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【非株式会社いつかやる まとめ】モンゴルから日本を救え!武士の壮絶な戦い【元寇・文永の役】世界の戦術戦略を解説【モンゴル軍シリーズ 8】
はじめに
1274年(文永11年)、ユーラシアを席巻したモンゴル帝国(元)が、大艦隊を率いて日本に侵攻してきました。これは後に「文永の役」と呼ばれ、日本が初めて大規模な外敵来襲を受けた戦いでもあります。博多湾への上陸や九州の武士たちの奮戦、さらには撤退時に襲った暴風が、日本の歴史に大きな転機をもたらしました。本稿では、文永の役の背景から戦闘の経緯、そしてその後の影響までを解説します。
前回の記事はこちら:
元軍の狙い
フビライ・ハンの日本侵攻計画
東アジアを支配下に収めつつあったモンゴル帝国は、第5代皇帝フビライ(クビライ・ハン)の時代に国号を「元」に定め、本格的な拡張政策を続けていました。最大の目的は南宋の征服でしたが、南宋と交易関係を結んでいた日本にも目をつけ、日本が南宋へ資源を供給したり、自国への脅威となることを避けるため、日本侵攻を決意します。
大艦隊の編成
こうして1274年、元は主に高麗や降伏した南宋兵などで構成された約3万の兵を動員し、艦船900隻(大型船300隻、小型船300隻、補給船300隻)ともいわれる大艦隊を率いて日本へ向かいました。必ずしも全員がモンゴル兵ではなく、傘下の多様な民族・兵種が混在していた点が特徴です。
幕府側の対応
北条時宗による体制強化
一方、鎌倉幕府では執権・北条時宗が主導し、元からの侵攻に備えた体制整備を進めていました。九州を中心に有力御家人を押さえ、異国警固番役(いこくけいごばんやく)を設置して海岸線の警戒を強化します。事前に九州の反乱勢力を制圧したり、必要に応じて増援を送り出せる枠組みを整えたのです。
海軍不足と地の利
当時の日本には、大陸のような大規模な海軍は存在しませんでした。しかし博多湾は潮の干満や地形の複雑さ、また周辺の丘陵地を利用した陣形構築など、敵の大軍を阻む可能性を持っていました。武士たちは、この“地の利”を最大限に活かしながら、過去に経験のない規模の外敵に備えます。
文永の役の経過
津島・壱岐への襲来
1274年、元軍はまず津島・壱岐へ襲来しました。島の武士や住民は必死に抵抗しましたが、多勢に無勢で押し切られ、多数が殺害されたり連行されます。ここで元軍は日本の武士の戦闘力をある程度把握すると同時に、日本防衛の脆弱な部分も確認したとみられます。
博多湾上陸
続いて、元軍は主力を博多湾に差し向け、西方の今津や井尻(石崎)付近に上陸を開始。日本側も九州武士を中心にこれを迎撃しましたが、初動は混乱し、一時的に内陸の拠点へ撤退を余儀なくされます。ただし、その後は赤坂などの丘陵地に防衛線を構築し、足場を固めながら反撃に転じました。
武士の奮戦
鎌倉武士は馬に乗って弓矢や薙刀を駆使する重装騎兵で、ヒット&ランによる果敢な攻撃を仕掛けます。一方の元軍は集団弓射や火薬兵器(爆竹状の武器など)を用いる戦法を特長としますが、大規模な野戦での連携がうまくいかないまま、局地戦で次第に押されていきました。日本側の長弓の威力や、敵陣深くまで突撃を繰り返す武士の「命知らず」な奮戦ぶりが、元軍にとって想定外だったとされます。
元軍の撤退と嵐(神風)
思わぬ撤収
博多湾をめぐる攻防は激しく、元軍は一時陸上に拠点を築こうと試みましたが、十分な足場を確保することができず、夜陰に乗じて艦隊へ引き上げます。日本側も海上まで追撃できるだけの力はなく、元軍は壱岐方面へ退却していきました。
暴風による大被害
しかし、撤収の途上で大きな暴風に襲われ、多数の船が沈没し、元軍は壊滅的な損害を被ります。これにより文永の役は日本の勝利に終わり、「神風(しんぷう)」の伝承が後世にまで語り継がれることとなります。ただし、軍事的には陸上戦で足場を築けなかった元軍の失敗が大きく、嵐が勝敗を決定づけたのかどうかは議論があるところです。
戦いの後
幕府のさらなる防衛強化
文永の役を奇跡的に防いだ鎌倉幕府は、このままでは再度の襲来を防ぎきれないと考えました。博多湾沿いに「石塁(いしるい)」と呼ばれる防塁を築き、海岸線の警戒体制をさらに強化します。また、鎌倉武士を中心に全国的な動員体制を整え、異国警固番役の規模も拡大しました。
神国思想の芽生え
神風によって日本が救われたという認識は、「日本は神々の加護を受けている」という神国思想へと発展していきます。実際には武士の奮戦や地形上の利点、元軍の連携不足など複合的な要因が重なった結果とみられますが、それでも「外敵を撃退した」という事実と暴風の偶然は、大きな精神的支柱となりました。
おわりに
文永の役は、日本が初めて大陸の大軍と直接対峙した画期的な事件でした。武士の存在感を国内外に知らしめた一方で、元軍に対する防衛策の重要性を痛感させる契機にもなります。この勝利によって一旦はモンゴル帝国の脅威が後退しましたが、クビライはさらに大規模な軍を編成して再度の侵攻を目論むことに。こうして数年後に勃発する「弘安の役」へと続いていくのです。