「情熱」 中村大輝
どうも。みなさんこんにちは。中村大輝です。
大学サッカー引退ブログ。とさせてください!
いつも同期のみんなには、「アホみたいな顔してる」とか「何考えてるかわからない」とかたくさん言われるけれど、アホでバカなりに考えてたこと、思ってたこと、抱えてたこととか書こうかなって思います。
タイトルは「情熱」
俺がサッカーに対して心の奥底で常に燃え上がっているもので、一番大切にしているものです。
後輩にも何かを伝えれたらいいなと思います。
最後まで読んでくれたら嬉しいです。
気合い入れて書きます!
俺のサッカー人生は小学校1年生から始まりました。
お兄ちゃん、先にサッカーしてくれてありがとう。サッカーしか選択肢はなかったけど、お兄ちゃんのおかげでサッカーに出会えました。
最初に入ったクラブは府中7FC。
地元の小学校チームでした。
サッカーの楽しさを知るのに十分なチームでした。この時からサッカーを楽しむことは忘れていません。
小学生の時から生粋のドリブラーで、相手によくファールをされて転ばされて泣いていました。
当時はコケて膝から血が出るだけで泣いていました。(今でも親にバカにされます。)
よく試合に負けて泣いたり、シュートを外して泣いたり、ファールされて泣いたりして、すごく泣き虫でした。
中学生ではFC府中という、府中にあるクラブチームに入りました。
FC府中の戸塚コーチはとても厳しい人でよく怒鳴りつけられたことを覚えています。
ですが、サッカーへの愛情や選手に対しての愛情はピカイチで、すごくサッカーが上達したのを覚えています。とても感謝しています。
今でも忘れることのないことは、負けた公式戦後に、戸塚コーチに「帰れ」と言われて帰り、2週間練習に参加できず、グラウンドの周りを走ったことです。
最高に苦しかったけど、今どう考えても俺が悪いです。
高校は川崎市立橘高校に通いました。
決め手は中学3年の時、自分にとって中学の戸塚コーチはすごく偉大でした。
そんなコーチが「山本先生なら俺が教えてあげられなかったことを教えてくれる」そう仰っていたのでこの高校に決めました。
1年生の頃からトップチームに入れてもらい、神奈川大学卒の新井直登(23年卒)や田中隼太(24年卒)と一緒にプレーしました。
1年の頃はインターハイ予選に途中出場したくらいで、他は全て下のカテゴリーで試合には出場しました。
2年生が転機でした。ほぼ全ての公式戦に出場し、FWとして16ゴール決めることができました。
3年生では立場も変わり、苦しい時間を過ごしました。たくさんのことが重なり、苦しすぎて晋也先生に「学校辞めようと思います。サッカーも続けません。」と泣きながら相談したことは今でも忘れません。
チームメイト、クラス、両親にもたくさん迷惑かけました。ごめんなさい。みんな大好きです。
大事な大事な大学サッカーに入りたいと思います。
大学サッカー1年目。
1年目はIリーグでプレーした。まっちゃんの指導の元、いろんな大学とたくさん試合したのを覚えてる。
勝てた試合はすごく少なかったけど、たくさん試合に出ることができて、大学サッカーに慣れること、自分のプレースタイルを確立するのに十分すぎる舞台だった。
転機は2年生の新チームからだった。
2年生はトップチームでプレーすることが決まった。
本当にぎりぎりトップチームに入れた。みたいな感じだったと思う。
序列は下から数えた方が早かった。
県リーグという舞台だったけれど、Iリーグでプレーしていた時とは違うレベルの高いチームで、純粋にサッカーを楽しめたシーズンだった。
そんな大学サッカーを語る上で外せない人物がいる。小林洸(4年/藤枝明誠高)だ。
2年生から2人でトップチームに入って、同じ学年、同じポジションで切磋琢磨してきた。
俺は洸のことをずっとライバルだと思ってきたし、洸も思ってたんじゃないかなと思う。
2年生なんてバチバチだった。
今では考えられないけれど、当時は会話もほぼなかったと思う。
毎週どっちがスタメンで出るか。そんな感じだった。
俺は常に洸に劣っていると感じて、自分の武器のドリブルや突破の武器を磨き続けた。
「大輝は後半からの方がいい」そんな声が聞こえる度、悔しかった。本当はスタメンで出たかった。
こんなに成長できたのは洸のおかげだと思う。
本当に感謝してます。ありがとう。
洸をすごく尊敬してるし、一緒に戦ってきた仲間の中で一番心強かった。
今季の山梨学院戦が初めて2人がスタメンで出る試合だったと思う。
あの時の心強さは忘れられない。感慨深かった。
3年になるとチームは関東3部という舞台で戦うことが決まった。目標は関東2部昇格だった。
好調のままシーズン入りできたことを覚えている。今でも忘れない初戦の専修大学戦。
好調だった俺は試合開始からどんどんドリブルを仕掛けていた。ペナルティエリア内でボールを持ち、いつも通り得意の縦突破から左足でクロスを上げた時、スライディングが蹴った後の足に入って巻き込まれた。
捻挫だった。
天皇杯予選のSC相模原戦を20日後くらいに控えていた。絶対に出てアピールしたかった。
たくさんの人の協力もあり怪我はうまく回復して、SC相模原戦は後半から出場することができた。
少しだけ人生が変わった瞬間だった。
だけど、アミノバイタルが終わったあたりからどんどんコンディションを落としてしまった。今の自分には理由がわかるが、当時の自分では気づくこともできなかった。
スタメンも洸に変わり、洸がどんどん点を取る度に悔しかった。
シーズンが終わる頃、しっかり自分を分析した。来季に活かす。そして絶対プロになる。そう思った。
大学4年では1から何もかもやり直そうと思っていた。
武器のスピード。それを活かすためのドリブル。ドリブルを言語化できるように。身体操作から持久力。拘ってはいたけれど、もっと細かいところまでこだわった。たくさんのトレーニングが必要だった。
その分ケアもしっかりした。シーズン前なんかは普通の人間だったら怪我してるだろってくらい追い込んだ。すごく懐かしい。
りん(4年/横浜FC Y)と一緒に3部連。りんは確か膝痛くなってた気がする。
開幕節ではまだコンディションは上がり切ってなかったけれど、どんどん上がってきている感触はあった。とにかく継続した。
4節目の慶應義塾大学戦。何かを掴んだ気がした。
試合の中で体が軽くなっていった。アイデアがどんどん出てくる。誰も止められない。(止められることは全然あるんだけど、気持ち的にね!)
自分の体になった気がした。
ただいまって感じだった。
そこからどんどん上がっていった。体もめちゃくちゃ軽い。どんどん成長していく気がした。自分の上がどんどん見えた。そんな感じだった。
そんな調子も長くは続かなかった。続かせてくれなかった。
アミノバイタル初戦
相手は東海大学だった。
かなりタイトにくる相手なのはわかっていた。
案の定、俺がボールを持った時、足の裏でスライディングして東海大学の選手は1人退場。
その後のプレーだった。
いつも通り太洋(3年/帝京第三高)からボールを貰って一対一を仕掛けた。縦に突破した後だった。気づいたら足がスライディングに挟まれていた。
「ゴリッ」
捻挫だった。
今考えると大きな音だったと思う。当時は捻挫に強いからすぐ治るだろう。またすぐいつもみたいにプレーできる。そう思っていた。
俺が怪我している間にチームは総理大臣杯出場を決めた。嬉しかった。全国大会という舞台でプレーしたいと思ったし、チームが誇らしかった。
そんな気持ちとは裏腹に足首はずっと痛かった。
宮さんから「いつ治るの?」 「どうなの?」と聞かれるたびに「もうすぐ行けます」 「もう治ります」と願望を込めて言っていた。
その後、チームは少し調子を落としていた。
必要とされていることがわかっていた。
復帰戦の拓殖大学戦。
たくさんの人の力のおかげで復帰ができた。
トレーナーのアキさん、ムラさん、松宮整形外科の伊藤さん。たくさん治療をしていただいたおかげでピッチに立つことができました。
アキさんなんてシーズン終わりまでどのくらい俺のテーピングを巻いたかわからない。お世話になりました。
関わってくれた全ての人に本当に感謝しています。
本当にありがとうございます。
だけど、足はめちゃくちゃ痛かった。インステップでボールを蹴れない。踏ん張れない。右足はついてるだけ。できるキックはインサイドキックだけ。そんな中の出場だった。
だけど、チームは勝ち、得点も決めることができた。この瞬間のことは一生忘れない。得点を決めた後交代して、ムラさんと握手したこと。
多くの関わってくれた人の顔が出てきて涙が出そうだった。
色々な人との繋がりを感じながら勝ち取った勝利だった。
そんな喜びは一瞬で、足は絶望的だった。
練習にも混ざれない、体のコンディションは上げなくてはいけない。足の具合は悪化してた。
立教大学戦なんか動くだけで痛かった。
オフを挟んで練習参加も決まっていたからいろんなことで頭がいっぱいだった。
リーグ戦中断期間に入り、総理大臣杯を迎える。
総理大臣杯までは少し時間があったが、足の状態は悪く、準備にそれほど時間はかけれなかった。
でも、違和感くらいまでには持ってこれていた。でも肝心なシュートがまだ打てなかった。シュートの場面でも打つことができなかった。
シュートを打てばまた何週間休むのだろう。
一生治らない気がしてた。
総理大臣杯後
アンバランスな力の使い方。
筋力的にも左右差が出てきてしまっていた。
となると、次は筋肉系だった。
最初は右のハムストリング、左のふくらはぎ、左のハムストリングの違和感。そして最後はグロインペインと股関節の肉離れ。
だんだん足首が治っても、問題は多かった。
練習を100%でできることが少なくなった。後期はほぼなかったと思う。6、7割くらいでプレーしていた。問題をずっと抱えてた。本当に苦しかった。
「俺が何をしたんだ。」
「満足にプレーもできないのか。」
いろんな気持ちが出てきた。
本当に苦しいシーズンだった。怪我がなければなんて思うこともあるけど、怪我がなければこんなに多くの人に感謝を感じながらプレーすることはなかったと思う。
この感謝をサッカーの神様は気づかせてくれたのだと思っている。
期待してくれているのにプレーが出せない。スタッフや宮さん、チームメイトには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にすみませんでした。
申し訳ない気持ちと同時に、すごく感謝の気持ちでいっぱいです。
今後の活躍で恩返しをするしかないと思っています。今シーズン以上に燃え上がっているものがあります。見ててください。
スタッフの皆さん
自分を4年前、神大ファミリーに迎え入れていただいたこと、スタッフの皆さんには本当に感謝しています。
そして今までのサッカー人生、全ての関わってくれた人に感謝を伝えたいです。
両親へ
感謝してもしきれません。こんな素敵なサッカーというものに出会わせてくれてありがとう。そしてここまでサッカーを続けさせてくれてありがとうございました。俺はすごく頑固で言うことを聞かないことの方が多かったと思います。見守ってくれてすごく感謝しています。もっとすごいサッカーを見せれると自分を信じています。見にきてね!ここまでありがとう。
後輩たちへ
今、サッカーに身が乗らなかったり、初めての壁にぶつかっている人が多いと思います。
俺はサッカー選手を目指しているから、やるのは当たり前だろとか思うかもしれませんが、サッカー選手という目標のほかに目指していたものがあります。それは自分の最高到達点を大学で体現すること。それは自分ができる最大限のパフォーマンスの限界ということです。それを親に見せることでした。サッカー選手を目指す上で何のためにサッカーをするかを考えた時、これが出てきました。これがあるから一喜一憂せず、成長にフォーカスできました。この最高到達点を体現すること、自分の限界にトライすることは、ここまで続けてきたサッカーだから意味があることだと思います。俺はこれを両親に見せたかったです。もし、プロになれなくても自分の最高到達点を親に見せることができたらサッカーで一生の悔いはないのではないかと思っていました。
でも俺は性格上、俺に最高到達点なんかない、限界なんかないな。とも思っているので辞めることはないなとも思ったりもします。
同期
みんなが同期で本当に良かったです。意識の高いメンバーで、いいやつばっかりで、どんなに落ち込んでもみんなと会えれば幸せでした!
例えば、山下公園で5回目のデート、告白して振られてHYの366日聴いて帰るとか
それ、あまかわだった!!
とにかく、どんな時も支え合って最高な学年でした!!
仲良くしてくれてありがとう!!
これからもよろしく!!!
最後に
サッカーは俺の全てです。
サッカーが大好きで、どうすればサッカーが上手くなるのか、勝てるのか、活躍できるのか、成長できるのかを考えるのが好きです。
一瞬のゴール、活躍、勝利のために全ての時間を費やして、その瞬間を楽しむことが好きです。
サッカーができる体のうちはサッカーに生きたいです。サッカーを愛しています。
今シーズンは大変だったけれど、怪我もサッカーの一部分だと思っています。
これを踏まえると相当な変わり者だと自分でも思います。進路も不安はないのかとみんなに聞かれるけど、5年後、10年後、自分が何をしているのかわからないくらいが俺は好きです。どんな状況、環境でもサッカーに全てを捧げたいです。
これからもサッカーに情熱を注ぐことを楽しみたいと思います!!
最後まで読んでくれてありがとうございました!!