画『伝染るんです。』のギャグ「下の人などいない!」から派生したものと言われているが、同じく吉田による連載作品『ゴッドボンボン』内で「中の人などいない!」というセリフが登場しており、こちらの方が用例としては古い。
他にゲーム雑誌『ファミ通』連載の『はまり道』にて吉田戦車が、スクウェア『フロントミッション』における戦闘用ロボットヴァンツァーに乗り込むパイロットのことを「中の人」と表現している。
等身大ヒーローなどの特撮作品で特定のキャラクターを演じるスーツアクターやプロスポーツにおけるマスコットの操演者を指したり、これから転じて、ある役柄を演じる俳優、声優、さらにウェブサイトのウェブマスター(管理者)、特定の企業や団体などの関係者(インサイダー)など、いわゆる裏方全般を指すこともある。
なんと!「中の人」の生みの親が吉田戦車であったとはとても意外ではあるが、そうして「中の人」は本来決して顕在化してはいけないはず存在にも関わらず、キャラクター化が意図的に行われるというパラドックスを内包してしまった稀有な存在なのであろう。
ACT.6 日常が切り裂かれてすべての時間は動き出す Daily life is cut and all the time begins to move
さてさてお話はいきなり本題に入る。それは突然の出来事であった。まったくもって平和であった日常が突然文字通り切り裂かれた。
お昼を過ぎたぐらいの時間に彼女は銀行に出かけた。いつもどおりの日常的な行動であり、その日もなにひとつ変わるところはなかったはずであった。銀行には彼女以外に年配の女性がひとりと、子連れの主婦がひとりと、ATMコーナーに20代ぐらいのスーツ姿の男性がいるだけだった。行員も窓口に女性二人と奥に年配の女性行員と男性行員が一人ずつ業務をこなしていた。
彼女は振替用紙と通帳を窓口の行員に渡すと窓口の目の前の席に座った。いつもとさほど違和感は感じなかったが、外の様子がすこし騒がしい気がしていた。しかし銀行の前の通りはいつも交通量が多く、今日もいつものように車のエンジン音がひっきりなしに聞こえていた。
彼女の均衡を破ったのはATMの男性の呻き声だった。すぐにATMの方を向いた瞬間、背中越しに恐ろしく強烈な殺意を感じた。彼女は咄嗟に座っている椅子の下に潜り込むと、サイレンサーのようなものが装着された銃から打ち込まれただろう弾が横をかすめ、受付窓口の袖に貼ってある振込詐欺のポスターに穴を開けた。
弾が飛んできた方向を確認すると、気配で5人ぐらいの明らかにプロフェッショナルな武装した工作員がいることがわかった。現段階では一番遠くにいたATMの男性だけが脚かどこかを撃たれ呻いているだけで他の客や行員はこの状況に気づいていない。彼女の目の前の行員も下を向いたままでまったく気づいていないようだった。
しかしそんな状況もすぐに一変する。近くにいた子どもがATMの男性に気づいたらしくおもむろに近づいていったのだ。
「おじちゃん、どうしたの?」
「ううう・・・。た、た、たすげてええ・・・。」
「おじちゃん、けがしてるの?」
「まさおちゃん、どうしたの?知らない人と話しちゃダメってあれほど・・・」
母親がATMの前で倒れ込んで呻いている男性に気づくやいなや、割れんばかりの絶叫が銀行内に響き渡った。それはまさにサイレンのようだった。銀行内にいた彼女以外のすべての人がATMの男性も含めて母親の方を向いた瞬間、彼女は工作員たちの方に走りだした。工作員たちは虚をつかれ一瞬たじろいだが、すぐに彼女の足元に携行型の発煙弾を打ち込んだ。煙はみるみる立ち込みはじめ彼女の目の前で壁となった。工作員たちは、今度はサイレンサーではなく、通常の銃で煙の向こうにいる彼女めがけ銃撃を始めた。煙はさらに銀行中を覆い始め、視界がまったく閉ざされていった。
工作員たちは熱線暗視ゴーグルを装着して煙の中の人間を特定する。彼女は椅子の影からATMの方に移動して死角に隠れていた。工作員たちは人物の特定に躍起になっているが、彼女を見つけ出すことはできない。なぜなら、彼女(厳密に言うとジョセフが着ているスーツ)は熱探知では見つからないような装備で身を隠しているのであるが、これについては後述する。
しかしこのあまり広いとはいえない銀行内では煙が薄れることにより次第に姿が見えてくるはずであった。銀行内にいる一般人はただただ何が起こったのかも分からず座り込んでいるしかなかった。彼女もまた同様で、多くの脅える人々と見た目には変わらなかった。ただ違っていたのは彼女の中身であり、彼女の中にいるジョセフはこの唐突に訪れた状況からの打開と回避を可能にできることがわかっていた。しかしながら、そのためには一旦この彼女の中から外に出る必要があった。彼女の中のジョセフにしてみればそれが一番悩みの種だった。
なぜなら、ジョセフにとって彼女の中から出るということは自身を公に晒すことになるし、出てしまった後またもとに戻れるか自信がなかったからだ。なにせ、ジョセフが彼女の中から外に出るのは、あの8歳の来日以来だからだ。あれから相当の時間が経っており、おそらくジョセフはすでに彼女より倍ぐらいの身体になっているはずである。8歳の頃は20代後半の彼女の中に入るのは容易であっても、18歳になった彼は黒人特有の逞しさを当然身体的にも備えていた。
拮抗した状況で時間だけが過ぎ、それにしたがって煙は薄れ視界がはっきりし始めた。工作員たちは彼女を探しているようにも見えたが、いきなり工作員のひとりが子どもに銃口をむけた。引き金にかかった指は躊躇なく引き金を引こうとしているのが彼女の中のジョセフにはわかった。その瞬間、ジョセフはいてもたってもいられず彼女の中から這い出て、すぐさま子どものもとに移動して安全な場所へと移動させた。その間、工作員たちにジョセフの姿は映っていない。なぜなら、彼女から這い出たジョセフは攻殻迷彩で知られる熱光学迷彩のステルススーツを着ていたからである。
この士郎正宗によって創造された「攻殻迷彩」は漫画「攻殻機動隊」に登場する装備で、周囲の背景と同化することによって姿を隠すことができる。自然界ではカメレオンやイカ、タコなどの擬態がわかりやすいだろう。またハーデースの隠れ兜などのフォークロアにもちょくちょく見受けられる。SF作品では「スタートレック」「プレデター」、ゲームでは「メタルギアソリッド」が有名である。その原理や仕組みはさまざまであるが、ジョセフの身につける熱光学迷彩は赤外線領域まで背景と同化することができ、先ほどのような暗視装置やサーモグラフィーなどにも感知させないようにできるのだ。
敵はさらにスモークボムを乱用して視界を撹乱した。かなり投げやりな攻撃にジョセフもすこし呆れ気味だったが、実際はそうではなかった。工作員たちはその隙にジョセフがさっきまで中にいた彼女を奪っていたのだ。ジョセフがそれに気づいたときにはなにもかもが終わり、工作員たちの姿はまるっきりなくなっていた。工作員たちはさも彼女を奪うことが目的だったかのように、一連の行動に従事したように見えた。そして、それはどうも真実らしかった。
しばらくしてパトカーや機動隊の車などが何台も到着し、大勢の警察官や機動隊員が銀行内をところ狭しと闊歩していた。救急車も到着し救急隊員たちが銀行内にいた一般人の容態をチェックしていた。ATMの男性は一足先に救急車で運ばれたが、他の者は逃げるときに転んだりなにかにぶつかったりしたぐらいで特に目立った外傷がないのでその場で応急処置を施された。平穏を取り戻しつつある銀行内ではあったが、しかしジョセフの姿はなかった。
ジョセフは一足先に行員専用の控室から天井裏をくぐって建物の裏手にある民家に身を隠していた。この民家は半年ほど前から空き家になっているのを当然ながらジョセフは知っていたのだ。特に手負いはないが心持ちはかなり憔悴しきっていた。とにかく次の一手が見つからないでいたのだ。
スーツを奪われ途方にくれるジョセフに近寄ってくる者があった。なぜここにいるのがバレたのか、と瞬時に戦闘モードに移行したが、よく観察するとその者は懐かしい面影を有していた。
「ジョセフ、チャイニーズレストランはそっちじゃないよ」
それでジョセフも合点がいった。それは従兄弟のステファンだったのだ。ボーイスカウト時代が懐かしい。実際のところジョセフとステファンはジョセフが日本に行ってしまう直前までほとんど一緒に生活していたのだ。ステファンが発したこのセリフはふたりが最後に別れる時にジョセフがステファンに発したセリフへの回答であったのだ。
「あれから随分探したんだ。チャイニーズレストランに行くと言っておきながら反対方向に歩き始めたきみの後ろ姿を最後に見た時からずっとね。まさか日本になんか来ていて、それも日本人女性の鋳型の中に身を隠していたことを知ったときは卒倒したよ。でもきみのことだからなにか意図があるんだろうと観察していたけど、まさかこんなことになるなんて・・・」
ステファンは俯きながら苦笑した。
「あの日、チャイニーズレストランに向かったつもりがまったく違う方向に向かってしまってなぜか日本に来てしまったんだ。」
ジョセフは言い訳がましくステファンにその後のことを話し始めた。10年間の激動のときをステファンは黙々と聞き続けた。それはある種のセラピーにも似た雰囲気ではあったが、同時になにかの鍵を探しているかのような作業にも見えた。
一気に喋ったので喉がカラカラになっていたジョセフは、携行してた水筒から水をグイグイと飲みだした。ステファンは遠くを見るような虚ろな視線をジョセフの方に向けながらいつしか笑みを浮かべていた。
「そういうことだったんだな。つまりきみはあの女性の鋳型を日本に運ぶことを潜在的に求められて、そしてちゃんと届けたんだよ。」
「でも無くしてしまった。」
「いや無くしてなんかいない。それはきちんと届けられるべきところに届く。ただすこし寄り道をしているだけだ。」
「届けられるべきところ?」
「そう。あの鋳型はそもそも着ぐるみのようなスーツじゃないんだ。あれは生まれるべくして生まれるもののための容器のようなものなのさ。そしてそれはある場所でひとつになる。」
「ある場所で?」
「まあ、それはおいおい話すとしてとりあえず行こう」
「行くってどこへ?」
「もちろん彼女を取り戻しにさ」
ステファンが民家から車道に出ると無人のアウディが急に脇から出てきて横付けされた。ステファンが運転席に乗り込んだので、ジョセフも慌てて助手席に乗り込んだ。
「急ぐからすこし飛ばすよ」
ステファンはアクセルを思い切り踏み込むとアウディは猛スピードで走りだした。
ACT.7 彼女の鋳型 mold for her
ステファンが運転するアウディはしばらくして住宅地を抜け都市高速にのった。車内でのふたりは一言も喋らなかった。アウディが都市高速から自動車道に入り、山あいの道を走りだしてからジョセフが口を開いた。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
運転するステファンを凝視してジョセフは答えを待った。ステファンは進行方向から目を離さずに語り始めた。
「今から向かう場所は彼女の鋳型を取り戻すための一番の近道なんだ。そこに行けば彼女の鋳型がどこにあるかを知っている者に会えるはずさ。」
「それは誰だ?」
「誰?違うね、人じゃないよ。」
「人じゃない?」
「そう。まあ、行けばわかるよ。」
釈然としないジョセフに対してステファンはそれを面白がっているようにも見えた。
「それで、あのスーツがスーツじゃなくて、容器だって言ってたのはどういう意味だ?」
「まあさっき言った通りなんだけど、実は彼女の鋳型はある実験に使用される容器なんだ。あの中から特別な存在が誕生することになっていて、それは未来のために非常に重要なものらしい。10年前にあの容器だけが完成したんだけど主たる装置は頓挫していた。ベルリンの壁崩壊以降、緊迫した世界情勢の中でこの装置の主権争いが先にきて開発の方が遅れてしまったようだ。特に東欧とソ連、それに中東諸国までが乗り出してきたので、危険を感じた某組織がきみのお父さんに依頼してきみと一緒にアジアの辺境である日本に秘密裏に送り込んだんだよ。」
「そしてその装置が日本で完成したと・・・」
「さすがにジョセフだ、察しがいいね。そのとおりだ。その装置はこの日本で完成している。いまは具体的なところは言えないがぼくらは彼女の鋳型を取り戻したらそこに向かうことになる。」
「ステファンがそう言うなら、ゴリ押ししても教えてはくれないだろうな」
「わかってるじゃないかあ」
「まあその時になってのお楽しみってことで・・・。ぼくも久しぶりの外ですこし疲れたようだ。休ましてもらうよ。」
そういうとジョセフは微動だにしないまま寝息を立て始めた。ステファンは静かになった車内で口元をニヤリと歪めるだけだった。
ACT.8 1998年のメイド喫茶 1988 maid cafe
ステファンが運転するアウディは1時間ほど自動車道の山あいを黙々と走っていた。まだ夕方には早い気もしたが辺りはかなり薄暗くなっていた。アウディはようやく左方向に傾き始め、どこかのインターチェンジを降りて一般道に合流した。合流した一般道は国道の標識はあるものの信号もない田んぼや畑しかない田舎道であった。
また1時間ほど走ったところでようやく点滅信号が現れた。しかしおかしなことにこの点滅信号はこちらが主線のはずがなぜか一時停止を促す赤色の点滅信号なのである。そして垂直に伸びるあきらかに本線より細い道に黄色の点滅信号が違和感とともに点滅していた。ステファンはその不可思議な点滅信号のある四つ角を90度右折した。そして車1台がようやく離合できそうな狭い山道に入っていったのである。山道は左右にうねるような格好でどんどん高く続いていた。その道をアウディは秩序よく登っていく。さらに1時間ほど走るとようやく上り坂から平坦な場所に出た。辺りは薄暗く街灯はなにもない。車のヘッドライトだけが灯る道を進んでいくと、突然きらびやかなネオンとともに怪しげな洋館が現れた。
「あれはなんだ?」
ジョセフはその唐突な出現に珍しく驚いていた。ステファンは不敵な笑みを浮かべその館の方に向かっていた。
「あれがそうだよ。目的の場所だ。」
近づくにつれその館の外観がジョセフにもわかってきた。それはメイド喫茶である。2001年3月に秋葉原に第一号店の「Cure Maid Café」がオープンするが、その3年前の1998年8月に開催された東京キャラクターショーで、キャラクターコンテンツ製作会社のブロッコリーが18禁の恋愛シュミレーションPCゲームソフト”Piaキャロットへようこそ!!”の舞台であるファミリーレストランを模した喫茶店を設置し、ゲームの中で登場するキャラクターと同じような制服で着飾ったウェイトレスが接客するといったコスプレ企画が成功をおさめ、メイド喫茶の下地を作ったと言われている。つまりジョセフにとってみれば知識としては知っているものの実際に見たのは初めてだった。
「ステファン、これはなんなんだ?メイド喫茶はまだ3年先までトップシークレットのはずだろ。」
「その通り。だからこれは秘密裏に作られたプロトタイプなわけだ。当然ながら公にはなっていないので日本にいるファーストクラスの要人ぐらいしか利用しないが、ちゃんと運営はされているよ。」
ステファンが運転するアウディは玄関前に横付けした。ドアの前に立っていたノッポのドアマンがおもむろにアウディのドアを開けた。ジョセフはドアマンが丸腰なのを目視で確認して車から降りた。ステファンも車から降りると、ドアマンはキーを預かろうとするがステファンはそれを制した。すると、無人のアウディは勝手に建物をグルっと回って駐車場の方に移動してしまった。きょとんとするドアマンではあったが気を取り直して、ジョセフとステファンに会釈をし、玄関のドアを開けた。
「おかえりなさいませ、ご主人さまあ~あ。」
中から黒と白のツートンのメイド服を着た、まだ20歳にも満たない少女ふたりが満面の笑みでジョセフとステファンを迎え入れた。
ACT.9 ラテアート Latte art
ふたりのメイドに案内されながら奥へと進むジョセフは、先を行くステファンと周囲とを交互に確認していた。室内には客はまばらで、どのテーブルにもメイドと1対1になっていて、年齢層はバラバラだが危険はなさそうだった。おそらくかなりのVIPなのだろうと推測できた。ジョセフとステファンはガラス張りで中は見れるものの完全個室の部屋に誘導された。入るやいなや室内のBGMや雑音は完全にシャットアウトされ静寂が訪れた。ステファンはメイドのひとりに耳打ちすると、笑顔で頷きもうひとりのメイドとともに個室を後にした。
「ステファン、ここでなにが起こるんだ?」
「なーに、見てたらわかるよ。それにきみがなにかすることもない。ここはまったく安全だよ。」
ステファンはジョセフが疑問に思っていることを先取りして答えた。ジョセフはこれ以上詮索してもステファンからはなにも聞き出せないことがわかったのでそれ以上何も言わなかった。そうしているうちに先ほどのメイドがワゴンを押しながら入ってきた。ワゴンの上には変わった形のカプチーノメーカーが乗っていた。コーヒーカップが2個置けるようになっていて、真っ白ななんの変哲もないコーヒーカップが二つ添えられていた。操作パネルにはなぜかキャッシュカードのようなものを入れるための挿入口があった。
するとステファンはおもむろに上着の左胸あたりの内ポケットをまさぐるとテレホンカードのようなものを取り出し、その挿入口に差し込んだ。マシンはカードを吸い込むとそれに合わせて稼働し始めた。勢いよく蒸気を発すると、たちまち部屋中がエスプレッソの芳しい香りに包まれた。そしてコーヒーカップには黒く注がれたコーヒーのうえに純白のスチームミルク が満たしていった。しかしその後ジョセフは目を疑った。
カップの上でせわしなく動くものがあった。それは先がL字に折れ曲がった何本もの棒であった。それらはコーヒーカップの表面を無秩序に動きまわった。3分ほどしてようやくマシンは静かになり、それを見計らってメイドたちがコーヒーカップをトレイに乗ったソーサーに置き、ジョセフとステファンの元にそれぞれ運んできた。
「さあ、見てみろ。」
ステファンはジョセフの目の前に置かれたコーヒーカップの方に目を向けた。促されるようにジョセフは自分のコーヒーカップを見た。
「これはいったい?!」
「きみが求めていることが書かれているはずだよ、ジョセフ。」
そこには彼女の居場所とその実行犯のことがラテアートで絶妙に書かれていたのである。
「このカプチーノメーカーはイタリアで開発されたバリスタOSで、インターポールが中心となって集めた情報を集積している。そしてそれをラテアートでアウトプットする。いかにもイタリアらしいだろ。」
ステファンはなかば自慢気に悦に入りながらジョセフに説明した。
「そんなものは見ればわかるし、この状況なら大抵のことには驚かないよ。それよりもここに書かれていることは本当なのか?」
ジョセフのぶっきらぼうな物言いにすこし悔しがるしぐさを見せながら、ステファンは自分の手元にあるコーヒーカップをジョセフの方に押しやった。
「それがほぼ答えだよ」
「じゃあもうここにはようはないね。さっそく行こうか。」
ステファンは立ち上がるとコーヒーカップを手に取った。
「彼女と無事出会えるように乾杯しよう。」
ステファンはコーヒーカップをジョセフの方に向けた。ジョセフもしかたなくコーヒーカップ掴むとステファンの方に向けた。カチンという陶器の鈍い音が静寂の中で響き渡ったような気がした。
ACT.10 山間総合病院 YAMAMA general Hospital
建物の後ろには駐車場とともにヘリポートが併設されていた。そこにはジョセフがつい最近イギリス軍経由で見せてもらったダグラス社の機密写真に写っていた最新鋭のステルスハリアーの実物が鎮座していた。最初のハリアーともその後継機のハリアーⅡとも違う方向性で極秘に開発されていたこのハリアーがまさか実物で存在していたとは驚きだった。
「まさか、これ飛ぶのか?」
恐る恐るジョセフはステファンに尋ねた。
「もちろんさ。実物大のフィギュアとでも思ったかい」
ステファンは冗談ぽく答えると、ヘルメットを受け取り乗り込み始めた。呆然とするジョセフは横でヘルメットを渡そうとしているノッポのドアマンに気づかない。ドアマンが呼びかけるがハリアーのエンジン音でかき消されてしまう。ドアマンはしかたなくヘルメットをジョセフの頭に無理やり被せると背中をボンッと押して突き飛ばした。ジョセフはようやく我に返りハリアーに神妙な面持ちで乗り込むのであった。コクピットは思いのほか静かだったが、垂直に上昇するときの鋭いカナキリ音は耳についた。ハリアーはかなりの高度を垂直に上昇すると一気に水平飛行に移った。
「ステファン、さっきのラテアートだが・・・」
「ああ、驚いただろ。あれは非常に滑稽な端末だよ。」
「いやそうじゃなくてラテアートに書かれていた内容だが・・・」
さっきまで笑顔で冗談交じりに話していたステファンの顔から表情が消える。
「まあ、きみならすぐに察しがつくと思っていたが・・・まあ想像通りだよ。きみがずっと中にいた、彼女と呼んでいた鋳型は紛れもなく兵器だ。それもかなり危険な兵器になる。それを守るのが我々の使命だ、きみも含めてね。」
「しかしあんなものがこの世に生まれたらそれこそ世界のパワーバランスは崩れるってもんじゃないか・・・」
「それでもパワーを求めているVIPはいるってことだよ。ぼくらに思想や理想はいらない。需要があれば供給するために必要なことをするだけだよ。」
「しかし彼女はいま敵対する側にあるわけだよなあ。」
「そうでもないよ。敵も味方も表裏一体だ。要はビジネスだからね。」
そう言うとステファンは急に黙りこんで操縦に集中し始めた。まもなく目的地というところで、背後からミグらしき戦闘機が2機現れた。ステルス機能を搭載したハリアーはレーダーには感知されないはずだったが、戦闘機はグングンとこちらに近づいてくる。
「ステファン、どういうことだ?なぜ見つかった?」
「わからない。ただ機密が漏洩していたことは確かだよ。」
ステファンは落ち着き払った様子で操縦桿を握って後ろの戦闘機を撒こうとするがロックオンの警報はすぐに発報した。敵は躊躇なくミサイルを打ち込んできて左翼のエンジンのひとつをかすめて爆発した。エンジンからはなにかが漏れだしたらしく白煙が吹き出した。続いてもうひとつのミサイルが垂直尾翼に命中し火を吹いた。とたんバランスを失ったハリアーは左右に大きく蛇行し始めた。
「まずいな。とりあえず脱出しよう。きみも後に続いてくれ。着地点はGPSで確認し合おう。」
そう言い終わるか終わらないかのタイミングでステファンの座席のキャノピーが外され、すぐさま座席も射出された。ジョセフも急いで試みるがジョセフの座席はなにも起こらない。緊急用の脱出コックを引いてみても同様であった。パラシュートで降下するステファンを横目にジョセフを乗せたハリアーは方向が定まらないまま降下していった。ハリアーは危険回避行動に移り、胴体着陸が可能な最寄りの場所を目指した。ジョセフは地上に衝突したときの衝撃を回避するための行動を取った。ハリアーは牧草地の草原に思い切り叩きつけられた。
不時着時の衝撃で一瞬意識が朦朧となったが、あれだけの衝撃にしてはジョセフの身体はなんともなかった。機体は無残なものだったがコクピット部分はとにかく頑丈だったのが幸いした。ジョセフはコクピットから這い出ると肩のあたりに携帯しているGPSレーダーを作動させ位置確認をした。そして、ステファンと合流予定の目的地のコードを入力して信号を待った。目的地の信号はすぐに確認できたがステファンの検索が難航していた。あまり同じ場所にとどまっておくのも得策ではないと考えたジョセフはとりあえず一人で目的地に向かうことにした。さきほどの敵の攻撃も鑑みてステルスモードで移動することにし、最小限の火力を装備し進んでいった。
牧草地が続くなだらかな高地を麓の方に下山していく。この辺りはカルデラのため目立って大きな山はないが、火山の大噴火によってできたこの大きな凹みは外輪山の高さを相対的に高く見せている。放牧や野焼きなどで人工的に整備された牧草地の山肌をジョセフは慎重に下山していた。
かつてこの地では、原子力で動く100万馬力の少年型ロボットとアラブの国王にして世界一の富豪であるチョッチ・チョッチ・アババ三世が所有するロボットが地上最大のロボットを競って戦ったこともあった。また死者が次々と蘇るという奇妙な事件が起こり、事態を重くみた厚生労働省が職員を派遣して調査に乗り出したこともあった。そんな曰くのある地でまたも事件が起こっているのかと思うと気が重くなりそうなジョセフであったが、いまはとにかく目的地に急ぐしかなかった。
ようやく盆地が見えてきたあたりで他とは明らかに違う異質な建物が見えた。看板にはかすかに「山間総合病院」の文字が確認できた。かなり古くから建っているだろうその病院は、病院というよりも巨大な屋敷のように見えた。それはさながらホーンデットマンションのようである。999人の亡霊が住んでいると言われても違和感のないその異様さにジョセフといえども身震いした。ここが目的地であり、奪われた彼女がおそらく捕らえられているはずである。もちろん中身のない鋳型としての彼女ではあるが・・・。
ステファンの居所はいまだ確認できていない。この先に何があるかジョセフにはわからない。ただこの場所には相当に違和感のある怪しげなこの洋館の先を進まなければなにも始まらないことはよくわかっていた。いままでになく異様な雰囲気に鳥肌が立っていた。その躊躇がいけなかったのかもしれない。背後で何かを感じた刹那、後頭部を思いきり強打されジョセフはその場に倒れこみ意識を失ってしまった。
ACT.11 改造手術室 Operating room for remodeling
薄暗い部屋はかなり広く感じた。かび臭い匂いと薬品の匂いとが入り混じり息が苦しくなる。中央には手術台のようなベッドがひとつあり、そこにジョセフは拘束具で身動きがとれない状態で横たわっていた。部屋の周囲にはなにやら怪しげな機材や機械が置いてあり、棚には書類や本、そして薬品が入っていそうな瓶や医療道具などが所狭しと並べられていた。
気を失っていたジョセフは少しづつ意識を回復し始めていた。ジョセフは夢を見ていたのかもしれない。覚醒され始めた意識の中でジョセフは改造手術室でいまにもショッカーたちから改造されようとしていたのである。ジョセフの幼少期はちょうど仮面ライダーシリーズの「スーパー1」が終了し「BLACK」が誕生するまでの空白の期間だった。日本ではその空白の期間を埋めるかのように宇宙刑事ギャバンがスタートし、シャリバン、シャイダーとともに宇宙刑事シリーズが人気を博していた。その空白を埋めるべく講談社のテレビマガジンなどで新仮面ライダーを登場させ、読者公募で「ZX(ゼクロス)」という名付けをしたがシリーズ化するまでにはいたらなかった。日本において仮面ライダーは過去のものとされようとしていた時代だ。ジョセフが幼少期を過ごした欧州圏では仮面ライダーシリーズは日本よりも何年か遅れて放送されていたとジョセフは記憶している。ジョセフは他の子どもたちと同様に「X」や「アマゾン」や「ストロンガー」が好きで、特にストロンガーの相棒の電波人間タックルがお気に入りだった。しかし、繰り返えし再放送される「1号」の改造シーンだけはトラウマとして記憶に強く刻まれていたのであった。
ジョセフの呻くような声に気づいたのか、部屋に白衣の老人が現れた。
「ジョセフ、気がついたかね?」
ジョセフはその声でようやく覚醒し、と同時にその聞き覚えのある声の主を検索していた。というよりも誰なのか分かってはいたが、なぜここに彼が現れたのかが判別できなかった。
「ドクターY。なぜあなたがこんなところに?」
ジョセフは震えるような声でかろうじて疑問を投げつけることができた。
「わたしがきみの祖父であるアイザクと非常に深い親交を持っていたことを当然知っているだろう。優秀な諜報員であると同時に天才的な生化学者でもあったアイザクはわたしにきっかけを与えてくれたのだよ。それがジョセフ、きみが10年間過ごしたものだ。あれはアイザクのおかげで誕生し、わたしによって完成した、まさに合作なのだよ。」
ジョセフは無言でドクターYの言葉を待った。
「わたしはアイザクにあれをジョセフに着せてもらうように依頼した。アイザクも好意的だったよ。きみの類まれな身体能力と、何事にも動じないその精神力はあれを完成させるのに申し分のないサンプルだったからね。そしてジョセフ、きみはそのために懸命に努力してくれたと思う。結果的にはあれはもうほぼ完成しているのだからね。」
「おっしゃっている意味がわからないのですが・・・」
「ジョセフ、きみにしては物分かりが悪いなあ。つまりあれのためにきみの遺伝情報や生体情報などあらゆる身体的情報をサンプリングさせてもらったのだ。そのために10年間、きみはあれの中にいたんだよ。」
ジョセフは唖然とした。自分がまさか兵器製造の片棒を担がされていたとは思いもよらなかった。
「そしてジョセフ、きみはあれが量産されたときのための保険として、これからコールドスリープの処置をしてそのときを待っていてもらうことになる。」
「つまりあなたが黒幕だったのですね・・・」
「それは違う。わたしはあれを、娘を取り戻しただけだよ。そして同時に世界を手に入れたのだよ」
ドクターYの娘という言葉にジョセフはようやく思いいたった気がした。ドクターYの娘キョーコは26歳という若さで死んでいる。イスラエルで起きたテルアビブ空港乱射事件に端を発した日本赤軍のテロリズムに深く関わっていたとされる娘は、その事件の翌年にパリの郊外で全裸の状態で見つかったと当時のニュースは語っていた。体中に虐待のような痣があり肋骨も3本折られ両目の眼球がえぐられていたようである。この娘の死がドクターYとジョセフの家族を引き合わせる大きなきっかけとなった。ジョセフの祖父アイザクと父ヤコブはドクターYの娘を殺した者たちを追い詰め同様の報いを味あわせた。それ以来、家族ぐるみの付き合いをすることになるが、同様にドクターYと祖父アイザクが科学者同士であったことが大きな意味を持ってしまったとも言えよう。娘を惨たらしく殺したテロリズムへの批判がこのような研究成果を導き出したのだとすれば因果応報の何者でもないだろう。
「わたしが長年研究していたのはKRAS遺伝子だ。細胞の癌化に関係するこの遺伝子だが、実験中に偶然にもこの遺伝情報から未知の染色体を生成してしまったのだよ。わたしはそれをK染色体と名づけた。この染色体はX染色体と掛け合わせてもすぐにダメになっていしまったが、Y染色体と掛け合わせたところとんでもないものが誕生したのだよ。」
「Y?K?」
「そう、YKだ。娘のイニシャルだよ。わたしはとたんに宿命を感じた。癌はおろかあらゆる病原体に打ち勝つまさに超人類の誕生だよ。それにジョセフ、きみの強靭な遺伝情報を組み込むことでまさに超人類兵器が誕生するのだ。娘を生まれ変わらせることができる、それも絶対に死ぬことのない人間にね。」
ACT.12 ステファンの裏切り Stefan had betrayed
マッドサイエンティストというのはこんなものかもしれない。というよりも力を持ったものというのは結果的にその力に溺れ自らの欲望に突き動かされていくのかもしれない。権力者というのは常にそういうものだったと歴史は伝えている。キューブリックが描いたピーター・セラーズのドクターストレンジラブも同様で、自分の欲望で人類が滅んでもいたしかたないと思っている科学者や権力者はこの世にいくらだっているのだ。
ジョセフはまさか身内に身売りされていたとは思っても見なかったので呆れて物が言えなかった。ドクターYはジョセフが諦めたのだと思いコールドスリープの作業に入るため別室に移るようだった。するとドクターYと入れ替わりで誰かが改造手術室に入ってきた。助手にしては白衣ではなく戦闘服を身につけていた。その顔がライトの逆光から逃れたときジョセフは絶句した。それはステファンだったのだ。身内だけでなく親友からも裏切られるとは自分の人生はなんだったんだと惨めさが涙となって滲んできた。それは悔し涙だったかもしれない。
「さあコールドスリープはぼくが担当するよ。」
ステファンはいつもよりも高めの大きな声で威圧的に喋った。
「まずは注射を一本打たせてもらおう。」
ステファンはジョセフのベッドに近づいていく。ジョセフは顔も見たくないとそっぽを向いていた。その真上に向けられたジョセフの右耳にステファンは囁いた。
「すぐにロックが外れる。そしたらすぐに身を隠し2時の方向のドアを注視しろ。隙間から灯りが漏れたらダッシュだ。」
ステファンはジョセフの左手になにかを握らせた。
ドクターYはガラス越しにステファンの作業を見守っていた。ステファンはドクターYからジョセフが目隠しになるように操作台を移動させるとロックを解除した。その瞬間、大きな警告音とともに室内に赤色灯が点滅し始めた。ドクターYが慌てて改造手術室に戻ろうとしたがドアは意図的にロックされていて開かなかった。その隙にジョセフはステファンから指示のあったドアに滑りこんでいた。ジョセフはステファンもこちらに来ると思っていたが、事態はそう易易とはいかないようだった。ステファンはその場で立ち尽くしたまま微動だにしなかった。ただ満面の笑顔でジョセフを見送っていた。その刹那、ステファンの身体は体内からの爆発によって周囲に飛び散ったのだった。おそらく裏切行為への粛清であろう。ガラス越しに微かに見えるドクターYの影を睨みをつけたが、感傷に浸っている余裕はなかった。
ジョセフは左手を開いてステファンに握らされていたモノを見た。それは3Dレーダーマップだった。真ん中のボタンを押すと3Dで映写されたマップが現れ1ヶ所が赤く点滅している。おそらくそこに行けというステファンの指示なのだろう。ジョセフはドクターYのことを気にしながらもとにかくその場所に急ぐことにした。
ACT.13 彼女との戦い She fights me
3Dレーダーマップを頼りに病院内を移動する。増床を繰り返したであろうこの病院の中身はまるで香港の九龍城を想像させた。陰鬱な通路を警戒しながら歩くが方向感覚が麻痺され、まともに歩けているのか自分でもわからなくなっていた。このステファンの贈り物だけが頼りなのかと思うと感慨深い気がした。
目的地に近づくにつれレーダーマップの赤い点滅は早くなっていったが、危険を伴うような感覚は今のところ感じない。廊下は枝分かれがなくなり曲線のような一本道がずっと先まで続いていた。そしておそらくこの廊下の突き当りに目的のモノが待っている。
そう彼女だ。
危険や殺意などという感覚がないと同時に、逆に親近感が湧いている自分に苦笑した。10年も一緒だとそんな感覚も宿るものなのだな、とジョセフは変な感覚に陥っていた。
目的の部屋の扉の前に立つと3Dレーダーマップの赤い点滅は点灯に変わった。間違いなくここが目的地である。ジョセフは警戒しながらドアに手をやった。ドアはなんのためらいもなく開いた。まるでジョセフの侵入を待っていたかのような具合にだ。念のためステルスモードで侵入したが、室内はなんにもないただの大広間で一番奥に椅子に座る女性がいるだけだった。
「ジョセフ、きみがステルスモードで侵入していることはわかっているし、娘もわかっているだろうよ。娘はきみのすべてを理解しているのだからね。」
室内に据え付けられたスピーカーからドクターYの声が響いた。おそらくどこかでモニタリングしてるのだろう。ジョセフは慎重に彼女へと近づいていく。もちろん彼女を破壊するためにだ。
ジョセフが彼女との距離を5m切ったところで、俯いていた彼女の頭が起き上がりジョセフを直視した。やはりステルスモードでもジョセフの存在は認識しているようだった。ジョセフはいったん動きを止め攻撃の準備を整え始めた。すると途端に彼女は椅子から起き上がり一直線にジョセフに向かってきた。ジョセフは寸でのところで身をかわし、彼女の背後に回った。ジョセフは彼女の背中から羽交い締めにしようと飛びついたが、一瞬早く彼女の足がジョセフの顔面を捉えていた。ジョセフは思わず両腕でカバーして受け流したが身体はそのまま10mほど飛ばされてしまった。
「ジョセフ、驚いたかな。娘はすでに培養されスーツの中で動けるまでに成長しているのだよ、この短時間でね。」
ジョセフが戦闘態勢に戻る間際にすでに彼女はジョセフの目の前まで迫ってきていた。すぐに後方にジャンプしたがそれでも間に合わないぐらいに彼女のスピードは速かった。後方が壁になっているのを利用して床面と平行に壁に足をつき、床に両手をついてバックで飛び上がった。なんとか彼女の頭の上を飛び越える格好にはなったが、彼女は両手を上げ飛び越えようとするジョセフの脇腹を掴むと勢いよく床に叩きつけた。そしてすぐにジョセフの腕を掴むとグルグルと回して逆方向に投げ飛ばしたのだった。
恐ろしい身体能力である。ジョセフと同等などではない。それ以上である。ジョセフはこのまま肉弾戦を続けても拉致があかないことはわかっていたが、武器によって彼女を傷つけることにためらいの感覚がずっとつきまとっていた。
「ジョセフ、きみが娘に勝つのは不可能たよ。なぜなら娘の力はきみと互角かそれ以上であるだけでなく、人間的な感情さえないのだからね。人形ごときに10年そこらの関係で情に流され感情移入して手を抜いてるようではとうてい無理な話だよ。」
ドクターYはジョセフに図星の言葉を投げかけ、さらに動揺を誘おうとしているようだった。ジョセフは仕方なく近距離用のアームソードを装備し次の攻撃に備えた。
ACT.14 赤いマトリョーシカ Red matryoshka
ジョセフは彼女を威嚇するようにアームソードを振りながら近づく。彼女も警戒しながら後ずさりするが、いつどこで飛びかかってこられてもおかしくないぐらいに隙がない。もともとアームソードで刺しても彼女はびくともしないはずなので、別のことを警戒しているのだろうことはジョセフにもわかっていた。おそらく彼女はジョセフがアームソードを威嚇だけに使うつもりではないことに気づいているはずだ。
彼女の身体は外からどんなに力を加えたり衝撃を与えても剥がすことはできないが、小さな傷ぐらいは付けることができた。ジョセフがまだ彼女の中に入りたての頃に、ジョセフは暴漢に襲われたことがあった。身をかわすことはできたのだが、まだ彼女の身体に慣れていなかったため抵抗して逆に相手を殺傷しはしないかと躊躇したため背中の右肩甲骨の下あたりをナイフで刺されたのだ。幸い周りには他に人がいなかったので暴漢を適切に処理することはできたが、傷口は塞がるのに半日ほどかかった。その間は何が入ってくるかわからないので滅菌室の代わりに精肉工場の冷凍庫に身を隠したことを思い出していた。
膠着状態がしばらく続いたが、彼女の方が先に動いた。彼女はジョセフを掴みかかろうと飛びかかった。ジョセフは勢い良くジャンプして彼女の背後に回ったところで、ある一点めがけてアームソードを突き出した。アームソードは彼女の背中の右肩甲骨の下あたりに突き刺さったがすぐに跳ね返された。彼女はまったく動じることなくジョセフの方に向き直しジョセフの腰に手を回し羽交い締めにした。彼女の腕はジョセフをどんどん締め付けていく。それは息もできないぐらいの腕力だった。ジョセフは藻掻きながら左手に握られた3Dレーザーマップを操作した。中央のボタンを5秒長押しすると横からハリのような突起物が出てきた。ジョセフはその突起物を先ほどアームソードで切りつけた部分に刺し込んだ。
とたん彼女の力は緩み動きが止まった。そしてジョセフに抱きかかえられたまま動かなかくなった。彼女の身体からは中身が融解しているかのようにきな臭い煙が噴出し始め、瞳からは涙のように液体が滴り落ちた。昔の古傷が役に立ったのは好都合だったが、最後の一撃は明らかに彼女に隙があった。というよりも彼女が隙を作ったとしか思えなかった。そう思うと先程からの彼女との戦い自体が茶番に思えてきた。もしくは彼女が躊躇したとでも言うのか・・・。
「ミッションコンプリートだよ。ジョセフ。」
ドクターYが笑みを浮かべながらこちらに近づいてきた。ジョセフは意味もわからず彼女を抱きかかえているしかなかった。
「どういうことだ?」
「どうもこうもない。すべては予定通りだよ。」
「予定通り?娘が死んでもか?」
「その通り。ジョセフ、きみが娘を倒したことで時間はまた動き出すのだよ。さあ、次のミッションに移ろう。」
ドクターYは彼女を抱えたまま跪くジョセフの前に赤いマトリョーシカを置いた。そしてふくんだような笑みのまま部屋を出て行った。ジョセフは戦いの疲れがいまになって一気に押し寄せたかのようにその場を動けなかった。ドクターYを追って行くべきなのか・・・それさえもはばかられるほど、いまのジョセフは脱力感でいっぱいだった。
ジョセフはかろうじて残った気力で彼女をその場に横にさせ、彼女の瞳から流れ出た液体を戦闘服の袖で拭ってやった。なぜそんなことをしようと思ったのかわからないが、そうしてあげたい衝動にかられたのが素直な気持ちだった。それが涙であればどれだけ救われるだろうと思っていたのかもしれない。
しばらくの沈黙を赤いマトリョーシカが遮った。マトリョーシカは勝手に動き出すと自ら体を開き、中から一回り小さいマトリョーシカが出てきた。そうして3回目のマトリョーシカが自らの体を開いた刹那、ジョセフは自分の背中にありえない違和感を感じた。それは内部から自分の身体を切り裂こうとするような違和感だった。
しかしそれはジョセフの感じた通りだった。文字通りジョセフの身体は背中から切り裂かれたのだ。そして内部から別の何かが這い出してくるのを意識が薄れる中で感じていた。薄れる意識の中でジョセフはつぶやいた。
「入れ子・・・ネスト・・・そうか、そういうことか・・・」