【健康の選択#3】まずは有名な行動経済学の理論をご紹介!限定合理性、プッシュとナッジ、損失回避の応用法
現代社会において、健康管理の重要性はますます高まっています。長寿化や生活習慣病の増加に伴い、個々人が健康的な生活を送るための意思決定が求められていますが、忙しい日常生活の中で常に健康に良い選択を行うことは容易ではありません。
行動経済学は、私たちが現実の生活でどのように意思決定を行うかを理解し、そのプロセスを改善するために役立ちます。本章では、行動経済学の基本概念である「限定合理性」、「プッシュとナッジ」、「損失回避」について解説します。より具体的な健康・ダイエットへの活用方法は、今後の章で見ていきましょう。
【限定合理性】なぜ私たちは完璧な選択ができないのか?
行動経済学の基本概念の一つに「限定合理性」があります。
これは、私たちが必ずしも完全に合理的な判断をするわけではなく、情報の限られた範囲や認知能力の制約の中で意思決定を行うという考え方です。1960年代にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンによって提唱されました(Simon, 1955)。
たとえば、スーパーで買い物をする際、すべての商品の価格と栄養価を詳細に比較して最も健康的でコストパフォーマンスの高い商品を選ぶことは理論的には可能ですが、実際にはほとんどの人がそんなことはしません。時間や労力を節約するために、私たちはパッケージの見た目やブランドの知名度、過去の経験に基づいて商品を選びます。これが限定合理性の具体例です。
このような状況下で、人々が合理的な選択をするためにはどうすればよいのでしょうか。ここで「プッシュとナッジ」が登場します。
【プッシュとナッジ】そっと行動を後押し
「プッシュ」と「ナッジ」は、行動経済学における重要な概念です。これらは、個人の選択や行動に影響を与えるための手法を指します。
プッシュ
プッシュとは、強制力を伴う方法で行動を促すことです。
例えば、禁煙エリアを設定して喫煙を禁止する法律や、運転中のシートベルト着用を義務付ける規則などがこれに該当します。これらの措置は、罰則を伴うため、従わない場合にはペナルティが科されます。
ナッジ
一方、ナッジは、強制力を伴わずに人々の行動をより良い方向に導く方法です。リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンによって提唱されたこの概念は、人々の選択肢を整理し、特定の選択肢を選びやすくすることで、行動を変えることを目的としています(Thaler & Sunstein, 2008)。
たとえば、健康的な食生活を促進するために、学校のカフェテリアで野菜や果物を目立つ場所に配置することがナッジの一例です。また、退職金制度において自動的に加入させ、希望する場合にのみオプトアウト(自動参加から自分の意思で自体すること)できるようにすることも効果的なナッジとなります。これにより、退職金の積み立て率が大幅に向上することが実証されています(Madrian & Shea, 2001)。
ナッジの具体例
英国政府は、税金の納付率を向上させるためにナッジを活用しました。税金の支払い遅延者に送る手紙の文面を工夫し、「あなたの近隣の90%の人々は期限内に税金を納めています」といった文言を追加しました。このように社会的証明を活用することで、納付率が大幅に向上したのです(Hallsworth et al., 2017)。
他にも、病院で手洗いの徹底を促すために、洗面台の上に「手を洗うことで感染症のリスクを減らせます」といったメッセージを掲示したり、手洗い後の満足感を高める香り付きの石鹸を設置したりすることも効果的なナッジの例です(Grant & Hofmann, 2011)。
【損失回避】得るよりも、失う方が怖い
損失回避は、人々が得ることよりも失うことを強く避ける傾向があるという心理的現象です。ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが提唱したプロスペクト理論の一部として知られています。この理論によれば、同じ金額でも、得る喜びよりも失う苦しみの方が大きく感じられるというのです(Kahneman & Tversky, 1979)。
たとえば、5000円を得ることよりも5000円を失うことの方が心理的に強い影響を与えるため、人々はリスクを避ける傾向が強くなります。これを理解することは、健康行動の促進にも役立ちます。
健康分野での損失回避の応用
健康促進のためのプログラム設計において、損失回避を利用することが効果的です。例えば、健康プログラムにおいて、参加者に目標を達成しなかった場合に罰金を課すのではなく、目標達成に失敗した場合に「既に与えられた報酬を返さなければならない」とすることで、参加者のモチベーションを高めることができます(Thaler and Sunstein, 2008; Kahneman and Tversky, 1979; Volpp et al., 2008; Haisley et al., 2012)。
まとめ
行動経済学の基本概念である「限定合理性」、「プッシュとナッジ」、「損失回避」は、私たちの日常生活や健康行動に深く関わっています。限定合理性により、私たちが完全に合理的な判断をすることが難しい現実を理解し、プッシュやナッジを活用することで、より良い行動を促進することができます。また、損失回避の心理を利用することで、健康行動を効果的に変えることが可能です。
これらの概念を理解し、実生活で応用することで、私たちはより健康的な生活を送るための選択を自然に行うことができるでしょう。具体的な事例を通じて、行動経済学の理論がどのように私たちの健康を守るための有効なツールとなるのかを実感していただけたなら幸いです。
参考文献
Simon, H. A. (1955). "A Behavioral Model of Rational Choice." Quarterly Journal of Economics, 69(1), 99-118.
Thaler, R. H., & Sunstein, C. R. (2008). "Nudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness." Yale University Press.
Madrian, B. C., & Shea, D. F. (2001). "The Power of Suggestion: Inertia in 401(k) Participation and Savings Behavior." Quarterly Journal of Economics, 116(4), 1149-1187.
Hallsworth, M., List, J. A., Metcalfe, R. D., & Vlaev, I. (2017). "The Behavioralist As Tax Collector: Using Natural Field Experiments to Enhance Tax Compliance." Journal of Public Economics, 148, 14-31.
Grant, A. M., & Hofmann, D. A. (2011). "It's Not All About Me: Motivating Hand Hygiene Among Health Care Professionals by Focusing on Patients." Psychological Science, 22(12), 1494-1499.
Kahneman, D., & Tversky, A. (1979). "Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk." Econometrica, 47(2), 263-291.
Volpp, K. G., Troxel, A. B., Pauly, M. V., Glick, H. A., Puig, A., Asch, D. A., ... & Audrain-McGovern, J. (2008). "A Randomized, Controlled Trial of Financial Incentives for Smoking Cessation." New England Journal of Medicine, 360(7), 699-709.
Volpp, K.G., John, L.K., Troxel, A.B., Norton, L., Fassbender, J., and Loewenstein, G., 2008. Financial incentive-based approaches for weight loss: A randomized trial. JAMA, 300(22), pp.2631-2637.
Haisley, E., Volpp, K.G., Pellathy, T., and Loewenstein, G., 2012. The impact of alternative incentive schemes on completion of health risk assessments. American Journal of Health Promotion, 26(3), pp.184-188.