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今日は霜月騒動の日

1285年11月17日鎌倉で大きな事件が起こりました。
霜月騒動と呼ばれている事件。

1274年・81年の2度にわたって日本に元が攻めてきました(元寇・蒙古襲来)。
鎌倉政権は総力戦で何とか元軍を退却させることに成功したものの、自国での戦いであったため新たに獲得した土地があるわけではなかった。
それゆえ戦功に報いる所領がなかったのです。
結果鎌倉としては難問を抱えることになりました。

2度の対外戦争を何とかしのんだ若き得宗(執権)北条時宗は1284年34歳で死去します。
次の得宗(執権)は北条貞時。まだ13歳でした。
そこで彼を支えたのが安達泰盛(御家人)と平頼綱(御内人)でした。
泰盛は積極的に改革を進めますがそれは頼綱らの御内人にとっては素直に受け入れがたいものでした。
結果泰盛と頼綱は激しく対立します。

そんな対立の延長線上に起こったのが霜月騒動です。
安達泰盛一族はほとんどが滅ぼされ、騒動の余波は九州にも飛び火します(このことについてはいずれ記事にします)。
鎌倉時代の中では承久の乱・宮騒動などと同じように語られる重大な事件ですが、その影響は時代の流れを大きく変えるほどのものでした。

著名な中世史家佐藤進一先生はこの霜月騒動をもって得宗専制体制が確立したと述べられています。
今ではその後様々な研究の蓄積で霜月騒動以前にその時期が見られるとする見解が主流です。
そうではあるものの鎌倉政権成立期から一貫して政権を支えてきた有力御家人安達氏の族滅は、何かの終わりを暗示するものではなかったかと私は思います。
1293年には平頼綱も貞時の滅ぼされ(平禅門の乱)社会の動揺の続く中、鎌倉政権終盤の14世紀を迎えることになるのです。

北条氏によって多くの御家人が次々に滅ぼされていきました。
そんな中でも最後まで残っていたのが安達氏。
得宗の妻になることによって命脈を保っていたわけですが、霜月騒動によって族滅の憂き目にあうことになったのです。

11月17日は霜月騒動の日。
私は鎌倉の地で起こったこの戦いに思いを馳せながら毎年この日を過ごしています。

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